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ハガイ書

全てが揺り動かされるのに

この箇所では、ハガイはユダの総督ゼルバベルを励まします。

おそらく、ゼルバベルはエルサレムとその宮の再建に反対する人々を目にして、深く失望していたかもしれません。けれども、神様は彼にこう言われました。

ユダの総督ゼルバベルに次のように言え。

わたしは天と地とを揺り動かし、もろもろの王国の王座をくつがえし、異邦の民の王国の力を滅ぼし、戦車と、それに乗る者をくつがえす。馬と騎兵は彼ら仲間同士の剣によって倒れる。(ハガイ書2:21-22)

つまり、「ゼルバベル、今あなたは自分の状況が辛いと感じているかもしれません。しかし、私は天と地を揺り動かします。そして、私は王国とその力を滅ぼします。」

そして、神様はこう言われました。

その日、――万軍の主の御告げ――シェアルティエルの子、わたしのしもべゼルバベルよ、わたしはあなたを選び取る。――主の御告げ――

わたしはあなたを印形のようにする。わたしがあなたを選んだからだ。――万軍の主の御告げ――」(23)

その時代、王たちは認印付きの指輪を持っていました。その指輪は王の権威を象徴するシンボルでした。そのため、大切な書類に署名するとき、その指輪を使用していました。

神様がゼルバベルに言われたのは、「王国の王座を覆し、王の力を滅ぼす。しかし、私は私の民のために、私の権威のシンボルとしてあなたを選んだ」ということです。

短期的には、ゼルバベルを通して神様はご自身の民を導き、主の宮を再建し、彼らの人生も復活させました。

長期的には、ゼルバベルの家系を通してメシヤであるイエス様がこの世に来られました。

イエス様の復活の後、弟子たちにこう言われました。

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。(マタイ28:18)

どうしてそれが大切なのでしょうか。それは、神様がゼルバベルをご自身のしもべとして呼ばれたように、私たちも選ばれ、呼ばれたからです。では、私たちは何のために選ばれ、呼ばれたのでしょうか。

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。(マタイ28:19-20)

この世は戦争や混乱、闘争によって揺り動かされています。そして、私たちの状況はさらに悪化する可能性があります。けれども、すべてが揺り動かされたとしても、将来を恐れないようにしましょう。

すべての権威がイエス様に与えられていることを覚え、イエス様が私たちに命じられたように従いましょう。イエス様の再臨まで、福音を伝え、弟子を作り続けましょう。

イエス様はこう約束されました。

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:20b)

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ハガイ書

不潔と聖さの違い

ゼカリヤのメッセージの後、ハガイは次のメッセージを伝えました。そして彼は、不潔と聖さの違いを説明しました。

まず、この背景について説明します。モーセの律法によれば、祭壇が油で注がれると、それは聖なるものとされました。また、その祭壇に触れた物も聖なるものとされます。(出エジプト記29:37)

この箇所で、ハガイはこう問いかけました。「聖さは間接的に移すことができるでしょうか。」(ハガイ書1:10-12)

例えば、牛肉が祭壇に触れると、その肉は聖なるものとなります。しかし、その聖なる肉を持ち帰り、その肉が別の食べ物に触れたとしても、その触れられた食べ物が聖なるものになるでしょうか。それは違います。

つまり、聖さは間接的に移すことはできません。単に教会に入るだけで聖くなるわけではありません。敬虔な人と交わるだけでも、聖さが移ることはありません。

イスラエルの歴史においても、預言者たちの聖さがイスラエルの民に移ることはありませんでした。また、彼らが幕屋や宮に行っていけにえを捧げても、帰ると酷い罪を犯すことがありました。

一方、不潔は容易に移ります。例えば、死体に触れた者は汚れるとされました。そして、その汚れた者が触れた物も汚れてしまいます。(民数記19:11-22)

そして、神様はこう言われました。

わたしにとっては、この民はそのようなものだ。この国もそのようである。――主の御告げ――

彼らの手で作ったすべての物もそのようだ。彼らがそこにささげる物、それは汚れている。(ハガイ書2:14)

どうして彼らは汚れたのでしょうか。それは、彼らの態度が悪かったからです。彼らは自分の心の王座から神様を追い出し、自分自身がその座につきました。

その態度が彼らの間に広がった結果、宮の再建を止めてしまいました。代わりに、自分の家と生活に集中してしまったのです。

こうして、主の宮は長い間、廃墟のままとなっていました。

その不潔な態度は、彼らのすべての行動に悪影響を及ぼしました。彼らの行動は神様の目には不潔なものと映りました。たとえ宗教的な行為をしても、それは神様の目には不潔なものでした。

だから、神様は彼らにこう警告されました。「あなたの人生をよく考えなさい。あなたの態度が悪く、私の宮を無視したため、あなたの人生はうまくいっていない。しかし今、あなたは悔い改め、態度を改めたので、

きょうから後、わたしは祝福しよう。(19)

私たちが学ぶべきことは、罪の種や不潔な種が私たちの心に根付かないようにすることです。もしそのような種が心に根付いてしまうと、イスラエルの民のように、その罪は私たちの人生全体に広がり、行動を汚してしまいます。

パウロはこう書きました。

あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。

新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。(第一コリント5:6-7)

主よ、どうか私の人生から罪というパン種を取り除いてください。私の心に罪が広がらないよう守ってください。その罪が、私があなたに仕えるミニストリーに影響を及ぼさないように。むしろ、私をあなたの聖さで満たしてください。

私たちのすべての行動が、あなたの目にかなうものとなりますように。アーメン。

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ハガイ書

私たちの栄光がどこから来るか

以前のブログでも触れましたが、ソロモンの宮を目にした世代は、新しい宮の礎が据えられるのを見た時、涙を流しました。なぜなら、ソロモンの宮の栄光は、新しい宮の栄光よりもはるかに素晴らしかったからです。

さらに、ユダの民がその働きを再び始めた時、同じ世代は再び泣き始めました。そこで、預言者ハガイは彼らを励ましたのです

あなたがたのうち、以前の栄光に輝くこの宮を見たことのある、生き残った者はだれか。あなたがたは、今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。

しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。――主の御告げ――

エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。――主の御告げ――

仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。――万軍の主の御告げ――

あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。(ハガイ書2:3ー5)

つまり、「失望しないでください。この宮について落胆しないでください。また、反対に直面する時も、気落ちしないでください。私があなたと共にいるからです。働き続け、私の宮を建てなさい。

あなたをエジプトから救い出した時、私は多くの約束をしました。その約束は決して変わりません。私はあなたをここまで導いた神です。私は変わらず、私の霊もあなたと共にいます。」

そして、神様はこう言われました。

まことに、万軍の主はこう仰せられる。

しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。

万軍の主は仰せられる。銀はわたしのもの。金もわたしのもの。――万軍の主の御告げ――

この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。――万軍の主の御告げ――」(6ー9)

これはメシヤ、つまりイエス様についての預言です。イエス様が来られる前、神様はすべての国々を揺り動かされました。すなわち、さまざまな帝国が繁栄したり衰退したりしました。

そして、すべての国々の宝であるイエス様が来られました。イエス様はその宮に入り、ご自身の栄光でその宮を満たされました。神様が人間として来られ、福音を述べ伝え、多くの奇跡を行われたのです。

そのイスラエルの年配の人々の考え方には誤りがありました。彼らは、宮の外見にばかり注目し、宮の栄光がその建材や装飾から来ていると考えたのです。

けれども、ソロモンの宮がいくら美しかったとしても、その栄光は銀や金、あるいは他の素材から来たものではありませんでした。その栄光は神様の臨在から来たのです。神様がその宮に来られたからこそ、その宮に栄光がありました。

確かに、ソロモンの宮は新しい宮よりも美しかったかもしれません。しかし、神様は人間としてその宮に入られることはありませんでした。一方、新しい宮にはイエス様が入られた時、その宮はさらに素晴らしい栄光を受けたのです。

同じように、私たちも自分の「宮」、つまり人生を見て、他の「宮」と比べると、がっかりすることがあるかもしれません。ほかの人が自分よりもハンサムだったり美人だったり、あるいは才能が豊かだったりするように見えることがあります。

けれども、あなたの栄光は外見や才能から来るものではありません。あなたの栄光は、あなたの心に住まわれるイエス様から来るのです。

ですから、他の人々と自分自身を比べないでください。そして、周りの人々があなたの神様への従順に反対するときにも、失望しないでください。強く、雄々しくありなさい。恐れることなく、神様があなたに与えられた働きを成し遂げなさい。

あなたをサタンの国から救い出し、奴隷の人生から解放された神様は、あなたと共におられ、決してあなたを見捨てられません。そして、神様は毎日ご自身のご計画の中で、あなたをますます素晴らしい宮へと変えてくださいます。

パウロはこう書きました。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3:18)

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エズラ記 ハガイ書

優先順位を正しくする

以前言ったように、エズラ記の年代順は少し複雑です。もし私がその年代順を正確に理解できているならば、おそらくエズラ記4:1-5の後に記されている4:6-23の出来事は、すぐに起こったわけではないでしょう。

さらに、エズラ記7章から最後までの出来事は、4:6-23の前に起こったと考えられます。

そして、ネヘミヤ記の出来事は、エズラ記4章の後に起こりました。

少し混乱するかもしれませんが、心配しないでください。このブログを読み進めることで、徐々に理解が深まるでしょう。🙂

では、もし6-23節の出来事が1-5節の後にすぐ起こったわけではないのなら、なぜそのように記されているのでしょうか。

その理由は、記述が共通のテーマに基づいているからかもしれません。すなわち、ユダの民が城壁、その礎、そして宮を再建する際に直面した反対に焦点を当てているのです。

いずれにせよ、その反対のために彼らは宮の再建を中断しました。(エズラ記4:1-5)

しかし、ハガイ書によれば、宮の再建が中断された理由はもう一つありました。それは、ユダの民にとって、主の宮を再建することが必ずしも最優先事項ではなかったということです。

そこで、預言者ハガイは彼らにこう言いました。

「万軍の主はこう仰せられる。この民は、主の宮を建てる時はまだ来ない、と言っている。」

ついで預言者ハガイを通して、次のような主のことばがあった。「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。」(ハガイ1:2-4)

つまり、彼らは自分自身の生活を優先するあまり、主の宮を顧みませんでした。

私たちも同じようなことをしているのではないでしょうか。私たちの霊的な生活や神様との関係が重要ですが、時には家計や仕事、家族のことをさらに重要視してしまうことがあります。

もちろん、これらは非常に大切なものです。しかし、もしそれらを神様よりも優先してしまうなら、私たちは罪を犯しているのです。

神様はユダの民にこう言われました。

今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。

あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。

かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。(ハガイ1:5-6)

なぜ彼らの状態がそのようになってしまったのでしょうか。それは、彼らの優先順位が完全に狂っていたからです。彼らが神様を顧みず無視したため、神様はもはや彼らを祝福されませんでした。そこで、神様は彼らにこうこう言われました。

万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。

そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。(ハガイ1:7-8)

神様は私たちに同じことを語られています。

「あなたの現状をよく考えなさい。あなたの神様との関係を最優先にしなさい。神様とその御国を何よりも大切にしなさい。そうすれば、あなたは神様の祝福を知ることができるでしょう。」

イエス様はこう言われました。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)