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ピリピ人への手紙のデボーション

恵みによって立つ

ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。(ピリピ人への手紙4:1)

4章は、少し不思議な始まり方をします。1節は、実質的に3章の内容をまとめているのです。

私たちは、どのようにして堅く立つことができるのでしょうか。

それは、恵みによって立つことだと思います。

私たちは、自分の努力によって神様の受け入れを得ようとはしません。自分の義の成績表や資格によって、神様の愛にふさわしいと証明しようとはしません。(3:2~9)

むしろ、それらを手放して、ただイエス様との関係を追い求めます。でも、その関係も、私たちが得ようとする必要はありません。なぜなら、イエス様はすでに私たちを捕らえて、ご自身のものとしてくださったからです。(3:10~12)

だから今、愛と感謝を込めて、私たちはイエス様の御心と関心を自分のものとして、イエス様と御国のために生きます。(3:13~21)

さらに、私たちの罪や失敗にもかかわらず、私たちは希望と確信をもっています。それは、いつかの日、私たちがイエス様の御顔を見ることです。

その日、私たちはイエス様に似た者となります。キリストをありのままに見るからです。(ピリピ3:20〜21、第一ヨハネ3:1〜2)

それが、恵みによって立つということです。

私は、毎日そのように生きたいと願っています。

あなたは、どうでしょうか。

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イエス様のことを求める

テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません。

みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。(ピリピ人への手紙2:20~21)

この言葉を読んだとき、私はこう考えました。「私はイエス様のことを求めているだろうか。」

私はつまらないことに心を奪われ、時間を浪費するのはたやすいことです。

それでも、私はイエス様のことを求めたいと心から願っています。

イエス様にとって最も大切なのは、私の人生に置かれている人々です。

テモテもパウロも、そのような関係を大切にしました。

だから、私の祈りは昨日の祈りと同じです。

天のお父さん、あなたの民への御子の心を私に与えてください。イエス様が大切にしておられることを、私も大切にしたいと願っています。

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あなたの心を持っているか

私がキリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、その証しをしてくださるのは神です。(ピリピ人への手紙1:8)

天のお父さん、私は、あなたの民へのイエス様の愛の心をもっているでしょうか。あなたは、その証しをしてくださるでしょうか。「ブルースは、私の御子と同じように、私の民について感じています。」

あなたの心を私に与えてください。あなたの民への御子の心を、私にも与えてください。

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自分の救いを達成するよう努める

こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。(ピリピ人への手紙2:12)

今日、「自分の救いを達成するよう努める」という言葉を考えていました。それはどういう意味でしょうか。

ピリピ人への手紙3章では、パウロがその意味を説明していると思います。

彼は、義と認められるために律法を守ろうとすることを意味していませんでした。彼の義は、イエス様の十字架の働きを信じる信仰に基づいていました。(ピリピ3:9)

では、「自分の救いを達成するよう努める」とは、どういう意味でしょうか。

1.イエス様との関係を追求することです。イエス様を知ることは、パウロの究極の情熱となりました。

2.ますますイエス様のようになることです。パウロはイエス様の復活の力を経験し、その力によってイエス様のように変えられることを望みました。

でも、イエス様と共によみがえられる前に、パウロはイエス様と共に死ななければなりませんでした。

イエス様がただ一度罪に対して死なれたように、パウロは罪に対して死んだ者となり、また神に対して生きている者となるように学ぶべきでした(ローマ6:10ー11)。

そして、キリストの苦しみに参加することで、パウロは罪との関わりを断ち、神のみこころに生き始めていることを証明しました(第一ペテロ4:1ー2)。

それは、自分の救いを達成するよう努めるということです。

でも、それは一生続くプロセスです。パウロ自身も、まだそのプロセスを終えていないことを認めました。

彼はまだ失敗しました。彼はまだたどり着いていませんでした。

でも、恵みによって、イエス様はパウロを捕えてくださいました。だから、パウロは受けた救いを完全に捕らえるように努め、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めました。

パウロを捕えてくださったイエス様が、私をも捕えてくださったことに驚いています。だから、パウロのように、私も受けた救いを完全に捕えるように努め、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めています。

私はまだ失敗します。私はまだたどり着いていません。でも、神様が私に恵みと愛を与えてくださったという確信を持ち、パウロと共に言います。

うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。(ピリピ3:13ー14)

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恐れおののいて

こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。(ピリピ人への手紙2:12)

「恐れおののいて。。。」

今日、その言葉を嚙み締めていました。

「恐れおののいて」というのは、どういう意味でしょうか。

自分の手紙の中で、パウロはその表現を三度使いました。その表現を使うたびに、パウロはイエス様への従順について話していました。

第二コリント7:15では、コリント人たちはテトスを恐れおののきながら迎えました。なぜなら、テトスはコリント人たちが従順したイエス様を代表していたからです。

エペソ6:5では、奴隷たちはイエス様に恐れおののいて従っていたように、自分の主人にも従うべきでした。

そして、今日の箇所では、ピリピ人たちがいつも従順であったように、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めるべきでした。

ある意味、十字架でイエス様は私たちの救いを完全に達成したけど、私たちがイエス様に従い仕えることで、私たちの救いの益をより完全に経験します。そして、救いの最大の益は、私たちを深く愛してくださる神様との関係の回復です。

だから、救いを達することの大部分は、その回復された関係の中で、毎日毎日、一瞬一瞬を歩むことを学ぶことなのです。

でも、どうして恐れおののいてそうするべきでしょうか。

なぜなら、イエス様はすべての名にまさる名を与えられ、すべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白しますから。

もしかしたら、パウロはその言葉を書いたとき、引用したイザヤ書45:23だけではなく、詩篇2編をも考えていたかもしれません。

詩篇2編は、メシアに関する詩篇です。その詩篇では、神様はイエス様を全世界の王として立てます。そして、イエス様に反抗する人たちのすべては滅ぼされます。そのような人々はイエス様の怒りを恐れるべきです。

でも、主に身を避ける人は喜びを知ります。(詩篇2:12)

だから詩人はこう書きました。

恐れつつ、主に仕えよ。おののきつつ喜べ。。。(詩篇2:11、脚注にある別訳)

上記の言葉はパウロの言葉に似ていますね。もしかしたら、「恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい」と言ったとき、詩人の言葉を考えていたかもしれません。

私たちはイエスと対等ではありません。

イエス様は王の王と主の主です。イエス様は私たちの従順にふさわしい方です。そして、イエス様はいつかすべての反逆者を裁きます。

そういうわけで、私たちはイエス様を軽んじてはいけません。

でも、イエス様を私たちの主と認めるなら、私たちが神様からの罰を恐れる必要はありません。裁きは私たちのためではなく、神様の敵のためですから。

むしろ、畏敬の念を抱き、さらに喜びの歌を歌って、イエス様に仕えます。(詩篇2:11;ピリピ2:13;詩篇100:2)

私たちはおののきながら、神様が私たちに与えてくださった恵を喜びます。神様がみこころのままに、私たちのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださることを喜びます。(ピリピ2:13)

もう一人の詩人は「恐れおののいて自分の救いを達成する」というコンセプトをまとめたと思います。

知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。(詩篇100:3-5)

だから今年、私たちの主とその救いを軽んじないようにしましょう。

むしろ、恐れおののいて、また、喜びをもって、自分の救いを達成するよう努めましょう。

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人々のために祈る。自分のために祈る。

今日、パウロの言葉を読んだとき、ピリピ人たちのためのパウロの祈りを借りて、私の祈りのリストにある人々のために祈りました。特に、私の家族とスモール・グループのために祈りましたが、私の牧師とその奥さんのためにも祈りました。

<名前>さんの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、<名前>さんが、大切なことを見分けることができますように。

こうして<名前>さんが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。

あなたは、<名前>さんの中で良い働きを始められたことを信じています。その働きを完成させてください。

<名前>さんがあなたの福音にふさわしく生活するように。そして、<名前>さんの身によってキリストがあがめられるように。(ピリピ人への手紙1:6,9~11,20,27)

でも、祈るとき、私もその祈りを必要としていることに気づきました。だから、自分のためにも祈りました。

天のお父さん、私の愛も知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、私が大切なことを見分けることができますように。

こうして私がキリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神様の栄光と誉れが現されますように。

あなたは、私の中で良い働きを始められたことを信じています。その働きを完成させてください。私があなたの福音にふさわしく生活するように。

そして、今日、私の身によって、私の人生によってキリストがあがめられるように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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心を留めるべきもの

最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。(ピリピ人への手紙4:8)

8節を読んだとき、「私はどのようなことをいつも考えているだろうか」と思いました。

最近、私はいろいろなことをくよくよしています。

政治的な問題。社会問題。ガザとイスラエルの問題。

また、個人的な問題。つまり、家庭の問題です。

でも、私がそのようなことをくよくよすると、フラストレーションや怒り、悲しみ、心配に至ります。

平安に至ることは、まったくありません。

だから、神様は私によく語られます。「焦点を変えなさい。テレビやインターネットを消しなさい。頭の中で人と議論するのをやめなさい。私に向かいなさい。」

そして、私は神のみ言葉を読みます。神のみ言葉に、私の考え方を形成させます。神様のみ言葉によって、私は真実なこと、尊ぶべきこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判の良いこと、徳とされること、称賛に値することに注意を向けます。

また、私の考えていることをすべてイエス様に話します。

パウロの言葉を借りれば、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、自分の願い事を神様に知っていただきます。」

あなたはどうでしょうか。どのようなことをいつも考えているでしょうか。

イエス様、あなたはブドウの木で、私は枝です。私のいのちと霊的な栄養は、あなたから流れます。だから、私があなたのことに心を留めるようにしてください。

私が一日中、何を考えているか、あなたはよく知っておられます。でも、私がそのようなことをくよくよしないように助けてください。むしろ、私があなたにとどまり、あなたのことを思い巡らすようにしてください。あなたは私のいのちですから。

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私たちの希望

私の好きな聖書箇所のひとつは、ピリピ人への手紙1章6節です。

あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。

ピリピ人への手紙2章12〜13節では、パウロはその真理をさらに詳しく説明しています。

。。。恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。

クリスチャンとしての私の希望は、自分の罪と弱さにもかかわらず、神様が私を決して諦めないということです。神様が始められた良い働きを完成させてくださいます。

今なお、神様は私の心の中で働いて、イエス様のようになろうとする思いと力を与えてくださっています。

時々、その過程が進むのがとても遅く感じられることもあります。今でも、自分の欠点ははっきりと見えています。私は完全な人間とは言えません。でも、振り返ってみると、神様が私を少しずつ変えてくださってきたことがわかります。

だからこそ、私への神様の日々の素晴らしい恵みに、畏敬の念を抱かずにはいられません。そういうわけで、私は神様に従い続けているのです。

私の動機は、罪悪感や神様の怒りではありません。神様が私を拒絶するのではないかと心配することもありません。むしろ、神様の素晴らしい恵みのゆえに、私は神様に従っているのです。

それは、あなたの希望でもあるでしょうか。

あなたが神様に従おうとするとき、その動機は何ですか。

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どんな境遇にあっても、私は強い

私は。。。ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。(ピリピ人への手紙4:12-13)

私が高校生のころから、「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」という言葉が大好きです。

別訳で、「どんな境遇にあっても、私は強いです。なぜなら、キリストは私を強めてくださいますから。」

私は強いです。私の体質のためではなく、むしろ、キリストは私に力を注いでくださっているからです。

良いときだけではなく、悪いときにも私は強いです。

この世やサタンが私にどんな試練やトラブルを投げかけても、私は強いです。

ありとあらゆる境遇にあっても、私は強いです。

主よ、私は自分を見て、たくさんの弱さを見ることができます。だから、「私は強い」と言うと、その言葉が私には合わない気がします。

でも、あなたにおいて、私は強いです。私の弱さのうちにあなたの力は完全に現れるからです。(第二コリント12:9)

だから、どんな境遇にあっても、私は満足です。あなたは私とともにおられるからです。あなたが良い方で、私は感謝します。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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まだ着いていない

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。

兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。

ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。

ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。(ピリピ人への手紙3:12-15)

クリスチャンとして、私たちはいつも成長しているはずですが、この世に生きている限り、私たちは終点に辿り着くことはありません。つまり、私たちは完全な人になることはないということです。

パウロも、自分がすでに到達しているとは思っていませんでした。でも毎日、彼はイエス様をもっと知り、イエス様のようになろうと努めていました。

しかし、パウロが前のものに向かって身を伸ばすにつれて、彼は二つのことを覚えていました。

一つ目は、自分の義ではなく、キリストの義によってパウロが神様に受け入れられていることです。パウロがイエス様とその十字架の働きを信じたので、キリストの「義の通知表」は、パウロの「義の通知表」になりました(9)。

だからこそ、パウロの通知表には「5」しか書いてありませんでした。

そういうわけで、パウロは、神様の愛と受け入れを得ようと努めていたわけではありません。彼は神様の愛と受け入れをもう受けていたからです。

むしろ、神様がパウロを捕らえてくださり、良い計画を持っていることを、パウロはとても喜びました。

そして、その喜びによって、パウロは神様が準備してくださった良いものを捕らえようとして追求していました。

二つ目は、自分の努力が無駄なものではないということです。パウロはこの世に生きている限り、完全になることがないと知っていたけれど、必ずある日、自分が愛しているイエス様のようになると知っていました(21)。

パウロは毎日その希望をもって、生活を送りました。

私たちもその希望をもって、生活を送りましょう。毎日、神様の恵みによって生き、イエス様のようになるように成長し、神様の良い計画を追求しましょう。

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私たちが世の光として輝けるように

恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。

すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。

そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。(ピリピ人への手紙2:12-16)

天のお父様、あなたは私たちに救いの賜物を与えてくださいました。

あなたは、ヨシュアとイスラエル人たちをエジプトの奴隷状態から救い出されたように、私たちをもサタンの国の奴隷状態から救い出してくださいました。

だから、ヨシュアのように、私たちはあなたの前にひれ伏し、畏敬の念を持って、礼拝します。そして、私たちは言います。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのでしょうか。」(ヨシュア5:14)

主よ、私たちはあなたの教会です。私たちはあなたの民です。だから、日本にあなたの御国をもたらすために、あなたのみこころのままに、私たちのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてください。私たちがあなたの働きに参加するように。

主よ、私たちは曲がった邪悪な世代のただ中にいます。だから、私たちは彼らの間で世の光として輝くように。

この世の人々と違って、私たちがあなたの御言葉を曲げないように。むしろ、私たちがその御言葉をしっかり握るように。なぜなら、その御言葉は、私たちにも、この世の民にも命を与えるものだからです。

また、私たちが、つまり、あなたの教会が非難されるところのない純真な者となり、傷のない神の子どもとなりますように。

私たちが、不平や疑いではなく、あなたの愛で特徴づけられるように。

そして、この世の人々が、あなたの民が互いに愛し合うことを見るにつれて、彼らがあなたに引き付けられるように。

私たちはこの国のために祈ります。私たちの愛する者たちのためにも祈ります。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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感謝を忘れずに

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。。。

主は近いのです。

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ人への手紙4:4-7)

「感謝をもって。。。」

その小さな表現は私の注意を引きました。

私たちが思い煩うとき、祈りや願いはすぐに私たちの口から出てしまいます。

パウロは、「それはいけない」とは言いません。逆に、パウロは私たちが自分の祈りと願いによって、自分の願い事を神に知っていただくように促します。

でも、パウロはその小さな表現を加えます。

「感謝をもって。」

私たちは、自分の祈りと願いと共に、感謝の言葉も神様に捧げるべきです。

「感謝をもって」という言葉は、4節を指します。

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(ピリピ人への手紙4:4)

思い煩うときでも、喜びなさい。感謝しなさい。

主にあって喜びなさい。主の慈しみを喜びなさい。主の恵みを喜びなさい。十字架によって私たちが受けた赦しを喜びなさい。神様が私たちを自分の最愛の子供たちとして受け入れることを喜びなさい。

6節を意訳すると、私はこう言います。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝を忘れず、むしろ、主にあって喜び、主の慈しみを喜びながら、ささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」

そうすれば、私たちの試練の中で、「すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(7)

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キリストは私を捕えてくださいました

「キリストは私を捕えてくださいました。」(ピリピ人への手紙3章12節)

「メシアは私を捕えてくださいました。」

その言葉に、少し思いをめぐらせてみましょう。

ユダヤ人にとって、「メシア」または「キリスト」とは、偉大な方です。その方はユダヤ人を救い、イスラエル王国を復興する王です。

パウロはクリスチャンになる前、自分が「メシアは私を捕えてくださいました」と言えるようになるとは想像できなかったでしょう。なぜなら、彼はメシアと親しい関係を持つことはありえないと思っていたからです。

でも、ダマスコへの道で、イエス様はパウロを捕えました。それまで、パウロはイエス様を憎み、イエス様の教会を滅ぼそうとしていました。

しかし、イエス様は彼を捕え、パウロの世界をひっくり返されたのです。

そういうわけで、パウロの人生はキリスト中心のものになりました。7-12節の中で、パウロがどれだけキリストに触れているか数えてみてください。それは十回にのぼると思います。

イエス様が、どのようにあなたを捕えてくださったでしょうか。その経験を振り返ってみると、あなたもパウロのように、不思議に思うかもしれません。

その不思議さゆえに、パウロはイエス様ご自身、そして自分のために備えられたイエス様の計画を追い求め、キリストを捕えようと努めました。

正直に言うと、私はその不思議さをあまり深く考えていません。たぶん、だからこそ、私はイエス様をパウロほど追求していないのかもしれません。

だから、もう少し思いめぐらしてみましょう。

「イエス様は私を捕えてくださいました。」

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恐れと感謝をもって救いを歩む

周りのクリスチャンたちを批判することは簡単なことです。私も時々そうします。

自分の弟子や教会の人々を見たり、有名なクリスチャンについてのニュースを読んだりするとき、彼らの言動のゆえに、私たちは怒ったり、フラストレーションを感じたりするときもあります。

でも、パウロは私たちにこう言います。

自分の救いを達成するよう努めなさい。(ピリピ人への手紙2:12)

パウロは、「周りのクリスチャンたちの救いを達成するよう努めなさい」とは言いません。むしろ、「自分の救いを達成するよう努めなさい」と言います。さらに、私たちは恐れおののいて、自分の救いを達成するよう努めなくてはなりません。

なぜ恐れおののきながらそうするべきなのでしょうか。

私たちが自分自身に正直になるなら、認めざるを得ないのは、私たちが神様の御前に立つことができるただ一つの理由は、神様が私たちに恵みを与えてくださったということです。

そのことを思うとき、私たちは神様の御前に感謝と恐れをもっておののくべきです。

なぜ恐れでしょうか。それは、私たちが神様の裁きに値するからです。

では、なぜ感謝でしょうか。それは、神様が裁きではなく、むしろ恵みを私たちに与えてくださったからです。

神様の恵みのゆえにおののくにつれて、私たちは周りのクリスチャンたちに恵みや忍耐を与えたいと思うようになります。

だから、周りのクリスチャンたちを批判するのではなく、自分自身を顧みましょう。 恐れをもっておののきましょう。感謝をもっておののきましょう。

そして、覚えておきましょう。神様は御心のままに、あなたや周りのクリスチャンたちのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださっています。

私たちの間に完全な人は誰もいません。 でも、パウロの言葉を心に留めておきましょう。

あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。(ピリピ1:6)

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新しいシーズンを迎える人々への祈り

たくさんの日本人にとって、4月は新しいシーズンの始まりです。 新しい学校や、新しい仕事をスタートする人は多いです。

もしかしたら、あなたは新しいシーズンに臨んでいるかもしれません。 私もそうしています。

私は、7年間同じ高校で働いていましたが、今年度からは3つの中学校で働くことになりました。

今日の聖句を読んだとき、9〜11節は私の心を打ちました。

この新しいシーズンに、私は自分のためにその祈りを祈っています。 また、新しいシーズンに臨んでいる皆さんのためにも祈っています。 特に、この新しいシーズンに大きな決断をしなければならない人々のために祈っています。

私はこう祈っています。あなた方の愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。

こうしてあなた方が、キリストの日に備えて、純真で避難されることのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。(ピリピ人への手紙1:9-11)