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ヘブル人への手紙

整えられた

私は、この手紙の著者がこの手紙をどのように締めくくっているかが大好きです。

永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものを持って、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。

また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。

栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。(へブル人への手紙13:20-21)

クリスチャンとして歩む中で、私たちはしばしば神様の恵みを忘れ、自分の力で頑張らなくてはならないと思ってしまいます。

つまり、試練が訪れたとき、私たちは自分の力で耐え忍ばなくてはならないと思い、根性で信仰を保ち、自分の努力だけで自分自身を清めようとしてしまうのです。

しかし、この手紙の著者は、私たちに基本的な真理を思い起こさせてくれます。それは、これらすべてのことを、神様の恵みによって行うのだということです。

イエス様が十字架にかかり、私たちの罪の罰を受けてくださったゆえに、私たちは神様から義と認められます。そして、イエス様をよみがえらせた神様の力は、今も私たちのうちに働いています。

神様はご自身の力で、あらゆる良いものをもって私たちを整えてくださり、私たちはそのおかげで神様の御心を行うことができるのです。

そして、神様は日々、私たちのうちにみこころにかなうことを行っておられます。

私たちは独りぼっちではありません。

私たちは神様の恵みによって救われました。そして、毎日、神様の恵みによって歩んでいるのです。

あなたは、どのように人生を歩んでいるでしょうか。

神様の御心に従おうとして、自分の力や知恵だけに頼って疲れ果てていませんか。

罪や欠点を変えられず、落胆しているでしょうか。

あなたが神様の恵みによって救われたことを、どうか覚えていてください。

その恵みは、あなたの救いだけのためではありません。

神様はその恵みによって、ご自身の計画に従ってあなたを変えてくださいます。

あなたは独りぼっちではありません。

ですから、自分の力だけで生きようとしないでください。

むしろ、毎日、神様の恵みに身を委ねて、クリスチャンとしての歩みを続けましょう。

恵みがあなたがたすべてとともにありますように。(25)

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ヘブル人への手紙

神が立てたリーダーたちに従い、祈る

私は自分の牧師たちを本当に尊敬します。

私は十代の頃から神様のみことばを教えてきました。それでも、私は牧師として神様から召されたことは一度もありません。

もし牧師の責任が単に聖書を教えることであれば、私は牧師になることができたかもしれません。しかし、牧師の責任はそれだけではなく、神様の群れを世話する務めも含まれます。

ときどき、教会のメンバーたちはこのことを忘れてしまいます。けれども、牧師たちは神様の群れだけでなく、自分の家族の世話もしなければなりません。

それは非常に重い責任です。多くの牧師たちはその責任を真剣に果たしています。なぜなら、いつか神様が彼らの責任について問われるからです。神様の群れの世話を委ねられている以上、神様は彼らを厳しく裁かれるのです。

ですから、この著者はこう語っています。

あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人たちは神に申し開きをする者として、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。

ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆きながらすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にはならないからです。(へブル人への手紙13:17) 

牧師の働きそのものが、すでに重い務めです。

しかし、教会のメンバーたちが牧師を常に批判していると、その働きはさらに困難になってしまいます。牧師が失敗したときに、ある人々はすぐに非難し、すべての決断に対して疑いの目を向けるのです。

けれども、著者は私たちにこう語っています。

「そのような態度を取ってはなりません。あなたの指導者に従い、彼らに与えられた権威を認めなさい。」

なぜでしょうか。

それは、神様が彼らにその権威を授けられたからです。そして最終的に、彼らの務めについて責任を問われるのは、あなたではなく、神様ご自身なのです。

神様が彼らを裁かれるのです。

神様の望みは、牧師の働きが喜びに満ちたものであることです。けれども、私たちが常に牧師たちを批判していると、その働きは重荷となってしまいます。

それは牧師に対して悪いだけでなく、私たち自身にも悪影響をもたらします。なぜなら、牧師たちは神様の務めに集中する代わりに、人々の不平を処理しなければならなくなるからです。

その様子を見て、サタンはほくそ笑むでしょう。

だから、そのようなことをしてはいけません。

では、牧師を批判すべき時がまったくないのでしょうか。もちろん、そうではありません。

もし牧師が誤った教えを語っているなら、私たちはその牧師と話し合うべきです。

また、牧師が罪に陥り、悔い改めようとしないならば、私たちはその牧師を訓戒しなければなりません。パウロは、そのような状況について第一テモテ5章で具体的な指示を与えています。

しかし、それが教会の方向性や運営の仕方についての意見の違いであるならば、あなたは自分の指導者に従うべきです。彼らには、あなたには見えないものが見えているのかもしれません。

では、牧師が失敗したとき、私たちはどうすればよいのでしょうか。(それは避けられないことかもしれません。)

牧師を非難するのではなく、励まし、牧師のために祈りましょう。

この手紙の著者は、次のように語っています。

私たちのために祈ってください。私たちは正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動したいと思っているからです。(18)

多くの牧師たちは、同じ思いを抱いていることでしょう。彼らは正しい良心に基づいて、誠実に歩もうとしています。それでも、時には失敗することがあります。

だからこそ、私たちは牧師のために祈るべきなのです。

あなたは、自分の牧師に対してどのような態度を持っているでしょうか。

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ヘブル人への手紙

変わらない主に仕える喜び

イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。(へブル人への手紙13:8)

これはとても有名な聖句です。そして、私もこの言葉が大好きです。なぜなら、それを読むと、私の主が決して変わらないことを思い出すからです。

多くの人々が悪い方向へと変わりつつあるこの世界にあって、この言葉は本当に心強いものです。

けれども、私たちは常にイエス様に頼ることができます。そして、イエス様の御言葉を信じることができます。なぜなら、イエス様はいつも私たちに対して忠実だからです。

だから、この手紙の著者はこう語っています。

神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。(7)

私たちの指導者たちの人生を変えてくださった主、彼らの人生に働いておられる主、そして彼らを通して働いておられる主は、私たち自身をも変え、私たちの人生に働き、私たちを通しても働かれます。

ですから、私たちがリーダーたちの信仰を見て、神様が彼らの人生にどのように働かれたかを見ると、私たちは励まされます。

なぜなら、もし私たちが信仰によって歩むなら、私たちの人生にも、神様の働きと忠実さを見ることができるという確信が与えられるからです。

だから、この手紙の著者はこう語っています。

様々な異なった教えによって迷わされてはいけません。

食物の規定によらず、恵みによって心を強くするのは良いことです。食物の規定にしたがって歩んでいる者たちは、益を得ませんでした。(9)

要するに、イエス様は私たちに恵みのメッセージを与えてくださいました。イエス様は決して変わらない方ですから、イエス様のメッセージも変わることはありません。

イエス様が突然変わって、「これから、もし天の父との関係を望むなら、特別な食べ物を食べなければならない」と言われるはずがありません。

ですから、もし誰かが私たちを神様の恵みから離れさせる教えを伝えているなら、私たちはその人を避けるべきです。

私たちはもはや律法によってではなく、恵みによって生きています。救いを得るために神様を喜ばせようと努める必要はありません。むしろ、イエス様によってすでに救われた者として、私たちは感謝と愛をもって神様を喜ばせたいと願うのです。

そして、著者は、私たちがキリストによって受けた特権について語ります。

私たちには一つの祭壇があります。幕屋で仕えている者たちには、この祭壇から食べる権利がありません。(10)

この著者は何について語っているのでしょうか。彼は祭司や罪のためのいけにえについて語っています。

通常、祭司たちはいけにえの肉を食べることができましたが、贖罪の日にはその肉を食べてはなりませんでした。むしろ、その動物の体はイスラエル人の宿営の外で焼かれました。(11)

しかし、十字架という祭壇において、私たちはいのちのパンをいただきます。イエス様こそがその命のパンです。言い換えれば、私たちはイエス様のもとに来て、イエス様の十字架の働きを信じることによって、永遠の命を受けるのです。

ですから、この著者はこう語ります。

「私たちは、旧約の祭司たちが持っていなかった特権を持っています。彼らは贖罪の日のいけにえを食べることができませんでした。けれども、イエス様にあって、比喩的に私たちはそれをいただくことができるのです。」

そしてこの著者は、「変わらないキリスト」という主題に再び立ち返ります。

それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。(12)

つまり、イエス様は、私たちの罪を贖うために、エルサレムの外でご自身を捧げられました。

ですから私たちは、イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。(13)

言い換えれば、この世の罪や快楽を捨て、イエス様のもとに進みましょう。そして、イエス様が苦しまれたように、私たちも苦しみを受け入れる心構えを持ちましょう。

イエス様は、私たちのために待っておられます。

私たちは、いつまでも続く都をこの地上に持っているのではなく、むしろ来たるべき都を求めているのです。(14)

この世は、私たちの本当の住まいではありません。私たちの真の住まいは天の御国です。

そして、やがてその御国はこの地に来て、イエス様が永遠にこの世界を治められます。

著者は、この真理を次のようにまとめています。

それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。

善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。そのようないけにえを、神は喜ばれるのです。(15-16)

だからこそ、私たちは毎日、言葉と行いによってイエス様をほめたたえましょう。

イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。(8)

 

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私たちは何を愛しているのか。何を信頼しているのか。

認めざるを得ません。確かに、お金があれば人生はもっと楽になるでしょう。

たとえば、重い病気にかかったときや手術を受けなくてはならないとき、お金があれば治療費を払うことができます。

また、車や家電が壊れた場合でも、すぐに新しいものを買い替えることができます。

さらに、お金があれば、旅行に出かけたり、さまざまな楽しいことを体験したりすることもできます。

しかし、私たちは自分自身に問いかけるべき重要な質問があります。

「私たちは何を愛しているだろうか。」

そして、「私たちは何に信頼を寄せているだろうか。」

この手紙の著者は、私たちにまさにその疑問を投げかけています。

金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。

主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。

ですから、私たちは確信をもって言います。「主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。」(へブル人への手紙13:5-6)

私たちは何を愛しているでしょうか。お金や、この世のものに執着しているでしょうか。

そうしたものは結局なくなります。たとえそれらを手に入れて一時的に嬉しく感じても、やがて飽きてしまったり、古くなって壊れてしまったりします。だから、私たちは不満に陥るのです。

ある人々はそうした繰り返しを何度も経験し、決して本当の幸せを見つけることができません。

また、他の人々はお金や持ち物に執着するあまり、自分の人生を壊してしまいます。彼らはお金や快楽への過度な愛のゆえに、破産したり、結婚や家族関係を壊したり、健康を損なったりするのです。

だからこそ、神様は私たちに語りかけられます。

「金銭を愛する生活をやめなさい。今与えられているもので満足しなさい。この世のものを追い求めるのをやめなさい。

それらによって、あなたが本当に満ち足りることはありません。私との関係だけが、あなたの心を満たします。

私は決してあなたを見放さず、あなたを見捨てません。

私にあって、あなたは幸せと真の満足を見いだすことができるのです。」

私たちは、問題に直面したとき、何に信頼を寄せるでしょうか。

お金に信頼を置くことは簡単です。実際、お金によって解決できる問題は多くあります。

ところが、世の中には、お金では解決できない問題も数多く存在します。場合によっては、かえってお金が問題を悪化させることさえあります。

けれども、私たちが神様に向かうなら、どんな状況にあっても、神様は私たちを助けることがおできになります。私たちが苦しみの中にあっても、神様は決して私たちを見捨てません。

だからこそ、私たちは確信をもって言うことができるのです。「主は私の助け手。私は恐れない。」

あなたはどうでしょうか。

何を愛しているでしょうか。

何に信頼を寄せているでしょうか。

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結婚を重んじていますか

日本、アメリカ、そして他の国々の道徳的状況を見ると、結婚の概念がどれほど悪化しているかが分かります。

もちろん、アメリカやヨーロッパには同性婚がありますが、異性愛の結婚においてさえ、私たちは結婚の概念がいかに損なわれているかを目の当たりにします。人々が神様の本来の計画からどれほど遠く離れてしまっているかに驚かされます。

神様のご計画では、夫婦は肉体的に、精神的に、霊的に一つとなります。そして、その結婚は生涯にわたって続くものです。そこでは、不倫など想像すらできないことなのです。

しかし現実には、私たちはどんな結婚を目にしているでしょうか。冷えきった関係、虐待的な結婚、不倫、自己中心的な態度、分裂、そして最終的には離婚です。

なぜこのようなことが起きるのでしょうか。それは、私たちが結婚を重んじなくなったからです。そして、結婚の寝床をも重んじません。だからこそ、結婚はここまで荒廃したのです。

だから、この手紙の著者は私たちに訓戒を与えているのです。

結婚がすべての人の間で尊ばれ、寝床が汚されることのないようにしなさい。神は、淫行を行う者と姦淫を行う者をさばかれるからです。(へブル人への手紙13:4)

少し立ち止まって考えてみてください。もし私たちが結婚を重んじず、結婚の寝床が汚されることのないように気を配らなければ、神様はその行為を見過ごされません。むしろ、神様は私たちを裁かれます。

あなたが不倫をするなら、神様はあなたを裁かれます。

結婚を軽んじて、結婚しないまま彼や彼女と関係を持つなら、神様はあなたを裁かれます。

なぜでしょうか。それは、神様のご計画が「ただ一人の伴侶と結婚し、その人と一つになること」だからです。

結婚せずに関係を持つなら、また不倫をするなら、あなたは結婚の寝床を汚してしまうことになります。結婚の寝床は、夫婦が永遠に結ばれるという神聖な象徴なのです。

しかし、それだけではありません。もし夫や妻に冷たい態度を取り続けるなら、あなたは結婚の寝床を軽んじています。

精神的にも肉体的にも相手と距離を置き、自己中心的にふるまい、相手の必要に心を向けず、虐待するならば、あなたは結婚の寝床を軽んじているのです。

あなたは自分の結婚を重んじているでしょうか。あなたの妻や夫と一つとなるよう努めているでしょうか。

あなたは周囲の人々の結婚を重んじているでしょうか。不倫を避けているでしょうか。それ以上に、周りの夫婦の関係を強めるよう努めているでしょうか。

もしあなたが独身であるなら、結婚のために性的な清さを保っているでしょうか。

そうしないなら、神様はあなたを裁かれます。神様はそのようなことを軽んじられません。

あなたは結婚について、どのような態度を持っているでしょうか。

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ヘブル人への手紙

牢にいる兄弟姉妹を忘れない

ヘブル人への手紙13章3節では、私たちはクリスチャンの兄弟姉妹を愛する一つの方法を教えられます。手紙の著者はこう語ります。

牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい。また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人々を思いやりなさい。(へブル人への手紙13:3)

特に、この著者は牢に入っているクリスチャンの兄弟姉妹について語っています。彼らは自らの信仰ゆえに投獄されていたのです。そして著者は、読み手たちにこう促します。「その人たちを忘れてはなりません。」

第二テモテ書を読むと、パウロが牢にいたとき、多くのクリスチャンが彼を見捨てたことが記されています。

もしかすると、パウロとの関係のゆえに、そのクリスチャンたちは自らも投獄されることへの恐れを抱いていたのかもしれません。また、パウロの状況を見て絶望を感じた結果、彼を避けたいという思いがあったのかもしれません。

それでも、この著者は明確に語ります。「彼らに対する愛を持ち続けなさい。決して彼らを見捨ててはなりません。」

これこそが、この著者のメッセージなのです。

けれども、私がこの箇所を読んだとき、神様は別の応用を示してくださいました。私たちの周りには、さまざまな形の「牢」に入っている人々がいます。

ある人々は、感情の牢の中で苦しんでいます。

ある人々は、病気に悩まされています。

ある人々は、困難な状況に陥り、何をすれば良いのか分からずにもがいています。

そういった人々を前にすると、私たちはどう関われば良いか分からず、距離を置いてしまうことがあります。なぜなら、彼らを支えることは苦しく、難しいことだからです。

しかし、神様は私たちに語りかけておられます。「その人たちを心に留めなさい。彼らを遠ざけてはなりません。訪れて、できる限り支えなさい。

たとえ何をすれば良いか分からなくても、何と語れば良いか分からなくても、彼らとともにいて、愛を示しなさい。」

ある人々は霊的な牢に閉じ込められています。サタンが彼らを捕らえ、罪の中に陥れています。

私たちも、かつてはその状態にありました。そして私たちは、あの時のことをよく覚えているはずです。サタンは私たちにも苦しみを与えました。

だからこそ、私たちはその人たちを心に留めていなければなりません。彼らが自由になれるよう、神様の愛をもって手を差し伸べましょう。

あなたはどうでしょうか。牢に囚われている人々を覚えているでしょうか。彼らにイエス様の憐れみを示しているでしょうか。

それとも、彼らを遠ざけてしまっているでしょうか。

イエス様の言葉を思い起こしましょう。

あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。(マタイ5:7)

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ヘブル人への手紙

この遺産を持っている者として

最近、私たちは、神様がイエス様を通して差し出してくださる遺産について考えてきました。また、その遺産を拒むことの危険性についても学んできました。

では、クリスチャンとしてその遺産を受けたなら、私たちはどう生きるべきなのでしょうか。この手紙の著者は、そのことについて教えています。

このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。

感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。(へブル人への手紙12:28)

実際にそれが意味するのは何でしょうか。ヘブル人への手紙第13章において、著者は本当の礼拝について語っています。しかし、本当の礼拝とは、ただ歌を歌うことではありません。

本当の礼拝とは、周りの人々を愛することです。特に、クリスチャンの兄弟姉妹を愛することです。(13:1)

本当の礼拝とは、人をもてなすことです。あまり親しくない人にも心を開くことです。(13:2)

本当の礼拝とは、苦しんでいる人々に憐れみを示すことです。(13:3)

本当の礼拝とは、夫や妻を敬い、結婚を尊び、不貞を避けることです。(13:4)

本当の礼拝とは、お金よりも神様を愛し、神様に信頼することです。(13:5−6)

本当の礼拝とは、神様が与えてくださったリーダーたちの信仰の模範に従うことです。(13:7)

本当の礼拝とは、律法主義的なルールや儀式ではなく、神様の恵みによって生きることです。(13:9−10)

本当の礼拝とは、イエス様のために喜んで苦しむことです。なぜなら、私たちは一時的なものではなく、永遠のものを求めているからです。(13:11〜14)

本当の礼拝とは、賛美のいけにえを神様にささげることです。(13:15)

本当の礼拝とは、善を行い、分かち合うことです。(13:16)

本当の礼拝とは、教会のリーダーたちに従うことです。私たちは彼らをいつも批判するのではなく、励まし合うべきです。教会を分裂させてはなりません。(13:17)

本当の礼拝とは、周りの人々のために祈ることです。特に、教会で奉仕する人々のために祈ることです。(13:18)

あなたはどうでしょうか。あなたは神様の子どもとしての遺産を受けたでしょうか。

そのことへの感謝をもって、毎日神様を礼拝しているでしょうか。

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神様に背を向けるとき

すべてのコインには二つの面があります。神様の救いの賜物も同じです。

神様の永遠の命の賜物を受けるなら、私たちは神の子とされ、神の相続人となり、永遠の遺産をいただくことになります。

その一方で、その賜物を拒むなら、私たちは裁かれます。

その遺産は実に素晴らしいものです。そして、イエス様が私たちを愛し、十字架でその代価を払ってくださったことを覚えるなら、どうして人々はその賜物を拒むのでしょうか。

けれども、多くの人々はそうしてしまいます。彼らは永遠のものを、一時的なものと取り替えるのです。彼らは神様のために生きるのではなく、自分自身のために生きます。

しかし、その結果、彼らは神様だけではなく、周りの人々を、そして自分自身までも傷つけてしまいます。そのため、彼らが死ぬとき、裁きに直面することになるのです。

私たちは生きている間に、悔い改める時間が与えられています。けれども、死ぬならば、もう悔い改める時間はなくなり、永遠の遺産を受ける可能性も消えてしまいます。

エサウのように、多くの人々は涙ながらにその遺産を求めますが、その時にはもう遅いのです。

この手紙は、9章27節でこう語っています。

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが決まっている。。。(へブル人への手紙9:27)

だから、この箇所において、手紙の著者は私たちに警告を与えています。

あなたがたは、語っておられる方を拒まないように気をつけなさい。

地上において、警告を与える方を拒んだ彼らが処罰を免れなかったとすれば、まして、天から警告を与える方に私たちが背を向けるなら、なおのこと処罰を免れられません。。。

私たちの神は焼き尽くす火なのです。(25-29)

神様が「焼き尽くす火」と例えられるのはなぜでしょうか。それは、焼き尽くす火が神様の聖さと裁きを描写しているからです。

神様がシナイでモーセに律法を与えたとき、私たちはその描写を目にします。また、神様がアロンの息子たちを裁かれたとき、あるいはイスラエルの敵に対して怒りを示されたときにも、同様の描写が現れます。

そして、この箇所にも、神様の聖なる火の描写を見ることができます。

もし神様を拒み、その命の賜物を退けるなら、残るのは裁きしかありません。

それは誰も聞きたくないことです。多くの人は神様の愛だけを聞きたいと思うのです。

しかし、神様は反逆と罪を裁かなくてはなりません。イエス様にあなたの罪の代価を払っていただかない限り、あなた自身がその代価を払わなければなりません。ほかに選びはありません。

あなたはどうするでしょうか。

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私たちの遺産

前回の記事で、私たちはこの警告に目を留めました。

また、だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。

あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。

涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。(へブル人への手紙12:16-17)

多くの人々はエサウのようです。神様は彼らに、神の子とされる権利、また神の相続人とされる権利を差し出しておられるのに、彼らは自分の罪やこの世のものに心を奪われ、その遺産を拒んでしまいます。

では、なぜ彼らの拒みはそれほど深刻なのでしょうか。それは、その遺産が尊く、私たちがそれを受けるために、イエス様が高価な代価を払われたからです。

この手紙の著者は、こう続けます。

あなたがたが近づいているのは、手でさわれるもの、燃える火、黒雲、暗闇、嵐、ラッパの響き、ことばのとどろきではありません。

そのことばのとどろきを聞いた者たちは、それ以上一言も自分たちに語らないでくださいと懇願しました。

彼らは、「たとえ獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」という命令に耐えることができませんでした。

また、その光景があまりに恐ろしかったので、モーセは「私は怖くて震える」と言いました。(18-21)

神様がシナイでご自身をイスラエルの民に現され、素晴らしい遺産を約束し、彼らと契約を結ばれたことは、本当に恐れを抱かせる出来事でした。

イスラエルの民は燃える火、黒雲、暗闇、嵐を目にし、言葉のとどろきを耳にしました。

そして神様は彼らにこう警告されました。「この山に近づいてはならない。動物であってもこの山に触れたなら、その動物は殺されなければならない。」

モーセ自身も、その山で神様に近づくことを恐れました。

しかし、その山は物理的なものでした。それはこの世のものであり、その契約によって彼らが受けた遺産も一時的なものでした。

けれども今、私たちは別の山に近づき、別の契約を受け、そして永遠の遺産を受けています。この手紙の著者はそのことを説明しています。

しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い、天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。(22-24)

その違いに注目してください。私たちは物理的な山ではなく、天上の山と都に赴き、神様に近づくのです。神様に近づくとき、私たちは恐れる必要はありません。むしろ、大きな喜びをもって近づくことができます。では、なぜでしょうか。

確かに神様はすべての人々を裁かれます。けれども、イエス様は私たちの仲介者です。ご自身の血によって、イエス様はその契約を有効にされました。

アベルの血は正義や復讐のために叫びますが、イエス様の血は赦しと憐れみを宣言します。

ですから、私たちが神様の御前に立つとき、震えることなく、恐れずに立つことができるのです。そして、神様の恵みに驚きと賛美をもって応えるのです。

いつかこの世は揺り動かされ、すべての古いものは取り除かれます。しかし、私たちは決して揺り動かされない永遠の御国を受けているのです。

神様はこのすべてを私たちのために備えてくださいました。だから、エサウのようになってはいけません。イエス様が高価な代価によって買い取ってくださった遺産を拒むことがあってはなりません。

あなたはどうでしょうか。神様はあなたに永遠の命を差し出しておられます。その命を受け取りませんか。

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聖さ

「もちろん、私はクリスチャンです。聖書を信じるし、イエス様を信じます。」

多くの教会の人々はそう言いますが、本当にその言葉を信じて生きているようには見えません。むしろ、彼らの人生には何の変化もなく、クリスチャンとしての成長も見られません。

もしあなたがそれを指摘すれば、彼らはこう答えるでしょう。「私はいつもこうやって生きてきました。だから、たぶんこれからも変わらないでしょう。」

あるいは、「私を裁かないでください。」

または、「私はちゃんとした言い訳があります。神様だって理解してくれるはずです。」

あるいは、「その聖書の個所を現代人の人生に当てはめることはできません。」

または、「私は自分の思うままに生きていい。神様は私を赦してくださるから。だから、意図的に罪を犯しても構わない。あとで神様に赦しを願えばいいから。」

しかし、あなたがまったく成長せず、何も変わっていないなら、自分の信仰が本物かどうかを疑うべきです。

教会の歴史を見ると、麦畑にはいつも毒麦が混ざっています。つまり、ある人々は自分でクリスチャンだと名乗り、洗礼も受けますが、実際にはクリスチャンではありません。

だから、この手紙の著者はこう言いました。

すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。

だれも神の恵みから落ちないように、また、苦い根が生え出て悩ませたり、これによって多くの人が汚されたりしないように、気をつけなさい。(へブル人への手紙12:14-15)

「聖さがなければ、だれも主を見ることはできません。」

あなたはそれを信じるでしょうか。わざわざ不敬虔な人生を歩みながら、クリスチャンだと自称してはいけません。

罪を悲しみ、聖い生き方を追い求め、少しずつ聖くなる人と、聖さを求めようともしない人とでは、雲泥の差があります。

神様の恵みは、前者のためのものです。後者には与えられません。

イエス様の十字架の働きを軽んじて罪に耽っているのに、どうして神様の恵みを主張できるでしょうか。神様が憎むことをわざと行いながら、どうして神様を愛していると言えるでしょうか。

モーセの時代にも、そんな者たちがいました。モーセは彼らのことを「毒草や苦よもぎを生じる根」と呼びました。

この手紙の著者が「苦い根」について語ったとき、モーセの言葉に触れていたのです。

そして、モーセは特にこう言いました。

万が一にも、今日その心が私たちの神、主を離れて、これらの異邦の民の神々のもとに行って仕えるような男、女、氏族、部族があなたがたのうちにあってはならない。あなたがたのうちに、毒草や苦よもぎを生じる根があってはならない。

こののろいの誓いのことばを聞いたとき、心の中で自分を祝福し、「私は自分の頑なな心のままに歩んでも大丈夫だ」と言うなら、潤った者も渇いた者も等しく滅びることになる。

主はその者を決して赦そうとはされない。むしろ、そのとき、主の怒りとねたみがその者に対して燃え上がり、この書に記されている、すべてののろいの誓いがその者の上にのしかかり、主はその者の名を天の下から消し去られる。

主は、このみおしえの書に記されている契約の、すべてののろいの誓いにしたがい、その者をイスラエルの全部族から選り分けて、わざわいを下される。(申命記29:18-21)

イスラエル人の中には、間違った考え方を抱いていた者たちがいました。神様はイスラエルの民と契約を結ばれました。彼らの神となり、彼らが神の民となるためです。

だから、一部の人々はこう考えました。「私はイスラエル人だから、もう問題ありません。好き勝手に生きても、神様は私を祝福してくださるでしょう。」

けれども、モーセは彼らについてこう言いました。「彼らは共同体に属してはいるが、無事には済まされない。かえって、神様の裁きを受ける。」

さらに、モーセはイスラエルの民にこう命じました。「そうした者たちは取り除かれなければならない。さもなければ、その姿勢は毒のように広がるからだ。」

同じように、ある人々は教会に通いながら、こう考えます。「私はこの教会のメンバーだから、週の六日間で意図的に罪を犯しても、神様は私を祝福してくださるはずです。」

しかし、この手紙の著者はそのような人々に警告します。「その考え方は誤っています。神様はあなたを裁かれるのです。」

そして、彼はこう言います。

また、だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。

あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。

涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。(16-17)

そのように、ある者たちは神様の御前に立ち、聖徒たちの遺産を求めます。

しかし、涙を流して願ったとしても、その遺産を受けることはできません。なぜなら、この世に生きていた間、彼らはイエス様とその十字架の働きを踏みにじり、自分勝手で不敬虔な生活を選んだからです。

だから、自分の心を探ってください。あなたは神様を愛し、神様が聖なる方であるように、自分も聖なる者となりたいと願っているでしょうか。

もしかすると、そのような願いがまったくないかもしれません。聖さをまったく求めないのに、神様があなたを受け入れてくださると考えているなら、自分自身を欺いています。裁きの日には、神様の恵みを受けることはできません。

あなたの心は、どのような思いに満たされているでしょうか。

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試練に直面するとき

試練が好きな人は誰もいないでしょう。でも、神様は私たちの人生にその試練を許されます。

なぜでしょうか。この手紙の著者はその理由を説明しています。

霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。(へブル人への手紙12:10)

私たちは壊れた人間であり、壊れた世界に住んでいます。けれども、神様の目的は、私たちを癒し、ご自身の計画どおりに完全な者へと造り変えることです。

神様は私たちの汚れを清めてくださいます。なぜなら、神様は私たちが神のかたちに倣って聖なる者とされることを望まれているからです。神様は、私たちがご自身の完全な反映となることを願っておられます。

そのために、神様は火によって私たちを精錬されます。その火の中で、私たちの性格が現れてきます。

性格は、良い時だけでなく、苦しい時にも表れます。もし私たちの性格が整えられていれば、試練の中でその良い性格が表れます。ヨブがその一例です。

しかし、性格に歪みがあれば、試練によってそれも露わになります。サウル王がその一例です。

私たちが自分の性格を見つめるとき、そこには選びが与えられます。

私たちは罪深く不敬虔な者として生き続けることもできます。

あるいは、神様に向かってこう叫ぶこともできます──「神様、私は惨めな者です。私を救ってください。私を変えてください。」

そのとき、私たちは神様の驚くべき恵みだけでなく、人を変えることのできる神様の力も知るのです。

さらに、私たちが神様の声に耳を傾け、信仰によって従っていく中で、神様は私たちの性格をイエス様のかたちに造り変えてくださいます。

それは常に楽しいプロセスでしょうか。通常はそうではありません。だからこそ、この手紙の著者はこう言います。

すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。(11)

では、私たちは神様の火の中にいるとき、どうすれば良いでしょうか。最初に、イエス様に向かいましょう。

イエス様が私たちの救いのプロセスを始め、それを完成させることを覚えていましょう。イエス様は私たちにこうは言われません──「私はあなたに自分を更生する道具を与えました。頑張ってね。」

むしろ、イエス様はこう言われます──「私はあなたに、その道具の使い方を教えてあげます。」

そして、一歩一歩の歩みにおいて、イエス様は私たちと共にいて助けてくださいます。私たちが完成されるまで、イエス様は働き続けてくださいます。

その上で、覚えていてください──イエス様ご自身も苦しみを経験されました。イエス様は十字架の苦しみに耐えられました。だからこそ、人生の辛さをご存知なのです。

そして、天の父はイエス様の信頼に報いて、今イエス様は御座にあって父なる神の右に座しておられます。

イエス様の模範に従って、天の父に信頼して試練を耐えると、私たちは天の父からの報いを得て、天国でイエス様の隣に座ります。

もう一つのことを覚えておきましょう。あなたの苦しみには意味があります。

その意味は何でしょうか。神様はあなたのことを嫌っておられるのでしょうか。あなたを苦しませたいと思っておられるのでしょうか。

違います。神様はあなたを愛しておられ、あなたの最善を望んでおられるゆえに、あなたを訓練されるのです。

もしかすると、あなたのお父さんがそのような愛をもってあなたを訓練してくれたことがあったかもしれません。けれども、そうでなかった方もいるでしょう。

お父さんが正しくない方法で、あるいは正しくない動機のまま、あなたを躾けたかもしれません。しかし、神様の動機と訓練の方法は、常に清く、いつも愛に満ちています。

ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。また、あなたがたは自分の足のために、まっすぐな道を作りなさい。

足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。(12-13)

要するに、私たちは正しい道を歩まなければなりません。神様が示してくださった道をたどりましょう。

あなたの足は不自由です。もし、自分勝手な道を進み続けるなら、あなたの状況はさらに悪化します。しかし、神様の道を歩むなら、癒しに出会います。

その道は簡単ではないかもしれません。苦しいかもしれません。でも最終的には、癒しに至るのです。

では、あなたはどうしますか。

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ヘブル人への手紙

私たちも

私はジョギングがあまり好きではありません。健康のために走ることはありますが、楽しいとは感じません。

しかし、クリスチャンとして、私たちは神の国のレースに招かれています。

ある意味で、私たちはすでに神の国に入っています。イエス様は「神の国はあなたがたのただ中にある」と言われました(ルカ17:21)。

そして私たちは、毎日御国の市民として歩むべきです。私たちの王とそのご計画のために仕えるべきなのです。

やがて、本格的な御国がこの世に到来します。クリスチャンとして、私たちはその日を慕い望んでいます。

信仰を持っていた偉大な男性や女性たちも、御国を慕い求めながら働きました。そして、この手紙の著者は、私たちが御国のために仕えるように勧めています。

この手紙の読み手たちは、自分の信仰ゆえに苦しんでいました。ある人々は迫害を受けました。ほかの人々は、自らの罪や疑いと格闘しました。さらにある人々は、世のものに心を奪われていました。

だから、この著者は彼らにこう言いました。

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。(へブル人への手紙12:1)

「私たちも。」

11章で、この著者は、信仰を持っていた「ヒーローたち」について語りました。

しかし彼らも、私たちと同じように、まとわりつく罪を捨てなければなりませんでした。彼らは疑いの重荷やこの世のものへの愛を捨てなければなりませんでした。彼らがそれを行ったからこそ、神様は彼らを称賛されたのです。

だから、私たちも彼らの模範に倣い、罪、疑い、そしてほかの重荷を捨て、このレースを走らなければなりません。

同時に、私たちは前方を見なければなりません。私たちの前に何があるでしょうか。

それはイエス様です。イエス様は私たちの信仰の創始者です。

別訳では「先駆け」とも訳されます。イエス様は天の父への道を備えてくださいました。十字架によって、私たちは赦され、神様との平和を得ることができるのです。

さらに、イエス様は私たちの信仰の完成者です。今の私たちは不完全であり、罪や疑いと戦っています。それでも、私たちが完全にされるその日まで、イエス様は私たちのうちで働き続けてくださいます。

だから、どんな試練や戦いに直面していても、イエス様から目を離してはなりません。

自分の状況に目を向けると、落胆するのは簡単です。この世の悪や自分の罪を見て、失望するのも簡単です。

しかし、それらから目を離しましょう。むしろ、イエス様から目を離してはいけません。

そして走りましょう。走ることを妨げるものがあるなら、それも捨てましょう。とくに、自分の罪を捨てましょう。

神様の恵みによって、イエス様は私たちを御国へと導いてくださいます。

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信仰の生活に関する誤解

ある人はこう考えます。「もし信仰を十分持っているなら、私の人生はスムーズに進む。健康や経済の問題などはまったくないはず。むしろ、とても楽な人生を送るだろう。」

どうやら、そのような人々はこの箇所を読んだことがないようです。もちろん、信仰のある人々が勝利を経験することもあります。しかし、ある人々はこうした経験をしました。

嘲られ、むちで打たれ、さらに鎖につながれて牢に入れられる経験をし、また、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、困窮し、圧迫され、虐待されました。

この世は彼らにふさわしくありませんでした。

彼らは荒野、山、洞穴、地の穴をさまよいました。(へブル人への手紙11:36-39)

そして、この著者によれば、彼らの中で、この世において神様が約束されたものを手に入れた人は誰もいませんでした(39)。

では、この著者は彼らを責めて、「この人たちの信仰は足りなかった」と言ったでしょうか。

「どうして彼らは貧しかったのでしょうか。どうして彼らは荒野で暮らしていたのでしょうか。神様の計画は彼らが豊かな人生を送ることだったのに。彼らの信仰が足りなかったのでしょうか。」と言ったでしょうか。

「どうして彼らは牢に入れられ、信仰のゆえに殺されたのでしょうか。もし、彼らがきちんとした信仰を持っていたなら、神様は彼らを救い出してくださったはずでしょうか。」と言ったでしょうか。

「どうして彼らは神様の約束を受け取れなかったのでしょうか。もし、十分な信仰を持っていたなら、神様は報いを与えなければならなかったのでしょうか。」と言ったでしょうか。

違います。この手紙の著者は、そのようなことはまったく言っていません。

むしろ、彼はこう言いました。

これらの人たちはみな、その信仰によって称賛されました。(39)

彼は、「彼らの信仰が足りなかったから、この世の良いものに値しなかった」とは言いませんでした。むしろ、こう言いました。

この世は彼らにふさわしくありませんでした。(38)

簡単に言えば、神様は「信仰を十分持っていれば、人生はスムーズに進む」とは決して約束されません。むしろ、12章で著者はその逆を語ります。

私たちは誰でも、苦しい時を経験します。信仰を持っていても、苦しみに遭うことはあるのです。

しかし、信仰生活では、私たちは苦しみに目を向けるのではなく、将来に約束された報いに目を留め、希望を持って待ち望みます。だから、この手紙の著者はこう言います。

神は私たちのために、もっとすぐれたものを用意しておられたので、私たちを抜きにして、彼らが完全な者とされることはなかったのです。(40)

イエス様のゆえに、その聖徒たちは私たちと共に罪から解放され、完全な者とされます。そして、すべてが新しくされたとき、私たちの苦しみや悲しみは取り去られます。

信仰を持つ者はその時を待ち望みます。この世の喜びに心を向けるのではありません。(もちろん、この世においても、神様は私たちに喜びを与えてくださいますが。)

むしろ、永遠の喜びを待ち望むのです。それは、私たちが神様と共にいる時だからです。

あなたはどうでしょうか。信仰を十分に持っていれば、楽な人生が約束されていると思いますか。

神様はそのような約束をされていません。神様が約束されたのは、永遠のいのちに心を向けるなら、やがてその報いを受けるということです。

あなたは何を待ち望んでいるでしょうか。

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信仰と恵み

私にはちょっと告白したいことがあります。私は、どうしてこの手紙の著者が、ギデオンやサムソンのような人々を信仰の模範として指したかよく分かりません。

さらに、私は、どうしてこの著者が彼らの失敗について全然話していなかったか分かりません。

でも、もしかしたらその著者には大切な理由があったかもしれません。それは、このリストを通して、私たちが神様の恵みを見ることが出来ることです。

私たちがよく失敗し、躓くのに、イエス様のゆえに、神様は私たちの欠点を見逃すことを選びます。むしろ、神様の目には、私たちはイエス様の義に着せられます。

それを考えると、私たちは慰められるでしょう。

多くの場合、私たちは自分の失敗を見ると、自分を責めるでしょう。私たちは神様に信頼しない時、自分の人生をめちゃくちゃにするときを振り返ると、自分に怒ります。

もちろん、その時、私たちは悔い改めなくてはなりません。でも、その失敗によって、失望してはいけません。神様の目には、自分が価値がないと思ってはいけません。

むしろ、神様があなたを見ると、あなたのために死んだ御子を見ることを覚えていましょう。

あなたが何回も失敗しても、神様はその記録を保ちません。むしろ、あなたの罪の記録は消されました。

裁きの日、神様はあなたを責めません。むしろ、神様はあなたを喜んで歓迎します。

どうしてでしょうか。あなたが完全な人だからというわけではありません。むしろ、あなたは完全な方に信頼を寄せました。その方は私たちの罪のために死んで、よみがえられました。

だから、あなたが何度も失敗するかもしれないのに、あなたもいつかその信仰のヒーローのリストに入るかもしれません。

神様はバラクやエフタやギデオンやサムソンを考えたように、あなたを考えるから。つまり、神様はあなたの失敗ではなく、あなたの成功を指すということです。

だからパウロの言葉を覚えていましょう。

ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。(ピリピ3:13-14)

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神様に信頼すると

11章では、この手紙の著者は、信仰を持っていたヒーローたちについて語りますが、そのヒーローたちがいつもヒーローらしかったわけではないことに気づきましたか。

たとえば、サムエルは素晴らしい士師であり預言者でしたが、子育てにおいては大きな失敗をしました。

ダビデはイスラエルの最も偉大な王でしたが、二度大きな罪を犯しました。彼は姦淫と殺人を犯し、さらに自分の誇りからイスラエルの兵隊を数えました。

それでも、彼らは本質的に善い人たちでした。

では、他のヒーローたちはどうでしょうか。

多くのクリスチャンはギデオンについて考えると、彼がミデヤン人との戦いに勝利した場面を思い浮かべます。ですが、その後のギデオンの行動はあまり称賛できるものではありませんでした。

ギデオンと兵士たちは疲れて空腹だったため、二つの町に食事を求めました。けれども、町の人々はそれに応じなかったので、ギデオンはミデヤン人を倒した後、その町々に報復しました。

ギデオンは「私はイスラエルの王にはならない。神様があなたがたの王だ」と言いましたが、彼自身は王のように振る舞い始めました。彼は多くの妻を迎え、息子に「アビメレク(私の父は王)」という名をつけました。

さらに、彼は金のエポデを作りました。当時、祭司は神様に伺う際にエポデを用いていました。つまり、ギデオンは祭司ではなかったのに、祭司のように振る舞ったのです。

そのうえ、イスラエル人たちはそのエポデを偶像として礼拝し、それはギデオンと彼の一族にとって落とし穴となりました。

バラクはどうでしょうか。預言者デボラが同行すると約束するまで、彼はイスラエルの敵と戦うことを拒みました。

サムソンはどうでしょうか。ある程度はイスラエル人をペリシテ人から救いましたが、民数記6章にあるナジル人の誓願を破ってしまいました。

彼はさらに、さまざまな性的な罪を犯し、復讐心を抱いていました。イスラエル人たちを助けたかもしれませんが、彼の動機は決して良いものではありませんでした。彼はイスラエル人のためではなく、自分のために生きていました。

エフタはどうでしょうか。彼は愚かな誓いを立てました。

最善の場合、彼は自分の娘を神様の奉仕のために捧げ、その結果、彼女は結婚せず、子どもも産みませんでした。

最悪の場合、彼は神様の命令に背いて、自分の娘をいけにえとして捧げた可能性があります。いずれにしても、エフタはその誓いを深く後悔しました。

それなのに、この手紙の著者は、どうしてそんな人々を「信仰のヒーロー」として称賛したのでしょうか。

もしかすると、彼らが真のヒーローではなかったからこそ、著者は彼らについて語ったのかもしれません。

彼らは私たちと同じような人々でした。つまり、彼らは罪人でした。時には、ひどいことをしてしまったのです。ですが、神様に信頼すると、彼らは素晴らしいことを行いました。

彼らは私たちと同じような人々でした。つまり、彼らは罪人でした。時には、ひどいことをしてしまったのです。ですが、神様に信頼すると、彼らは素晴らしいことを行いました。

では、彼らの物語から私たちは何を学べるでしょうか。私たちも、毎日神様に信頼すれば、素晴らしいことを行うことができます。けれども、信頼しなければ、私たちもまた、ひどいことをしてしまう可能性があります。

あなたの生き方によって、人々はあなたの人生を判断します。毎日神様に信頼しているなら、人々はあなたをダニエルやその仲間たちと比べるでしょう。彼は獅子の口をふさぎ、火の勢いを消しました(33-34)。

しかし、ある日は神様に信頼し、ある日は信頼しないなら、あなたはサムソンやギデオンのように見られてしまうかもしれません。その人は神様に信頼しているときには素晴らしいことをしたが、神様に信頼しないときにはひどいことをしてしまった。

あなたは何を選びますか。

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誰を恐れるべきかを知る信仰

「私たちが神様を恐れると、私たちが恐れるべき人間は誰もいない」という格言があります。

イエス様ご自身も、こう言われました。

からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。

むしろ、たましいもからだもゲヘナ(つまり、地獄)で滅ぼすことができる方を恐れなさい。(マタイ10:28)

今日の箇所では、その言葉に従って生きた人々の姿が描かれています。彼らは、誰を恐れるべきかを知っていました。それは、王や支配者ではなく、むしろ神様でした。

さらに彼らが理解していたのは、神様に信頼しなければ、神様の怒りから守ってくれる者は誰もいないということです。

モーセの両親は、神様を恐れていたので、ファラオがユダヤ人の赤ちゃん全員の殺害を命じたとき、モーセを隠しました。それが限界になったとき、彼らはモーセを神様に委ねました。神様は彼らの祈りに応えて、モーセを守ってくださいました。

モーセは、エジプトの王子として、楽な人生を送ることができました。それでも、神様を恐れていたので、すべてを捨て、キリストのゆえに受ける辱めを受け入れ、他のイスラエル人と共に苦しみました。

モーセが確信していたのは、神様との良い関係を持っていなければ、この世の快楽は空しいものであるということです。さらに彼は、神様に従えば、永遠の報いを受けると信じていました。

だからモーセは、ファラオの憤りを恐れず、神様の民と共にエジプトを離れました。

神様に対する恐れによって、モーセは過ぎ越しの食事をし、羊の血を家々の二本の門柱と、かもいにつけました。その結果、イスラエル人の長男は、天使に殺されることはありませんでした。

その反面、エジプト人たちは他の神々を恐れていたため、自分たちの長男は命を落としました。ファラオ自身も神と見なされていましたが、彼の長男も命を落としました。

イスラエル人たちは神様を恐れていたので、その後、紅海を無事に渡ることができました。一方、エジプト人たちはファラオを恐れていたため、紅海を渡ろうとしたとき、水に吞み込まれてしまいました。

イスラエル人たちは神様を恐れていたので、神様の不思議な作戦に従いました。彼らが7日間エリコの周囲を回ると、その城壁は崩れ落ちました。

ほとんどのエリコの住民は、その城壁に信頼していましたが、ラハブはそうしませんでした。むしろ、彼女は神様を恐れ、偵察に来たイスラエル人たちをかくまいました。そのため、エリコが倒れたとき、彼女とその家族は救われました。

私のポイントは何でしょうか。

あなたは誰を恐れているでしょうか。誰に信頼を寄せているでしょうか。

もし神様ではなく、政府やお金や才能に信頼を置くなら、裁きの日に私たちは滅びてしまいます。そういったものは、私たちを救うことができないからです。

また、私たちが人を恐れると、自分のいのちは守れるかもしれませんが、私たちの魂は永遠に滅びます。

しかし、神様を恐れて神様に信頼すると、神様から誉れと報いを受けることができます。

あなたは誰に信頼を寄せているでしょうか。誰を恐れていますか。

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神様の良さを信じる信仰

「神様は良い方です。」

「いつもです。」

「いつもです。」

「神様は良い方です。」

ある教会では、それが合言葉のように繰り返されています。

でも、私たちはその言葉を本当に信じているでしょうか。もちろん、物事が順調なときには、それを信じて熱心に語るのは簡単です。

でも、苦しいときはどうでしょうか。神様が何をなさっているのか、私たちに理解できないときはどうでしょうか。また、将来に不安を感じるときはどうでしょうか。

そのような時、私たちはなお、神様が良い方であることを信じることができるでしょうか。

私たちが自分の信仰を見つめ直すと、これは最も根本的な問いの一つと言えるかもしれません。

だからこそ、この手紙の著者は、こう語っています。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(へブル人への手紙11:6)

「神は、ご自分を求める者には報いてくださる方である。」

言い換えるならば、神様は、ご自身の良さを信じる者に報いてくださいます。その人は、神様がご自身の約束を守ると信じます。その人は、自分の苦労が無駄ではないと信じます。その人は、自分の苦しみが意味あるものだと信じます。

神様は、そのような信仰者に報いてくださるのです。

どんなに私たちの境遇が厳しくても、神様を求めるほどに、その真理を信じ続けることができるでしょうか。そう信じない限り、私たちは神様を喜ばせることができません。

アブラハムは、そう信じました。

神様は、アブラハムの子孫がイサクの系統によって多くなると約束されました。しかし、ある日、神様はアブラハムに命じられました。「あなたの息子イサクを、生贄として捧げなさい。」

それは、イサクを神様の奉仕のために捧げるという意味ではありませんでした。アブラハムは、文字通り、イサクを殺し、生贄として捧げなくてはなりませんでした。

アブラハムは、本当に混乱していたことでしょう。その生贄を捧げる山に到着するまでには、三日間かかりました。その間、アブラハムは何を考えていたのでしょうか。

「どうして神様は、そんな命令をされたのだろうか。イサクの系統を通して、神様は私に多くの子孫を与えると約束された。でも、もしイサクが死んでしまったら、その約束はどのように成就するのだろうか。」

それでも、最終的にアブラハムはこう考えるに至りました。

「神様は良い方だ。神様は、ご自身の約束を守られる。だからこそ、もし私にイサクを殺すよう命じるなら、神様は必ずイサクを復活させてくださるだろう。神様は、いのちと死を支配される神だ。そして、やはり神様は良い方だ。」

そして、アブラハムがイサクを殺すために刀を振りかざしたとき、天使は彼に告げました。「あなたの手を、その子に下してはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れていることを、よく理解した。」(創世記22:10–12)

神様は、確かに良い方でした。

イサクは、そのような経験をしたので、将来がまだ不明だったにもかかわらず、息子たちヤコブとエサウを祝福することができました。

彼は、神様が約束された地をまだ受け取ってはいませんでした。所有していたのは、父アブラハムが買った小さな土地だけでした。それでも、イサクは神様が良い方であることを信じ、息子たちを祝福しました。

ヤコブは、さまざまな試練に直面しました。ある試練はヤコブ自身のせいでしたが、ある試練は彼の責任ではありませんでした。それでもヤコブは、自分に対する神様のいつくしみと忠実さを見たのです。

だから、死ぬ直前に、その確信を持って、息子たちを祝福しました。

あなたはどうでしょうか。どんなことを経験しているのでしょうか。心から「神様は良い方だ」と言えるでしょうか。神様が忠実な方だと信じられるでしょうか。神様があなたへの約束を守られると信じているでしょうか。

それらを信じなければ、あなたは神様を喜ばせることができません。

あなたは、どんな信仰を持っているのでしょうか。

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見えないものを見える信仰(2)

「それは無理です。私はできません。」

自分の状況に目を向けると、私たちはどれほどこの言葉を口にしているでしょうか。また、どれほど心の中でこの言葉が浮かんでいるでしょうか。

アブラハムとサラも、そう感じたことがあったに違いありません。

アブラハムが75歳、サラが65歳のとき、神様は彼らに「息子を与える」と約束されました。けれども、24年が過ぎても赤ちゃんは生まれませんでした。

その間、二人は自分たちなりの計画を立てました。相続人を得るために、サラは自分の奴隷ハガルをアブラハムに与え、ハガルはアブラハムの子を産みました。

しかし、神様は言われました。「それが私の意図ではありません。サラを通して、私はあなたたちに息子を与えるのです。」

その言葉を聞いて、アブラハムは笑いました。彼は99歳、サラは89歳。それでも神様は、もう一度約束されたのです。「サラは赤ちゃんを産みます。」

アブラハムは、その言葉を聞いて、到底無理だと思ったことでしょう。

それでも最終的に、アブラハムとサラは自分たちの弱さを認めながらも、現実にとらわれることなく、神様にはすべてのことができると信じる道を選びました。だからこそ、彼らは子どもをもうけようとし続けたのです。

この手紙の著者は、彼らについてこう記しています。

アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。

こういうわけで、一人の、しかも死んだも同然の人から、天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように数多くの子孫が生まれたのです。(へブル人への手紙11:11-12)

あなたはどうでしょうか。自分の問題を乗り越えることは、到底無理だと感じていませんか。

私たちの弱さに目を向けると、希望を失うのは、あまりにも簡単です。でも、神様は弱さを持っていません。

あなたは、自分の弱さを脇に置いて、弱さのない神を信じる信仰を持っていますか。

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見えないものを見える信仰

この地球は、私たちの最終的な家ではありません。

多くのクリスチャンはそのことを知っています。 けれども、その知識に基づいて日々を生きているクリスチャンは、どれほどいるでしょうか。

アブラハムは、まさにそのように生きました。 だから、この手紙の著者はアブラハムについてこう記しています。

信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。

信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。

堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都の設計者、また建設者は神です。(へブル人への手紙11:8-10)

信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に向かって召しを受けたとき、その召しに従い、行き先を知らずに出て行きました。

信仰によって、彼は約束された地に他国人として住み、同じ約束を受け継ぐイサクとヤコブとともに、天幕生活を送りました。

彼が待ち望んでいたのは、堅固な土台の上に建てられた都でした。 その都の設計者、また建設者は神です。(へブル人への手紙 11:8-10)

アブラハムにとって、約束の地はカナンでした。 しかし、私たちクリスチャンにとっての約束の地は、新しい天と地です。

アブラハムはカナンを所有することはありませんでしたが、その土地に暮らしました。

何百年後にその地はイスラエルとなりましたが、アブラハムは生涯、他国人としてその土地に住みました。 偶像礼拝と罪に満ちたその地で、彼は神様に喜ばれる人生を送りました。

この世はいつか新しくされ、私たちは神の子として新しい天と地を相続することになります。 けれども、その日が来るまでは、この世には偶像と罪が満ちています。

だからこそ、私たちは現代社会の真の市民ではなく、他国人のようにこの世に住む者なのです。 そして、来るべき新しい天と地を、心から待ち望んでいます。

その日まで、私たちはどのように生きるべきでしょうか。 たとえ生前にその結果を見ることがなくても、私たちは神様の命令に従って生きるのです。

神様は、アブラハムの子孫が増え、カナンを相続し、偉大な国となることを約束されました。 だから、アブラハムは父の家を離れ、神様に従ってカナンへ向かいました。

けれども、アブラハムが亡くなったとき、彼とサラには一人の息子しかいませんでした。 さらに、サラを葬るために小さな土地を購入しましたが、彼が生涯所有したのはその土地だけでした。

イサクには二人の息子がいましたが、彼もまたその小さな土地しか所有していませんでした。

ヤコブには十二人の息子がいました。 けれども、飢饉のために彼はエジプトへ移住しました。 神様の恵みによって、彼らの命は守られ、ヤコブはエジプトで亡くなりました。 そして彼も、カナンのその小さな土地に葬られました。

この三人は神様に従いましたが、神様の約束の完全な成就を見ることはありませんでした。

この手紙の著者は、彼らについてこう記しています。

これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。

そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。

もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。

ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。(13-16)

神様は、いつもご自身の約束を守られます。 神様はアブラハムを、大いなる強い国民とされました。 イスラエルが誕生してから、さまざまな国々が興亡を繰り返しましたが、イスラエルは今も存在しています。

そして、ある日、クリスチャンであるユダヤ人と異邦人が、一つの大いなる国民として立ち、アブラハムを「私たちの父」として認める日が来ます。

しかし、その日が来るまで、神様があなたに命じられたことに従いましょう。

アブラハムのように、あなたは生前に神様の約束の完全な成就を見ないかもしれません。 けれども、最終的にはその成就を目にします。 また、地上においても、あなたの子どもや孫たちは、あなたの忠実さの実を刈り取るでしょう。

さらに、この地球があなたの真の住まいではないことを覚えていましょう。

もし、過去の人生ばかりに心を向けるなら、その生き方に戻ってしまう危険があります。 そうすると、神様があなたのために用意されたものを、失ってしまうかもしれません。 だからこそ、永遠の住まいを待ち望みつつ、神様に忠実でありましょう。

神様は、あなたのために新しい都を備えておられます。 そして、ある日、イエス様はあなたのためにこの世に再び来られ、すべてのものを新しくされます。

だから、イエス様のことばを覚えていましょう。

わたしの父の家には住むところがたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。

わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためにです。(ヨハネ14:2-3)

アーメン。主イエスよ、どうか来てください。

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裁きの日に備える信仰

裁きの日。

このトピックが好きな人は、ほとんどいないでしょう。特に、ノンクリスチャンにとっては、裁きの日について語ることを避けたくなるものです。

もちろん、多くの人々は、犯罪者やヒトラーのような人物が裁かれるという概念には賛同するでしょう。

しかし、悪人について考えるとき、自分自身をそこに含める人は多くありません。むしろ、自らの罪を軽く見てしまい、その罪が神様の目にはどれほど深刻かを理解していないのです。

それでも、裁きの日は必ず訪れます。

そしてクリスチャンとして、私たちは信仰を持ち、この真理を認めて、備えを始めなければなりません。

ノアはそのようにしました。この手紙の著者は、こう記しています。

信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神から警告を受けたときに、恐れかしこんで家族の救いのために箱舟を造り、その信仰によって世を罪ありとし、信仰による義を受け継ぐ者となりました。(へブル人への手紙11:7)

神様はノアに、「裁きの日が来る」と警告されました。 それはつまり、大洪水が起こり、すべての人々が滅びるということです。だからこそ、ノアは備えなければなりませんでした。

ノアはそのように行動しました。 彼は砂漠で箱舟を造り、周囲の人々に迫り来る裁きについて警告したため、嘲笑されました。 それでも、ノアは備え続けました。

その結果、大洪水が起こったとき、彼とその家族は救われました。 さらに、彼の行動によって周囲の人々の不信がさらけ出され、裁きのとき、彼らは弁解の余地を持ちませんでした。

私たちは、ノアのような信仰を持っているでしょうか。 裁きの日が本当に来ると信じているでしょうか。

私たちは可能なかぎり、友人や家族に福音を伝えているでしょうか。 たとえ嘲笑され、迫害されるとしても、私たちは警告し続けているでしょうか。

裁きの日、神様は私たちについてこう言われるでしょうか。 「信仰のない世界にあって、あなたの信仰は輝いていた。」

裁きの日、神様はあなたについて何と言われるでしょうか。

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ヘブル人への手紙

なぜ信仰が大切なのか

どうして信仰はそれほどまでに大切なのでしょうか。それは、他のどんなものよりも、神様が私たちに求めておられるのが信仰だからです。

この手紙の著者によれば、神様は昔の人々を、彼らの信仰のゆえに賞賛されました(へブル人への手紙11:2)。

そして今も、神様からの賞賛は、ただ私たちの信仰によって与えられるのです。なぜなら、信仰によってこそ、神様への愛、礼拝、従順、そして忠実さが生み出されるからです。

少し考えてみてください。もし私たちが、神様の存在、神様の愛、神様が私たちの最善を望んでおられることを信じなければ、神様を愛することができるでしょうか。神様を礼拝するでしょうか。神様に忠実に従うでしょうか。

もちろん、恐れによって礼拝し、従うことはあるかもしれません。けれども、神様が望まれるのは、恐れによってではなく、愛によってなされる礼拝と忠実な従順なのです。

そのような理由から、この著者はこう語るのです。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。

神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(へブル人への手紙11:6)

カインの話を思い返してみてください。

なぜ神様は、彼のいけにえを受け入れられなかったのでしょうか。細かい事情はわかりませんが、基本的な理由は、カインが信仰によってそのいけにえを捧げなかったからだと考えられます(4節)。

もしかすると、彼は「なぜ私のものを神様に捧げなければならないのか」と不満を抱きながら、そのいけにえを差し出したのかもしれません。

あるいは、神様が羊のいけにえを求めておられたにもかかわらず、カインはこう思ったのかもしれません。「なぜ、私たちの収穫が十分ではないのだろう。私は、神様に捧げたいと思うものを捧げればいい。」

いずれにせよ、根本的な問題は、カインが神様に対する信仰を欠いていたことです。そのため、神様は彼のいけにえを退けられたのです。

その反面、アベルは信仰によっていけにえを捧げました。その信仰のゆえに、アベルは神様を愛し、忠実に従いました。だから、神様はアベルのいけにえをご覧になると、喜んで受け入れられました。

エノクのことも思い返してみてください。彼は決して死を経験しませんでした。むしろ、神様がエノクを直接天に引き上げられたのです。

なぜでしょうか。それは、エノクが神様と共に歩んだからです。旧約聖書がギリシャ語に訳されたとき、翻訳者たちは「エノクは神様と歩んだ」という表現を「エノクは神様を喜ばせた」と訳しました。

言い換えれば、あなたが神様を喜ばせたいと願うなら、神様と共に歩まなければなりません。

しかし、神様が存在しておられ、あなたを愛し、あなたの最善を望んでおられることを信じなければ、あなたは神様と歩もうとはしないでしょう。神様との親しい関係を築くこともできないでしょう。

あなたはどうでしょうか。神様を本当に喜ばせたいと願っていますか。神様からの称賛を得たいと望んでいますか。

私たちはこう問いかける必要があります。「神様の存在を信じているだろうか。神様が私を愛しておられることを信じているだろうか。神様が私の最善を望んでおられることを信じているだろうか。」

もし「はい」と答えることができなければ、神様を喜ばせることはできません。

では、あなたの答えは何でしょうか。

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信仰の土台

さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。(へブル人への手紙11:1-2)

この箇所を見ると、多くの人々はこの言葉こそが信仰の定義だと考えます。

確かにそうかもしれません。けれども、私たちは「何を信じるか」について、どれだけ深く考えているでしょうか。もし私たちが信頼するものが実際には頼りにならないものであれば、私たちはどうして望んでいることを確信できるのでしょうか。

もし約束する方に、その約束を守る力がないとしたら、目に見えないものをどうして信頼できるでしょうか。

だからこそ、私たちの信仰は初めから終わりまで、神様に基づいているのです。

神様はどのような方でしょうか。神様は本当に存在しているのでしょうか。

仮に存在しているとしても、私たちを本当に愛しておられるのでしょうか。私たちは、そんな神様に信頼してもいいのでしょうか。神様はご自身の約束を本当に守ってくださるのでしょうか。神様には、その約束を守る力があるのでしょうか。

今日の箇所では、手紙の著者がまさにこのことに触れています。彼はこう語ります。

神に近づく者は、神がおられること。。。を、信じなければならないのです。(6)

この根本的な真理こそが、私たちの信仰の土台です。つまり、神様が実在されるということです。

けれども、それを信じていたとしても、神様は私たちのことを本当に愛しておられるのでしょうか。もしかすると、衝動的な思いつきで私たちを造り、その後、私たちのことを忘れてしまわれたのでしょうか。

この問いに対しても、手紙の著者は明確に答えています。

神に近づく者は。。。神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(6)

言い換えれば、神様は私たち一人ひとりに心を留めておられるということです。神様は私たちの行いに目を留めてくださいます。そして、私たちが神様を求めるなら、神様は私たちに報いてくださるのです。

しかし、神様が報いてくださりたいと思われても、果たしてその力があるのでしょうか。

そこで、私たちは3節にその答えを見出します。

信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。(3)

もし神様が、御自身の命令によって、すべてのものを目に見えないものから造られたのなら、神様には何でもおできになるはずです。

だから、この箇所において、私たちは信仰の土台を見ることになります。神様は確かに存在しておられます。神様は私たちを愛しておられます。神様は、ご自身が約束されたことを実現する力を持っておられます。

それゆえ、残る問いはただ一つです。私たちは心からその真理を信じるでしょうか。神様に信頼を置くでしょうか。

腕の良い職人が、もっとも頑丈な木を使って椅子を作ったとしても、その椅子に信頼を置かなければ、人は決してそこに座ろうとしません。

それと同じように、神様は確かに存在し、私たちを愛しておられ、約束を果たす力を持っておられます。私たちがそれを信じようとしまいと、それは変わらない現実なのです。

しかし、それを信じなければ、私たちは神様に信頼を置こうとはしないでしょう。

あなたはどうでしょうか。あなたはその真理を信じるでしょうか。あなたがこの問いにどう応えるかによって、あなたの神様との関係、そしてあなたの人生が形づくられていくのです。

次回の記事で、このテーマをさらに深めていきます。

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もうしばらく。。。

神様は私たちに楽な人生を約束されたことはありません。むしろ、イエス様は、私たちが試練に直面することを語られました。また、イエス様によれば、私たちが主に従うなら、ある人々に憎まれることもあるのです。

今、あなたはまだそれを経験していないかもしれません。けれども、この手紙の最初の読み手たちは、まさにそのような困難に直面していました。

彼らは人々の前で迫害を受け、辱められました。ある者は牢に入れられ、持ち物も奪われました。

彼らは最初、その試練に耐え抜いたのです。

でも、彼らは揺れ始め、倒れそうになったため、この手紙の著者は彼らを励ましました。

「あきらめてはいけません。今まで耐えた試練を無駄にしてはいけません。頑張りなさい。頑張れば、あなたは必ず報いを得ますから。」(へブル人への手紙10:32-35)

そして、彼は彼らにこう語りかけます。

あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。遅れることはない。」(36-37)

「もうしばらく。。。」

その言葉は私の心に深く響きます。

もうしばらく待てば、あなたの試練は消え去ります。

もうしばらく待てば、イエス様は再びこの世に来られます。

そして、あなたの苦しみは霞のように消えてゆきます。イエス様の御顔を仰ぐとき、あなたの苦労は遠い記憶のようになるでしょう。

その日まで、私たちはどうすればよいのでしょうか。

わたしの義人は信仰によって生きる。(38)

簡単に言えば、私たちは神様を信じ続けなければなりません。神様が約束を守られることを、揺るがず信じ続けなければなりません。すべてが崩れ落ちるように思える時でも、その信仰こそが、私たちに生き続ける希望を与えるのです。

しかし、もし私たちが恐れて退き、疑いながら歩むなら、神様から称賛されることはありません。そうした歩みでは、神様を喜ばせることができないのです。(38)

それでも、この手紙の著者は、読み手たちに対して自らの確信をはっきりと語ります。

しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(39)

あなたはどんな苦しみを体験しているでしょうか。どんな疑いと戦っているでしょうか。

その苦しみや疑いから目を背けましょう。それらに囚われてしまうと、私たちは恐れて退いてしまいます。ところが、実のところ、それらは一時的なものにすぎません。

だからこそ、私たちはイエス様に目を向けるのです。イエス様の忠実さと愛を心に刻み続けましょう。

そうすれば、

神様の栄光と恵みが照り輝くと、
この世の試練や困難は、不思議と微かに映ります。

ーーヘレン・レンメル

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キリストを拒むなら

「あなたはキリストに関してどうするでしょうか。」

これは、誰もが最終的に向き合わなければならない問いです。

イエス様に信頼することを選ぶ人は、この世において真のいのちを見出し、永遠のいのちを受け取ります。

しかし、イエス様のことばを聞いて拒む人にとっては、将来に希望が全くありません。

それこそが、この手紙の著者が語っている厳粛な警告です。彼はこう言います。

もし私たちが、真理の知識を受けた後、進んで罪にとどまり続けるなら、もはや罪のきよめのためにはいけにえは残されておらず、ただ、さばきと、逆らう者たちを焼き尽くす激しい火を、恐れながら待つしかありません。

モーセの律法を拒否する者は、二人または三人の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死ぬことになります。

まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものと見なし、恵みの御霊を侮る者は、いかに重い処罰に値するかが分かるでしょう。(へブル人への手紙10:26-29)

著者の要点は何でしょうか。

もし、私たちがイエス様の十字架のいけにえをあえて拒むなら、もはや救いの望みは残されていません。なぜなら、ほかに救いの道はないからです。神様は、ほかの生贄や捧げ物を受け入れず、私たちの献金や良い行いも受け入れられません。

この手紙の著者によれば、天使を通して与えられたモーセの律法を拒んだ者は、二人または三人の証人の証言によって死刑にされました。

それならなおさら、イエス様がご自身の血によって私たちの救いを買い取り、それを差し出してくださったにもかかわらず、私たちがその救いを拒むなら、どれほど重い罰に値するでしょうか。

そのような者は、尊い血をくだらないもののように扱い、イエス様を踏みつけ、聖霊様を侮辱するのです。

その結果は?

私たちは、「復讐はわたしのもの、わたしが報復する。」

また、「主は御民をさばかれる」と言われる方を知っています。

生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。(30-31)

言い換えれば、私たちは裁きを受けます。イエス様が私たちの罪の代価を支払ってくださることを拒むなら、その代価を自分で支払わなければならず、私たちは永遠に地獄にとどまることになります。

あなたはどうするでしょうか。イエス様を受け入れますか。イエスの血によって支払われた恵みの賜物を受け取りますか。

それとも、その賜物に唾を吐き、反抗的な道を歩み続けますか。

あなたは、神様の怒りを受けることも、神様の恵みを受けることもできます。あなたはどちらを選びますか。

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開かれた

これは、私が最も愛する聖句の一つです。おそらく高校生の頃に暗記したのでしょう。

旧約聖書の時代、贖罪の日になると、イスラエルの民は幕屋の外に立ち、大祭司は聖所を通って、至聖所へと進みました。そこで彼は、いけにえの血を契約の箱の蓋に振りまきました。

この儀式によって、大祭司はイスラエルの罪のために宥めを行い、神様の怒りはなだめられました(レビ記16:15-17)。

しかし、天にある真の聖所において、イエス様は他の大祭司にはできないことを成し遂げられました。イエス様は、神様と私たちの間にあった垂れ幕を取り除かれたのです。

十字架で死なれたとき、聖所と至聖所の間にあった垂れ幕は、上から下まで真っ二つに裂かれました(マタイ27:51-52)。

この出来事によって、神様はすべての人に向かってこう告げられたのです。「わたしのもとへ来る道は、開かれた。」

だから、この手紙の著者は、こう語っています。

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。

イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。(へブル人への手紙10:19-22)

イエス様は至聖所に入り、ご自身の血を捧げられた後、垂れ幕を取り除き、こう語られました――「わたしの父のもとへの道は開かれた。さあ、わたしと共に入ってきなさい。」

だから、この手紙の著者は私たちに語ります。「幕屋の外に立ち、神様から離れたままでいてはなりません。むしろ、神様に近づきなさい。十字架の御業によって、イエス様はその道を開いてくださったのです。

イスラエルの罪を清めるために契約の箱の蓋が血で覆われたように、私たちの心もイエス様の血によって振りかけられ、清められました。

だから、私たちは恐れることなく、神様の御前に立つことができるのです。イエス様の御業によって、私たちは聖なる者とされたからです。」

この手紙の著者はさらに語ります。

約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。(23)

試練に直面する時、キリストから離れ、信仰を捨てることは、ある意味で簡単に見えるかもしれません。それは、神様の愛や真実さ、約束を疑い始めてしまうからです。

しかし、十字架において、イエス様は私たちに対する愛と忠実さを確かに示してくださいました。だから、苦しい時にはイエス様にしがみつき、イエス様の誠実さを心に刻み続けてください。

そして、他のクリスチャンの信仰が揺らぐ時には、この手紙の著者の言葉を思い起こしてください。

また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。

その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。(24-25)

時に、クリスチャンはこう言います。「どうして教会に行かなければならないのだろうか。一人で信仰生活を送ってもいいのではないか。」

しかし、それは自己中心的な考え方です。あなた自身が他のクリスチャンを必要としないとしても、彼らはあなたを必要としています。彼らはあなたの励ましを必要としており、あなたもまた彼らの励ましを必要としているのです。

私たちは自己満足に陥ることなく、愛と善行を行うために、互いに励まし合うべきです。

だから、兄弟姉妹たちがイエス様の愛をもってこの世に触れていくことができるよう、どのように励ますことができるかを考えましょう。

イエス様が再び来られる日が近づいているのですから、なおさらそうすべきです。

神様への道はすでに開かれました。私たちはその道を活かして、神様に近づいているでしょうか。周りの人々が神様に近づくよう促しているでしょうか。

天の父はあなたのために待っておられます。あなたはどう応えるでしょうか。

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なぜ、これほど多くの血が必要だったのか

最近の記事で取り上げた重要な概念は、「写し」と「影」です。

つまり、子牛や雄やぎの生贄は、十字架におけるイエス様の究極のいけにえを予表していたのです。

けれども、そもそもなぜ生贄が必要だったのでしょうか。

神様は、いけにえを求めずとも、私たちを赦すことができなかったのでしょうか。他に方法はなかったのでしょうか。

この問いに向き合うために、イエス様のゲッセマネでの祈りに目を向けてみましょう。イエス様は、こう祈られました。

わが父よ、できることなら、この杯(つまり、十字架)をわたしから過ぎ去らせてください。(マタイ26:39)

他に方法があれば、神様はその道を選ばれたはずです。けれども、私たちの罪を赦すために、神様は生贄を求められました。

この手紙の著者は、こう述べています。

血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。(へブル人への手紙9:22)

その真理の種は、旧約聖書の律法の中に見ることができます。神様は、こう語られました。

実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。(レビ記17:11)

言い換えるなら、血はいのちの象徴です。そして、人のいのちが救われるためには、その代わりとして別のいのちが差し出されなければなりません。

旧約聖書の時代には、子牛や雄やぎ、羊のいのちが、イスラエルの民の身代わりとして捧げられました。けれども、以前の記事でも触れたように、それらの生贄は完全なものではありませんでした。なぜでしょうか。

第一の理由は、人間のいのちの価値が、動物のいのちの価値よりも高いからです。

第二の理由は、その動物たちが、自らの意志で人間の罪のために死んだのではないからです。

その一方で、イエス様は人間であると同時に、神でおられるお方です。だからこそ、イエス様のいのちは、私たちの罪を完全に償うことができました。

さらに、前回の記事で見たように、イエス様は自ら進んでご自身の命を差し出されたのです。そしてイエス様は、天の父に向かってこう祈られました。

今、わたしはあなたのみこころを行うために来ました。(へブル人への手紙10:9)

なぜ私たちが、イエス様の血によって贖われなければならないのか――この手紙の著者は、それを説明するために、さらに二つの描写を用いて語っています。

彼はこう述べています。

キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反から贖い出すための死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐためです。(9:15)

この描写によれば、私たちはかつて罪の奴隷でした。けれども、十字架において、イエス様はご自身の血によって、私たちを贖い出してくださいました。

イエス様は私たちを暗闇の力から救い出し、ご自身のご支配の中に移してくださったのです(コロサイ 1:13)。

さらにこの手紙の著者は、神様との新しい契約を「遺言」にたとえています。遺言が効力を発するためには、それを作成した者が死ななければなりません。

同じように、神様との新しい契約を有効にするために、イエス様は死ななくてはなりませんでした。

この箇所の要点は、私たちが永遠の命を受けるために、イエス様の死が不可欠だったということです。イエス様がその道を選ばれたことによって、聖霊様はイエス様を信じる人々のうちに住まわれ、彼らの心を新しくしてくださいます。

聖霊様は神様の律法を彼らの心に置き、その思いに書き記されるのです(10:16)。

その結果、彼らは自然と神様を喜ばせる者へと変えられていきます。そして神様は、彼らの実について、こう語られます。

わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない(10:17)

だから、この手紙の著者は、こう語っています。

罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません。(10:18)

そういうわけで、イエス様は十字架の上でこう言われました。「救いの業は完了した。」(ヨハネ19:30)

そのことを思うと、私は改めて驚きに満たされます。

イエス様は、本当に死ななければならなかったのでしょうか。ある意味では、死ぬ必要はなかったのかもしれません。ご自身を救って、私たちをそのままにして、十字架を回避することもできました。

しかし、イエス様は私たちを愛し、私たちのためにご自身を捧げてくださったのです。

だからこそ、十字架と、そこで流されたイエス様の血を仰ぐとき、私たちは深い感謝と畏敬の念をもって心を向けましょう。イエス様は私たちを愛し、想像を絶する代価を支払ってくださったのです。

Amazing love.
驚くべき愛。
How can it be that you my King should die for me?
あなたは私の王なのに、どうして私のために死んでくださったのでしょうか。

Amazing love.
驚くべき愛。
I know it’s true.
あなたが私を本当に愛してくださること知っています。
And it’s my joy to honor you.
あなたをあがめることこそ、私の喜びです。

In all I do, I honor you.
私は、すべての営みの中で、あなたをあがめて生きていきます。

ーークリス・トムリン

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写しと影(3)

これまで私たちは、「写し」と「影」について考えてきました。

まとめると、「写し」と「影」は現実をある程度描き出すことができます。たとえば、影は人の形を大まかに示すことができますし、おもちゃの電車は、本物の電車の働きを模倣します。

けれども、「写し」と「影」は、本物ができることをすべて再現することはできません。

人の影は話すことも聞くことも触れることもできません。おもちゃの電車は人を目的地まで運ぶことはできません。

同じように、ヘブル書の著者によれば、幕屋や捧げもの、生贄は、神様との関係を描く「写し」や「影」でした。

その描写によって、私たちは神様に近づくには何が必要かを知ることができました。しかし、それ自体には、私たちを神様に近づける力はありませんでした。

特に、神様への捧げものや生贄によって、私たちの良心が清められることはありませんでした。それらの捧げものと生贄は一時的なものであり、真のものが現れたとき、消え去るべきものでした(へブル人への手紙9:9–10)。

その「真のもの」とは何でしょうか。それこそが、キリストです。

イエス様はこの世に来られ、私たちの罪のために十字架で死なれたあと、天にある、より偉大で、より完全な幕屋に入られました。

そして、イスラエルの祭司たちとは異なり、イエス様はその幕屋で雄やぎや子牛の血ではなく、ご自身の血を捧げられました。

子牛と雄やぎの血は、物を儀式的に清めることはできましたが、イエス様の血は私たちの良心を実際に清める力を持っていました。だから、私たちは罪の罰から自由にされたのです(9:11–15)。

イエス様の流された血は、私たちの良心を完全に清めることができたので、その血は一度だけ捧げられれば十分でした。そしてその後、イエス様は天の父の右の座に座られました。なぜなら、イエス様は救いの働きを完全に成し遂げられたからです。

これに対して、イスラエルの祭司たちは、自分たちの務めを終えることができませんでした。むしろ、彼らは毎日、毎年、絶えず生贄を捧げ続けなければならなかったのです。なぜなら、子牛と雄やぎの血では、人々の良心を清めることができなかったからです。

その生贄によって、イスラエルの民は自分の罪と赦しの必要を思い出すと同時に、罪を本当に取り除くことができる最終的な生贄を待ち望んでいました(10:1–4)。

この手紙の著者は、イエス様のいけにえについて、こう語っています。

。。。キリストは聖なる者とされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に完成された。。。(へブル人への手紙10:14)

旧約聖書の時代、神様がいけにえを要求された理由は、それがイエス様とその十字架の御業を描き出すためでした。

けれども、今から2000年前、イエス様は来られて、天の父にこう申し上げられたのです。

今、わたしはここに来ております。。。神よ。あなたのみこころを行うために。(10:7)

そして十字架によって、以前のいけにえの制度は廃止され、イエス様は私たちを聖なる者とするために、完全ないけにえを捧げられました。

だから、私たちは希望を持つのです。この手紙の著者はこう語っています。

キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反から贖い出すための死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐためです。(9:15)

また、

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも多くの人の罪を負うために一度ご自分を捧げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を持ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。(9:27-28)

「写し」や「影」は、私たちに永遠のいのちの希望を与えることはできません。

けれども、イエス様にあって、私たちはその希望を確かに持っています。さらに、私たちはイエス様がいつの日か再びこの世に来られて、救いの計画を完成してくださることへの希望も抱いています。

ですから、どうか覚えていてください。私たちの希望は「影」や「写し」にではなく、イエス様ご自身にあるのです。イエス様こそが現実です。

だから、希望を見失いそうなとき、絶望に押しつぶされそうなときには、イエス様に目を向けましょう。そうすれば、あなたは決して失望させられることはありません(第一ペテロ2:6)。

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写しと影(2)

前回の記事で学んだように、地上の幕屋は、天にある真の幕屋の「写し」と「影」にすぎませんでした。

ヘブル書の9章では、幕屋がどのようにその真の幕屋の「写し」と「影」であったかが示されます。

契約の箱は神様の臨在を象徴するものでした。神様は、その箱の蓋の上にあるケルビムの間にお座りになると語られました。そしてその箱は、幕屋の至聖所に安置されていたため、至聖所は神様がおられる場所と見なされていたのです。

そのため、祭司以外の者は聖所に入ることが許されませんでした(聖所は至聖所の前にある空間です)。

さらに、大祭司だけが至聖所に入ることを許されていましたが、それも年に一度だけのことでした。それは贖罪の日です。その日、大祭司はイスラエルの民の罪のために特別ないけにえをささげました。

この手紙の著者は、これらの制度に込められた深い霊的意味を説明しています。

聖霊は、次のことを示しておられます。すなわち、第一の幕屋が存続しているかぎり、聖所への道がまだ明らかにされていないということです。(へブル人への手紙9:8)

言い換えると、その幕屋は、ある意味で神様との関係における障害でした。

聖所と至聖所の間には垂れ幕が垂れ下がっていました。その垂れ幕によって、ほとんどの祭司たちですら神様の臨在から遠ざけられていたのです。まして、普通のイスラエルの民は聖所に入ることさえできませんでした。

ソロモンの神殿でも、エズラの神殿でも、ヘロデ王の神殿でも、聖所と至聖所の間には同じように垂れ幕がありました。

その物理的な障壁は、私たちと神様との間にある霊的な障壁を描き出していたのです。すなわち、私たちは罪によって神様から隔てられていたのです。

しかし、次回の記事で見ていくのは、イエス様がその障壁を取り除いてくださったということです。

その前に、もう二つの重要な点について触れておきたいと思います。

一つ目は、至聖所に入るために、大祭司は二つのものの前を通らなければなりませんでした。それは、燭台と臨在のパンです。

燭台の火は絶えず灯しておかなければなりませんでした。

そして臨在のパンは、神様の臨在を描き出していました。つまり、それは神様が私たちにいのちを与えてくださることを意味していたのです。さらに、そのパンにはパン種が入っていませんでした。パン種は罪の象徴だったからです。

どうしてイエス様がご自身を「いのちのパン」や「世の光」と呼ばれたか、ご存じでしょうか。燭台と臨在のパンがイエス様を指し示していたからです。天の父のみ前に行くためには、私たちはイエス様を通して進まなければなりません。

二つ目は、大祭司がイスラエルの民の罪を贖うために雄牛の血を至聖所に携えて入ったように、イエス様は私たちの罪を贖うために、天にある至聖所にご自身の血を携えて入ってくださったということです。

だから、今やイエス様の御業によって、私たちは自由に天の父に近づくことができます。

おそらく、現代の多くのクリスチャンはこの特権を当たり前のものとして考えているでしょう。けれども、イエス様が来られる前には、人々はこのような特権を持っていなかったのです。

それを思うとき、私はパウロの言葉を思い出します。

ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。(第二コリント9:15)

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写しと影

多くのクリスチャンは、旧約聖書を読むときに、その内容が本当に重要なのか疑問に思うかもしれません。特に、幕屋や律法の細かな規定については、自分たちとは無関係に思えることもあるでしょう。

けれどもこの手紙の8章から10章にかけて、私たちは旧約聖書のそのような記述に深い意味があることを知ることができます。特に8章によれば、幕屋と律法は霊的な現実の「写し」と「影」だったのです。

この手紙の著者は、幕屋が天の現実を映し出す写しであり、影であることを明確に教えています。

もちろん、地上の幕屋は天そのものと比べれば取るに足らないものでした。けれども、その幕屋が天的な現実の写しであったからこそ、神様はモーセにこう命じられたのです

よく注意して、山であなたに示された型どおりに、すべてのもの(つまり、幕屋や祭壇や幕屋の用品など)を作らなければならない。(ヘブル人への手紙8:5)

けれども、写しと影であったのは幕屋だけではありません。私たちには理解しにくい多くの神の律法もまた、写しと影でした。

たとえば、「きよいもの」と「汚れたもの」に関する律法、ツァラアト(皮膚病)に関する律法、食物規定など、これらはすべて、罪や聖さについての霊的な描写だったのです。

神様の意図は、イスラエルの民がご自身のみ前で「きよい者」でなければならないという点にありました。

いけにえもまた、写しと影でした。前回の記事で触れたとおり、いけにえには実際に人の罪をきよめる力はありませんでした。むしろ、それらはいずれ来るイエス様の十字架の犠牲をあらかじめ描いていたのです。

最後に、神様とイスラエルとの契約そのものも、写しと影にすぎませんでした。その契約は、神様がどのような関係を私たちと持ちたいと願っておられるかを描写していました。

神様は彼らに数多くの律法を授け、人々は自分の力でそれを守ろうと努めました。

そして、神様の約束はこうでした──もし彼らがその律法を守るならば、神様が彼らの神となり、彼らは神様の民となる。また、彼らは神の祭司となり、聖なる国民とされる、というものでした。

しかし、彼らはその律法を守ることができませんでした。そこで、神様はこう仰せられたのです

見よ、その時代が来る。──主のことば──そのとき、わたしはイスラエルの家、ユダの家との新しい契約を実現させる。

その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握ってエジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。彼らはわたしの契約にとどまらなかったので、わたしも彼らを顧みなかった。

──主のことば──これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである。──主のことば──

わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

彼らはもはや、それぞれ仲間に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、小さい者から大きい者まで、わたしを知るようになるからだ。

わたしが彼らの不義にあわれみをかけ、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。(8-12)

かつての契約においては、神様はイスラエルの民に律法を授けられました。しかし、新しい契約においては、神様ご自身が私たちの心を変え、その律法を私たちの内に刻んでくださるのです。

以前の契約のもとでは、祭司や預言者たちが主を知る方法を民に教えました。それでもなお、神様とイスラエルの間には距離があり、彼らは神様との親しい関係を持っていなかったのです。

ところが今、イエス様が私たちの大祭司です。イエス様は私たちを天の父の御前へと導いてくださいます。ですから、私たちは天の父なる神と親しい関係を持つことができるのです。

もはや、私たちは不完全な「写し」と「影」に頼る必要はありません。イエス様にあって、私たちは真の現実を知るのです。

イエス様の十字架の働きによって、私たちの心はきよめられ、神様との親しい交わりに招かれています。だからこそ、心から喜びましょう。

そして、毎日、神様に近づいていきましょう。

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ヘブル人への手紙

義の王、平和の王、とこしえに祭司

キリストを考えると、どんなイメージが思い浮かぶでしょうか。

クリスマスの時、赤ちゃんのイメージが思い浮かぶでしょう。ほかの時、もしかしたら、良い羊飼いのイメージが思い浮かぶでしょう。

でもこの手紙の著者にとって、イエス様は「メルキゼデクの例に倣い、王と祭司」です。

メルキゼデクは、やや謎めいた存在です。旧約聖書の多くの人物とは異なり、彼の先祖についての記録はありません。また、彼の子孫についても一切知られていません。彼がいつ生まれ、いつ死んだのかも分かっていません。

創世記14章で、彼は突然登場しますが、その後についての記述はほとんどありません。

詩篇ではダビデが一度だけ彼について語りますが、ヘブル人への手紙が書かれるまで、それ以外には何も記されていません。

けれども、メルキゼデクの姿にこの手紙の著者は、イエス様の姿を重ね合わせて見ているのです。

メルキゼデクという名前は「義の王」を意味します。そして彼はサレムという都市の王でしたが、その都市の名は「平和」を意味します。後にサレムはエルサレムとなりました。

このように、イエス様は真の「義の王」であり、「平和の王」でもあるのです。

また、メルキゼデクの系図が明らかでないように、イエス様の系図もまた人間的には存在しますが、実際には永遠の方です。すなわち、神としてのイエス様には、始まりも終わりもなく、本当の意味での系図は存在しないのです。

また、メルキゼデクの死について、私たちは何も知りません。だから、もしかすると彼は今も生きているかもしれません(もちろん、そうではない可能性が高いですが)。

そのように、イエス様は復活され、もはや死ぬことなく永遠に生きておられます。

なぜ、それが重要なのでしょうか。それは、イエス様が永遠に私たちの大祭司でおられるからです。

旧約聖書の時代、モーセの律法に基づいて、レビ人の祭司たちが数多く立てられました。

神様はイスラエルの民と契約を結ばれました。すなわち、民が律法に従うなら、神様は彼らの神となり、彼らは神様の民とされるという契約です。その契約に基づいて、多くのレビ人たちが祭司として仕えました。

けれども、もしその契約が十分であったならば、なぜ神様はわざわざイエス様を送られたのでしょうか。

それは、その契約が完全なものではなかったからです。というのも、イスラエルの民は律法を完全に守ることができず、結果として律法によって裁かれてしまったからです。

祭司たち自身も不完全な人々でした。彼らは毎日、まず自分自身の罪のためにいけにえをささげ、その後でイスラエルの民の罪のためにいけにえをささげなければなりませんでした。

けれども、そのいけにえも十分ではありませんでした。この手紙の著者は後に詳しく説明しますが、もしそのいけにえが完全なものであったなら、一度だけで十分だったはずです。

しかし、そのいけにえは罪の代価を完全に支払うことができなかったため、祭司たちは毎日、繰り返しいけにえをささげなければならなかったのです。

ゆえに、神様との真の関係を持つためには、より優れた契約と、より優れた祭司が必要でした。

イエス様にあって、私たちはその「より優れた契約」と「より優れた祭司」を持っているのです。

イエス様の「系図」について考えてみてください。彼はメルキゼデクの霊的な系譜に属しておられます。

メルキゼデクはアブラハムを祝福しました。この手紙の著者によれば、「劣った者が、優れた者から祝福を受ける」のです。

つまり、メルキゼデクの霊的な系譜は、アブラハムの霊的な系譜(レビ人の祭司たちはアブラハムの子孫です)よりも優れているということです(ヘブル人への手紙7:4ー10)。

しかし、それだけではありません。神様はイエス様に対して、特別な誓いを立てられました。こう仰せられたのです。

主は誓われた。思い直されることはない。「あなたはとこしえに祭司である。」(ヘブル人への手紙7:21)

神様は他のどの祭司たちに対しても、このように誓われたことはありませんでした。

そして、律法によれば、レビ人たちはその系譜に基づいて祭司とされました。けれどもイエス様は、律法によらず、朽ちることのないいのちの力によって祭司となられたのです(7:16)。

だから、著者はこう語ります。

。。。もっとすぐれた希望が導き入れられました。これによって私たちは神に近づくのです。(19)

では、なぜ私たちは、より優れた希望を持つことができるのでしょうか。

それは、神様の誓いによって、イエス様がより優れた契約の保証となられたからです(22)。

この点について、著者はさらに具体的に説明していきます。

また、レビの子らの場合は、死ということがあるために、務めにいつまでもとどまることができず、大勢の者が祭司となっていますが、イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。

したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。

このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。(23-26)

イエス様が十字架で私たちの罪のために死なれたとき、その犠牲によって罪の代価は完全に支払われました。ですから、イエス様はもう二度とご自身をいけにえとしてささげる必要はありません。

私たちがすべきことは、ただイエス様に信頼することだけです(27)。

それこそが、私たちの希望なのです。だから、私たちの王であるイエス様を賛美しましょう。

イエス様のいけにえによって、私たちは神様の目に義とされ、神様との平和を得ているのです。そしてイエス様は、今も永遠に、私たちの大祭司でおられます。

ハレルヤ!

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ヘブル人への手紙

無理(私たちの希望の理由)

前回の記事で私が述べたのは、もしヘブル書6章によって「自分の救いを失うことができる」と考えるならば、その救いを取り戻すこともできない、ということを信じなければならないという点です(ヘブル人への手紙6:4ー6)。

この結論は避けられないものです。

その一つの根拠が、今日の箇所にあります。この箇所において著者は、もう一つ「不可能なこと」があると語っています。すなわち、神様が嘘をつくことは不可能だというのです。

著者は同じ言葉を6章4節と18節の両方で用いています。原語では、「不可能」という強い言葉が使われており、神様が嘘をつく可能性がまったくないのと同じように、救いを失った者がその救いを取り戻す可能性も、まったくないということです。

とはいえ、6章4節において私たちが恐れを抱く可能性がある一方で、6章18節では大きな希望が語られています。むしろ、著者の意図は、私たちにその希望を与えることにあるのです。彼はこう語りました。

だが、愛する者たち。私たちはこのように言ってはいますが、あなたがたについては、もっと良いこと、救いにつながることを確信しています。

神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。あなたがたは、これまで聖徒たちに仕え、今も仕えることによって、神の御名のために愛を示しました。

私たちが切望するのは、あなたがた一人ひとりが同じ熱心さを示して、最後まで私たちの希望について十分な確信を持ち続け、その結果、怠け者とならずに、信仰と忍耐によって約束のものを受け継ぐ人たちに倣う者となることです。(ヘブル人への手紙6:9-12)

言い換えれば、「堕落した者を再び悔い改めに立ち返らせることはできない」という記述は、確かに少し恐ろしく感じるかもしれません。

しかし、著者はそのことがあなたがたに当てはまるとは考えていないようです。なぜなら、あなたの人生には救いの実が実っているからです。

ですから、たとえ今が困難な時期であっても、どうかあきらめないでください。信仰を持ち続けるならば、最終的に、イエス様にあるあなたの希望が決して無駄ではなかったことが分かるはずです。

このあと、著者はアブラハムに対する神様の約束を引き合いに出します。すなわち、神様がアブラハムに多くの子孫を与えると約束されたということです。パウロによれば、私たちはその約束の相続人です(ガラテヤ3:7ー9)。

神様がその約束を与えられたとき、ご自分を指して誓われました。なぜなら、神様にはご自分よりも優れたものがなく、それ以外を指して誓うことはできなかったからです。

アブラハムは25年もの間待ち続けましたが、その約束を信じました。神様はその約束を守り、イサクをアブラハムに与えてくださいました。そしてイサクを通して、イスラエルという国が生まれました。

さらにイエス様を通して、イエス様を信じる私たちは、アブラハムの子となったのです。

では、なぜ神様はアブラハムに誓われたのでしょうか。神様が信頼できない方だからでしょうか。違います。著者はこう語ります。

それは、前に置かれている希望を捕らえようとして逃れて来た私たちが、約束と誓いという変わらない二つのものによって、力強い励ましを受けるためです。その二つについて、神が偽ることはあり得ません。(18)

神の約束と誓いの両方が変わることのない確かなものであるゆえに、私たちの希望には二重の確かさが与えられているのです。

だから、著者はこう語ります。

私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。

イエスは、私たちのために先駆けとしてそこに入り、メルキゼデクの例に倣って、とこしえに大祭司となられたのです。(19-20)

著者は、イエス様を私たちの「先駆け」と呼んでいます。それはどういう意味でしょうか。

古代の時代、天候が悪く船が港に入るのが難しいとき、「先駆け」と呼ばれる小さな船が本船の錨を携えて先に港へ向かい、港の中にその錨を下ろしました。その錨によって、船の乗組員たちは無事に港に入るという確かな希望を持つことができたのです。

同じように、イエス様は私たちに先立って、天の父の御前に入られました。

だからこそ、私たちは確かな希望を持っているのです。すなわち、私たちもイエス様に従って天の父の御前に現れるとき、神様の子として愛され、受け入れられるのです。

ですから、人生の嵐が吹き荒れ、波に打ちのめされるようなときにも、どうか希望を失わないでください。神様があなたを見放されたと思わないでください。

なぜなら、イエス様はすでに私たちに先立って進まれたのです。イエス様は私たちの魂の錨です。だからこそ、いつの日か、私たちは無事に主の家にたどり着くのです。

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無理

これは、聖書の中でも最も論争の的となっている箇所の一つです。この箇所のゆえに、多くの人々は「クリスチャンでも救いを失うことがある」と信じています。へブル人への手紙の著者は、このように書いています。

一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。

彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。(ヘブル人への手紙6:4-6)

一見すると、この箇所はクリスチャンが自分の救いを失う可能性があるように思えます。けれども、私は一つの言葉に注目したいと思います。それは「できません」です。

言い換えるならば、「無理」ということです。

もしあなたが、「クリスチャンは堕落して救いを失う可能性がある」と考えるなら、その人が救いを取り戻すことは不可能である、ということも信じなければなりません。その結論からは逃れられません。

原語でも、著者は「無理」とも言える強い表現を使っています。

では、自分に問いかけてみてください。これまでに、クリスチャンが神様に背を向け、何年も神様から離れていたのに、再び神様に立ち返る姿を見たことはありますか? 私は、あります。

ということは、もしこの箇所が絶対的に正しければ、その人は本当に堕落していたとは言えません。実際に神様から立ち去っていたとは断定できないのです。なぜなら、彼らは最終的に神様に戻ったのですから。

言い換えれば、もし人が救いを失うことができると信じるなら、「堕落」の定義を非常に限定的にしなければなりません。その定義とは、「神様から離れ、決して戻ってこない人」です。

ですから、その人が亡くなるまでは、私たちは本当に堕落していたかどうかを判断することはできません。

それでも、私たちの心には疑いが残るでしょう。「その人は本当に神様から立ち去っていたのだろうか。もし、もう少し長く生きていたら、神様に戻っていたのではないか。」

私が信じているのは、人が救われたなら、その救いを失うことはありえない、ということです。神様は、この世の創造以前に、クリスチャンを救いのために選んでくださいました(エペソ1:4ー5)。

もし、その人が神様から離れてしまったのだとしたら、神様がその人を選ばれたことは無駄だったのでしょうか。神様は、その人の背信に驚き、傷つき、そしてその人を見捨てられたのでしょうか。私はそうは信じません。

では、「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者」とは、どういう意味なのでしょうか。

イスカリオテのユダについて考えてみてください。「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者」という言葉は、ユダに完全に当てはめることができます。

ユダはイエス様の教えをすべて聞きました。おそらく、初めの頃はそのことばを信じていたかもしれません。

彼は天からの賜物を味わい、聖霊様の力も経験しました。その力によって、ユダは他の弟子たちと同じように、人々を癒し、悪霊を追い出し、奇跡を行ったのです(マタイ10:8)。

しかし、イエス様は初めから、ユダが真の信仰を持っておらず、いずれご自身を裏切ることを知っておられました(ヨハネ6:4)。

簡単に言えば、ユダは畑の毒麦の完全な例です(マタイ13:36〜43)。

ユダは信者のように見え、信者のように振る舞っていましたが、心から信じることは一度もありませんでした。

そのため、この手紙の著者は、次のように語っています。

たびたび降り注ぐ雨を吸い込んで、耕す人たちに有用な作物を生じる土地は、神の祝福にあずかりますが、茨やあざみを生えさせる土地は無用で、やがてのろわれ、最後は焼かれてしまうのです。(7-8)

他の弟子たちは、もちろん完全な者ではありませんでしたが、最終的には救いの実を結びました。それに対して、ユダは茨やあざみしか生み出さず、ついには滅びてしまいました。

この手紙の著者は、さらにもう一つの例を挙げています。それは、エジプトから救い出されたイスラエルの民です。

彼らは神様の律法を受け、多くの奇跡を見ましたが、心から神様を信じることはなかったため、約束の地に入ることはできませんでした。

著者が伝えたいポイントは何でしょうか。救いを得るためには、私たちには本物の信仰が必要なのです。

あなたは、どのような信仰を持っているでしょうか。あなたは真の信者でしょうか。あなたは、クリスチャンとして少しずつ成熟していますか。あなたは、日々キリストに似た者へと変えられていますか。

裁きの日には、実を結ばない信仰は偽りの信仰であったことが明らかにされます。

そして今もなお、自分をクリスチャンだと主張しながら、神様から離れていくことで、自らが毒麦であることを明らかにする人々がいます。

あなたは、どのような信仰を持っているでしょうか。

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ヘブル人への手紙

真の成熟

あるクリスチャンたちは、自分の信仰が成長することを願い、単に福音の初歩だけでなく、聖書のより深い真理を学びたいと望んでいます。

けれども、彼らには一つ、自らに問いかけるべきことがあります。それは──「私の心は、その備えができているだろうか」ということです。

この手紙を読んだ人々の心は、まだその備えが整っていなかったようです。

そのため、この著者は彼らにこう語ったのです。

このメルキゼデクについて、私たちには話すことがたくさんありますが、説き明かすことは困難です。あなたがたが、聞くことに対して鈍くなっているからです。

あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。

あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。(ヘブル人への手紙5:11-12)

「乳」とは何でしょうか。6章において、著者はその意味を明らかにしています。それは、罪を悔い改めること、神様に対する信仰、バプテスマ、手を置く儀式(特に聖霊を受けること)、復活、そして裁きの日などのことです。

これらは、クリスチャンとしての初歩的な真理です。もちろん、私たちはそれらを知らなければなりません。けれども、それらはあくまでも出発点に過ぎません。

その道の終着点は何でしょうか。それは、健全で完全な歩みです。

しかし、そのような人生を得るためには、ただ聖書を聞くだけでなく、それを私たちの生活に適用しなければなりません。

私たちは、神様が私たちを愛し、最善を願っておられることを信じなければなりません。そして、自分が罪に対して死に、イエス様にあって新しく造られた者として生きるように召されていることを信じるべきです。

私たちの行いや思い、そして人生のすべてが神様の愛に彩られるほどに、私たちは神様を愛し、神様の救いの御業を心から感謝すべきです。

簡単に言えば、私たちのうちに働いてくださっている聖霊様の力によって、私たちは罪を捨て、義を身にまとい、日々ますますイエス様に似た者とされるべきです。

それこそが、真の成熟です。

成熟とは、単に神様の深い真理を知っていることではありません。成熟とは、人生のあらゆる面においてイエス様に似た者として生きることです。

言い換えれば、私たちは健全な人、完全な人へと成長していくのです。すなわち、神様が初めから計画しておられたとおりの歩みをすることです。

けれども、未成熟な人たちの内面はまだ不完全なままです。彼らは健全な人生の意味すらも理解できません。この手紙の著者は、そのような人々について、こう語っています。

乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。(13)

これに対して、著者は成熟した人について、こう語っています。

固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。(14)

真に成熟した人は、御言葉を聞いて実践します。そして、その人は御言葉を実践すればするほど、「健全な人生」の意味が分かるようになります。何が善であり、何が悪であるかを見分けることができるようになるのです。

しかし、多くのクリスチャンは学ぶのが遅く、聞くことに対して鈍くなっています。

心はどのように鈍くなるのでしょうか。

たとえば、私たちが御言葉を聞いて心を動かされたとしても、それに何の応答もしなければ、結果として心は固くなります。そして、心を固くすればするほど、ますます鈍くなっていきます。

やがて、御言葉を受け入れられなくなってしまうのです。その結果どうなるでしょうか。私たちは未成熟で、不完全な人生、壊れた人生を送ることになるのです。

あなたはどうでしょうか。あなたは、ただ御言葉を聞くだけですか。それとも、その御言葉を実践していますか。

神様は、私たちが完全で健全な人生を送ることを願っておられるのです。けれども、私たちが心を固くするならば、それは実現しないのです。

あなたは、成熟した人でしょうか。

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私たちが神様に近づくことができる理由

あなたの人生が、全世界の前にさらけ出されたとしたら、あなたはどう感じるでしょうか。もし人々が、あなたの失敗や罪をすべて見ることができたとしたら、どう感じるでしょうか。

では、少し想像してみてください。裁きの日に、あなたは神様のみ前に立ち、あなたの人生について書かれた書が開かれ、神様があなたにこう仰るのです──「あなたの人生について申し開きをしなさい。」

へブル人への手紙の著者は、こう語っています。

ですから、だれも、あの不従順の悪い例に倣って落伍しないように、この安息に入るように努めようではありませんか。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。(ヘブル人への手紙4:11-13)

それは、恐ろしいことです。私たちの行為だけでなく、心の思いやはかりごとまでもが、すべてさらけ出されるのです。裁きの日には、神様の前に隠せるものなど何一つありません。それを思うと、確かに恐れを覚えることでしょう。

しかし、それにもかかわらず、私たちは大胆に神様に近づくことができるのです。なぜでしょうか。それは、イエス様との関係があるからです。

著者は、こう続けます。

さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。(4:14-15)

これまでに学んできたのは、イエス様が私たちの先駆者となり、救いへの道を切り開いてくださったということです。

それだけではなく、イエス様は私たちに先立って天に昇られ、天の父なる神の御座の前で、今もなお私たちのためにとりなしておられます。

父なる神は、御子イエスの御顔を見るとき、喜ばれます。地上の裁判官の中には、弁護士と敵対関係を持つ者もいます。しかし、天の父ご自身が、イエス様を私たちの弁護士として、私たちの大祭司として任命されたのです(5:4ー6)。

それだけではありません。イエス様は、私たち一人ひとりのことを深く理解しておられるので、憐れみに満ちた心で、とりなしをしてくださいます。

イエス様は、誘惑の激しさをよくご存じです。また、この壊れた世界の中で、神の御心に従って生きることの難しさを、身をもって経験されたのです。

イエス様は、この地上で生きておられた間、大きな叫び声と涙をもって祈りをささげられました。

ゲッセマネにおいては、イエス様の汗が血のしずくのように地に落ちました。なぜなら、天の父の御心に従うことは、深い苦しみを伴っていたからです。イエス様はその苦しみを、身をもってご存じなのです。

それでもイエス様は、完全に天の父に従い、十字架にまで進まれ、死に至られました。

だからこそ、今、イエス様は私たちにとって救いそのものとなってくださったのです。私たちに求められているのは、ただ信仰の道を歩むことだけです(5:7ー10)。

そして私たちがつまずき、羊のようにさまよい、愚かな行動を取るとき、イエス様は優しく私たちを扱い、引き上げて、正しい道へと導いてくださいます(5:2ー3)。

だから、著者はこう語っています。

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(4:16)

あなたは、その大胆さを持っているでしょうか。もしかすると、神様があなたを見下し、罰したいと願っておられるのではないかと感じているかもしれません。

けれども、そのような恐れは捨てましょう。イエス様は、あなたをかばっておられるのです。

イエス様は、あなたの罰をすでに受けてくださいました。神様はあなたを罰したいとは思っておられません。むしろ、神様はあなたを憐れみたいと願い、恵みを与えたいと願っておられます。

ですから、天の父のもとへ近づきましょう。神様はあなたを愛しておられ、ご自分の愛する子どもとして受け入れてくださるのです。

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ヘブル人への手紙

信仰の必要

多くの人々は、神様の祝福を受けたいと願い、真のいのちと喜びを得たいと求めています。けれども、その多くは、神様に信頼を寄せようとはしません。

へブル人への手紙の著者は、この箇所でまさにその問題を取り上げています。

彼は、「神の安息」について語っています。この「安息」は三つの意味を内包しています。

第一の意味は、私たちが自分の努力によって救いを得ようとするのではなく、ただイエス様に信頼を寄せることによって救いにあずかる、ということです。

著者はこう語っています。

したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残されています。

神の安息に入る人は、神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むのです。(ヘブル人への手紙4:9-10)

旧約聖書の時代における安息日は、「神の安息」の本当の意味を描き出しています。

安息日を通して、神様はユダヤ人に、御自身に信頼することによって与えられる祝福と喜びを指し示されたのです。

週に一度、彼らは仕事を休みました。安息日には、神様が彼らの必要を備えてくださると信じたのです。その信仰によって、彼らは安心して休むことができました。

同じように、私たちも神様とキリストの十字架の御業を信じるなら、自分の救いのために努力する必要はありません。むしろ、私たちは休み、すでに神様との平和をいただいています。

第二の意味は、日常生活においても私たちが神様に信頼することによって、安心して過ごすことができるということです。

困難や試練があっても、パニックに陥ったり、思い煩ったりしません。むしろ、理解を超えた神の平安をもって、心に安らぎを得ることができるのです(ピリピ人への手紙4:7)。

第三の意味は、私たちがやがて真の休みにあずかる日が来るということです。その日には、人生の苦しみや試練が終わり、私たちはついにイエス様のみ顔を見ることになるのです。

旧約聖書の時代、もう一人の「イエス」(すなわちヨシュア)は、イスラエルの民に真の安息を与えることはできませんでした。

ご存じない方もおられるかもしれませんが、ギリシャ語では「ヨシュア」と「イエス」という名前は同じです。

そのため、へブル人への手紙4:8を翻訳する際、翻訳者はこの名前を「ヨシュア」と訳しました。しかし、実際には「イエス」と訳すことも可能なのです。

とはいえ、その箇所では旧約聖書のヨシュアを指しているため、「ヨシュア」と訳されているのです。

では、ヨシュアはイスラエルの民のために何をしたのでしょうか。彼は彼らを神様の約束の地に導き入れ、その意味で安息を与えました。しかし、その安息は決して完全なものではありませんでした。

なぜでしょうか。それは、彼らが神様を信頼しなかったからです。その地で敵との戦いが困難になると、彼らは諦めてしまいました。すでに得ていた地に甘んじ、それ以上を求めようとはしなかったのです。

ユダヤ人にとっても、私たちにとっても、真の安息はまだ実現していません。私たちが神様を真に信頼するそのときこそ、その日が来るのです。

けれども、以前にも述べたように、神様に信頼する人は少ないのです。

エジプトにいた頃、イスラエルの民は奴隷として苦しみ、安息を慕い求めました。救いを求めました。真のいのちと喜びを切に願っていたのです。

モーセはイスラエルの民に安息と救いを約束したので、彼らは彼について行きました。しかし、最初から彼らには信仰が欠けていました。

パロがモーセに対抗した後、イスラエルの民への圧迫が増したため、彼らは信仰を失い、不平を言いました。

その後、紅海の前でパロの軍勢が迫ってきたとき、逃げ場を失った彼らは信仰を持てず、「私たちは死ぬ!」と叫びました。

さらに、荒野で食べ物や水が尽きたときにも、彼らは神様を信頼せず、再び不平を口にしました。

また、神様が約束された地の住民を見たとき、彼らは恐れてその地に入ることを拒みました。

彼らは命と喜びを望むと言い、神様の安息と祝福を慕うと言いました。けれども最終的には、彼らは神様に信頼することを拒みました。

そのため、彼らは決して神様が約束された地に入ることができませんでした。むしろ皆、荒野で死んだのです。

そして代わりに、彼らの息子たちと娘たちがその地に入りました。しかし、その子どもたちもまた、自分たちの不信仰ゆえに、神様の真の安息を得ることはありませんでした。

だからこそ、この手紙の著者は、読み手に不信仰の危険について警告したのです。

その読者の中には、福音を聞いてその救いのメッセージに魅了されたユダヤ人たちがいました。しかし、エジプトから逃れたイスラエルの民のように、彼らも神様を真に信じることなく、最終的には神様から離れてしまったのです(4:2)。

そのため、著者は繰り返し警告を発しています──「イスラエルの民のようになってはなりません。そうでなければ、あなたは決して神様の安息に入ることはできず、真のいのちを知ることもできないのです」(4:11)。

あなたはどうでしょうか。真のいのちと喜びを知りたいと願っていますか。神様の祝福を受けたいと望んでいますか。それならば、あなたは神様とそのみことばを信じるべきです。

神様のことばを読むとき、あなたが本当に神様を信じているかどうかが明らかになります。そして、そのみことばによって、あなたは神様に裁かれるのです(4:12ー13)。

裁きの日に、神様はあなたについて何を語られるのでしょうか。

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ヘブル人への手紙

なぜ福音を無視してはならないのか

へブル人への手紙の主なテーマの一つは、イエス様の偉大さです。

第1〜2章では、イエス様が預言者たちや天使たちよりも優れたお方であることが示されています。第3章では、モーセよりも、そして第4章では、ヨシュアよりも優れておられることが語られています。

けれども、イエス様の偉大さを考えるとき、私たちは、非常に大切な真理を覚えておく必要があります。

それは、かつて天使たちや預言者たちが神様の言葉を語ったとき、人々がそのことばに対して責任を問われた、ということです。

もしイエス様が、天使たちや預言者たちよりも優れたお方であるなら、私たちはなおさら、イエス様のことばに従うべきなのです。

だから、この手紙の著者は、こう語っています。

こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。

御使いたちを通して語られたみことばに効力があり、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたのなら、こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。

この救いは、初めに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したものです。

そのうえ神も、しるしと不思議と様々な力あるわざにより、また、みこころにしたがって聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証ししてくださいました。(ヘブル人への手紙2:1-4)

この手紙の著者は、「語られたみことば」として、モーセを通して与えられた律法に言及しているようです(申命記33章2節、使徒の働き7章53節、ガラテヤ人への手紙3章19節)。

その律法に従わなければ、人々は裁かれました。けれども、その律法を語ったのはイエス様ではなく、天使たちでした。

ところが今や、イエス様ご自身が、ご自分の口から福音を語られました。それだけでなく、イエス様は使徒たちを通してその福音を宣べ伝えられました。

そして神様は、しるしと不思議、さまざまな力あるわざによって、そのメッセージが真実であることをあかしされました。

さらに聖霊様も、御心にしたがってクリスチャンに賜物を与え、その福音が神からのものであることをあかしされました。

天使ではなく、父なる神、御子なる神、聖霊なる神ご自身が福音をあかししておられるとするならば、私たちがその福音に対して責任を問われることは、なおさらのことです。

もし三位一体の神ご自身がこの福音をあかしされたのなら、私たちがそれを無視するならば、必ず裁きを免れることはできません。

そして、この手紙の著者は、イエス様をモーセと比較します。モーセは偉大な指導者であり、神様は彼を通してイスラエルの民をエジプトから救い出し、律法を与えられました。

それにもかかわらず、著者はこう語っています。

家よりも、家を建てる人が大いなる栄誉を持つのと同じように、イエスはモーセよりも大いなる栄光を受けるにふさわしいとされました。

家はそれぞれだれかが建てるのですが、すべてのものを造られたのは神です。モーセは、後に語られることを証しするために、神の家全体の中でしもべとして忠実でした。

しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。もし確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば、そうなのです。(3:3-6)

著者によれば、モーセは忠実なしもべでしたが、あくまでもしもべに過ぎませんでした。それでも、イスラエルの民はモーセを通して与えられた律法に従わなくてはなりませんでした。

ましてや、イエス様が神の御子であり、神の家を建てられたお方であるならば、私たちがイエス様に従うべきことは、なおさら明らかです。

ですから、私たちはイエス様が告げられた救いの福音を無視してはなりません。私たちは別の裁判所に訴えることなどできないのです。イエス様こそ、最終的な裁きを下される裁判官です。

だから、著者はこう語っているのです。

ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。(3:1)

あなたはどうでしょうか。あなたは福音を軽く扱おうとしているのではありませんか。そのメッセージを無視しようとしてはいませんか。

そのメッセージがあなたに気に入るかどうかにかかわらず、あなたは福音によって裁かれるのです。

だから、まだ時が与えられている今、福音を信じ、受け入れてください。そうすれば、あなたはいのちを知ることになります。

しかし、福音を拒むなら、あなたは裁かれ、永遠の死に至るのです。

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ヘブル人への手紙

クリスマスの意味(3)

最近、私たちはクリスマスの意味について考えてきました。

最初の記事では、クリスマスを通して、私たちが神様のご性質を知ることができるということを語りました。すなわち、イエス様にあって、目に見えない神様が、見えるようになったのです。

そして、前回の記事では、イエス様が来られたもう一つの理由――それは「私たちの罪」であることを取り上げました。

私たちの罪のゆえに、この世は混乱し、壊れてしまいました。本来、神様の子どもであり代表者として、私たちはこの世を治めるはずでした。しかし、罪によって、この世界も、私たち自身の人生も崩れてしまったのです。

けれども、イエス様がこの世に来られたとき、十字架で私たちの罪の代価を支払い、神様の怒りを身に負ってくださいました。イエス様の御業によって、救いの道が整えられたのです。

ですから、今、私たちがなすべきことはただひとつ――イエス様を信頼し、従うことです。そうするなら、神様が私たちのために初めからご計画されていたことが実現するのです。

それはつまり、私たちが栄光と誉れの冠をいただき、イエス様と共に永遠にこの世を治めることなのです。

しかし、イエス様がこの世に来られた理由は、もう一つあります。

それは、私たちに共感するためでした。私たちのことを、真に理解できるようになるためでした。

私たちは、天におられる神様を思うとき、神様がどうやって私たちのことを理解できるのか、不思議に思うかもしれません。神は神であり、人は人だからです。

けれども、イエス様がこの世に来られたとき、私たちが経験することを、ご自身も経験されました。

この手紙の著者によれば、私たちの創始者(別訳:「指導者」)であるイエス様は、苦しみを通して完全な者とされたのです(10節)。

それは、どういう意味なのでしょうか。

イエス様は、もともと完全なお方ではなかったのでしょうか。

もちろん、イエス様は常に罪のない、完全な方でした。

けれども、苦しみを通して、イエス様は私たちに完全に共感できるようになられたのです。その意味において、イエス様はさらに完全な救い主となられました。

イエス様は、人となられたことによって、不完全な世界に生きることを体験されました。また、誘惑に直面し、それを打ち勝つことを学ばれました。そして、死に至られ、ついには死をも克服されました。

だから、この手紙の著者は、こう書いています。

聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。(へブル人への手紙2:11)

言い換えれば、イエス様は人となられ、私たちと同じような者となられました。

だから、イエス様は心から、私たちを兄弟姉妹と呼んでくださるのです。

この手紙の著者が引用した詩編の中では、イエス様がよろこんで、私たちを「兄弟」「姉妹」「子どもたち」と呼んでおられる姿を見ることができます。イエス様は決して、私たちを見下されません。

そして、14〜15節で、著者はさらにこう続けています。

そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。

それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。(14-15)

イエス様は人となられ、私たちと同じように血と肉を持っておられました。

しかし、私たちと違って、イエス様は決して罪を犯されませんでした。

それにもかかわらず、イエス様は私たちの罪のために、ご自身を十字架においてささげられました。そのことによって、サタンの力は打ち砕かれ、私たちは死と地獄の恐れから解放されたのです。

けれども、私たちはもう一つ、心にとどめておくべきことがあります。

この手紙の著者は、こう書いています。

したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。

イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。(17-18)

言い換えれば、イエス様は人としてご自身の弱さを味わわれたので、私たちの弱さに深く共感してくださるのです。

だから、イエス様は私たちに対して、あわれみ深い大祭司となられました。

ですから、私たちが苦しみの中でうめき、罪との戦いに疲れ果てるときにも、イエス様は私たちの痛みを理解してくださいます。

これこそが、クリスマスの不思議さです――すなわち、神様が私たちのことを理解しておられる、ということなのです。

He knows all the struggles you are going through.
イエス様は、あなたが経験しているすべての戦いを理解しておられます。
He knows the pain you’re feeling.
イエス様は、あなたの苦しみを理解しておられます。
He hears the silent cries you hold within your heart.
イエス様は、あなたの心の奥深くにあるうめきを、すべて聞いておられます。
And he wants so much to show you that he knows.
そして、イエス様はあなたにご自身の共感を、本当に知ってほしいと願っておられます。

–ブライアン・ベッカー

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ヘブル人への手紙

クリスマスの意味(2)

どうして、この世はこれほどまでに混乱し、壊れてしまったのでしょうか。

この問いに向き合わないかぎり、私たちはクリスマスの意味を真に語ることはできません。

今日の聖書箇所で、この手紙の著者は、この世界の混乱の根本にある問題を明らかにしています。

彼によれば、この世がやがて新しくされるとき、それを治めるのは天使ではなく、人間なのです(へブル人への手紙2:5)。

その驚くべき真理に触れ、著者はまるで詩編の詩人のように、主を賛美せずにはいられません。

人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。

あなたがこれを顧みてくださるとは。あなたは、人を御使いよりわずかの間低いものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、万物を彼の足の下に置かれました。(へブル人への手紙2:6-8)

この箇所で詩編の詩人も、この手紙の著者も、イエス様についてではなく、人間について語っています。

彼らが驚いているのは、人間がもともと地のちりで造られた存在であり、今もなお、天使よりわずかの間低い者とされているにもかかわらず、やがて栄光と誉れの冠をいただき、すべてのもの(天使たちをも含む)を治めるようになる、ということです。

使徒パウロによれば、ある日、私たちは天使たちさえ裁くことになるのです(第一コリント6:3)。

神様がこの世を創造された初めから、それはご自身のご計画でした。

そのため、神様がアダムとエバを造られたとき、こう言われました。

生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。(創世記1:28)

そういうわけで、この手紙の著者はこう語っています。

神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。(8b)

しかし、それは今の私たちの現実なのでしょうか。

この手紙の著者は、続けてこう言います。

それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。(8c)

どうしてなのでしょうか。

この世の根本的な問題――それは「罪」です。

罪によって、この世は堕落しました。

罪によって、神様との私たちの関係は壊れました。

罪によって、この世界そのものが壊れてしまいました。

罪によって、私たち自身も壊れた存在となってしまいました。

罪によって、災害や病、そして死がこの世に入り込んできたのです。

だからこそ、イエス様はこの世に来られなければなりませんでした。

そして、この手紙の著者は、続けてこう言います。

ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。

イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。(9)

イエス様は天を離れ、人となられました。

イエス様は天使よりも、しばらくの間低くされ、私たちの間を歩まれました。そのおからだは死すべきものであったため、病を患われることもあり、やがて十字架で死なれたのです。

けれども、その死を通して、イエス様は私たちの罪のために代価を支払ってくださいました。

そして、イエス様は栄光と誉れの冠を受けられました。救いの「指導者」、あるいは「先駆者」(10節、「創始者」の別訳)となられたのです。

イエス様は私たちに先立ってこの世に来られ、完全な人生を生き、十字架の苦しみを受け、私たちのために死んでくださいました。

そのゆえに、私たちはイエス様が開いてくださった救いの道を歩むことができるのです。

私たちがその道を造る必要はありません。その道はすでに整えられました。イエス様が、私たちのために労してくださったからです。

では、このことを振り返ってみましょう。

なぜ、イエス様は2,000年前、この世に来られたのでしょうか。

そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。

それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。(14-15)

私たちは、罪と死の力から自由にされたにとどまらず、神様が初めからご計画なさっていたとおりに、イエス様の共同相続人として、栄光と誉れの冠を受け、イエス様と共にこの世を治めるようにされているのです。

これこそが、クリスマスの意味です。

ですから、私たちは2,000年前に神様がなさったことだけでなく、今この瞬間になさっていることをも感謝しましょう。そして、将来なさろうとしていることにも、心から感謝をささげましょう。

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ヘブル人への手紙

クリスマスの意味

私の英語のブログでは、12月にヘブル人への手紙についての記事を書き始めました。それは、とても良いタイミングでした。なぜなら、この手紙を通して、私たちはクリスマスの意味を学ぶことができるからです。

イエス様とは、どのようなお方でしょうか。なぜ、これほどまでに大切なのでしょうか。

この手紙の著者は、それを私たちに教えてくれます。(ちなみに、この手紙は匿名です。)

神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。

神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。(へブル人への手紙1:1-2)

神様は何百年もの間、数多くの預言者たちを遣わされました。けれども、この終わりの時には、預言者たちよりもはるかに偉大なお方をお送りになりました。もちろん、それはイエス様です。

イエス様は、イザヤ、エレミヤ、ダニエルよりも偉大なお方です。これらの預言者たちは多くの奥義を語りましたが、その奥義はイエス様によって明らかにされました。

使徒ヨハネによれば、イエス様は人となった神様の御言葉です(ヨハネ1:1、14)。

そして、イエス様にあって、神の御言葉はすべて成就されました。

では、イエス様とはいったい誰なのでしょうか。

エホバの証人によれば、イエス様は御使いのかしらミカエルだとされています。しかし、この手紙の著者は、それを明確に否定します。

むしろ、彼はこう語っています。

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。(3a)

著者は、印章付きの指輪に触れています。指輪の印がろうに押されるように、神様の本質は肉体に刻印されました。ですから、イエス様を見るとき、私たちは神様の本質を見るのです。

イエス様は、神様の本質を完全に現しておられます。さらに、イエス様ご自身こそ、神様の栄光の輝きです。

そして、著者はこう語ります。

御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。(3b)

この言葉によって、私たちは、なぜイエス様が来なくてはならなかったのかを知ることができます。

私たちの罪が赦されるために、イエス様は十字架で死ななければなりませんでした。

けれども、イエス様は死後、復活されました。そして今は、天の父の王座の右に座しておられます。

イエス様が復活された日に、天の父はイエス様にこう言われました。

あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ。(5節ですけど、使徒の働き13:32-34をも読んで管ださい。)

かつての時代、ある国の王が別の国の王に従うとき、両者の関係は「親と子」と呼ばれることがありました。そのような背景の中で、神様はソロモンを「わたしの子」と呼ばれました(第二サムエル記7:14)。

そして、この手紙の著者はこう語ります。「天の父は、天使のいずれにも『わたしの子』と呼びかけたことはありません。」

しかし、天の父はイエス様に対しては「わたしの子」と呼ばれたのです。なぜなら、父と御子の間には、比類なき関係があるからです(4〜5節)。

さらに、神様がイエス様をこの世に遣わされたとき、こう言われました。

神のすべての御使いよ、彼にひれ伏せ。(6)

これは、極めて意義深いことばです。なぜなら、礼拝にふさわしいのは神様おひとりだからです。

もしイエス様が天の父と等しい存在でなければ、天の父が「わたしの子にひれ伏せ」と言われることはなかったはずです(ルカ4:8)。

さらに著者は、天使たちを造られた存在(すなわち、風や炎)として描きますが、イエス様ご自身は創造主であり、「永遠の神」と呼ばれています(2、8〜12節)。

そして最後に、イエス様のような権威を持つ天使は存在しません。むしろ、天使たちは、イエス様によって救われた者たちに仕えるのです(13〜14節)。

言い換えれば、天使たちは栄光に満ちた存在ではありますが、イエス様はその上にある栄光を持っておられる方です。

イエス様は、まさに人となられた神ご自身です。そして、イエス様が来られたとき、神様は私たちにご自身を現されました。

それだけではありません。イエス様を通してこそ、私たちは自分の罪から救われ、永遠のいのちにあずかるのです。

これこそが、クリスマスの意味です。