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イエス様を悲しませる?

私たちがこの三つの箇所をまとめると、この話全体を理解することができると思います。

イエス様は会堂におられ、片手のなえた人をご覧になりました。同時に、イエス様はパリサイ人たちと律法学者たちの存在にも気づかれました。そして彼らは、イエス様がその人を安息日に癒やすかどうかをじっと見守っていました。(マルコ3:1-2)

イエス様は、彼らの思いをよく知っておられました。そのため、イエス様は片手のなえた人を呼ばれました。その時、そのリーダーたちはイエス様にこう尋ねました。

安息日にいやすのは正しいことでしょうか。(マタイ12:10)

イエス様は、いつものように、質問で答えられました。

あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。(ルカ6:9)

もちろん、そのリーダーたちはその質問に答えることができませんでした。

もし彼らが「安息日に善を行うのはだめです」または「命を救うのはだめです」と答えたなら、彼らは愚か者と見なされたでしょう。

しかし、もし彼らが「善を行ってもよいです。命を救ってもよいです。」と答えたなら、イエス様は「よし、この人を癒やします」と言われたことでしょう。

さらに、彼らはもちろん「悪を行うのは良いです」または「命を失うのは良いです」と全く言えませんでした。

そのため、彼らはずっと沈黙を守り続けました。英語のことわざには真理があると思います。「Better to remain silent and be thought a fool than to speak and to remove all doubt.」

つまり、「黙っていることで周りの人々に愚か者だと思われる方が、言葉によってそれがはっきり知られるよりも良いです。」ということです。

ルカはイエス様が彼らの答えを待っていたと記していますが、マルコはさらに詳しい情報を教えてくれます。

イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆き[ました。] (マルコ3:5)

だから、イエス様は、彼らにもう一つの質問を投げかけられました。

あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。(マタイ12:11-12)

つまり、「あなたは自分の羊を助けるでしょう。どちらの方が大切でしょうか。羊でしょうか、人間でしょうか。もし、人間の方が大切であるなら、どうして私が安息日に人を癒やすと、あなたたちは私を責めるのでしょうか。」

こうして、イエス様はご自身の疑問に答えられました。

それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。(マタイ12:12b)

そして、イエス様はその人を癒やされました。

この話には皮肉な点があります。イエス様は彼らに「安息日にしてよいのは、いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」と尋ねられました。

そのリーダーたちは、この出来事の後、イエスをどのようにして殺すかを相談し始めました。彼らは安息日にそのことを考え始めたのです。(マルコ3:6)

けれども、もう一つのことが私の心に深く響きます。

イエス様は彼らの頑なな心をご覧になり、嘆かれました。彼らの伝統と律法主義的な考え方によって心が固くなりすぎていたため、神様の言葉と真理がその心を貫くことはできませんでした。

彼らは心の中で、自分たちが間違っていることに気づいて、沈黙しました。それでも、自分たちの間違いを認めることはありませんでした。

あなたはどうでしょうか。神様に対して頑なな心を持っていませんか。

もしかすると、あなたの行動や思いが間違っているために、神様が語りかけておられるのかもしれません。そして、その言葉を通して、自分の誤りに気づき、変わらなければならないと示されることもあります。

それでもなお、自分の間違った考えや罪にしがみついてしまうでしょうか。もしそうなら、あなたは神様を悲しませてしまうことになります。

なぜなら、神様はあなたの最善を望んでおられるからです。けれども、罪によってあなたは神様だけでなく、周りの人々、そして自分自身をも傷つけてしまいます。

だから、あなたの心を開いてください。神様のみ言葉を受け入れてください。そして、私たちのために死なれたイエス様を悲しませることのないようにしましょう。むしろ、イエス様を喜ばせましょう。

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罪のない者たちを罪に定めはする?

以前の記事では、私たちは宗教的なリーダーたちが、イエス様が安息日を破ったと責めたことを見ました。しかし実際には、イエス様は神様の安息日に関する律法を破ったわけではありません。イエス様が破ったのは、彼らが作った余計なルールでした。

この箇所でも、イエス様は宗教的なリーダーたちと安息日について議論されます。イエス様とその弟子たちが麦畑を通っていた時、弟子たちはお腹が空いたため、穂を摘んで食べ始めました。

(その時代、それは合法的な行為でした。申命記23:25に記されています。)

けれども、パリサイ人の目には、穂を摘む行為は仕事と見なされました。そして、律法では安息日に仕事をしてはならないとされていました。

それに対して、イエス様は二つの理由を挙げてその考え方を否定されました。

一つ目は、祭司たちが安息日に働いていても、それが罪とは見なされなかったことです。

二つ目は、ある律法はほかの律法よりも優先されるべきだということです。つまり、命を守ることは安息日の律法よりも重要だということです。この点については、パリサイ人もある程度同意していました。

例えば、誰かが死にかけている場合、お医者さんはその人が次の日まで生き延びられるように治療を行い、その後、その人を完全に治療しました。

そして、もう一度、イエス様は預言者ホセアの言葉を引用されます。

「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。(マタイ12:7)

多くの人々は、神様の目にはルールを守ることが最も重要なことであると思っています。そして、彼らは神様が私たちを罰する機会を待っていると考えています。

けれども、実際には神様はルールを守ることよりも、人々自身を大切にされます。

パリサイ人はこのことを理解しておらず、神様の律法を守るために、たくさんの余計なルールを作り出しました。そして、その余計なルールを守らない人を見ると、パリサイ人はその人を責めました。

しかし、イエス様は彼らにこう言われました。

安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。(マルコ2:27)

神様が立てられたルールはすべて正しいものです。それらのルールは、私たちの利益のために存在しています。

私たちはそのルールのために造られたのではありません。神様は、私たちを支配するためではなく、私たちを祝福するためにそのルールを作られました。

その原則を理解すれば、ルールの目的を正しく把握し、それを私たちの人生に適切に当てはめることができます。

、その原則を理解しなければ、パリサイ人のようにルールの本質が分からず、間違った方法で当てはめてしまうでしょう。それだけでなく、私たちは神様の目に無実の人を責めることになりかねません。

あなたはどうでしょうか。神様のルールをどのように考えているでしょうか。それらを余計なルールだと思っているでしょうか。

あるいは、それらのルールがあなたの利益のためだと理解しているでしょうか。そして、そのルールの背後にある理由を正しく理解しているでしょうか。

そのように理解すれば、無実の人を責めることはなくなるでしょう。

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神様があなたを用いるために

ユダヤ人の宗教的なリーダーたちは、しばしばバプテスマのヨハネをイエス様と比較し、ヨハネの弟子たちに嫉妬心を抱かせようとしました。そして、ヨハネの弟子たちは、たびたびその罠にかかってしまいました。

ヨハネ3章では、あるユダヤ人(おそらくユダヤ人のリーダー)がヨハネの弟子たちにこう言いました。「イエス様があなたたちよりも多くの人々にバプテスマを授けていることを知っていますか。」

この箇所では、宗教的なリーダーたちの言葉によって、ヨハネの弟子たちはイエス様に「どうして断食しないのですか」と質問します。

なぜパリサイ人や他の宗教的なリーダーたちは、いつもバプテスマのヨハネとイエス様を比べたのでしょうか。それは、ヨハネがイエス様の証人だったからかもしれません。

ヨハネはイエス様のために道を整えましたが、もしヨハネとその弟子たちがイエス様を批判し始めるなら、その証言は台無しになってしまったでしょう。

イエス様が結婚式の比喩を用いられたのは偶然ではないと思います。なぜなら、ヨハネ3章でバプテスマのヨハネも同じ比喩を用いたからです。その時、ヨハネは自分自身を花婿の友人と比較し、イエス様を花婿と比べました。

そのため、イエス様はヨハネの弟子たちにヨハネの言葉を思い起こさせようとされたのかもしれません。

その時、ヨハネは牢に入っていました。彼の役目は終わっていたのです。それでも、なぜかヨハネの弟子たちはイエス様に従おうとしませんでした。彼らはアンデレの模範に従うべきだったのです。(ヨハネ1:35-40)

イエス様は彼らにこう言われました。

「ヨハネは、あなたたちに私が花婿だと語りました。花婿と共にいる時に、どうして周りの人々が断食したり悲しんだりする必要があるでしょうか。花婿が取り去られる時には断食するのが良いでしょう。

とはいえ、その時はまだ来ていません。私はまだここにいるのです。私が去る時が来たなら、その時、断食し、祈りなさい。」

そして、イエス様はたとえ話を語られました。イエス様は皮袋と衣服の継ぎについて話されました。その時代の人々には、このたとえがよく理解されていましたが、現代の私たちには少し分かりにくいかもしれません。

少し考えてみてください。もし古いジーンズに穴が開いたなら、新しいデニムの継ぎでそのジーンズを修繕しますか?それではうまくいきません。そのジーンズを洗うと継ぎが縮んでしまい、ジーンズ全体が裂けてしまうからです。

現代では、私たちはワインをビンに保存します。けれども、その時代の人々はワインをヤギの皮袋に入れていました。そのワインが発酵すると皮袋は膨らみます。しかし、新しいワインを古い膨らんだ皮袋に入れると、その皮袋はすぐに裂けてしまうのです。

では、イエス様はヨハネの弟子たちに何を教えようとされたのでしょうか。

「神様は新しいことを始めています。私は神の子としてここに来ました。罪によって滅びかけている人々に手を差し伸べています。私は永遠の御国を築いています。

けれども、あなたたちは古い皮袋のようです。あなたたちが自分の伝統や古い方法を愛しすぎるために、神様はあなたたちを用いることができません。」

パリサイ人は律法を愛しました。彼らにとって最も重要なのは人を救うことではなく、律法を守ることでした。彼らは人々を救うよりも、いけにえを捧げたり宗教的な儀式を行うことに関心がありました。

ヨハネの弟子たちは自分の師をあまりにも愛しすぎて、ヨハネの目的を忘れてしまいました。

その目的は単に人々にバプテスマを授けることではありませんでした。その目的は単に悔い改めのメッセージを伝えることでもありませんでした。その目的は人々の心をイエス様のために準備することだったのです。

しかしヨハネが牢に入れられた時、彼らはイエス様の元へ行かず、神様が彼らに与えた目的を逸れてしまいました。

神様はイエス様のミニストリーを通して、新しいぶどう酒(つまり、聖霊の働き)を人々に注いでおられました。それでも、ヨハネの弟子たちはヨハネの教えと伝統的な修行に固執して、「古い物の方が良い」と言ったのです。(ルカ5:39)

あなたはどうでしょうか。あなたの人生に聖霊の働きを歓迎していますか。

それとも、伝統にしがみついているでしょうか。律法主義にしがみついているでしょうか。それとも、古い方法に固執しているでしょうか。その方法が以前は効果的だったかもしれませんが、今はそうではないかもしれません。

もし神様があなたを用いることを望んでいるなら、神様が何をしているのかを見て、その働きに参加する必要があります。そして、あなたの伝統や古い方法を手放す必要があるかもしれません。

あなたは古い皮袋でしょうか。それとも新しい皮袋でしょうか。

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憐れみを与える人

この箇所では、イエス様とその時代の宗教的なリーダーたちの大きな違いが見えてきます。

イエス様がマタイを選ばれたことで、マタイは本当に嬉しくなり、イエス様を宴会に招待しました。マタイは自分の友人たちも招きました。

もちろん、マタイがイスラエルでのけ者だったため、彼の友人たちは皆、のけ者でした。その友人たちには取税人や「罪人」と呼ばれる人々が含まれていました。

それでも、イエス様はためらうことなく宴会に来られ、マタイやその友人たちと一緒に食事をされました。

私たちはどれほどそのようなことをするでしょうか。どれほど、宗教的な人たちが拒絶した人々と付き合おうとするでしょうか。

もしかすると、マタイは悔い改めていたかもしれませんが、その友人たちはまだ悔い改めていなかったかもしれません。それでも、イエス様は彼らと時間を過ごされました。さらに、イエス様はその時間を心から楽しまれました。

では、宗教的なリーダーたちはどう反応したでしょうか。彼らは驚きました。

少し想像してみてください。もし有名な牧師がゲイの人たちと一緒に食事をし、飲んでいたら、ほかの牧師たちはどう反応するでしょうか。日本では分かりませんが、アメリカでは、おそらくその牧師を批判するでしょう。

パリサイ人も同じように反応しました。「いったいどうしてそんな人たちと遊ぶことができるのだろうか。彼らは最低な罪人なのに。」

しかし、イエス様はこう言われました。

医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。(マルコ2:17)

つまり、私たちはこのような人たちとも関わらなくてはなりません。彼らは自分では気づいていないかもしれませんが、霊的に病んでいます。彼らにはお医者さんが必要なのです。

もし私たちが彼らを避けたら、彼らは自分の罪のゆえに滅びてしまうでしょう。

マタイがその場にいたため、彼はマルコやルカが記録していない一つのことを私たちに伝えてくれました。イエス様は、さらにもう一つのことを言われ、マタイはその言葉を一生忘れませんでした。

イエス様は、その宗教的なリーダーたちにこう言われたのです。

「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。(マタイ9:13)

つまり、「あなたたちは律法や自分たちの伝統に非常に熱心です。律法の細かい部分を守り、さまざまないけにえを捧げるために一生懸命努力しています。けれども、神様にとって、それが最も大切なことではありません。

神様が望んでおられるのは、あなたたちが憐れみを与える人になることです。

神様は、罪に縛られた人々を助ける人を求めておられるのです。あなたたちは、そのような人たちと時間を過ごすべきです。そのような人たちに福音を伝えるべきです。

しかし、あなたたちが彼らを避けている限り、彼らは救いの希望がないのです。

あなたはどうでしょうか。罪人を避けているでしょうか。彼らの罪のゆえに、彼らを見下しているでしょうか。

それとも、イエス様の態度を見習い、彼らを医者を必要とする病める人々とみなし、救い主を必要としている人々だと考えるでしょうか。

毎日、私たちは周りの人々に憐れみを示しましょう。神様はそのような人々を望んでおられるからです。

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救われる希望がない?

私はこの箇所が大好きです。なぜなら、この箇所から私たちは重要なことを学べるからです。つまり、たとえ私たちがどんなに堕落していても、神様は私たちを救おうとしてくださるのです。

ある日、イエス様は収税所に近づき、マタイという取税人をご覧になりました。マタイがイエス様を見たとき、彼は心の中で何を考えたのでしょうか。

私には分かりませんが、多分、彼は深い後悔の念を抱いていたことでしょう。彼は数年前、自分の魂を売るような選択をしてしまったからです。

イスラエル人は取税人を非常に嫌っていました。収税人はローマ帝国のために税金を徴収していたため、彼らは敵に協力する者と見なされていました。

さらに、彼らはローマ帝国が要求する税額以上のお金をイスラエル人同士から取り上げ、その余分な金を自分のポケットに入れていました。

どうしてマタイがその道を選んだのかは分かりません。しかし、多分、時間が経つにつれて、そのお金の価値は彼の中で失われていったのでしょう。つまり、彼が何を買っても満足できず、ますます惨めになったのです。

マタイはイエス様を見ると、多分イエス様について行った群衆を羨ましいと思ったかもしれません。彼もまた、イエス様について行きたかったのではないでしょうか。

彼はイエス様の教えを耳にし、イエス様が行われた奇跡についても聞いていました。そして、イエス様に従えば、その惨めな人生から救われると思ったのかもしれません。

けれども、多分彼はこうも考えたでしょう。「それは無理だ。私はもうだめだ。イエス様は決して私のような者を弟子として受け入れないだろう。」

ところが、突然イエス様は、マタイが座っている収税所の前で立ち止まられました。そして、イエス様はマタイに目を留められました。マタイがイエス様の目を見ると、多分、自分の心のすべてが見透かされたと感じて恥ずかしくなり、頭をうなだれたことでしょう。

でも、イエス様は「マタイ」と名前を呼ばれました。

マタイが再びイエス様の目を見ると、その中に叱責は見えませんでした。むしろ、慈悲がありました。赦しがありました。

そして、イエス様はこう言われました。「私について来なさい。」

それはとても単純な言葉です。「私について来なさい。」

でも、その言葉には、深い意味がありました。「あなたにとって、遅すぎることはありません。私はあなたを赦します。あなたには希望があります。救いがあります。私について来なさい。」

だから、マタイはすべてを捨てて、イエス様について行きました。もちろん、彼の心の中にはまだ罪が残っていました。けれども、その日、彼は新しい人生に踏み出しました。

あなたはどうでしょうか。あなたに救われる希望はないと思いますか。自分がもうだめだから、神様があなたをあきらめたと思いますか。

神様は決してあなたをあきらめていません。神様は今でもあなたを愛しておられます。神様は慈悲深い目であなたを見ておられます。そして、赦しと哀れみをあなたに与えてくださいます。

あなたが神様に従うことを決心し、踏み出すなら、神様はあなたを受け入れてくださいます。

もちろん、人生が急にすべて変わるわけではありません。それは時間が必要です。

マタイのように、あなたが一晩で完璧になることはありません。時には罪と戦い、時には失敗することもあるでしょう。

しかし、あなたが「イエス様、あなたに従いたいです。私の主になってください」と祈るなら、イエス様はあなたに新しい心を与えてくださいます。そして、イエス様があなたの心を変え始め、やがてあなたの行動も変わり始めます。

あなたは、その新しい人生に踏み出す決心をしませんか。

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赦しの権威

イエス様は誰でしょうか。ただの偉い宗教的なリーダーだったのでしょうか。ただの良い人だったのでしょうか。それとも、奇跡を行う人だったのでしょうか。いや、イエス様はそれらをはるかに超えたお方だったのです。

この箇所を通して、私たちはイエス様がそうしたお方であることを理解できます。イエス様はカペナウムに戻られました。(その頃、イエス様の家はカペナウムにありました。(マタイ4:13))

この話では、イエス様がその日ご自分の家におられたかは定かではありませんが、イエス様がおられた家は人々でいっぱいでした。おそらく、窓の外からも大勢の人が覗き込み、イエス様の言葉を聞こうとしたのでしょう。

そして、四人の人たちが足が不自由な友達をその家に連れて行き、癒しを求めました。けれども、人があまりにも多く、家の中に入ることができませんでした。

そこで彼らは工夫して、クリエイティブな方法を考えました。彼らは屋根をはがし、穴を開け、その穴から友達を寝かせたまま床に吊り下ろしました。

そのシーンを想像してみてください。イエス様が教えている最中、突然屋根から奇妙な音がし始めます。

そして、急に屋根の破片が落ちてきて、人々は逃げようとしましたが、家が人でいっぱいだったため、逃げるのが難しい状況でした。

結局、人々は家から出て、スペースを空けました。当然ながら、イエス様の説教は中断されました。そして、皆は何が起こるのか気になり、じっと見守っていました。

やがて、足が不自由なその人がイエス様の足下に運ばれてきました。多分、皆はイエス様がその人をすぐに癒やすと期待していたでしょう。ところが、イエス様は意外なことを言われました。

子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。(マタイ9:2)

多分、その落ちた屋根の破片よりも、その言葉がさらに強い衝撃を与えたことでしょう。皆は静まり返りました。そして、パリサイ人と律法の学者が、皆の心に浮かんだ思いを代弁しました。

神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。(ルカ5:21)

つまり、「イエス様には罪を赦す権威がないでしょう。神様だけが罪を赦すことができます。」

彼らの言うことの半分は確かに正しいことでした。

もちろん、罪を赦すことができるのは神様だけです。傷つけられた方だけが、相手を赦すことができるのです。

しかし、彼らが理解していなかったのは、神様ご自身が彼らの間に立っておられたということです。イエス様は神なので、罪を赦す権威をお持ちです。

そして、イエス様はその人の癒やしを通して、その赦す権威を明確に示されました。

イエス様は、ただの宗教的なリーダーではありません。ただの良い人でもありません。また、ただの奇跡を行う人でもありません。イエス様において、神様は人間となられたのです。

イエス様はこの世に来られ、私たちと共におられました。そしてその後、私たちの罪のために十字架で死なれました。その御業を通して、神様は私たちの罪を赦すことができるのです。

イエス様は、その人を赦し救われたように、あなたをも赦し救ってくださいます。あなたがイエス様に祈るなら、必ず応えてくださいます。

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イエス様について行くように呼ばれた

しばらく聖書の部分を飛ばしてしまっていたので、今日はその箇所に戻りたいと思います。実は、これは非常に重要な箇所です。この箇所では、イエス様が初めて弟子たちを招かれました。

以前にもお話ししましたが、福音の出来事を年代順に進めようとしています。とはいえ、時にはその順番を推測しなくてはならない場合があります。

おそらく、このルカの箇所の出来事が最初に起こり、その2~3日後にマルコとマタイの出来事が起こったのだと思われます。

ある日、イエス様は群衆を教えようとされました。けれども、群衆がイエス様に押し迫ってきたため、イエス様はペテロとその仲間の船をご覧になり、すぐにその船に乗られ、彼らに陸から少し漕ぎ出すように頼まれました。そしてイエス様は、その船から群衆に教えられました。

ペテロとその仲間たちが進んでイエス様を助けたかどうかは分かりません。彼らは徹夜で漁をしていましたが、何も獲れませんでした。イエス様が彼らを呼ばれたとき、彼らは網を洗っているところでした。

おそらく彼らは、網を洗い終えたら帰ってすぐに眠ろうと思っていたのではないでしょうか。それでも彼らはイエス様を助けました。

その後、イエス様が教え終えられると、ペテロとその仲間に「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われました。

ペテロにとってそれは限界でした。彼は疲れ果てており、これ以上漁をしたいとは思っていませんでした。さらに、経験豊富な漁師である彼にとって、大工であるイエス様からの漁についての指示を受けるのは気が進まなかったのではないでしょうか。

それでも、ペテロはこう答えました。

先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。(ルカ5:5)

おそらく、イエス様はその言葉を聞いた時、何も言われずに、ただペテロをじっと見つめて待っておられたのでしょう。そうしている間に、結局ペテロは口ごもりながら言いました。

でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。(ルカ5:5)

だから、ペテロとその仲間たちは恥ずかしさを感じながら漁に出ました。なぜ彼らが恥ずかしかったのでしょうか。それは、誰も昼間に漁をすることがなかったからです。魚がいるはずがないと考えられていたためです。

おそらく、他の船に乗っている友人たちは笑ったかもしれません。「ペテロは愚かだね。なぜその大工の言葉に従うんだろう」と思った可能性もあります。

しかし、ペテロたちが網を下ろした時、大量の魚が網にかかりました。魚が多すぎたため、ペテロは他の船の友人たちを呼んで助けを求めました。それでも魚はあまりにも多く、二つの船が沈みそうになりました。

最初のうち、ペテロは大いに興奮したことでしょう。けれども、すぐに彼は自分たちの目の前で何が起こったのかを実感しました。そして、イエス様が普通の先生ではないことを悟りました。だから、ペテロはイエス様の足もとにひれ伏し、大声で言いました。

主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。(ルカ5:8)

でも、イエス様はこのように答えられました。

こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。(10)

これはあくまで私の推測ですが、もしかすると、ルカは話を少し簡潔にまとめたのかもしれません。そしてその後、皆が自宅に戻った可能性があります。

おそらく、イエス様は彼らにその日体験したことやご自分の言葉を深く考えてほしいと思われたのではないでしょうか。

そして翌朝、ペテロとアンデレが漁をしているのを見られた時、またヤコブとヨハネが網を繕っているのを見られた時、イエス様は改めて彼らを招かれました。

わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。(マタイ4:19)

その時、彼らはすべてを捨てて、イエス様に従い始めました。

この話から、私たちはどんな教訓を学べるでしょうか。

まず第一に、イエス様の恵みがペテロの失敗と罪を覆ったように、その恵みは私たちの失敗と罪も覆います。イエス様はペテロの罪を責めることはせず、むしろ新しい人生を始めるようにペテロを招かれました。

第二に、イエス様に従うために特別な資格は必要ありません。神学校に行く必要もありません。ペテロとその仲間たちは特別な教育を受けていませんでした。それでも、イエス様は彼らを弟子として招かれました。

第三に、最も重要なのは、イエス様を信頼し、イエス様の言葉に従うことです。たとえイエス様の言葉を完全に理解できなくても、「あなたがお命じになるので、私は従います」という信仰と従順の態度を取るべきです。

また、イエス様に従うために、私たちが愛するものを喜んで手放す態度を持つべきです。

最後に、イエス様の弟子として、イエス様の働きに参加する姿勢を持つべきです。つまり、人々を神様の御国へ導くことです。

あなたはペテロとその仲間たちの模範に従いますか。イエス様からの召しに応えますか。

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私たちを清めてくださる方

この箇所を読むと、イエス様の慈悲深さに私は感動します。ツァラアトに冒された人がイエス様のもとに来て、こう願い求めました。

主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。(マタイ8:2)

その時代、ツァラアトに冒された人々は社会から完全に疎外されていました。彼らは自分の家を出て、他の人々から距離を置かなければなりませんでした。

もし誰かが近づいてきた場合、その人は「私は不潔です。近づいてはならない」と叫ばなければならなかったのです。

彼らの人生は、本当に孤独で惨めでした。交わることができる相手は、他のツァラアトに冒された人々だけでした。

しかし、この男性はイエス様のことを聞いたとき、再び希望を感じました。彼はイエス様に近づいて、癒しを願い求めました。

おそらくイエス様は、彼が期待した以上のことを行われました。イエス様は遠くから癒すのではなく、直接彼に触れて癒されたのです。

ユダヤ人の律法によれば、ツァラアトに冒された人に触れると、触れた者も一時的に「不潔」とされました。それに加えて、その病気に感染する可能性もありました。

この男性にとって、数年ぶりに誰かが自分に触れた瞬間だったかもしれません。それは彼にとって、驚きと深い感動をもたらしたことでしょう。

私はその感覚を少し理解することができます。日本人は、アメリカ人ほどハグをしません。私は日本に住んで20年以上経つので、友達にハグされると、今でも少し驚いてしまいます。

そのように、人々はツァラアトに冒された人に触れるのを恐れました。不潔になることを避けたかったからです。

けれども、イエス様がその人に触れたとき、イエス様ご自身は不潔とはならず、むしろ相手を清められました。

同じように、イエス様が私たちを見るとき、私たちの罪によって不潔な状態を見ておられることでしょう。私たちは罪の泥から抜け出すことができず、自己救済も不可能でした。

だからこそ、ツァラアトに冒された人のように、「主よ、お心一つで私をきよくしてください」と願うしかありません。

その願いに応えて、イエス様は手を差し伸べてくださり、私たちに触れ、癒してくださいます。

イエス様がその人の病を癒されたのであれば、私たちの魂を癒してくださらないということがあるでしょうか。

あなたは自分の罪に縛られているでしょうか。あなたは不潔な状態で、自己救済できないでしょうか。

イエス様のみ前に進んでください。イエス様の助けと赦しを心から願い求めてください。そうすれば、あなたは癒されるでしょう。

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英気を養い、焦点を合わせ直す

イエス様は、ミニストリーを始めたとき、可能な限り多くの人々に触れ、天の父の心に従って歩まれました。

それでも、イエス様は決して燃え尽きることはありませんでした。

私自身、燃え尽きた経験がありますが、それは決して楽しいものではありませんでした。けれども、イエス様は一度もそのような状態にはなられませんでした。

群衆に触れ続け、自分の弟子たちを訓練される中で、燃え尽きるのは容易であったはずなのに、イエス様が燃え尽きることがなかったのはなぜでしょうか。

その答えは、この箇所に隠されていると思います。

さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコ1:35)

イエス様は神でしたが、ご自身の力と知恵に頼られることはありませんでした。むしろ、イエス様は完全に天の父に頼られました。

また、イエス様が群衆から離れたとき、彼は英気を養い、自分の焦点を新たにされました。けれども、それは具体的にどういう意味なのでしょうか。

そのとき、イエス様は天の父がご自身を愛しておられることを思い出されました。また、天の父がご自身に何を望んでおられるのかを思い起こされたのです。

多くの人々は、しばしばイエス様の時間を取ろうとしました。ルカはこう記しています。

朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。(ルカ4:42)

でも、イエス様が彼らの要求に譲らない時もありました。むしろ、イエス様は天の父の御声に聞き従いました。だから、イエス様は群衆にこう言われました:

ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。(43)

私の経験では、ミニストリーで燃え尽きる原因は二つあると思います。

一つ目は、その人がいつも他の人々に与えるばかりで、何も受け取らないことです。特に、彼らは天の父から何も受け取っていません。

しかし、それは天の父が自分の愛を与えたくないからではありません。むしろ、彼らが神様を十分に求めず、神様との時間を過ごしていないことが原因です。

結果として、彼らの心は神様の愛で満たされることなく、ほとんど空のガスタンクで走ろうとしています。

だからこそ、ミニストリーが困難に直面する時(どんなミニストリーでも、そんな時は必ず訪れるでしょう)、彼らは尽き果ててしまいます。なぜなら、彼らは神様からではなく、ミニストリーそのものからエネルギーを得ようとするからです。

そのミニストリーが必要なエネルギーを与えない場合、彼らは燃え尽きてしまいます。

二つ目の原因は、神様が彼らに求める以上のことをしようとすることです。つまり、周りの人々から頼まれたことを断ることができず、神様が求めていない重荷を背負ってしまう場合です。

彼らは「誰かがその重荷を担わなくてはならない」と考え、その結果、その重荷に押しつぶされてしまいます。

だからこそ、毎日神様との時間を過ごすことが本当に重要です。毎日、英気を養い、自分の焦点を合わせ直す必要があります。

具体的には、神様につながり、神様から必要な愛とエネルギーを受け取ることが大切です。

また、他者からの要求を慎重に評価し、その要求が神様の御心に沿っているかを判断することも必要です。

さらに、周りの人々のニーズに気づいても、それが自分が満たさなければならないニーズであるかどうかを識別することが重要です。

これらを怠ると、燃え尽きてしまう可能性が高くなります。

あなた自身はどうでしょうか。毎日、英気を養い、自分の焦点を合わせ直していますか。

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私たちを癒やしてくださる方

この箇所では、私たちはイエス様の癒やしの働きを垣間見ることができます。

イエス様がペテロの家を訪ねられた際、ペテロの義理のお母さんを癒してくださいました。おそらくイエス様は初めて安息日に人を癒されましたが、人前では行わなかったため、非難を受けませんでした。

さて、ここでひとつの質問が思い浮かびます。

前回の話では、イエス様が安息日に悪霊をある人から追い出されました。もしその会堂にパリサイ人たちがいたら、イエス様を責めたでしょうか。もしかしたら彼らは、「おい、それはだめだ。別の日に悪霊を追い出しなさい」と言ったかもしれません。

いずれにせよ、この日はイエス様が責められることはありませんでした。安息日が終わると、多くの人が癒しを求めてペテロの家を訪ねてきました。そして、イエス様は皆を癒してくださいました。

マタイはその癒やしについて、こう記しています。

これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」(マタイ8:17)

少し注意が必要です。マタイによれば、イエス様はこの世にいる間、その預言を成就されました。しかし、現在では癒やしの約束はありません。

もちろん、イエス様は今でも人々を癒やすことがおできになりますが、私たちを必ず癒やしてくださるという保証はありません。

さて、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

一つ目は、イエス様の哀れみについてです。イエス様は群衆を愛されましたが、たった一人の女性に対しても愛を示されました。私たちはペテロの義理のお母さんの名前を知りません。それでもイエス様は彼女を癒してくださいました。

あなたはこの世でごく普通の人かもしれません。周りの人々があなたの名前を知らないかもしれません。けれども、イエス様はあなたの名前をよくご存じです。そして、あなたが苦しんでいるとき、イエス様はあなたを見て、あなたを愛してくださいます。

以前も言ったように、神様は私たちを癒やすことを約束されていません。時には神様の見えない計画の一環として、私たちは癒されないこともあります。それでも、イエス様は「私に祈り、頼みなさい」と言われるので、祈り求めるべきです。

とはいえ、もしあなたが感情的な傷を持っているなら、イエス様はその傷をきっと癒してくださると思います。

イエス様が肉体的な病気を通して神様の栄光を現されることはあるでしょう。

しかし、神様はあなたが感情的な重荷を持ち続けることを望んでおられません。だからこそ、その重荷をイエス様の足元に置いてください。そうすれば、癒やしを体験することができます。

この箇所から、もう一つ心に響くことがあります。それは、ペテロの義理のお母さんが癒やされた後、すぐにイエス様に仕えることを始められたことです。

私たちもそのようにするべきです。もしイエス様が私たちを病気や感情的な傷、罪からの傷から癒してくださるなら、私たちが愛と感謝を持ってイエス様に仕えることはふさわしいでしょう。それは義務ではなく、愛に満ちた心からの奉仕です。

多くの場合、神様は私たちが経験した困難を持つ人々を私たちのもとへ導いてくださいます。

イエス様が私たちを癒してくださる理由の一つは、その癒しを周りの人々にも分かち合うためです。

さて、あなた自身はどうでしょうか。その癒しをあなたの周りの人々に分かち合っていますか。

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マタイの福音書 マタイ4章 マルコの福音書 マルコ1章 ルカの福音書 ルカ4章

暗闇の中の光

前回の記事で、私はこう問いかけました。「どうして神様はバプテスマのヨハネが牢に閉じ込められることを許されたのでしょうか。」

私には分かりませんが、ひょっとすると一つの理由は、イスラエル人がヨハネではなく、イエス様に焦点を当てるためだったのかもしれません。

ヨハネが牢に閉じ込められた後、イエス様はガリラヤに戻り、そのミニストリーを始められました。マタイによれば、イエス様はこのイザヤの予言を成就されました。

ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。

暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。(マタイ4:15-16)

パリサイ人がこの箇所を忘れ、イエス様の背景を侮るとは、私には信じられません。(ヨハネ7:52)

この箇所では、私たちはイエス様の目的の一つを知ることができます。私たちは暗闇の中にいました。つまり、私たちは自分の罪のために神様から離れ、死刑囚だったのです。

しかし、イエス様によって光が上がりました。イエス様は天の父への道を示してくださったので、希望が現れました。イエス様はこう宣言されました。

時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)

それは私たちへのメッセージです。王が来ました。神の王国は近づいています。今、イエス様は信者の心の中で働いておられます。そして、将来、イエス様はご自身の物理的な王国をこの世に設立されます。

だから、私たちは悔い改める必要があります。というのは、私たちは神様の道に戻らなくてはなりません。私たちの考え方を変えなくてはなりません。自分のために生きるのではなく、神様のために生きなくてはなりません。

また、私たちの神様に対する不信を捨てて、心から神様を信頼する必要があります。

もちろん、一番大切なのは、イエス様に関する良い知らせを信じる必要があるということです。つまり、神様は私たちのように人間になられました。そして、イエス様は十字架で私たちのために死なれ、三日目によみがえられました。

そして、私たちがイエス様を私たちの救い主と主として信じるなら、私たちは地獄から救われます。

それがイエス様が伝えられたメッセージです。

だから、この二つの質問について考えてみてましょう。

1.あなたはイエス様を信じるようになりましたか。

2.あなたがクリスチャンなら、そのメッセージを周りの人々に伝えていますか。

あなたはどう答えますか。

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マタイの福音書 マタイ4章 マルコの福音書 マルコ1章 ルカの福音書 ルカ4章

天の父に従う?

この箇所は本当に有名な聖書の話です。それは、イエス様が砂漠で誘惑される話です。

サタンからの誘惑に対するイエス様の反応は、私の心に深く響きます。イエス様が本当に天の父を信頼されたからです。

洗礼を受けられた後、イエス様は聖霊に満たされ、また聖霊に導かれて砂漠に行かれ、そこで40日間過ごされました。

だからこそ、サタンが来た時のイエス様の反応は特にふさわしいものだったと思います。サタンは三度イエス様を誘惑しましたが、イエス様が答えられた時、すべて申命記から引用されました。

なぜそれがふさわしかったのでしょうか。それは、イスラエル人が砂漠で40年間過ごした後に、モーセが申命記を書いたからです。そして、イエス様が誘惑された時、その言葉に従われたのです。

では、モーセは何を言ったのでしょうか。

あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。

それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。(申命記8:2-3)

天の父がイスラエル人を試すために彼らを砂漠に導かれたように、天の父はイエス様を試すために、彼を砂漠に導かれました。イスラエル人と同じように、イエス様も苦しみ、飢えを経験されました。

けれども、イスラエル人と違って、イエス様は文句を言わず、天の父がふさわしい時にイエス様の必要を備えてくださることを信じ続けられました。

サタンは言いました。「自分の力を使えばいいじゃないか?あなたの天の父はあなたの必要に備えていないじゃないか。もう40日間が経った。だから、この石をパンに変えたらどうだ?」

しかし、イエス様はサタンの薦めを拒絶されました。むしろ、イエス様は天の父がイエス様の必要に備えてくださることを信じ続けられました。

次に、サタンは聖書を引用してイエス様にこう言いました。「神殿の頂から身を投げてみなさい。天使たちはきっとあなたを救うでしょう。」

(サタンも聖書をよく知っています。だからこそ、私たちは聖書の箇所の前後をしっかりと読まなければなりません。)

けれども、イエス様は再びモーセの言葉を引用されました。

あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。(申命記6:16)

マサでは何が起こったのでしょうか。イスラエル人はもう一度神様を信頼しなかったため、文句を言いました。水を見つけることができなかったので、彼らは叫びました。「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」(出エジプト記17:7)

時々、私たちも同じ質問をします。私たちが苦しんでいる時、神様に「あなたは私と共におられるのですか、それともおられないのですか」と訊きます。

同じように、サタンはイエス様が天の父を疑うように誘惑しました。

「あなたの天の父は本当にあなたと共におられるでしょうか。天の父に仕えたいなら、そのことを確認した方がいいですよ。だから、神殿の頂から飛び降りてみなさい。もし天の父が本当にあなたと共におられるなら、あなたを救ってくださいます。」

けれども、イエス様は拒絶されました。それは、たとえイエス様に天の父が見えなかったとしても、天の父がイエス様と共におられることを信じておられたからです。

最後に、サタンはこう言いました。

もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。(マタイ4:9)

しかし、イエス様は再び拒絶されました。それは、イエス様が天の父に従うことを決心されていたからです。そこで、イエス様はこう答えられました。

引き下がれ、サタン。「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」と書いてある。(マタイ4:10/申命記6:13;10:20)

あなたは誰に従っているのでしょうか。天の父に従っているのでしょうか。天の父があなたと共におられることを信じていますか。天の父があなたの必要を備えてくださることを信じていますか。天の父を家族よりも、友達よりも、仕事よりも大切にしていますか。

あなたは誰に従っているのでしょうか。

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天の父に愛され、御霊に満たされた人

バプテスマのヨハネが人々にバプテスマを授けていた時、イエス様もヨハネのもとを訪れ、バプテスマを受けることを求められました。彼らはいとこでしたが、ヨハネはイエス様について何を知っていたのでしょうか。

ヨハネの両親はイエス様について何を教えたのでしょうか。そして、神様はヨハネにイエス様についてどのようなことを示されたのでしょうか。

ヨハネは一人暮らしができる年齢になると、砂漠で生活を始めた可能性があります。そのため、イエス様を見た時に、イエス様を認識することができたのでしょうか。

もしかすると、ヨハネがイエス様を見た瞬間、イエス様が特別な存在であることを理解したのかもしれません。ヨハネはイエス様が悔い改めを必要としていないことに気づきました。それゆえ、彼はこう言ったのです。

私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。(マタイ3:14)

けれども、イエス様はこのように答えられました。

今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。(マタイ3:15)

どうしてイエス様はバプテスマを受ける必要があったのでしょうか。おそらく二つの理由が考えられます。

一つ目は、ヨハネがユダヤ人たちの心を誰のために整えるのかを明確に知るためです。その後、ヨハネはこのことについて証をしました。

見よ、世の罪を取り除く神の小羊。私が「私のあとから来る人がある。

その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ」と言ったのは、この方のことです。

私もこの方を{メシヤとしては}知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」

またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。私もこの方を知りませんでした。

しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。「御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。」

私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」(ヨハネ1:29-34)

ヨハネの言葉によれば、ヨハネはイエス様が特別な存在であることを理解しましたが、イエス様がメシアであることはまだ知りませんでした。

二つ目の理由は、バプテスマを通してイエス様が次のように示されたことです。「私は、この罪人たちの兄弟です。」

イエス様がこの世に来られた時、こうは言われませんでした。「私は偉大な神です。あなたは惨めな罪人です。」

むしろ、イエス様はこう言われました。「あなたは罪人だけど、私はあなたの兄弟です。」(ヘブル人への手紙2:11-12)

もちろん、イエス様は決して罪を犯されませんでした。それでも、十字架の上でイエス様は私たちの罪を背負い、その罪のために死なれました。

イエス様は生まれた時、私たちと人間として共感されました。そして、バプテスマを受けられた時、私たちと罪人として共感してくださいました。

さらに、イエス様がバプテスマを受けられた時、もう一つの出来事が起こりました。

イエス様がバプテスマを受けられた時、聖霊がイエス様の上に下り、イエス様を力で満たされました。それだけではなく、天の父がイエス様に対する愛を宣言されたのです。

もし、私たちが影響力のあるクリスチャンになりたいなら、その二つのことが必要です。神の一人子であるイエス様にそれらが必要だったなら、私たちにもそれらが必要です。

つまり、私たちは、天の父が私たちを愛しておられることを知らなくてはなりません。その愛を知らなければ、私たちは神様を恐れてしまい、決して神様に近づこうとはしません。いつも神様からの叱責を恐れ、神様と親しい関係を築くことができません。

また、天の父の愛を知らないと、私たちの人間関係も難しくなります。周りの人々が私たちの愛に、私たちが期待するように反応しなければ、彼らを愛し続けることも、許すことも難しくなります。

もしあなたが神様のように周りの人々を愛することができないなら、それは神様の愛を十分に理解していないからかもしれません。実は、私自身も神様の愛を十分に理解していないので、神様のように人々を愛することができない時があります。

しかし、イエス様は神様の愛で満たされていたので、周りの人々の失敗や欠点を見る中でも、彼らを愛し続けられました。

天の父はイエス様に対する愛を宣言されました。そして、聖霊はイエス様を力で満たしてくださいました。イエス様はその力を受けられるまで、ミニストリーを始められませんでした。

それゆえ、私たちが神様のために効果的なしもべになりたいなら、聖霊で満たされる必要があります。バプテスマのヨハネによれば、それはイエス様の働きの一つです。イエス様は私たちを聖霊によってバプテスマを授けてくださいます。

あなたはどうでしょうか。神様の愛を知っているでしょうか。聖霊に満たされていますでしょうか。

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真理を語っている?

この話では、私たちは18年間ほど時を飛ばします。イエス様は30歳になり、自分のミニストリーを始められました。けれども、彼が始める前に、イエス様のいとこバプテスマのヨハネは、すでに自分のミニストリーを始めていました。

使徒ヨハネは、バプテスマのヨハネが誰であるかを説明します。

神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。

彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。(ヨハネ1:6-8)

祭司たちや、パリサイ人、サドカイ人(パリサイ人とサドカイ人はユダヤ人の宗派です)がヨハネに「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、彼はこう答えました。

私はキリスト(つまり、メシア、または、救い主)ではありません。。。私は、預言者イザヤが言ったように「主の道をまっすぐにせよ」と荒野で叫んでいる者の声です。(ヨハネ1:20,23)

彼の人生の目的は、人々の心をイエス様をメシアとして受け入れるために整えることでした。

私たちはイエス様の弟子として、神様から同じ使命を与えられています。私たちは周りの人々の心をイエス様のために整えるべきです。私たち自身には彼らを救う力はありません。ただ、神様の言葉という種を彼らの心にまくことができるだけです。

私たちのメッセージもヨハネのメッセージとほぼ同じです。

主な違いは、ヨハネの時代には神様からの救いがイエス様を通してまだ到来していなかったという点です。しかし、イエス様がすぐに来られるので、彼らは自分の心を準備しなくてはなりませんでした。(ルカ3:6)

一方で、私たちのメッセージは、イエス様を通して神様の救いがすでに到来したということです。

また、ヨハネの言葉を見ると、一つのことが私の心に深く響きます。ヨハネは率直に話しました。

パリサイ人とサドカイ人が来たとき、彼はこう言いました。

まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。

「われわれの父はアブラハムだ」と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。

斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。

その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。(マタイ3:7-12)

どうしてヨハネはそんなに厳しく話したのでしょうか。それは、彼らが偽善者だったからです。彼らは神の律法を守ろうと努力しました。つまり、外面的には正しいことを行いましたが、心は堕落していました。

彼らはこう思っていました。「私はユダヤ人だから、神様に受け入れられているだろう。それに、神の律法を知らない多くのユダヤ人と違って、私はよく知っている。」

しかし、彼らの心がプライドに満ちていたため、神様のあわれみを知ることができませんでした。

一方で、ヨハネは他の人々に対してもっと優しく話しました。イスラエル人に嫌われていた人々(取税人やローマの兵士)にも優しく接しながら、「悔い改めなさい」と語りました。裁きの日が来るので、罪深い人生を続けてはいけなかったのです。

私たちも真理を伝えなければなりません。そのメッセージは厳しく感じられるかもしれませんが、伝えることが重要です。

私たちの王はやがてこの世にもう一度来られ、悪を裁き、すべてを癒してくださいます。

それは良い知らせですが、多くの人々は自分の中にある悪を認識していません。そして、その罪のゆえに、もし彼らが悔い改めず、心から王を歓迎し、自分の人生にその良い支配を受け入れないなら、彼らも裁かれてしまいます。

私たちはそのことについて警告すべきです。そうしなければ、神様は私たちに責任を負わせるでしょう。(エゼキエル書3:16-21;使徒の働き20:26-27)

あなたはどうですか。真理のすべてを語っているでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ2

王の到着のため、恐れ惑う

クリスマスの時、多くの人はイエス様を飼葉おけに眠る赤ちゃんとして思い浮かべます。そのイメージを好む人が多いのは、イエス様が優しく、何も求めず、ただ眠っているように見えるからでしょう。

けれども、イエス様はもはや飼葉おけに眠る赤ちゃんではありません。イエス様は王の王、主の主です。そして、いつか私たちはそのことを認めなければなりません。

この箇所を読むと、一つのことが目を引きます。それは、イエス様の誕生の知らせに対するヘロデ王とユダヤ人の反応です。

ある日、東方の博士たちがエルサレムにやって来ました。

彼らは誰だったのでしょうか。様々な説がありますが、メディヤ人の祭司たちであった可能性があります。(メディヤ人は、現在のイランの地域に住んでいました。)

彼らは占星術や天文学に精通し、バビロン帝国やペルシャ帝国では、しばしば王の助言者を務めていました。さらに、ペルシャでは王位継承の際に、彼らの承認が必要でした。

ダニエル書によると、バビロンにおいてダニエルは、呪法師、呪文師、カルデヤ人、星占いたちの長となりました。

多くの聖書学者は、ダニエルの影響により、この博士たちが将来来るユダヤ人の王についての預言を知っていたと考えています。さらに、ダニエルはその王がいつ現れるのかを予言しました。ダニエル書9章

そのため、博士たちは王の到来のしるしを待ち続けていました。そして、ある夜、彼らは王の星を見ました。

この星が何であったかは誰にも分かりません。このことについても、さまざまな意見があります。

いずれにせよ、彼らはその星を見た瞬間、エルサレムへ向かい、その王について尋ねました。

ところが、誰もそのことを知らなかったため、博士たちは非常に驚きました。さらに、王やユダヤ人の反応は、驚くべきものでした。

それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。(3)

なぜ、ヘロデは恐れ惑ったのでしょうか。

一つ目の理由は、ユダヤ人の目には、彼が本当の王ではなかったことです。なぜなら、彼はダビデの子孫ではなく、ヤコブの系図にさえ属していませんでした。彼の血筋はエサウの系統から来ていました。

そのため、ユダヤ人は彼を真の王として認めませんでした。

二つ目の理由は、彼が自分の地位に対して極めて嫉妬深かったことです。権力を守るために、彼は自分の息子たちですら殺してしまいました。

では、なぜユダヤ人たちは恐れ惑ったのでしょうか。それは、彼らがヘロデの性格をよく知っていたからです。彼の反応は、容易に予測できました。

あなたもこの話をよく知っているかもしれません。ヘロデは博士たちに、この王を見つけるように頼みました。そして、「私も行って拝みたいから」と言いました。

博士たちはイエス様を見つけましたが、ヘロデに報告しようとしたとき、神様が夢を通して彼らに警告され、博士たちは別の道から帰りました。

ヘロデはそのことを知り、ベツレヘムにいる2歳以下の男の子をすべて殺すように命じました。

なぜでしょうか。博士たちの話によれば、2年ほど前にその星が現れたからです。(多くの人が思っているのとは違い、イエス様が生まれて2年後に博士たちはエルサレムに到着しました。)

しかし、神様はヨセフにヘロデの企みについて警告されたため、彼らはエジプトへ逃れました。

もう一度、ヘロデとユダヤ人の反応について考えてみてください。彼らは王の誕生を聞いたとき、恐れ惑いました。

今でも、多くの人々はイエス様を単なる赤ちゃんとしてではなく、自分たちの忠誠を求める王として見たとき、戸惑いを感じます。

ある人は、ヘロデのように、自分の心の王座をイエス様に譲りたくないため、怒り、反抗的な態度を取ります。彼らは自分の人生を支配し続けたいのです。

イエス様に従うことで、周囲の人がどう思うかを気にする人もいます。家族や友人から拒絶されることを恐れます。

けれども、ある日、「イエスの御名によって、すべての人はひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白します。」(ピリピ2:10-11)

喜びをもってそう言う人もいれば、歯ぎしりしながら言う人も、恥じながら言う人もいるでしょう。しかし、すべての人がイエス様を王として認めるのです。

それならば、今こそ、喜びをもってイエス様を王として認めるほうが良いと思いませんか。

あなたの王は誰でしょうか。

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没我的な人生

「私の人生です。」

「私の権利です。」

「私の幸福です。」

どれほど私たちは、こうした言葉を耳にするでしょうか。どれほど私たちは、そのような言葉を口にするでしょうか。

しかし、ある著者が言ったように、「あなたの人生の中心は、あなたではありません。」

むしろ、あなたの人生の中心は神様です。そして、神様はこの世界に歴史を織り成しておられます。

ヨセフの話を読むとき、この真理を見ることができます。

彼のマリヤに対する反応について考えてみてください。彼らは婚約していましたが、当時の文化では、現代の私たちが考える婚約よりもはるかに強いコミットメントでした。

彼らはまだ一緒に生活しておらず、肉体的な関係もありませんでしたが、ユダヤの律法によれば、婚約を解消するには離婚の手続きをしなければなりませんでした。

けれども、その婚約の期間中に、マリヤは妊娠しました。

ヨセフはどう感じたでしょうか。深く傷ついたことでしょう。裏切られたと感じたかもしれません。怒りに震えたかもしれません。そして、ユダヤの律法によれば、彼にはマリヤを処刑する権利がありました。

しかし、彼の反応を見てみましょう。

夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。(19)

どうやら、ヨセフはもはやマリヤと結婚することを望んでいなかったようです。その状況では、おそらく誰もマリヤと結婚したがらなかったでしょう。

けれども、彼は傷ついても、復讐を望みませんでした。「正義」を主張しませんでした。自分の「権利」を訴えませんでした。

むしろ、彼はマリヤをあわれみました。彼は彼女を公の場で恥さらしにしたくありませんでした。できる限り彼女を守るために、内密に離婚しようと考えました。

マリヤは、自分の妊娠についてヨセフに説明しようとしたでしょうか。一体何が言えるでしょうか。

「誤解しないでください。私はほかの男性と関係を持ったわけではありません。この子は神様によるものです。」

そう言ったとしても、ヨセフがそれを信じるはずがありませんでした。

神様はその状況をよく理解しておられたので、ヨセフのもとに天使を遣わされました。その天使はこう言いました。

ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。(20-21)

ある程度、ヨセフは安心したかもしれません。とはいえ、その責任を拒むのは容易だったでしょう。

なぜなら、もし彼がマリヤと結婚すれば、おそらく彼の評判が傷つくからです。周囲の人々はこう思ったかもしれません。 「ああ、ヨセフは結婚する前にマリヤと関係を持ったに違いない。マリヤだけでなく、ヨセフも悪かったのだ。」

また、ヨセフはこのように答えることもできたでしょう。 「分かっているけれど、私の子ではない。私はこの子のために祈ったことはないし、あなたは事前に私の意見を求めなかった。どうして私がその責任を負わなければならないのか。」

けれども、ヨセフはそのようにはしませんでした。彼はマリヤと結婚しました。噂やさまざまな困難があったにもかかわらず、彼はマリヤと結婚しました。なぜでしょうか。

それは、ヨセフが自分の人生の中心が自分自身ではないことを知っていたからです。

神様がイスラエル、そしてこの世界を救うための計画を立てておられることを理解していました。そして、その計画が自分よりもはるかに大きなものであることも知っていました。

だからこそ、ヨセフは自分の権利や計画を脇に置き、神様とマリヤに仕えることを選びました。そして、その決断を通して、彼は本当の喜びを見出したのだと思います。

あなたはどうでしょうか。自分のために生きているでしょうか。もしそうなら、あなたの人生はむなしいものになるでしょう。しかし、神様のために、神様の目的のために生きるなら、充実した人生を見出すことができます。

イエス様はこう言われました。

いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。(マタイ16:25)

あなたは誰のために生きているのでしょうか。

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罪深い人と同じような形を取られた方

私たちがイエス様の系図を見るとき、二つの注意点があります。

一つ目は、マタイの福音書にある系図が不完全であるということです。つまり、いくつかの王たち(ヨアシュ、アマツヤ、エホヤキムなど)が省略されています。

英語の訳では「誰々は誰々の父である」と翻訳されていますが、この「父」という言葉は「先祖」という意味も含みます。

そのため、例えば「ヨラムにウジヤが生まれた」と書かれていても、実際の意味は「ヨラムはウジヤの先祖である」となります。

二つ目は、多くの学者が、マタイの福音書に記された系図がヨセフの系図であり、ルカの福音書に記された系図がマリヤの系図だと考えている点です。これは、ルカの福音書に「イエス様は人々からヨセフの子だと思われていた」と記されているためです。

そのため、言い換えると、「イエス様は人々からヨセフの子だと思われていたが、実際には彼はヘリの子孫であった」ということになります。

(「父」という言葉が「先祖」を意味するように、「子」という言葉も「子孫」を意味する場合があります。)

実際、この系図の違いについてはさまざまな学説がありますが、それが非常に複雑であるため、ここでそれ以上深掘りすることはしません。😊

さて、この系図を見たときに、私の心に強く響いたことがありました。それは、イエス様がこの世に来られたとき、天から降りてきて「私は神だ!」と宣言するのではなく、私たち罪びとと同じ姿を取られたということです。イエス様は人間となったのです。

イエス様の先祖を見てみましょう。

アダムは完全な世界に造られたのに、罪をこの世に招き入れました。

テラ(アブラハムの父)は偶像を礼拝していました。おそらく彼の先祖たちも同じように偶像を礼拝していたでしょう。

ヤコブは詐欺師でした。

ユダは、義理の娘タマルに騙され、彼女が売春婦だと思ったため、彼女と寝ました。その結果、タマルは双子を産み、そのうちの一人がイエス様の先祖となりました。(創世記38章)

ラハブは、イスラエル人から見れば外国人であり、売春婦でもありました。

ルツもまた外国人であり、モアブ人でした。通常、ユダヤ人はモアブ人を見下していました。(申命記23:3-4)

ダビデは、ほかの人の妻バテ・シェバと関係を持ち、彼女の夫を殺しました。けれども、ダビデとバテ・シェバの間にはソロモン(マタイ1:6)とナタン(ただし預言者ナタンではありません。ルカ3:31)が生まれました。

また、多くのユダの王たちは神様に背を向けました。(例えば、アハズとマナセ)。

イエス様はそのような系図から来られました。 なぜでしょうか。なぜ、別の系図に属されなかったのでしょうか。なぜ、直接天から来られなかったのでしょうか。

ところが、イエス様はそうはされませんでした。むしろ、人間となられて、「私はあなたのようになります」と示されたのです。

また、別の方法でも、イエス様は私たちのようになられました。

彼は特別にハンサムな方ではありませんでした。(イザヤ書53:2)

彼は貧しい家庭にお生まれになり、その父ヨセフが亡くなった後、イエス様は懸命に働いて家族のニーズを支えられました。

イエス様は時々疲れ、時にはお腹がすくこともありました。

彼はさまざまな試練を経験されました。拒絶され、誤解され、虐待され、裏切られ、そして深い苦しみを味わわれました。

それはなぜでしょうか。

そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。

それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。(へブル4:17)

つまり、イエス様は私たちを理解するために人間となられました。イエス様が私たちのことを深く理解されているからこそ、彼は私たちの大祭司として慈悲深いのです。それゆえ、へブル人への手紙の著者は次のように言っています。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:16)

今日、あなたはどのように感じていますか。自分の罪によって落ち込んでいるでしょうか。家族を支えるために、いつも疲れ切っていますか。苦しみの中にいるでしょうか。拒絶されたと感じていますか。傷ついているでしょうか。裏切られた経験がありますか。

その感情をイエス様の前に捧げましょう。イエス様はあなたのことを深く理解されています。そして、イエス様は必ずあなたを助けてくださいます。