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マタイの福音書 マタイ10章

偉い?取るに足りない?

イエス様がこの話をどのようにまとめられるかは、本当に興味深いですね。イエス様は弟子たちに「あなたを受け入れる者は、私を受け入れる」と言われました。

そのように、福音を拒絶する人は、イエス様をも拒絶しているのです。

つまり、相手があなたを拒絶しても、自分を責めないでください。彼らの拒絶は辛いかもしれません。特に、あなたがその人を愛しているなら、その拒絶はなおさら痛いかもしれません。

しかし、あなたが悪いというわけではありません。むしろ、彼らはあなたが代表する方を拒絶しているのです。

とはいえ、イエス様はこの原則を別の方法でも用いられます。

つまり、預言者を受け入れる者は、預言者が受ける報いを受けます。また、義人を受け入れる者は、義人が受ける報いを受けます。

おそらくイエス様は、弟子たちのニーズに応える人々について話されているのだと思います。そのような人々が弟子たちの食料や必要なものを整えるなら、彼らは弟子たちと同じ報いを受けることになります。

では、どうしてイエス様は弟子たちにこのことを語られたのでしょうか?おそらく、イエス様は弟子たちに次のような教えを伝えたかったのだと思います。

「もちろん、あなたの仕事は非常に重要です。それでも、他の人々を見下してはいけません。その人々も神様の働きをしているのです。そして、あなたのニーズを整える人々も、あなたと同じ名誉を受けるに値します。」

弟子たちは「霊的な仕事」をしているかもしれませんが、他の人々は弟子たちの奉仕を支える働きをしています。その人々がいなければ、弟子たちは自分の使命を果たすことができなかったでしょう。

私たちの多くは、牧師や教師、ワーシップリーダーのような目立つ役割の人々を特別視することがあります。しかし、背景で働く人々に目を向けることが少ないのではないでしょうか。

たとえば、礼拝のために椅子を並べたり、マイクやスピーカーをセットしたりする人々もいます。彼らも同様に栄誉を受けるべき存在です。

そして裁きの日、神様は彼らにも牧師やワーシップリーダーたちと同じ報いを与えてくださるのです。

要するに、神様がその人々を称賛されるならば、私たちも彼らを褒めたたえるべきです。

そして、イエス様はさらにこう言われました。

わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。(マタイの福音書10:42)

それを言われたとき、イエス様は小さな子供を抱いていたのかもしれません。または、イエス様が弟子たちを「小さいもの」と呼ばれた可能性もあります。

もしイエス様が小さな子供について話されていたのなら、覚えていてください。神様にとって、キリストに属する小さな子供たちを世話することは本当に大切な働きです。

もしイエス様が弟子たちや預言者について話されていたのなら、彼らも「小さいもの」です。だからこそ、あなたがリーダーの立場にいるなら、偉そうな態度を取ってはいけません。

あなたは「偉い人」だと思いますか?覚えていてください。

神様にとって、ほかの人々が行う神の国の仕事も非常に重要です。神様は、人々の前で行われる仕事も、裏方で行われる仕事も同じように称賛されます。だから、背景で働く人々にも敬意を示しましょう。

あなたは「取るに足りない」立場だと思っていますか?覚えていてください。あなたが忠実に仕えるなら、神様はあなたにも「偉い人」と同じ報いを与えてくださいます。

なぜなら、神様の目には私たち全てが貴い存在であり、忠実な者に豊かな報いを与えてくださるからです。

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マタイの福音書 マタイ10章

人々を分かつ剣

イエス様が迫害について話をまとめられた言葉を聞くと、違和感を覚えるかもしれません。

わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。

なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。(マタイの福音書10:34-36)

イエス様は「平和の君」と呼ばれます。

なぜイエス様は「平和をもたらすためではなく、剣をもたらすために来た」と言われたのでしょうか。また、なぜイエス様は「剣のように家族を分かつ」と言われたのでしょうか。

もちろん、イエス様は平和の君です。そして、イエス様がこの世に再び戻り、すべてを治められるとき、真の平和が訪れるでしょう。とはいえ、その時はまだ来ていません。

だからこそ、イエス様は警告を繰り返されます。「もしあなたがイエス様に従うなら、あなたの家族でさえもあなたを拒絶するかもしれません。」

日本でも、私はそのような状況を目の当たりにしたことがあります。ある女性は本当に苦しんでいました。なぜなら、そのお父さんに「もしクリスチャンになりたいなら、この家から出て行け。お前はもう俺の娘ではない」と言われたからです。

イエス様に従うことで、家族間の争いが生じることもあります。その時、私たちはどうすれば良いのでしょうか。

信仰を保ちながら、その信仰を隠すべきでしょうか。一部の人はそのようにしましたが、嘘が発覚すると、状況はさらに悪化しました。その上で、イエス様は次のように言われました。

ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。

しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。(32-33)

もし、あなたが愛している人たちの前でイエス様を否定するなら、あなたは本当にイエス様を愛し、イエス様に従っていると言えるでしょうか。

もし一生を通じてイエス様を否定し続けるなら、果たして自分自身がクリスチャンだと胸を張って言えるでしょうか。

もちろん、私たちが弱さを抱える時もあります。ペテロにも弱さがありました。彼はその弱さから、イエス様を三度も否定してしまいました。

けれども、最終的にペテロは自分の信仰のために十字架につけられて命を捧げました。

イエス様は次のように言われました。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(37-39)

要するに、あなたにとってイエス様は何よりも大切な存在であるべきです。たとえどんなに苦しみを経験しても、イエス様をすべてのものよりも優先しなければなりません。

もし家族の平和を守るためにイエス様を否定するなら、最終的にその家族は地獄に行くことになるでしょう。

しかし、キリストのためにその家族の平和を手放すなら、もしかすると、いつの日か彼らがイエス様に従うようになるかもしれません。

この教えを実践することは簡単ではありません。

けれども、覚えておいてください。もし家族があなたを拒絶するとしても、あなたにはもう一つの家族があります。あなたが苦しむとき、その家族はあなたを愛し、支えてくれるでしょう。なぜなら、教会はただの建物ではなく、神の家族そのものだからです。

だからこそ、家族の平和を守るためにあなたの信仰を否定してはいけません。そしてイエス様を否定しないでください。むしろ、イエス様を他の何よりも優先しましょう。そうすれば、本当の平和を見つけることができます。

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マタイの福音書 マタイ10章

迫害が来ると

迫害。

それは、とても嫌な響きを持つ言葉かもしれませんね。迫害について話したいと思う人はあまりいないでしょう。けれども、聖書では「迫害が来る」という警告が繰り返し記されています。

パウロは次のように言いました。

確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。(第二テモテ3:12)

「もしかしたら、迫害を受けるかもしれません」とは書いてありません。「確かに迫害を受けます」と書かれています。

前回の記事でもお話ししましたが、もしあなたがイエス様のようになりたいと思うなら、必ずあなたを憎む人が出てくるでしょう。迫害は憎しみの次の段階です。

だからこそ、イエス様は弟子たちにも、私たちにも警告されました。イエス様は私たちのことを「狼の中の羊」と呼ばれました。

迫害について、イエス様はどのような指示を与えてくださるでしょうか?

まず最初に、「気をつけなさい」ということです。あなたの信仰のために、あなたを攻撃する人がいるかもしれません。

イエス様は肉体に対する攻撃について話されましたが、心に対する攻撃もあります。あなたの信仰のために、言葉を用いて攻撃する人もいるのです。

そのような人々をよく理解してください。そして、感情的な危険がある場合や、物理的な危険がある場合には、すぐにその場から離れてください。

福音を伝えたなら、それであなたの役割は果たされています。もし彼らがあなたの言葉を拒絶するなら、イエス様は次のように言われました。

あなたがたの足のちりを払い落としなさい。(マタイの福音書10:14)

それは少し奇妙に見える表現かもしれませんが、その当時の文化では珍しいことではありませんでした。

ユダヤ人たちは外国を出たとき、その地のちりを払い落としました。なぜなら、そのちりをイスラエルに持ち帰ると、イスラエルが汚れると考えていたからです。

つまり、イエス様が意味されたのは、「もし相手が福音を拒絶するなら、彼らが汚れた状態であることを示しなさい。彼らは裁きを受けますが、それは彼ら自身の責任であることを伝えなさい。」ということです。

そして、その場を立ち去りなさい。あなたの役割は果たされています。彼らからの暴力や辛辣な言葉に耐え続ける必要はありません。

とはいえ、一度迫害を受けると、将来の迫害を恐れるようになるのは簡単なことです。そのため、他の人々に福音を伝えることをためらうかもしれません。

それでも、イエス様は私たちを励ましてくださいます。

だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。

わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。(26-27)

つまり、「私があなたに教えたことは最終的にみんなの前に現れます。迫害を受けたとしても、その言葉を止めることはできません。だから、恐れずに、大胆にその言葉を伝えなさい。」

そして、イエス様は次のように言われました。

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。(28)

あなたの魂を滅ぼす方はサタンではありません。それは神様です。サタンは地獄の囚人になる存在です。(サタンはまだ地獄にはいません。)サタンは地獄の支配者ではないのです。

しかし、心に留めてください。多くの人々が神様を拒絶しているため、毎日彼らは死に、地獄に行っています。不潔なものは天国に入ることができないため、神様は彼らを地獄に送らざるを得ません。

だからこそ、もし私たちが彼らを愛しているなら、迫害への恐れを捨て、大胆に福音を述べ伝えるべきです。

そして、イエス様は私たちを慰めてくださいます。

二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。

また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(29-31)

つまり、迫害が来ても、神様はあなたのことを決して忘れることはありません。神様はあなたを助けてくださいます。

そして、もしイエス様のために命を捧げることになったとしても、神様はあなたと共におられ、すぐにイエス様のお顔を拝することができます。

だから、迫害を恐れないでください。むしろ、私たちに与えられた命の言葉を大胆に伝えましょう。

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マタイの福音書 マタイ10章

すべての人々に好かれようとする?

今日、イエス様の弟子たちへの指示についてさらに深く考えていこうと思います。

7-8節は、私の心に響きました。イエス様は弟子たちに、「病人を癒し、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。」と言われた後、次のように言われました。

あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイの福音書10:8)

つまり、あなたは無償で神様の恵みを受けたのですから、その恵みを周りの人々に無償で与えるべきです。神の国はお金を儲けるためにあるものではありません。

牧師や宣教師が、自分の働きのために報酬を受け取るべきではない、という意味ではありません。実際、イエス様は「働く者が食物を与えられるのは当然のことです」と言われました。

とはいえ、福音を伝える目的は報酬を受け取ることではありません。むしろ、私たちが受けた貴重なものを周りの人々に与えることなのです。

もう一つ、私の心に響いたことがあります。イエス様は弟子たちに何度も警告されました。

「すべての人々があなたを受け入れるわけではありません。あなたが神様の働きをし、彼らに神様の言葉を伝えたとしても、彼らがあなたを必ずしも愛するわけではありません。」

むしろ、弟子たちを憎み、拒絶する者がいる、とイエス様は警告されました。そのため、弟子たちは奉仕をする際に、友人や家族に対しても注意を払うべきでした。

これは言い過ぎのように聞こえるかもしれませんが、当時の時代背景においてはそうではありませんでした。特にサウロの時代、クリスチャンたちは激しい迫害を受けました。

もし彼らがすべての人々を信頼していたなら、殺されていたことでしょう。サウロのように、彼らの家族や友人はクリスチャンを迫害することを神様の御心だと考えていたからです。

そのため、イエス様は彼らに「蛇のようにさとくなりなさい」と言われました。要するに、行動を起こす前に慎重に考えなさいということです。相手がどのような人かをよく考慮し、相手が信頼できるかどうかを見極めるべきだということです。

それでもイエス様は続けられました。「鳩のように純真でありなさい。」(10-16)

あなたが裏切られた時にも、愛が冷めないように注意してください。相手を憎むことなく、復讐の心を捨てなさい、ということです。

私たちもイエス様の言葉を覚えているべきです。もしあなたがイエス様に従うなら、あなたを憎む人もいるでしょう。おそらく、家族や友人があなたを殺すことはないかもしれませんが、彼らがあなたを拒絶することはあるかもしれません。

イエス様は弟子たちに次のように言われました。

弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。

弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。

彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。(24-25)

私は前にも言いましたが、イエス様は完全な愛を持った方でした。彼の人生は完璧でした。

しかし、それにもかかわらずイエス様を憎む人もいました。イエス様を「悪魔」と呼ぶ人もいたのです。

そして、彼らはイエス様を殺してしまいました。私たちがイエス様に従うなら、私たちはすべての人々からの愛を期待できるでしょうか。

だからこそ、他人に愛されるためだけに努力するのはむなしいことです。むしろ、イエス様のようになることに努力すべきです。なぜなら、イエス様はあなたのためにご自身の人生を十字架でささげられたからです。

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弟子づくり、霊的な教え、実用的な教え

イエス様が弟子を育てる際には、霊的な指示だけでなく、実用的な指示も教えられました。

まず、イエス様は弟子たちに霊的な真理を教え続けました。例えば、山上の垂訓や平地の説教を説かれました。また、数々のたとえ話を用いて教えられました。

けれども、弟子たちを奉仕に送り出す際には、実用的な指示も与えられました。

例えば、弟子たちはサマリヤ人や異邦人のところへ行かず、ユダヤ人の町だけを訪れるべきだと教えられました。それはなぜでしょうか。パウロが語ったように、福音は最初にユダヤ人に届けられるべきものだったからです。(ローマ1:16)

もちろん、イエス様は時々異邦人やサマリヤ人を癒し、教えることもされましたが、彼らに福音を伝える時期はまだ来ていなかったのです。

イエス様はさらに具体的な指示を弟子たちに与えられました。

イエス様は、弟子たちが何を持つべきか、持たないべきかを教えられました(マタイ10:9-10)。

また、彼らがどこに泊まるべきかを教えられました(マタイ10:11-13)。

さらに、彼らが拒絶される場合や迫害される場合の対処方法についても教えられました(マタイ10:14,23)。

そして、イエス様は弟子たちに厳しく警告されました。「信頼できない人もいるので注意しなさい。もちろん、悪を行うことは避けなさい。それでも、相手を賢く扱うように。」(マタイ10:16-17)

このように、イエス様は霊的な教えも並行して教え続けられました。

例えば、神様はスズメの必要を日々備えておられるので、弟子たちの必要も必ず備え、彼らを守られるということです。なぜなら、神様はスズメ以上に彼らを愛し、大切にしてくださるからです。そのため、彼らは神様を全面的に信頼すべきでした(マタイ10:9-10;29-31)。

また、彼らは神様を何よりも愛するべきだと教えられました。イエス様は弟子たちにこう語られました。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(マタイ10:37-39)

私が伝えたいのはこれです。私たちが人々を奉仕のために訓練する際には、霊的なことと実用的なことの両方を教えるべきだということです。

もちろん、彼らはミニストリーや日常生活における霊的な原則を学ぶ必要があります。

しかし、それと同時に、彼らにどのようにミニストリーを行うべきかという実践的な側面も教える必要があります。

イエス様もそのようにされました。まず、弟子たちはイエス様がどのようにミニストリーを行うかを目の当たりにしました。そして、イエス様は必要な指示を簡潔に与え、弟子たちを送り出されました。

弟子たちが戻ると、イエス様は彼らの報告を聞き、必要に応じてフィードバックを与えられました。私たちも、同じようにして人々を訓練するべきではないでしょうか。

もちろん、彼らが私たちと全く同じようにミニストリーを行う必要はありません。私たちが基本的なことを教えた後は、その基礎の上に彼らが神様の導きに従って、自分のミニストリーを築いていくべきです。

けれども、残念なことに、多くの場合、訓練はどちらか片方に偏りがちです。

例えば、霊的な訓練だけを与える一方で、ミニストリーに関する実用的な訓練を与えない場合、その弟子は大きな失敗をし、そのミニストリーは早々に崩れてしまうことがあります。

逆に、ミニストリーに関する実用的な指導だけを与えると、最初は順調に見えても、弟子自身がプライド、罪、その他の霊的な落とし穴に陥り、結果的にそのミニストリーも崩壊してしまうことがあります。

ですから、弟子たちを訓練する際には、このような失敗を避けるべきです。霊的な訓練と実用的な訓練の両方を与えましょう。そうすることで、神様は彼らと私たちを用いて、神の国を成長させてくださるでしょう。

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畑になる毒草

この箇所を読むと、なぜかユダに目が向きます。

この箇所では、イエス様は弟子たちを呼び、イスラエル人に奉仕するために送り出されました。イエス様は彼らに、悪霊を追い出し、あらゆる病気と患いを癒す力を与えられました。けれども、彼らの最も重要な使命は福音を伝えることでした。

マタイは弟子たちの名前を挙げる際、最後にこう記します。「そして、イエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。」(マタイ10:4)

考えてみてください。ユダも悪霊を追い出しました。ユダも病人を癒しました。ユダも福音を伝えました。それなのに、最終的に彼はイエス様を裏切ったのです。

なぜユダは、これほど多くの素晴らしい働きをしながらも、イエス様を裏切ることになったのでしょうか。その理由を完全に理解するのは難しいです。

けれども、ユダはイエス様が語られた「畑にある毒麦」のたとえ話を象徴しているように思えます。(マタイ13:24-30; 36-42)

実際、毒麦と麦は見た目が非常によく似ています。そのため、農夫が毒麦を引き抜こうとすれば、誤って麦も引き抜いてしまう可能性がありました。そこで、農夫は収穫の時まで待つことにしました。その時になって初めて、麦と毒麦を分けました。

同じように、ユダは信者のように見えました。彼は他の弟子たちと共に学び、また他の弟子たちと同じように、悪霊を追い出し、人々を癒し、福音を伝えました。

それでも、彼は決して自分の心をイエス様に捧げることはありませんでした。

私のただの推測にすぎませんが、もしかすると、ユダは自分の利益のためにイエス様を利用しようと考えていたのかもしれません。

しかし、彼の目的とイエス様のビジョンが全く異なっていることに気づき、イエス様を利用できないと悟ったとき、彼はイエス様を裏切る道を選んだのです。

現代においても、教会の中にはそのような人々がいます。彼らはクリスチャンのように見え、クリスチャンのように聞こえます。中には奉仕をする人もいます。それでも、彼らの心は本当にイエス様に捧げられてはいません。

あなた自身はどうでしょうか。あなたの心はイエス様に捧げられていますか。あなたの人生は本当にイエス様のものでしょうか。それとも、ユダのように、あなたは畑の毒麦でしょうか。

表面的に信者のふりをすることはしないでください。牧師や教会の他のメンバーを欺くことはできるかもしれませんが、神様を欺くことはできません。そして、裁きの日には、あなたの本当の姿が明らかにされるでしょう。

その毒麦とならないように。あなたの心をイエス様に捧げましょう。信者のふりをして生きても、あなたの人生は虚しくなり、最終的には裁きを受けることになるのです。

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イエス様と一緒にいるように呼ばれた。出て行って、この世に触れるように呼ばれた。

この箇所では、私たちはイエス様の高まる人気を目にすることができます。おそらく、増え続ける群衆とその必要のために、イエス様は12人の弟子たちを選び、訓練を始められました。

人間としてのイエス様は、ある瞬間には一つの場所にしかおられることができませんでした。そのため、多くの人々に触れるには助けが必要でした。

とはいえ、イエス様が選ばれたのは、本当に多種多様なグループでした。

漁師たち、ローマ帝国と協力していた元収税人、そしてローマ帝国を憎む愛国者もいました。

また、彼らはそれぞれ異なる性格を持っていました。大胆なペテロ、懐疑的なバルトロマイ(つまり、ナタナエル)やトマス、そして短気なヤコブとヨハネもいました。

イエス様は、このように様々な背景や性格を持つ人々を選ばれました。そしてイエス様は、彼らに3つのことを求められました。

そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。(マルコ3:14-15)

一つ目は(そして一番大切なのは)、彼らがイエス様の近くにいることです。彼らはイエス様と時間を過ごし、イエス様から学びました。

そして今もなお、イエス様はそのような人を求めておられます。イエス様は、私たちがイエス様の生活に参加し、イエス様をもっと知り、そしてもっとイエス様のようになることを望んでおられます。

二つ目は、彼らがイエス様から学んだメッセージを周りの人々に伝えることです。

多くのクリスチャンは聖書を読み、神様との関係において成長します。けれども、それだけでは足りません。

神様は、私たちが聖書のメッセージを周りの人々に伝えることを望んでおられます。なぜなら、私たちがそれをしなければ、彼らは神様からの喜びを決して知ることができないからです。

三つ目は、彼らが霊的な戦いに参加することです。あなたは悪霊を追い出す経験がないかもしれませんが、毎日私たちは霊的な力と戦っています。パウロはこう書きました

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)

イエス様は、私たちが人と戦うのではなく、サタンと悪霊と戦うように召されています。彼らは人々を欺き、地獄に行かせようと働いているからです。そのため、私たちはその魂のために戦わなければなりません。

毎日、多くの人々が死にかけていて、地獄へと向かっています。しかし、神様はそのようなことを望んでおられません。神様は私たちに彼らのために立ち上がり、戦うことを望んでおられるのです。私たちがその使命を果たせば、その人たちは救われるかもしれません。

それがキリストの弟子の姿です。私たちがイエス様と共にいること、福音を伝えるために出ていくこと、そして霊的な戦いに参加することです。

あなたはどうでしょうか。キリストの弟子として、あなたはそのように歩んでいるでしょうか。