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テモテへの手紙第二

私たちは一人で立たなくてはならないのに

多分、パウロは裁判でのイエス様の気持ちがよくわかったことでしょう。

イエス様のように、パウロは処刑の可能性に直面した時、裁判で一人で立ちました。それ以前、パウロにはたくさんの友達がいましたが、その裁判でパウロを支える人はいませんでした。

その時、多分パウロは十字架でイエス様の祈りを覚えていたでしょう。だから、イエス様のように、パウロは自分を裏切った友達のために祈りました。

どうか、その責任を彼らが負わせられることがありませんように。(テモテへの手紙第二4:16)

どうやって、パウロは裁判での敵対的な「獅子」に直面したことができたでしょうか。(多分、それは文字道理の獅子ではなかったでしょう。) パウロはその答えを私たちに与えます。

しかし、主は私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。

こうして私は獅子の口から救い出されたのです。(17節)

パウロは友人たちに見捨てられながらも、イエス様の臨在を感じていました。おそらく、イエス様が弟子たちに約束されたように、パウロは自分を弁護した際に、聖霊様からの知恵を受けていたのでしょう。(マルコ13:11)

そういうわけで、自分の裁判で処刑に直面したのにパウロは大胆に福音を述べ伝えることができました。

さらに、パウロは強い希望を持っていました。

主は私を、どんな悪しきわざからも救い出し、無事、天にある御国に入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように。アーメン。(18節)

パウロは、神様が自分の命を救ってくださると信じていたわけではありませんでした。むしろ、彼は自分が間もなく死ぬことを信じていました。(6節)

でも、パウロが信じていたのは、ローマ人たちは彼の身体を殺しても、彼の魂を殺すことができないということです。だから、パウロの身体が死んだとしても、彼の魂は天国に行って永遠にイエス様と共にいることを信じていました。

そういうわけで、パウロは平安を持っていました。

あなたはどうですか。あなたはパウロの確信と希望を持っているでしょうか。

私はこれまで何度もお伝えしてきましたが、イエス様は私たちに楽な人生を約束されたわけではありません。むしろ、イエス様は苦難を約束されました(ヨハネ16:33)。

それでも、試練の中でイエス様があなたと共におられることを、しっかりと心に留めてください。たとえ周りの人々があなたを見捨てたとしても、イエス様は決してあなたを見捨てられません。

そして、あなたが亡くなる時でさえ、イエス様はあなたを天国に連れて行ってくださいます。

だから、どんな試練に直面しても、勇気を持ってあきらめないでください。むしろ、ヘブル書の著者の言葉を覚えておきましょう

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。

この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。(へブル書12:2-3)

パウロが祈ったように、私もあなたのために祈ります。

主があなたの霊とともにいてくださいますように。恵みがあなたがたとともにありますように。(テモテへの手紙第二4:22)

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テモテへの手紙第二

不実な人、忠実な人、引き戻された人、裁かれた人

今日の箇所では、パウロはいろんな人について話します。つまり、不実な人、忠実な人、引き戻された人、裁かれた人について話します。

残念なことですが、デマスは不実な人でした。それ以前、デマスはパウロと一緒に福音のために働きました。(コロサイ4:14;ピレモン1:24)。でも今、パウロは彼に関して、こう言いました。

デマスは今の世を愛し、私を見捨ててテサロニケに行ってしまいました。(テモテへの手紙第二4:10)

何がデマスを神様から引き離したか私たちはわかりません。もしかしたら、彼はお金に執着したかもしれません。もしかすると、彼はノン・クリスチャンの女性と結婚したかもしれません。

もしかしたら、彼はイエス様のために迫害されたことに飽きたかもしれません。彼は福音のためのパウロの苦しみを見て、その苦しみから逃げようと思ったかもしれません。

でも、ほかの人々はイエス様とパウロに忠実でした。パウロはクレスケンスとテトスを主の働きをするために違うところに送ったらしいです。ルカはいつもパウロと一緒にいて、もしかしたら、パウロのお医者だったかもしれません。

そして、パウロはマルコについて話しました。その以前、パウロはバルナバとマルコについて喧嘩しました。

その時、パウロはマルコが頼りない人だと思いました。なぜなら、彼らは宣教旅行に行ったとき、その途中でマルコは帰ったからです。

そして、パウロとバルナバがもう一度宣教旅行に行こうと思ったら、バルナバはマルコにもう一つの機会を与えたいと思いました。でもパウロがマルコを信頼できなかったので、パウロとバルナバは別れて、別の所で奉仕しました。

しかし、この手紙を書いた時、パウロはマルコに関してこう言いました。

マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。(11節)

マルコは自分の失敗から学んで、自分を主の忠実なしもべとして証明しました。パウロはそれを見て、マルコを認めました。

最後に、私たちはアレクサンドロという人を見ます。彼がどのようにパウロを苦しめたか私たちはわかりません。もしかしたら、その人は、第一テモテ1:20にあるアレクサンドロかもしれません。

もしかすると、パウロがアレクサンドロを教会から追い出した後、アレクサンドロはローマ帝国にパウロについて嘘をついたかもしれません。そういうわけでネロ皇帝はパウロと教会を迫害したかもしれません。

とにかく、パウロはアレクサンドロに関して、こう言いました。

銅細工人のアレクサンドロが私をひどく苦しめました。その行いに応じて、主が彼に報いられます。あなたも彼を警戒しなさい。彼は私たちのことばに激しく逆らったからです。(14-15節)

パウロの言葉によって、私たちを迫害し、福音に反対する人たちをどのように扱うべきかという原則を二つ見ます。

一つ目は、その人を神様に委ねることです。苦々しい思いを捨てるべきだし、復讐を求めてはいけません。

二つ目は、その人を警戒するべきです。もちろん、その人を許さなくてはいけませんが、許しとは、相手があなたを何度も傷つけることを許すわけではありません。その人が悔い改めるまで、その人を警戒するべきです。

では、あなたはどのような人でしょうか。

あなたはデマスのようでしょうか。あなたはイエス様を信じて、最初はすべてが良かったけれど、今は他のものがあなたをキリストから引き離しているのでしょうか。

あなたはこの世のものに執着して、不実な者になってきたでしょうか。自分の苦しみによって、イエス様を捨てようと思っているのでしょうか。

その誘惑に負けないでください。この世の快楽や試練は一時的なものです。だから忠実でいましょう。一時的なものではなく、永遠のものを求めましょう。

あなたはマルコのようでしょうか。失敗したことで、神様がもうあなたを用いることができないと思っているのでしょうか。

神様は羊を引き戻す優れた羊飼いであることを覚えていてください。ペテロや他の弟子たちが失敗したとき、イエス様は彼らを引き戻してくださいました。

また、神様はマルコも引き戻してくださいました。そして、神様はあなたも引き戻すことがおできになります。あなたがすべきことは、ただ悔い改めることだけです。

それとも、あなたはアレクサンドロのようでしょうか。神様とその福音に対して頑なな心を持っているでしょうか。神様はあなたに警告しています。

神様は忍耐強いお方ですが、このままでは裁きを免れることはできません。だからこそ、裁きの日が来る前に、心から悔い改めてください。

最後に、私たちクリスチャンはどんな試練と向き合っても、パウロの言葉にしがみつきましょう。

望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。(ローマ12:12)

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テモテへの手紙第二

走るべき道のりを走り終える

今日の箇所では、パウロはテモテにすごく厳しい訓戒で挑戦します。

なぜでしょうか。パウロは、大変な時期が来ると知っていたからです。その時期に関して、パウロはこう言いました。

というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。(テモテへの手紙第二4:3-4)

その言葉を現代に当てはめることができます。私たちはそのような人々の間で生きています。

そして、聖書の教師として、また、一般のクリスチャンとして、私たちが文化の流れに従うことは簡単なことです。イエス様の教えを曲げるのは簡単なことです。

でも、パウロはテモテだけではなく、私たちにもこう言います。

神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。

忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。(1-2節)

その訓戒はとても厳しいものです。

パウロは私たちに思い出させます。「あなたはいつか神の御前で、また、キリストの御前で裁かれます。あなたは、イエス様がいつか帰って来られることを思い出さなくてはなりません。その日にイエス様が御国を建てられることを覚えていなくてはなりません。」

その真理を覚えていながら、パウロの訓戒に従うべきです。

私たちはどうするべきでしょうか。

1.み言葉を宣べ伝えなくてはいけません。

人々が聞きたいところだけではなく、不愉快なところも宣べ伝えなくてはなりません。

また、パウロは、こう言いました。「時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」

言い換えると、便利な時でも、不便な時でも、み言葉を伝えなくてはいけません。

時々、み言葉を伝えるのはあまり便利ではありません。私たちは自分の予定が入っているし、早く自分の計画を果たしたいと思います。

けれども、時には神様が誰かを私たちの元へ導かれることがあります。そして、その人にみ言葉を伝えるという使命を果たす必要があります。

時々、私たちがみ言葉がその人を怒らせると知っているので、み言葉を伝えるのは不便です。

でも、パウロによれば、私たちは神様とキリストの御前に立ちます。そして、ある日、イエス様は帰って来られて、自分の国を建てられます。そして、その日、イエス様は私たちとその人を裁かれます。

だから便利にしろ、不便にしろ、私たちはみ言葉を伝えなくてはいけません。

2.人々を矯正しなくてはいけません。

相手が真理がちゃんと分からないとき、また、何が良いか何が悪いか分からないとき、私たちはその人の考え方を矯正するべきです。

3.人々を戒めなくてはいけません。

相手が罪に落ちた時、また、罪に落ちそうなとき、私たちは彼らを戒めなくてはいけません。もしかしたら、彼らは悔い改めるかもしれませんから。

4.人々を励まさなくていけません。

試練の時に、誰かが諦めようと思う時、私たちはその人がイエス様から目を離さず、諦めないように励ますべきです。

この世の人々が真理を拒絶するときが多いので、私たちがみ言葉を伝えると、迫害されるかもしれません。でもパウロは私たちにこう言います。

けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。(5節)

偽教師がたくさんいるし、私たちは試練に直面するかもしれないけど、パニックになってはいけません。むしろ、苦難に耐え、大胆にイエス・キリストに関する良い知らせを伝え、神様から務めを果たさなくてはいけません。

その務めは、あなたに神様が与えてくださった人々に触れることです。

最後に、パウロは私たちに言います。「今、あなたの番です。」 パウロは自分についてこう言いました。

私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。

その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。(7-8a)

でもパウロは続けます。

私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。(8b)

あなた他はどうですか。あなたは主の現れを慕い求めているでしょうか。あなたは「御国が来ますように」と祈っているでしょうか。

あなたがどのように自分の走るべき道のりを走り終えるか、あなたの答えによります。

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テモテへの手紙第二

この世はますます悪に落ちていくのに

もしこの世が良くなると考える人がいれば、その人は私が読んでいる聖書を読んでいないでしょう。聖書によれば、イエス様が帰って来られるまで、この世はますます悪くなります。

特に、この世の人々の不敬虔さはだんだん悪化します。自分がクリスチャンと自称する人の性格も悪化します。

だから、私は今パウロの言葉を読むと、その言葉の重さを10年前に感じたよりも、感じることができます。パウロはこう言いました。

キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。悪い者たちや詐欺師たちは、だましたり、だまされたりして、ますます悪に落ちて行きます。(テモテへの手紙第二3:12-13)

パウロは、「もしかしたら、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者は迫害を受けるかもしれない」と言いませんでした。むしろ、「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者は迫害を受けます」と言いました。その言葉は確実です。

どうしてでしょうか。なぜなら、悪者や偽クリスチャンたちはますます悪に落ちていきますから。偽教師たちがみ言葉に反することを教えます。そして、その聞き手はその偽教師たちを信じて騙されてしまいます。

その結果は、人々の道徳観念が曲がってしまって、この世がますます罪に落ちていくことです。それだけではなく、もし神様の光を暗闇に照らす人がいれば、その人は嫌われます。

だからイエス様はこう言われました。

そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。

悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。(ヨハネ3:19-20)

この世では、その真理を見ることができます。人々はいろんな新しい道徳の教えを受け入れますが、神様のみ言葉を拒絶します。

パウロ自身、この世の憎しみを経験しました。だからパウロは光のための自分の苦しみに関してテモテに思い出させます。パウロはテモテに警告します。

「私の経験は意外なことではありません。この世の人々が暗闇に落ちれば落ちるほど、私たちは迫害と苦しみを経験します。

では、私たちはどのように反応するべきでしょうか。パウロは私たちに教えます。

けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分がだれから学んだかを知っており、また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。

聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。(テモテへの手紙第二3:14-15節)

簡単に言うと、真理にしがみつかなくてはいけません。周りの人々は真理に背を向けるかもしれないし、あなたを迫害して、その真理を絶滅しようとするかもしれませんが、真理を持っていて、宣言し続けるべきです。

どうして、私たちはみ言葉を持ち続けなくてはならないのでしょうか。

聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。(16-17節)

神様のみ言葉は私たちのいのちです。そして、私たちがこの世の暗闇と向き合うと、そのみ言葉はすべての良い働きのために私たちを整えます。

み言葉は神の剣で、人々の心を貫いて、その心の中の暗闇を追い出すことができます。

さらに、神様のみ言葉は義について教え、私たちが罪に落ちると、そのみ言葉は私たちを訓戒します。それだけでなく、そのみ言葉は私たちを引き上げ、私たちがどのように生きるべきか訓練します。

最後に、そのみ言葉によって、私たちは試練を耐えることができます。私たちは暗い世界に生きていますが、神様は聖霊様を通していのちの言葉を私たちの心に静かに語りかけてくださいます。

イエス様は「私に従うと、あなたは楽な人生を送る」と約束されません。むしろ、イエス様はこう言われました。

世にあっては苦難があります。 (ヨハネ16:33a)

もしあなたは真理を宣言し、この暗い世界に光を照らすと、苦難を経験します。でもその光を手放さないでください。暗闇によって、その光が消えるように許してはいけません。

むしろ、イエス様の心強い言葉を覚えていましょう。

しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33b)

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テモテへの手紙第二

うわべだけの敬虔さ

この世では、たくさんの宗教的な人たちがいます。彼らは教会やお寺や神社などに行って、儀式を行い、祈り、聖句を読み、献金さえもささげます。彼らは非常に敬虔な人のように見えます。ところが、神様は実際には彼らを受け入れておられません。

なぜでしょうか。なぜなら、彼らの敬虔さはうわべだけのものだからです。彼らは、敬虔な見かけを持っていますが、その敬虔さは自分の努力によるものです。

また、ある人は自分の心の中の偽善を隠しています。けれども、その皆が、自分の生活で神様の力を否定しています。

ある人々は神様自身を否定します。彼らはイエス様にある真理を拒絶します。むしろ、彼らは仏やムハンマドや他の宗教的なリーダーたちの教えに従います。

もちろん、そのリーダーたちの教えの中で真理の部分もありますが、彼らが否定するのは、イエス様が天の父へのただ一つの道であることです。

その皆がイエス様とその十字架の働きを拒絶するので、神様の目には、彼らの義はみな、不潔な着物のようです。(イザヤ64:6)

さらに、彼らは、自分たちを本当の義人に変えることができるイエス様の復活の力を拒絶します。

他の人たちは自分がクリスチャンと自称し、イエス様に従うと主張します。けれども、彼らはただクリスチャンのふりをしています。

彼らは実際に、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒瀆し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者です。

また、彼らは情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まない者です。

さらに、彼らは人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛します。(テモテへの手紙第二3:2-4)

それでも、彼らは敬虔な見かけを持っています。彼らは教会に行ったり、微笑んだり、祈ったり、歌ったり、献金をささげたりしますが、彼らは空っぽで、神様の力を全然知らない者です。

その人々の間に、教師たちもいます。

パウロはその人たちをヤンネとヤンブレというエジプトの呪法師たちと比べます。ヤンネとヤンブレはエジプトの神々の力を振るうと自慢しましたが、彼らが生きておられる神と向き合うと、彼らの主張は空しいものと証明されました。

他の人たちは「弟子」と称しますが、彼らはいつも学んでいるのに、いつまでも真理を知ることができません。なぜなら、彼らは実際に心の中で真理を拒絶しているからです。彼らは自分が聞きたいことを受け入れますが、それ以外を捨ててしまいます。

イエス様を拒絶すると、あなたは自分の敬虔さを自慢することはできません。もし、自分の敬虔さがただ心の中の罪を隠すだけなら、それは本当の敬虔ではありません。

パウロは困難な時代が来ると警告しました。パウロによれば、その時代にはうわべだけの敬虔を持っている人たちがたくさんいます。実は、その時代はもう来ています。

そして、イエス様が帰って来られると、麦と毒麦を分別されます。つまり、本当の敬虔さを持っている人たちとうわべだけの敬虔さを持つ人たちを分別されます。

本当の敬虔さを持っている人たちは、神様の力でだんだんイエス様の形のように変えられていきます。

イエス様が帰って来られてあなたを見ると、イエス様はあなたについて何と言われるでしょうか。

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テモテへの手紙第二

良い教師になるのに

この箇所を読むと、私がどんな教師であるべきか挑戦されていると感じます。

神様のみ言葉の良い教師になるのに、私たちは何をすべきでしょうか。

1.私たちが知っていることを教えるべきです。

特に、次の世代の教師たちにその知恵と知識を伝えるべきです。そうすれば、私たちが亡くなっても、その知識と知恵はなくなりません。(テモテへの手紙第二2:2)

2.私たちの人生と教えに関して、私たちは忠実な人であるべきです。

迫害されても、苦しんでも、神様の教えを曲げてはいけないし、罪に負けてはいけません。

むしろ、兵を募った人、つまり、イエス様を覚えていなくてはいけません。イエス様こそ、私たちが喜ばせるべきお方です。

もし周りの人々を喜ばせようとすると、イエス様を喜ばせることができません。むしろ、私たちはイエス様の教えを曲げてしまい、罪に落ちてしまいます。(3-4節)

3.聖書を教える仕事を怠ってはいけません。

聖書を解釈するルールをちゃんと知らなくてはいけません。でもそれだけではなく、その真理を分かりやすい方法で提示しなくてはいけません。

そうすれば、私たちはその収穫を刈ります。つまり、私たちが教える人々の人生は変わるということです。

4.私たちは神様のみ言葉をしっかりと噛み締める必要があります。

多くの人々は、ある聖句をすでに理解したと思い込んで、その言葉をただざっと読むだけで終わらせてしまいます。その結果、その意味を深く味わうことができません。

しかし、私たちはそうしてはいけません。むしろ、み言葉について深く思いを巡らせるべきです。

そうすることで、神様が私たちの予想を超えた真理を示してくださるかもしれません。(7節)

5.説教の中で、私たちはイエス様のことを宣べ伝えるべきです。

イエス様は、私たちの説教の中心であるべきです。なぜなら、イエス様とその福音こそが人々の人生を変えることができるから。(8-9節)

6.私たちが教えている人たちの救いを求めなくてはいけません。

議論に勝つことは私たちの目的ではありません。むしろ、私たちの目的は人々の救いです。

だから人々と話すとき、彼らに愛を示しましょう。彼らの考え方が間違っているなら、私たちは優しくし、よく教え、よく忍耐し、彼らを柔和に教え導くべきです。

また、神様が彼らに悔い改めの心を与えてくださるように祈るべきです。彼らは私たちの敵ではありません。私たちの敵サタンが彼らを捕えたので、神様は彼らを自由にしたいと思われます。(10,24-26節)

7.私たちは愚かで無知な議論を避けるべきです。

ある議論はたくさんの熱を生み出すが、光を全然生み出しません。そんな議論を避けるべきです。(14,23節)

8.私たちは教会に感染した偽教えを避けるべきです。

その教えによって、人々は神様のみ言葉に反対し、否定してしまいます。そんな教えはすぐに広まって、聞き手に感染して、滅ぼしてしまいます。それが起こるなら、神様は私たちの責任を問われます。(16-17節)

9.最後に、私たちは、神様が用いることができる聖い器であるべきです。

私たちは罪を避け、義と信仰と愛と平和を追い求めるべきです。(20-22節)

あなたはどうですか。あなたはどのような教師でしょうか。

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テモテへの手紙第二

耐えられるための恵み

パウロがテモテが訪問してくれるように望んだ理由の一つは、多くのクリスチャンたちがパウロから離れて行ったということです。数名の人たちはまだ残っていましたが、パウロはほとんど孤独でした。

わざわざパウロを探して励ますオネシポロのような人たちは少なかったですが、パウロを見捨てたフィゲロとヘルモゲネのような人たちはたくさんいました。(テモテへの手紙第二1:15-18)

なぜその二人はパウロを見捨てたのでしょうか。

パウロは迫害され、牢に入っていたので、もしかしたら、彼らは同じ運命を恐れたかもしれません。もしかしたら、最初は彼らは頑張ったかもしれませんが、結局彼らはもう迫害に耐えられないと思って、立ち去ったかもしれません。

多くの人たちはフィゲロとヘルモゲネのようです。彼らはクリスチャンになり、最初は彼らの人生がうまくいっているので、喜びに満ちていました。けれども、試練が来るとき、彼らは最初は頑張ったけれど、最終的に自分の信仰を捨ててしまいます。

どうしてでしょうか。

私たちはクリスチャンとして、恵みによって生きるように呼ばれました。けれども、試練の時、多くのクリスチャンは恵みを忘れて、自分の力によってクリスチャン生活を送ろうとします。結果として、彼らの力がなくなると、もう耐えられなくなります。

2章3ー6節のような言葉を読むとき、このように考えるのは簡単です。

「私は頑張らなくてはならない。私は良い兵士にならなくてはならない。私はちゃんと訓練し、ルールをすべて守らなくてはならない。神様から委ねられた働きに心血を注がなくてはならない。」

けれども、自分がしなくてはならないことに焦点を当てると、あなたの力がどこから来るか忘れてしまうでしょう。

言い換えると、私たちは2章の初めのパウロの言葉を忘れてしまいます。つまり、

私の子よ、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。(テモテへの手紙第二2:1)

それは一体どういう意味でしょうか。

「恵みによって強くなりなさい」という言葉よりも、「良い兵隊や農家や選手になりなさい」という言葉は分かりやすいでしょう。そういうわけで、多くの人々はその最初の言葉を飛ばして忘れてしまいます。

しかし、その言葉は肝心な真理です。

あなたは恵みによって救われました。自分の努力に救われたわけではありません。だから、毎日あなたは恵みによって生きなくてはいけません。

私たちの救いのために神様に頼らなくてはならないように、日常生活を送るのに神様に頼らなくてはなりません。特に、苦難や迫害と向き合うとき、神様に頼らなくてはいけません。

もちろん、私たちは神様を喜ばせようとすべきです。もちろん、私たちはこの世のものに執着してはいけません。

また、もし神様から報いを得ようと思うなら、私たちは神様が命じられることに従わなくてはなりません。そして、私たちが忠実にイエス様に仕えるとき、私たちの努力は無駄なものではありません。

けれども、私たちが「自分の力で頑張らなくてはならない」と思うなら、私たちは失敗するという結果になります。

私はもう一度言います。私たちは恵みによって救われました。でもそれだけではなく、私たちは毎日恵みによって生きなくてはなりません。

神様が聖霊様を送ってくださり、聖霊様は私たちのうちに住んでおられます。聖霊様が私たちに力を与えるので、私たちは神様の御心に従うことができます。(1:7)

そういうわけで、パウロはテモテにこう言いました。

イエス・キリストのことを心に留めていなさい。私が伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえった方です。

この福音のために私は苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばはつながれていません。(テモテへの手紙第二2:8-9)

言い換えると、「あなたの苦しみの中で、もう耐えることができないと思う時、イエス様を心に留めていなさい。イエス様はあなたをこの道の最初から最後まで導いてくださいます。

イエス様を通して、神様は私たちを贖い、私たちの罪を赦してくださいました。イエス様は復活して、私たちに命を与えてくださいます。そして、イエス様はこの試練の中で、私たちを導いて、最終的に天国に連れて行ってくださいます。

それを覚えていなさい。自分の力で、試練を通過しようとしてはいけません。」

そして、パウロはテモテに思い出させました。「私は鎖で繋がれています。私は弱い者です。それでも、神のことばは繋がれていません(9)。

神様はご自身の業を成し遂げられます。その希望を持っているので、私は自分の処刑と向き合っても、神様の働きをし続けています。なぜなら、私は、人々が私を通してイエス様を信じ、私たちが見つけた恵みを知るようになる確信を持っているからです。」

最後に、パウロは励ましの讃美歌を歌います。その歌によって、私たちは耐えるように励まされます。なぜなら、その歌によって、私たちはイエス様の忠実さを思い出すからです。

パウロはこう歌いました。

耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。

私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。(12-13節)

パウロがその賛美歌を恵みの言葉で終えることはふさわしいことです。なぜなら、私たちの試練を耐える力は最初から最後まで恵みから来るからです。

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テモテへの手紙第二

私たちは希望を持っているから。。。

新約聖書では、第二テモテの後、パウロの手紙はあと二通あります。でも年代順位的に、これがパウロの最後の手紙です。

これはちょっと悲しく、感動させられる手紙です。なぜなら、この手紙を書いたとき、パウロは自分がもうすぐ殺されると知っていたからです。

ピリピ人への手紙を書いたときには、パウロは牢に入っていましたが、釈放される確信を持っていました。(ピリピ1:23-26)

しかし、この手紙を書いたとき、パウロはそのような希望を持っていませんでした。皇帝ネロが教会を迫害し始め、パウロは自分がすぐに処刑されると思いました。そして、結局そうなりました。

そういうわけで、パウロは愛している弟子テモテに最後の手紙を書きました。その理由の一つは、パウロが死ぬ前に、テモテが訪問してくれるように願ったことです。

けれども、それだけではなく、パウロはテモテが迫害と試練によって絶望しないように促したいと思いました。むしろ、パウロは、テモテが忠実に神様を愛し、神様に従い続けるよう望みました。

この手紙の最初から、私たちはパウロの心情を見て取ることができます。パウロは福音のための死刑囚でした。けれども、彼の最初の言葉はこうです。

神のみこころにより、またキリスト・イエスにあるいのちの約束にしたがって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから。。。(テモテへの手紙第二1:1)

「いのちの約束。」

パウロは自分の死亡に直面していましたが、「命の約束」という希望を持っていました。どうしてその希望を持っていたのでしょうか。

9-10節によれば、神様はイエス様を通してご自分の計画と私たちに対する恵みを現されました。そして、「キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されたのです。」

多くの人々は死後に何が起こるか分からないので死亡を恐れます。けれども、パウロは知っていました。パウロは天国を見たことがありました。(第二コリント12:1-4)

彼は、私たちが死んだ後にまだ生き続けることを知っていました。パウロは、イエス様が復活されたように私たちも復活して永遠に生き続けることを知っていました。その日、クリスチャンたちはこの歌を歌います。

死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。(第一コリント15:55)

パウロはその希望を持っていたので、神様から委ねられた福音を宣べ伝えました。また、その希望を持っていたので、苦しんでいても、パウロは確信を持ってこう言うことができました。

しかし、それを恥とは思っていません。なぜなら、私は自分が信じてきた方をよく知っており、また、その方は私がお任せしたものを、かの日まで守ることがおできになると確信しているからです。(12節)

パウロが知っていたのは、自分の苦労は空しいものではないことです。むしろ、パウロはそのすべてを神様の手に委ねて、報いを得る希望を持っていました。

その確信を持っており、またテモテも同じ信仰と同じ御霊を持っていることを確信していたため、パウロはテモテにこう語りました。

そういうわけで、私はあなたに思い起こしてほしいのです。私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。

神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。(6-7節)

もしかしたら、エペソの教会の問題のため、また、パウロがすぐに殺されるニュースのため、テモテは圧倒されたかもしれません。もしかすると、テモテはあきらめるように誘惑されたかもしれません。

けれども、パウロはテモテを励ましました。

「テモテ、神様は御霊をおまえにも与えてくださいました。そして、御霊は、臆病の霊ではありません。むしろ御霊は、あなたの人生と奉仕において、あなたを神様の力と愛で満たし、イエス様に忠実に仕える力を与えてくださいます。」

そういうわけで、パウロはテモテに訓戒しました。

ですからあなたは、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。(8節)

また、

あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛のうちに、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。自分に委ねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守りなさい。(13-14節)

簡単に言うと、「あきらめてはいけません。あなたは一人で、自分の力によって神様に仕える必要がありません。私はこの世を立ち去るかもしれないけど、聖霊様はあなたのうちに住んでおられ、あなたを助けてくださいます。」

あなたはどうですか。この世の状況を見て、絶望しているのでしょうか。周りの不敬虔な人たちを見て、悲しんでいるのでしょうか。自分の信仰のためにあなたはいろんなトラブルに直面しているのでしょうか。

絶望しないでください。神様にはご自身の計画があり、その計画は決して阻まれることがありません。サタンはその計画を阻止しようと思って、十字架で勝ったと思いました。しかし、十字架は実際にサタンの敗北でした。

だから、今私たちは永遠のいのちという希望を持っています。神様はそのいのちを約束してくださいましたので、それは確実なものです。

だから私たちが教えられたことを握り、信仰によって歩みましょう。また、キリストの愛に満たされて、その愛を周りの人々に与えましょう。