カテゴリー
ペテロの手紙第一

教会として苦しみの直面する

この手紙において、ペテロは、イエス様のために迫害や苦しみに直面しているクリスチャンたちに語りかけています。

最初にペテロは、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの教会に対し、一つのキリストのからだとして演説しました。そして、彼らが「生ける石」として神様の霊の家に築き上げられていることを思い起こさせました。

その後、ペテロは個々のクリスチャンたちに語りました。特に、クリスチャンの奴隷たち、妻たち、そして夫たちに向けて具体的に話をしました。

そして、ペテロは再び教会全体に向けて語りかけ、一つのキリストのからだとしての立場を強調しました。

けれども、5章では、おそらくペテロは個々の教会に対して演説したのだと思われます。ペテロは、ある教会が苦しみに直面したとき、それにどう反応すればよいかについて語りました。

リーダーたちには重要な役割があります。彼らは教会の人々の模範だからです。特に試練の時には、彼らは羊飼いとして教会の人々の世話をしなければなりません。(ペテロの手紙第一5:2)

試練の時には、自分のことだけを考えるのは簡単ですが、リーダーたちはそうしてはなりません。また、彼らは傲慢な態度で教会の人々を支配してはいけません。むしろ、リーダーたちは自分の羊とそのニーズを自分よりも優先しなければなりません。(3)

おそらく、ペテロがこの言葉を書いたとき、預言者エゼキエルの言葉を思い浮かべていたのかもしれません。

エゼキエル書34章では、神様がイスラエルのリーダーたちを責められています。それは、神様が彼らにイスラエルの民を導くよう命じられたにもかかわらず、そのリーダーたちは自分のために生きていたからです。

だから、おそらくペテロはそれを覚えていて、クリスチャンのリーダーたちに訓戒を与えていました。

「その羊飼いたちの模範に従ってはいけません。自分の群れを牧しなさい。なぜなら、神様はあなたの責任を問われるからです。」

しかし、ペテロは忠実なリーダーたちを励まし、次のように語りました。

そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠をいただくことになります。(4)

そしてペテロは若い人々に「長老たちに従いなさい」と命じました。(5)

若い人々にとって、自分がすべてを知っていると思い、リーダーたちを批判するのは簡単なことです。けれども、ペテロはこう語ります。

「あなたのリーダーたちに従いなさい。たとえ彼らの意見がいつも正しいわけではなくても、従いなさい。あなたのプライドが原因で教会を分裂させてはなりません。」

そして、ペテロはこう言いました。

みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(5-7)

試練の時、自分のプライドのために人々が喧嘩するのは容易なことです。けれども、ペテロはこう促しました。

「兄弟たちや姉妹たちと話すとき、謙遜な態度を取りなさい。特に神様の御前で謙遜でありなさい。そうすれば、神様はあなたを試練から救い出し、時が来るとあなたを高く上げてくださいます。」

私たちはすべての問題を自分の力で解決することはできません。そのため、神様の御前で謙遜な態度を取るべきです。そして、私たちのすべての思い煩いを神様に委ねるべきです。なぜなら、神様は私たちを深く愛しておられるからです。

しかし、多くの場合、私たちはそうすることができず、平和を見いだせません。私たちのプライドによって、「この問題を自分で対処できる」と思い込むことで、必要のない負担を背負ってしまうのです。

けれども、神様は私たちにこう語られます。「私に信頼しなさい。へりくだり、その問題を私に委ねなさい。そうすれば、私はその問題を解決します。」

また、ペテロは教会に訓戒します。試練を通してサタンは教会を滅ぼそうとします。

しかし、ペテロはこう語ります。

「堅く信仰に立ちなさい。あなたは苦しんでいるかもしれませんが、それはあなたたちだけではありません。あなたたちの兄弟たちと姉妹たちも共に苦しんでいます。だからこそ、互いに励まし合いなさい。」

そして、ペテロはこう言います。

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。(10-11)

その言葉で、ペテロはこの手紙の冒頭の言葉を繰り返して述べています。神様はあなたを召されました。あなたが御子のようになるために、神様は毎日あなたを精錬し、清めておられます。

そのプロセスの一部が、あなたの苦しみなのです。けれども、神様の目的は、あなたがイエス様のために生きることにあります。良い時も、試練の時も、あなたはイエス様のために生きるべきです。

ただし、覚えておいてください。それを自分の力で成し遂げなければならないわけではありません。むしろ、神様の御前でへりくだりましょう。そして、神様に信頼しましょう。

そうすることで、あなたは堅く立ち、強くなり、不動の者となるでしょう。それは、すべて神様の栄光のためです。

キリストにあるあなたがたすべての者に、平安がありますように。(14)

カテゴリー
ペテロの手紙第一

神様の御心に従って生きる(3)

神様の御心について考えるとき、ある重要な真理を深く考える人は恐らく少ないでしょう。その真理とは、時に神様の御心が、私たちが試練と苦しみを経験することである、ということです。

新約聖書を読めば読むほど、この結論は避けられないものだと感じます。

けれども、素晴らしい知らせは、その苦しみを通して神様が栄光を受けられるだけでなく、私たち自身も最終的に栄光を受けるということです。

だから、ペテロはこう言います。

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。(ペテロの手紙第一4:12)

要するに、クリスチャンとしての生活において、試練は避けられないものです。イエス様のために、のけ者にされるのは当然のことなのです。

どうしてでしょうか。

それは、人々がイエス様ご自身をものけ者にしたからです。

ペテロはこう言います。

むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。(13)

言い換えると、「イエス様が不当に苦難を受けられたように、あなたが不当に苦難を経験するとき、それを喜びなさい。ある日、イエス様はこの世に戻られ、その栄光が現れるでしょう。そのとき、あなたは自分の苦難を忘れてしまうでしょう。」

しかし、イエス様が戻られる前にも、私たちには喜ぶ理由があります。ペテロはこう言います。

もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。(14)

その言葉を読むと、私はステパノの話を思い出します。ステパノは石打ちされる直前、自分を告発する人々に直面していたとき、その顔は天使のように輝いていました(使徒の働き6:15)。

さらに、最高法院の人々に迫害された後、使徒たちは祈り、御霊の力で満たされ、大胆に福音を宣べ伝えました(使徒の働き4:31)。

私たちがキリストのために苦しむとき、御霊が私たちの上にとどまり続けてくださいます。だからこそ、ペテロは私たちが祝福されていると言います。

だから、ペテロはこう言います。

しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、このことのゆえに神をあがめなさい。(16)

そして、ペテロはちょっと不思議なことを言います。

さばきが神の家から始まる時が来ているからです。それが、まず私たちから始まるとすれば、神の福音に従わない者たちの結末はどうなるのでしょうか。

「正しい者がかろうじて救われるのなら、不敬虔な者や罪人はどうなるのか。」(17-18)

それはどういう意味でしょうか。

神様はクリスチャンの人生に試練が起こることを許されます。けれども、神様の目的は、私たちを滅ぼすことではありません。むしろ、その試練を通して、私たちは金のように精錬され、キリストのように造り変えられていくのです。

それでも、その試練が楽しいものではないのは事実です。むしろ、そうした試練は苦しいものです。

けれども、神様をずっと拒絶し続けた人々にとって、裁きの日はもっと苦しいものになるでしょう。

だから、どうか心に留めてください。私たちは神様のために苦しむことがあるかもしれませんが、その試練は常に私たちの益となるためのものです。

さらに、私たちの試練を通して神様が栄光を受けられます。なぜなら、私たちはその火を通過した後、精錬された金のように輝くからです。

だから、ペテロはこう言います。

ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。(19)

あなたは落ち着いている時期を迎えているでしょうか。喜び、感謝しましょう。ただし、覚えていてください。私たちは壊れた世界の中で生きているため、試練は必ずやって来ます。

あなたは今、苦しみの中にいるでしょうか。その中でも喜びましょう。なぜなら、その試練は一時的なものであり、あなたを滅ぼすことはないからです。むしろ、その試練はあなたの益となるものです。

いずれの場合であっても、善を行いながら、真実な創造者に自分のたましいをゆだねましょう。そして、あなたを通して神様は栄光を受けられるのです。

カテゴリー
ペテロの手紙第一

神様の御心に従って生きる(2)

多くの人々は、自分の人生における神様の御心を知りたいと願います。

けれども、神様の御心について考えるとき、彼らが求めるのは、「私はどの仕事を選ぶべきか」「誰と結婚すべきか」「どの奉仕活動に参加すべきか」といった具体的な問いに対する答えです。

しかし、ペテロが神様の御心について語るとき、そうした具体的なことには触れていません。むしろ、ペテロは神様の御心を、神様に栄光を与えるために生きることだと定義しています。

多くの人々は「神様の御心を知りたい」と言いながらも、日常生活において、神様の栄光ではなく、自分の栄光のために生きています。

では、どのようにすれば私たちは神様の栄光のために生きることができるのでしょうか。

まず第一に、私たちは互いに愛し合うべきです。ペテロはこう言いました。

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。(ペテロの手紙第一4:8)

ギリシャ語で「熱心」という言葉には、限界を超えるというニュアンスが含まれています。たとえば、ランナーが競走で勝つために自分の限界を超え、さらに速く走ろうとするようなものです。

そのように、私たちも自分の愛の限界を超えて、互いに愛し合うべきなのです。

そのようにしていく中で、私たちは多くの罪を覆います(8b)。つまり、愛によって、私たちは相手の罪や欠点を寛大な心で受け入れ、許すことができるのです。

また、私たちがキリストを知らない人々にイエス様の愛を示すなら、彼らはイエス様に魅せられるかもしれません。そして彼らがイエス様に向かうと、イエス様は彼らの人生に働きかけ、彼らの罪を清めてくださいます。

この意味においても、愛は人々の罪を覆う力を持っています。

いずれにせよ、人々への私たちの愛を通して、私たちは神様に栄光を与えることができるのです。

ペテロは続けてこう言います。

不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。(9)

私たちが苦しんでいるとき、気前の良い態度で人々を助けるために自分を捧げることは、とても難しいかもしれません。しかし、キリストの模範に従い、たとえ苦しみの中にあっても自分自身を捧げるならば、私たちは神様に栄光を与えるのです。

最後に、ペテロは私たちに、神様から与えられた賜物を忠実に活用し、互いに仕え合うことを思い出させます。ペテロはこう言いました。

語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。

すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。(11)

言い換えれば、私たちのすべての賜物が神様から与えられたものであることを忘れてはなりません。

また、その賜物が効果的に用いられるのは、神様の力だけによるということを覚えておく必要があります。その結果として、人々は私たちを称賛するのではなく、神様をほめたたえるようになるのです。

あなたはどうでしょうか。神様の御心を知りたいと願っていますか。神様の御心とは、主に仕事や結婚、あるいは日々の細かな決断に関することではありません。むしろ、簡単に言えば、神様の御心とは次のようなものです。

あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(第一コリント10:31)

あなたは何のために生きているでしょうか。

カテゴリー
ペテロの手紙第一

神様の御心に従って生きる

この手紙の冒頭から、ペテロは私たちに大切な真理を教えています。それは、私たちがイエス・キリストに従うために選ばれた者であるということです。

この真理こそ、この手紙の重要なテーマの一つであり、今日の箇所でペテロはそのテーマに立ち返っています。

私たちは自分に属する者ではありません。私たちは神様に属しています。私たちは自分のためではなく、神様のために生きるべきなのです。それが私たちの態度でなければなりません。

そういうわけで、私たちは自分の苦しみに耐え、自分の罪を捨て去ります。(1-3)

しかし、神様に従うということは、罪を避け、神様のために喜んで苦しむことだけを意味するのではありません。私たちは日々、そして毎秒、神様のために生きるべきなのです。ペテロはこう言います。

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。(ペテロの手紙第一4:7)

言い換えれば、私たちの人生が一時的なものであることを心に留めておく必要があります。イエス様はこの世にもう一度来られます。だからこそ、私たちが何かを行うとき、そのことをしっかり覚えていなければなりません。

この世の快楽や心配が私たちの考え方を曇らせないように注意するべきです。また、罪が私たちの心を支配することを許してはいけません。

なぜなら、それらによって私たちは最も大切なことを忘れてしまうからです。それは、神様とその御国です。私たちは毎日、神様に近づき、できる限り多くの人々を神様の御国へ導くべきです。そして祈るとき、私たちはそのことを考えるべきです。

けれども、私たちの祈りはどれほど自己中心的になっているのでしょうか。

もちろん、私たちが自分自身のために祈ってはいけないというわけではありません。イエス様が祈りの模範を示されたとき、私たちが自分のために祈ることを奨励されました(マタイ6:11)。

しかし、覚えておいてください。私たちは自分のために生きているわけではありません。だからこそ、祈るときは、まず最初に「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈るべきです(マタイ6:10)。

ところが、私たちは自分のことに集中し、この世のものや心配によって自分の考えが曇らされるとき、神様とその御国を忘れてしまいます。また、罪を犯し、再び罪の奴隷となると、私たちは神様とその御国を忘れてしまいます。

だからこそ、ペテロは「祈りのために、心を整え、身を慎みなさい」と言っています。

効果的な祈りを捧げるためには、私たちは心を整え、身を慎まなくてはなりません。

神様の御心にかなう祈りをするためには、心を整え、身を慎むことが必要です。

神様が私たちの祈りに応えてくださるために、私たちは心を整え、身を慎まなくてはなりません。

私たちの心と態度が正しくないなら、神様の御心にかなった効果的な祈りを捧げることはできません。

私たちの祈り方は、私たちの優先順位を反映しています。また、自分の祈りは、どれほど私たちが神様の御心に応じて生きているかを示しています。

では、自分の祈りはあなたについて何を表しているでしょうか。それは、神様の御心に従って生きる人を表しているでしょうか。

カテゴリー
ペテロの手紙第一

私たちの希望

私たちの信仰のために、人々が私たちをあざ笑うとき、私たちが落胆してしまうのは簡単なことでしょう。また、自分の信仰ゆえに迫害されるとき、「どうして」と問いかけたくなるのも自然なことです。

「どうして神様はそれを許しておられるのだろうか。どうして神様は、私たちが苦しむことを許しておられるのだろうか。いつまで、私たちは我慢し続けなければならないのだろうか。」

今日の箇所では、いくつかの答えを見つけることができると思います。ペテロは、私たちが受ける苦しみや迫害をキリストとノアが経験した苦しみや迫害と例えています。ペテロはこう言いました。

キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちのために身代わりとなってくださったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされ、あなたがたを神に導くためでした。

その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところへ行き、宣言されました。それは、かつてノアの時代、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちのことです。

その箱舟に入ったわずかの人々、すなわち八人が、水を通して救われました。

この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。

イエス・キリストは天に上り、神の右におられます。御使いたちも、もろもろの権威と権力も、この方に服従しているのです。(18-22)

ノアが迫り来る裁きと、箱舟による神様の救いを周りの人々に伝えたとき、きっと彼はからかわれ、迫害されたに違いありません。

大洪水が来るまでの何年もの間、彼は迫害され、苦しんだでしょう。どうしてでしょうか。それは、神様が忍耐をもって人々の悔い改めを待ち続けておられたからです。

しかし、最終的に彼らは悔い改めず、裁きの水によって滅ぼされました。

同じように、クリスチャンたちもイエス様のために苦しみ、その苦しみが長いと感じることがあります。でも神様は、今も人々が悔い改めるかどうかを見て、忍耐して待っておられるのです。

そして、ノアの時代の人々に裁きが降りかかったように、イエス様が再びこの世に来られるとき、人々は裁きを受けます。その裁きは確かなものです。おそらくこれが、「捕らわれている霊たち」の話のポイントではないでしょうか。

その「捕らわれている霊たち」が誰であるかについては、少し不明瞭です。

ある学者たちは、その霊たちが人間の女性たちと関係を持ち、罪を犯した堕天使たちであると考えています。ほかの学者たちは、その霊たちはノアの時代に生きていた普通の人間だったと解釈しています。

いずれにせよ、これらの霊たちは霊的な牢に閉じ込められ、神様から遠く離れ、裁きを待っている状態です。

ある学者たちは、キリストがその牢で宣言をされた際、その霊たちにもう一つの悔い改めの機会を与えられたのではないかと推測しています。

けれども、聖書によれば、死後に新たな悔い改めの機会はないとされています(ヘブル9:27)。

おそらく、ペテロが意味したのは、キリストが神様を拒絶した霊たちに対し、御自身の最終的な勝利を宣言されたということでしょう。それを聞いた彼らは、自分たちの運命が完全に決定されたことを悟ったのだと思われます。

しかし、ノアが裁きの水を通して救われたように、イエス様を信じる人たちも、裁きを通して救われるのです。

ペテロによれば、バプテスマはその裁きによる救いを象徴しています。つまり、神様の裁きを通して、この世が清められ、すべてが新しくされるということです。

これこそが私たちの希望です。最終的に、私たちを悔い改めずに迫害する人たちは裁かれます。そして、イエス様を信じる人たちが、神様から恵みと憐れみを受けるということです。

けれども、その日が来るまで、神様は忍耐を持ち、できるだけ多くの人々に恵みと憐れみを与えるために待っておられます。

私たちの苦しみは一時的なものです。ですから、絶望しないでください。

たとえイエス様とその福音のために苦しむことがあっても、それは無意味ではありません。なぜなら、イエス様は王であり、すべての天使たちや、もろもろの権威と権力がイエス様に服従しているからです。

今、私たちの目にはそれが見えないかもしれません。けれども、いつか必ずそれを見る時が来ます。

だから、へブル人への手紙の著者の次の言葉を心に留めておきましょう。

「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。遅れることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。」

しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(へブル10:37-39)

カテゴリー
ペテロの手紙第一

他の人々が生きるために、イエス様のために生きる

この手紙の中で、ペテロは、その読み手たちが苦しむとき、キリストの模範に従うよう促しています。私たちは人々を恐れるのではなく、むしろ、心の中でキリストを主とすべきです。

なぜ、私たちはそうすべきなのでしょうか。それは、私たちの周りの人々が生きるためです。つまり、彼らもまた、私たちが見出したイエス様にある命を見つけることができるようにするためです。

そのために、私たちのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をするべきです。

周りの人々が、私たちが喜んでキリストのために苦しむ姿を見ると、なぜ私たちがそのようにするのか尋ねるでしょう。そのとき、神様は彼らの人生に働きかける機会を与えてくださるのです。

だからペテロは私たちにこう促します。「神のみこころであるなら、善を行って苦しみを受けましょう。そうすれば、周りの人々はそれを見て、魅了され、神の国に入るかもしれません。」

イエス様は、私たちにとって最終的な模範でした。

キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。(ペテロの手紙第一3:18)

言い換えると、「分からないのでしょうか。イエス様の苦しみによって、天国の門はあなたに開かれたのです。だから、周りの人々のために同じように行いましょう。」

そして、苦しみの後に待っている私たちの最終的な勝利について話した後、ペテロはこう言います。

キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。(4:1)

簡単に言えば、イエス様が私たちの救いのために喜んで苦しみを受けられたように、私たちも同じ態度を取るべきです。私たちの罪を捨て、自分のために生きることをやめなくてはなりません。むしろ、神様のために生きましょう。(4:2)

ペテロは続けます。

「今まで、あなたがたは一生を棒に振るようにして、好色、欲望、泥酔、遊興、宴会騒ぎ、律法に反する偶像礼拝などにふけってきました。

そして、あなたの友人たちは、あなたの優先順位が変わり、もはや彼らと一緒にその罪にふけらないことに驚いています。さらに、彼らはあなたを馬鹿にしたり、迫害したりするかもしれません。」(4:3-4)

しかし、ペテロは私たちにこう思い出させます。

彼らは、生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方に対して、申し開きをすることになります。(5)

裁きの日は必ず来ます。イエス様を拒絶したがゆえに、人々は裁かれるのです。だからこそ、ペテロは再び私たちにクリスチャンとしてのミッションを思い出させます。

このさばきがあるために、死んだ人々にも生前、福音が宣べ伝えられていたのです。彼らが肉においては人間としてさばきを受けても、霊においては神によって生きるためでした。(4:6)

どうして私たちは福音を人々に宣べ伝えるのでしょうか。それは、自分の体が死んでも、彼らが神様との永遠のいのちを得るためです。

その真理を忘れてはなりません。裁きの日は迫っています。私たちは救われているかもしれませんが、まだ多くの人々が救いを受けていません。

私たちはその人々のために何をしているのでしょうか。キリストの愛で彼らに触れ、イエス様の愛を示しているでしょうか。彼らは私たちの人生を見ることで、イエス様に魅了され、私たちの信仰の理由について尋ねるでしょうか。

それとも、もしかしたら、私たちはただ自分勝手に生き、他の人々が地獄に行くかどうかを気にしていないでしょうか。

神様は彼らを愛しておられました。イエス様をこの世に送るほどに、神様は彼らを愛しておられたのです。

私たちは、同じように彼らを愛しているでしょうか。

カテゴリー
ペテロの手紙第一

神様のしもべとして生きる(4)

ペテロは、夫婦や奴隷たちがどのように神様のしもべとして生きるべきかについて語った後、私たち全員に向けて話を続けます。

まず、ペテロは私たちの人間関係について話します。

最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。(ペテロの手紙第一3:8)

その言葉を読むと、イエス様の言葉を思い起こさせます。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:34-35)

第一ペテロ3:8では、ペテロがイエス様の言葉をさらに深めて膨らませているように思います。

異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。(ペテロの手紙第一2:12)

しかし、クリスチャンたちが常に喧嘩しているならば、自分たちの証しを失墜させてしまいます。

その後、ペテロは、クリスチャンたちが神様のしもべとして、苦しみや迫害にどのように反応すべきかというテーマに戻ります。

私たちは、この世の模範に従って苦々しい思いを持ったり、相手に復讐したりしてはいけません。その代わりに、私たちは相手を祝福するべきです。(ペテロの手紙第一3:9)

その言葉もまた、イエス様の言葉に似ています。

あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。(ルカ6:28)

また、ペテロによれば、私たちが相手を祝福すると、私たちは神様の祝福を受け継ぎます。だからこそ、私たちは悪に対して悪を返してはいけません。(ペテロの手紙第一3:9)

さらに、ペテロは詩篇34篇を引用しています。簡単に言えば、私たちは自分の言葉遣いに注意し、悪を避け、平和を追い求めるべきだと教えています。(10-12節)

それは簡単なことではありませんでした。特に、ペテロの時代では、それは非常に困難なことでした。ネロ皇帝は宴席の場でクリスチャンたちに火をつけ、彼らをトーチとして使いました。ペテロ自身もまた、ネロの命令によって十字架にかけられました。

それでもなお、ペテロはこう言いました。

たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。(14節)

そして、ペテロはこの箇所の核心を伝えます。

むしろ、心の中でキリストを主とし(なさい)。(15節)

どうして奴隷たちは悪い主人たちに耐えなくてはならないのでしょうか。

どうして妻たちは自分の夫に従うべきなのでしょうか。

どうして夫は自分の妻を敬うべきなのでしょうか。

どうしてクリスチャンたちは互いに愛し合うべきなのでしょうか。

そして、どうして私たちは迫害されるときに悪に背を向け、相手を祝福するべきなのでしょうか。

それは、イエスが私たちの主だからです。そしてペテロは、私たちがイエス様を主とするように訓戒しています。

私たちは、自分が主のしもべであることを心に留めていなくてはなりません。そして、イエス様のしもべとして、私たちはイエス様の光をこの世に照らすべきです。

けれども、自分勝手に生き、神様の御国のためではなく、自分の目的と計画を果たすために生きるならば、私たちはその光を照らすことはできません。

だからこそ、私たちが苦しみや迫害に直面するとき、ペテロは私たちにこう言います。

あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。

そうすれば、キリストにあるあなたがたの善良な生き方をののしっている人たちが、あなたがたを悪く言ったことを恥じるでしょう。(15b-16節)

私たちがキリストのしもべとして生き続けるならば、最終的に周りの人々は、なぜ私たちがそのように生きるのかを疑問に思うでしょう。たとえ私たちを迫害する者たちであっても、その理由を尋ねてくるかもしれません。

彼らがそう尋ねるとき、私たちには彼らを神様の御国へと導く機会が与えられるのです。

しかし、自分勝手に生きているならば、そのような機会を決して見出すことはできません。だからこそ、ペテロはこう言います。

神のみこころであるなら、悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受けるほうがよいのです。(17節)

もちろん、苦しみたいと願う人は誰もいません。けれども、自分の罪のためではなく、神様のしもべとして苦しむならば、私たちは神様の御国が広がるのを目の当たりにし、最終的には神様が私たちに報いを与えてくださるのです。

あなたはどうでしょうか。何のために、そして誰のために生きているのでしょうか。

カテゴリー
ペテロの手紙第一

神様のしもべとして生きる(3)

この手紙の冒頭から、私たちが学んだことは、クリスチャンたちは御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように天の父に選ばれた者である、ということです。

簡単に言えば、私たちは自分自身のためではなく、イエス様のために生きるように選ばれたのです。

今日の箇所では、ペテロは、その真理をどのように私たちの結婚生活に当てはめるかについて話します。

そしてペテロは、まず妻たちにこう言います。

同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。

たとえ、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって神のものとされるためです。夫は、あなたがたの、神を恐れる純粋な生き方を目にするのです。(ペテロの手紙第一3:1-2)

現代では、この教えはあまり受け入れられないメッセージかもしれません。ある人々は、それが当時の時代と文化に限定された教えであると主張します。

確かにその時代、夫や主人たちは今よりも家庭内で大きな権威を持っていました。けれども、パウロもコロサイ人たちへの手紙やエペソ人たちへの手紙で、ペテロと同じことを教えています。

では、特に自分の夫がノンクリスチャンである場合、どうしてクリスチャンの妻たちは彼に従うべきなのでしょうか。その最初の理由は、彼女たちが主のしもべであるからです。そして、イエス様が使徒たちを通してそう命じられたからです。

さらに、そうすることによって、妻たちは自分の夫に対して光となるのです。夫は、自分勝手に暮らしている妻ではなく、主のために生きている妻の姿を見ることになります。

その妻の美しさは、ジュエリーや服装、髪型に基づくものではありません。むしろ、その美しさは新しくされた心から来るものです。その心は、彼女を救ってくださった主を映し出しています。

夫がそれを見ると、妻に対してさらに魅力を感じるかもしれませんし、主にも心を惹かれるかもしれません。神様のしもべとして、そして使節として、それこそが私たちの役割なのです。

時として、妻たちには恐れがあります。それは、自分の夫に従うことで、彼に操られるのではないかという恐れです。残念ながら、そのようなことが現実に起こる場合もあります。

しかし、ペテロは妻たちにサラの模範に従うよう促しています。つまり、恐れに屈することなく、自分の夫に従い、善を行うことです。(6)

そうすれば、神様はあなたを賞賛してくださいます。

ただし、前回の記事でお伝えしたように、あなたが虐待を許容すべきだという意味ではありません。虐待されている場合は、逃げるべきです。そして、自分を守らなくてはいけません。それでもなお、イエス様が示された態度を取るべきです。

(イエス様は)ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。(第一ペテロ2:23)

その反面、クリスチャンの夫たちもまたイエス様のしもべであることを忘れてはなりません。そして、自分の妻が自分のしもべではないことも覚えていなくてはならないのです。

あなたの妻はキリストのしもべであり、キリストにあってあなたの姉妹です。また、彼女はあなたと共にいのちの恵みを受け継ぐ者です。だからこそ、ペテロはこう言います。

同じように、夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい。また、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りは妨げられません。(7)

あなたは、自分の妻が自分よりも体力的に弱いかもしれないし、繊細な人かもしれないと思うでしょう。けれども、あなたには妻をいじめる権利はありません。イエス様が彼女を敬われるように、あなたも妻を敬わなくてはならないのです。

彼女は、あなたと共にいのちの恵みを受け継ぐ者です。それを忘れるなら、神様はあなたの責任を問われます。

ペテロによれば、もしあなたが妻を優しく扱わないなら、神様はあなたの祈りを聞いてはくださらないのです。

だから覚えておきましょう。あなたとあなたの配偶者は共にキリストのしもべです。それを心に留め、互いに敬い合い、そして愛し合わなくてはなりません。

あなたはどのように、自分の配偶者を扱うのでしょうか。

カテゴリー
ペテロの手紙第一

神様のしもべとして生きる(2)

多分、ペテロの時代においては、他のどんな人々よりも、奴隷たちにとって権威に従うことは最も難しいことであったでしょう。

彼らにとって、キリスト教の教えの魅力の一つは、奴隷も自由人もなく、クリスチャン全員がキリスト・イエスにあって一つであるということでした。(ガラテヤ3:28)

それでも、彼らにとってその真理はまだ完全に実現していませんでした。なぜなら、彼らは依然として奴隷であったからです。

中には優しい主人もいましたが、そうではない主人もおり、時には何も悪いことをしていないのにむち打たれることさえありました。そのような状況で、ある奴隷たちは反逆したり、逃げようと考えたかもしれません。

しかし、ペテロは彼らにこう言ったのです。

しもべたちよ、敬意を込めて主人に従いなさい。善良で優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも従いなさい。もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。

罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。(ペテロの手紙第一2:18-20)

簡単に言うと、たとえ主人が尊敬に値しなくても、私たちは尊敬しなくてはなりません。主人を尊敬する人は、神様のしもべとしてふるまい、それによって神様の称賛を得るのです。

もちろん、日本には奴隷制はありません。もし私たちが自分の上司を嫌っているなら、その働きを辞めることも可能です。

それでも、もしかしたら、あなたは悪いことをしていないのに虐待された経験があるかもしれません。

あるいは、権威を持つ人があなたを虐待していて、逃げることが難しいと感じているかもしれません。その人が親である可能性もありますし、先生である可能性もあります。

また、仕事を辞めることができない状況で上司に虐待されている場合もあるでしょう。あなたは虐待されているのに、どうすることもできず、逃げられないと感じているかもしれません。

そのような状況において、無礼な態度を取り、自分の傷のために相手を傷つけようとするのは簡単なことです。

しかし、キリストのしもべはキリストの模範に従います。特に苦しむとき、キリストのしもべはキリストの足跡に従います。(21)

キリストは唾を吐かれ、そしられ、打たれ、そして十字架にかけられました。それでも、

キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。(22-23)

どうしてイエス様はそのようになさったのでしょうか。それは、私たちのためです。

イエス様は、私たちが罪の道を歩み続け、自分勝手に生きるためにそうなさったわけではありません。むしろ、イエス様は、私たちが罪を離れ、義のために生きるためにそうなさいました。私たちがイエス様のしもべとして、また使節として生きるために、イエス様はそのようになさいました。(24)

私たちはかつて、神様から遠く離れ、自らの人生をめちゃくちゃにしていました。けれども、イエス様を通して、神様が私たちを癒してくださったので、私たちは自分のたましいの牧者であり、監督者である方のもとへ帰ることができました。(24-25)

だからこそ、私たちは自分の古い人生に戻ってはいけません。たとえ相手があなたを故意に傷つけたとしても、相手を傷つけるべきではありません。

むしろ、神様のしもべとして生きましょう。イエス様の模範に従い、私たちを傷つける人たちに対しても神様の代表者となり、光を照らしましょう。

ただし、誤解しないでください。もし、あなたが危険な状況にあるなら、自分のいのちを守らなくてはなりません。その場合は逃げるべきです。

それでも、イエス様が自分を傷つけた人たちに対してふるまわれたように、私たちもその模範に従ってふるまうべきです。

そうするなら、神様はそれをご覧になり、最終的にあなたに報いを与えてくださいます。

カテゴリー
ペテロの手紙第一

神様のしもべとして生きる

以前の記事で私は言いましたが、あるクリスチャンたちは神様を自分の人生のアップグレードとして考えます。そういうわけで、彼らはほとんどいつも通りの生活を続けながら、自分の人生に宗教的な要素を付け加えます。

例えば、彼らは教会に行ったり、祈ったり、聖書を読んだり、ある悪い習慣を捨てたりします。けれども、それ以外の点では、自分勝手に生きているのです。

しかし、神様はただ私たちの人生をアップグレードしたいとは思っておられません。神様は私たちの主になりたいのです。

さらに、神様はただ私たちの人生を改良したいと思っているのではありません。神様は私たちを新しい者にしたいと望んでおられるのです。

神様は、私たちがイエス様のようになり、この世の人々に神様の代表者となるようにと望んでおられます。

だからこそ、ペテロはこう言うのです。

異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。(ペテロの手紙第一2:12)

その言葉は、イエス様の言葉に似ています。

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。(マタイ5:16)

キリストのしもべとして、私たちはこの世におけるイエス様の代表者です。私たちはもはや自分のために生きるのではなく、むしろイエス様の代表者として生きるのです。

だからこそ、神様は私たちの言動を気にかけておられます。というのも、私たちの言動によって、神様の御名が栄光を受けることもあれば、逆に恥をかけられることもあるからです。

私たちが神様を反映する方法の一つは、権威にどのように反応するかということです。私たちは神様が立てられた政府に尊敬を払うべきでしょうか。ペテロによれば、私たちはそうすべきです。(13-14)どうしてでしょうか。

善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることは、神のみこころだからです。(15)

私たちが政府を尊重しない、つまり、権威を持つ人を尊重しない場合、私たちが代表する神様の御名を汚すことになります。そのうえ、それを人前で行うと、さらにその影響は大きくなります。

パウロは、大祭司の命令で打たれたときにもそれを心がけました。(使徒の働き23:2-5)

しかし、16節で私たちはペテロの主な要点を見ることができます。

自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。(16)

簡単に言うと、私たちは宗教のルールから解放されました。

けれども、その自由は罪や自分勝手な生活の言い訳として使うべきものではありません。私たちはもはや自分自身のものではないのです。なぜなら、私たちは代価をもって買い取られたからです。(第一コリント6:19-20)

だからこそ、神様のしもべとして生きましょう。では、そんな人生とはどのようなものでしょうか。ペテロはこう言うのです。

すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を敬いなさい。(17)

あなたはどうでしょうか。あなたは良い代表者として生きているでしょうか。周りの人々があなたを見るとき、彼らはあなただけを見ているのでしょうか。それとも、もしかしたら、彼らはあなたを通して神様を見るでしょうか。

カテゴリー
ペテロの手紙第一

私たちがこの世に属しないから

私は日本に25年以上住んでいるので、時々、自分が国のない人間のように感じることがあります。もちろん、私はアメリカ人ですが、長い間アメリカを離れているため、その文化がどのように変わり、何が移り変わったのかをよく知りません。

一方で、日本に長年住んでいるにもかかわらず、私は多くの意味でまだ外国人であると感じています。それでも、「国のない人」であることは、必ずしも悪いことではないと思います。なぜなら、私はこの世に属していないからです。

もしあなたがクリスチャンであるなら、あなたもこの世に属していません。イエス様は大きな代価を支払って私たちを買い取られました。

けれども、イエス様がその代価を支払うために用いられたのは金でも銀でもなく、ご自身の血です。(ペテロの手紙第一1:18~19)

さらに、私たちが神様の民となるために、イエス様は私たちを買い取ってくださったのです。

私が以前言ったように、ペテロの手紙の重要なテーマの一つは、私たちが旅人であり、寄留者であるということです。つまり、私たちはこの世に属していません。

ペテロはこの真理の意味をさらに具体的に説明します。彼はこう言うのです。

ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず、むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。

「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。(ペテロの手紙第一1:13-16)

簡単に言うと、私たちは旅人であり寄留者であるため、未来の困難に備えて心構えをしておく必要があります。私たちはキリストのために苦しみや迫害を経験するかもしれません。

しかし、私たちは揺らいではいけません。自分の古い人生を振り返り、それに憧れてはいけません。むしろ、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望むべきです。

その恵みとは何でしょうか。それは永遠のいのちです。また、それは朽ちることも、汚れることも、消え去ることもない天の資産です(1:4)。

この希望ゆえに、私たちは自分を滅ぼしかねない悪い欲望に従わず、神様に従うべきです。私たちは神様のようになるように努めるべきです。天の父が完全であるように、私たちも完全であるように努めるべきです。

罪によって、私たちの人生が壊れることはしばしばあります。もし、私たちが罪にしがみつけば、私たちの状態はさらに悪化します。

けれども、自分の罪を捨て、神様に立ち返り、神様の道を歩むなら、私たちの人生は癒され、完全なものとなります。そして、裁きの日に私たちは報いを受けるのです。

だからこそ、ペテロはこう言います。

また、人をそれぞれのわざにしたがって公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、この世に寄留している時を、恐れつつ過ごしなさい。(17)

「この世に寄留している時を、恐れつつ過ごす」とは、どういう意味でしょうか。私たちはどうするべきでしょうか。

1.毎日、信仰と希望と愛を持って生きるべきです。

私たちは、神様がご自身の約束を守られることを信じているので、希望を持っています。(1:21)また、神様の命令に従い、互いに愛し合うべきです。(1:22)

2.永遠の命を心に留めるべきです。

私たちは、自分が得る命が永遠のものであることを覚えるべきです。この世での人生は短いですが、それは永遠の命への準備です。(1:23-25)

3.毒を捨てるべきです。

私たちは、自分の中にある毒を捨てる必要があります。例えば、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口といったものです。(2:1)

これらの毒や悪い欲望は私たちの魂と戦い、その戦いに負けると私たちは滅びてしまいます。(2:11)

むしろ、私たちは神様の乳、つまり、み言葉を慕い求めるべきです。そうすることで、神様の子供として私たちは成長するのです。(2:2)

4.最も大切なのは、私たちがこの世が拒絶したイエス様に近づくべきだということです。

私たちは神様の家に属する者としてイエス様に近づくべきです。私たちはイエス様が建てている家の一部であるべきです。さらに、私たちは神様の祭司として、自分の言動を通して霊のいけにえを捧げるべきです。(2:4-8)

そうするなら、私たちは暗闇に陥れられた世の人々に対して光となるのです。(2:9-12)

だから、私たちが誰であるかを覚えていましょう。

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。

それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。

あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。(9-10)

カテゴリー
ペテロの手紙第一

私たちの希望の理由

ペテロの読み手たちは迫害を受けていました。おそらく、その時のローマ皇帝はネロだったと考えられます。

具体的にペテロがこの手紙を書いた時期は不明ですが、おそらくネロがクリスチャンたちを迫害し始めた頃、またはその直後だったのでしょう。

その当時、クリスチャンたちが絶望に陥るのは容易なことでした。そこで、ペテロは彼らに希望の理由を思い出させました。

その希望の理由は、1-2節に記されている真理に基づいています。

つまり、神様がその予知により彼らを選び、イエス様の血によって彼らを清めたという事実です。また、彼らがイエス様に従うように、神様は御霊によって彼らを聖別してくださったのです。

そして、ペテロはさらに具体的にそのことについて説明していきます。

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。

また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。

これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。(ペテロの手紙第一1:3-5)

その言葉によって、私たちは希望の基礎を見ることができます。それはイエス様の復活です。

イエス様の復活によって、神様はイエス様の十字架の生贄が罪の罰を完全に支払うのに十分であることを証明してくださいました。そして、その同じ復活によって、私たちは永遠のいのちの希望を持つことができるのです。

だからこそ、イエス様は弟子たちにこう言われました。

わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。(ヨハネ14:19)

神様の憐れみによって、神様は私たちに新しい命を与えてくださいました。そして、私たちの救いは確実に保証されたものです。

サタンが私たちを滅ぼそうとしているとしても、私たちが信仰によって立ち続ける限り、イエス様が再びこの世に来られるその日まで、神様とその力は私たちを守ってくださいます。

その日、私たちは朽ちることも、汚れることも、消えていくこともない資産を受け継ぐのです。

だからこそ、ペテロはこれを言うことができるのです。

そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。

今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。(6-7)

どうして試練の中で私たちは喜ぶことができるのでしょうか。それは、その試練が一時的なものであるからです。

神様は私たちを滅ぼすためにその試練を許されるわけではありません。むしろ、試練を通して神様は私たちを清め、イエス様の形へと変えようとしておられます。

イエス様ご自身も大きな苦しみを経験されました。だからこそ、私たちがイエス様の苦しみを経験するとき、私たちはイエス様のようになっていくのです。

では、どのように苦しみを通して私たちはイエス様のようになっていくのでしょうか。その試練は、私たちがこの世に住んでいるものの、実際にはただの在留外国人であることを思い出させます。

前回の記事で述べたように、私たちはこの世に属していないのです。その真理を理解するにつれて、私たちは一時的なものではなく、永遠のものに目を向けるようになります。

私たちは一時的な喜びを約束する罪を捨て、永遠の喜びを与えるものを追求します。そして、この世の汚れは私たちから取り除かれ、金のように純粋になります。

だからこそ、ヨブはこう言いました。

しかし神は、私の行く道を知っておられる。私は試されると、金のようになって出て来る。(ヨブ23:10)

ペテロによれば、このすべては神様の称賛と栄光と誉れをもたらします。なぜなら、神様が私たちを選んでくださったからです。けれども、同時に私は、神様が私たち自身にも称賛と栄光と誉れを与えてくださるという確信を持っています。

だからこそ、ペテロはこう言います。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。(8-9)

あなたが試練に直面しているとき、その言葉を自分に当てはめることができるでしょうか。もしそうできないのであれば、根本的な真理を思い出す必要があります。それは、神様があなたを愛し、ご自身の子供として選んでくださったということです。

そして、イエス様の十字架を思い出しましょう。そこで、イエス様はあなたの救いの代価を完全に支払ってくださいました。

また、イエス様の復活を思い出しましょう。その復活によって、あなたは自分自身の復活の希望を持つことができます。そして、将来の天にある遺産を思い出しましょう。

そうすることで、ヨブのように、あなたは金のように純粋になって出てくるのです。

カテゴリー
ペテロの手紙第一

私たちが誰でしょうか。私たちがどんな人になるように呼ばれるか。

私は普段、新約聖書にある手紙の挨拶にあまり注意を払わないのですが、この場合、ペテロの挨拶はこの手紙全体の内容を見事にまとめています。

まず最初に、ペテロは自身について述べ、その後、この手紙の読み手が誰であるかについて触れています。

イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち。。。(ペテロの手紙第一1:1)

この聖句では、私たちは、自分が誰であり、どのような人になるように神様に呼ばれたのかを見ることができます。

ペテロは私たちのことを、神様に選ばれた人々と呼んでいます。私たちが他の人々よりも優れているから選ばれたわけではありません。

むしろ、神様はその恵みによって私たちを選び、救い、そしてご自身の子供としてくださったのです。私たちの偉大さではなく、神様の恵み深さゆえに、私たちは選ばれました。

さらに、ペテロは私たちを「この世に散って寄留している人」と呼びます。

通常、「散って寄留している人」という言葉は、イスラエルを離れ、他の国々に散って住んでいるユダヤ人を指します。けれども、ペテロはこの言葉をすべてのクリスチャンに当てはめています。

つまり、私たちは本来、天の国の市民ですが、今はこの世に散って、在留外国人として生活しているということです。このテーマは、この手紙の中で何度も繰り返し見ることができます。

ペテロは続けてこう言います。

すなわち、父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。(1-2b)

ペテロによれば、神様はご自身の愛ゆえに、私たちを選び、キリストの血によって私たちを罪から清めてくださいました。

けれども、それだけにとどまらず、神様は今も私たちの中で働き続けておられます。毎日、神様は私たちを清め、私たちが完全にイエス様のようになるまで働いてくださいます。

さらに、私たちは自分のために生きるように呼ばれたのではありません。むしろ、私たちはイエス様に従うように呼ばれました。イエス様は私たちの王であり主であるべきで、私たちはイエス様のしもべとして生きるべきです。

私たちはそのように自分自身を見るべきです。この手紙を理解したいと思うなら、まず、自分が誰であり、そしてどのような人になるように呼ばれたのかを理解する必要があります。

しかし、多くの場合、私たちはそのことを理解していません。多くのクリスチャンはその真理を十分に把握していません。むしろ、彼らはクリスチャンとしての生活を、古い生活のアップグレード版と見なしています。

けれども、神様は私たちの人間性をアップグレードすることに興味があるのではありません。神様は私たちを完全に新しい人へと変えたいと望んでおられます。私たちはその生き方を通して御子を反映するべきです。

また、この世を自分の自宅として見なすべきではありません。むしろ、自分を天の国の市民と見なすべきです。

そのために、神様はイエス様をこの世に送り、イエス様は私たちの罪のために命を捧げられました。そして、イエス様は聖霊をすべてのクリスチャンに送ってくださいました。聖霊は今も私たちをイエス様の形へと変え続けておられます。

あなたはどうでしょうか。あなたは自分が誰であるかを理解しているでしょうか。あなたはどのような人になるように神様に呼ばれたのか、知っているでしょうか。

それとも、あなたはこの世の市民として生きているでしょうか。この世に属する者として振る舞っているのでしょうか。

もしあなたがクリスチャンなら、もはやこの世に属していません。

神様はご自身のためにあなたを造られました。そして、神様はあなたをイエス様に従う者として選び、聖霊によって清めてくださったのです。

この真理を理解せず、自分のために生き続ける限り、あなたは、自分が誰であるか、どのような人になるように呼ばれたのかを知ることはできないでしょう。

あなたはどうでしょうか。その真理を把握し、心に留めているでしょうか。