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私たちは御霊を歓迎しないと

パリサイ人たちは、「イエス様が悪魔の力によって悪霊を追い出している」と言いました。

そのため、イエス様は彼らの不信を責められました。そこで、彼らはイエス様にしるしを求めました。

しかし、たとえイエス様がしるしを示されたとしても、彼らはそれでも信じなかったでしょう。だからこそ、イエス様は彼らの要求を拒まれました。

では、なぜ私は「彼らはしるしを見ても信じなかっただろう」と思うのでしょうか。それは、イエス様がすでにヨナのしるしを彼らに示されたからです。

つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいた後、その魚から出たように、イエス様も三日三晩、地の中にいた後、お墓から出られました。ところが、イエス様がよみがえられた時、パリサイ人たちはそれでもイエス様を信じませんでした。

そのため、イエス様はもう一度彼らの固い心を責められました。具体的には、イエス様は「ニネベの人々と南の女王(つまり、シェバの女王)が彼らを裁く」と言われました。

なぜなら、彼らはヨナやソロモン王のメッセージを聞いた時、悔い改めたからです。

一方で、イエス様がソロモンやヨナよりも優れた方であるにもかかわらず、パリサイ人たちは信じようとしませんでした。

そのため、イエス様は彼らに例えを示されました。その例えを通して、イエス様は「彼らがイエス様を信じないこと、また、聖霊を拒絶することの結果」について教えられました。

イエス様はこの世に来られた時、地獄の力を克服されました。例えば、その時、イエス様は多くの悪霊を人々から追い出されました。けれども、イエス様はイスラエルの民とパリサイ人たちに警告されました。

「私は悪霊を追い出し、地獄の力を克服し、私の賜物、つまり御霊を与える。ところが、もしあなたたちが御霊を拒絶するなら、地獄の力が戻り、あなたの状態は以前よりも悪くなる。」

なぜでしょうか。それは、あなたが神様の力を味わい、あなたを救うことのできる方に触れられたにもかかわらず、その方を拒絶したからです。

そして、イエス様は山上の垂訓の例えをもう一度語られました。それは、「体のあかりは、あなたの目である」ということです。もちろん、これは物理的な真理ですが、同時に霊的な真理でもあります。

イエス様は私たちに問いかけられます。「あなたは何を見ていますか。神様が語られるとき、その真理を見えますか。私を見るとき、私が誰であるか分かりますか。」

もし私たちが正しく見ることができるなら、私たちの人生は光に満ちるでしょう。しかし、正しく見えなければ、私たちの人生は暗闇に満ちてしまいます。そのため、イエス様は私たちに警告されます。

だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。(ルカ11:35)

あなたはどうでしょうか。イエス様をあなたの主と救い主として受け入れていますか。御霊をあなたの人生に歓迎していますか。

もしあなたが心を神様に対して固くしてしまうなら、サタンの破壊的な働きを受けやすくなります。

しかし、もしあなたが心を御霊に開くなら、命を見いだすのです。

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マタイの福音書 マタイ12章

私たちの口から出る言葉

私は汚い言葉を聞くとき、本当に気になります。特に、クリスチャンがそのような言葉を使うとき、心が痛みます。なぜなら、私たちの言葉は、心の中にあるものを反映しているからです。

パリサイ人たちが「イエス様は悪霊につかれている」と非難したとき、イエス様は次のように答えられました。

木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。

まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。

わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。

あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」(マタイ12:33-37)

つまり、彼らの堕落した言葉は、彼らの堕落した心を表していたのです。

だからこそ、イエス様は私たちの無駄な言葉でさえも裁かれるとおっしゃいました。なぜなら、私たちの言葉は、私たちの心の状態を表すからです。

もし私たちの心が良い実で満たされているなら、私たちの口からは良い言葉が流れてきます。しかし、私たちの心が腐ったもので満たされているなら、腐った言葉が口から流れてくるのです。

だから、もし腐った言葉があなたの口から出るなら、驚かないでください。それは、あなたの心がそのような状態であることを示しているのです。そして、もしそんな腐ったものが心にあるなら、あなた自身の心を探り、悔い改める必要があります。

もしあなたの心に苦々しい思いが満ちているなら、苦々しい言葉が口から出ます。もしあなたの心が汚れているなら、汚い言葉が口から出ます。

あなたの心には、何が満ちていますか?あなたの口からは、何が流れ出ていますか?

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自分の心を固くする危険性

この箇所では、イエス様は再びパリサイ人たちに出くわします。

その時、目が見えず、口がきけない人がイエス様のもとに連れて来られました。この場合、その原因は悪霊でした。そこで、イエス様がその悪霊を追い出された後、その人は目が見えるようになり、話せるようになりました。

周りの人々は驚きましたが、パリサイ人たちは、この奇跡がベルゼブル(つまり、サタン)の力によって行われたものだと言いました。

ここで注目すべきなのは、パリサイ人たちはイエス様の奇跡を否定しなかったことです。彼らはただ、イエス様の力がどこから来たのかを疑ったのです。

現代の人々だけが、イエス様が奇跡を行われたかどうかを疑います。なぜなら、2000年前に起こったことは疑いやすいものだからです。けれども、目の前で起こった出来事は否定しにくいものです。

それこそがパリサイ人たちの問題でした。彼らはイエス様のことが嫌いでしたが、イエス様の奇跡を否定することはできませんでした。

このパリサイ人たちの態度は、重要なポイントを示しています。

以前にも述べましたが、どんな証拠を見ても、意図的に信じない人がいるものです。彼らは「信じられない」のではなく、「信じたくない」のです。そのため、彼らは心を固くし、神様の存在を否定するために、できる限り神様の御業を歪めようとします。

その結果、パリサイ人たちは「イエス様は汚れた霊に取り憑かれている」「サタンの力によって悪霊を追い出している」と言いました。

しかし、イエス様は彼らに二つのことを言われました。

1.もしサタンが自分自身と戦うなら、その国は立ち行かなくなります。

2.イエス様が悪霊を追い出されたことは、イエス様がサタンの味方ではないことの証明です。イエス様はサタンの国を攻撃され、その悪霊は逃げ去りました。そして、イエス様はサタンを縛り、人々を自由にされました。

そして、イエス様はパリサイ人たちに警告されます。

だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。

しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。(マタイ12:31-32)

マルコはイエス様の言葉を解釈しました。

このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである。(マルコ3:30)

つまり、パリサイ人たちは自分の心をあまりにも固くしたため、神様が何をされていたのかが分からなくなりました。さらに、彼らは神様の御業をサタンのものだと言いました。

これが、心を固くすることの危険性です。それを続ければ、最終的に聖霊の声が聞こえなくなり、神様の御業を見ても、それを認識できなくなります。そして、もしそうなってしまったら、救いの希望はなくなってしまいます。

そのため、イエス様はこの態度を「赦されない罪」と呼ばれました。彼らの心があまりにも固くなりすぎたため、彼らには救いの希望がなくなったのです。

モーセの時代、パロも同じ罪を犯しました。そのため、彼は滅びました。

では、人はいつその境界線に至るのでしょうか。それは神様だけがご存知です。ある人々の心は、救われるには固すぎるように見えるかもしれませんが、彼らが最終的に救われる可能性もあります。使徒パウロは、そのような例の一つです。

時々、クリスチャンは「私は赦されない罪を犯してしまったのではないか」と心配します。

けれども、もしそのように心配しているなら、たぶんその罪を犯していません。自分の罪を認識し、神様に対して柔らかい心を持って悔い改めるなら、心配する必要はありません。

本当に注意すべきなのは、自分の心を固くしてしまっている人たちです。

では、どのように柔らかい心を保つことができるでしょうか。それは、謙遜な態度を持ち、罪を犯したならすぐに悔い改めることです。そして、毎日、イエス様のように天の父の心を求め、従うことです。

あなたはどうでしょうか。どのような心を持っていますか。

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家族よりも親しい関係

私たちが愛する人々に自分のことを理解してもらえないのは、本当に苦しいことです。イエス様も、12歳の時に神殿でそのように感じられました。その時、イエス様の両親は彼のことを理解できなかったからです。

この箇所でも、イエス様の家族は彼のことを理解していませんでした。イエス様は神様の働きを一生懸命にしておられたので、食事をする時間すらありませんでした。そのため、イエス様の家族は、「イエスは気が狂ったのではないか」と思ったのです。

それで、彼らはイエス様を連れ戻しに出て来ました。ただ、イエス様の兄弟たちだけでなく、母マリヤも一緒に来ました。おそらくマリヤは、イエス様が気が狂ったとは考えなかったものの、彼の健康を心配していたのでしょう。

とにかく、大勢の人々が群がっており、イエス様の家族は彼のもとに直接行くことができなかったため、伝言を送りました。

イエス様は彼らの意図を理解されましたが、彼らのもとに行くことはされませんでした。その代わりに、彼はこう言われました。

わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」

それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。

「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。(マタイ12:48-50)

また、

わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行なう人たちです。(ルカ8:21)

時々、あなたが愛する人々は、あなたが神様の御心に従わないように説得しようとすることがあります。時には、彼らはあなたが気が狂ったと思うかもしれませんし、やりすぎていると感じることもあるでしょう。

しかし、覚えていてください。私たちは、彼らを喜ばせるために生きるのではなく、神様を喜ばせるために生きています。私たちは、神様の声に耳を傾け、神様の御心に従うべきです。

もちろん、私たちはバランスを取る必要があります。私たちは家族を愛し、敬うべきです。

また、神様が私たちに求めておられる以上のことをしてはいけません。なぜなら、それでは私たち自身が燃え尽きてしまうからです。

それでも、私たちは家族よりも神様を愛さなければなりません。神様の私たちに対するご計画と希望は、家族の希望よりも大切だからです。

あなたは神様をすべてよりも大切にしているでしょうか。それとも、あなたの家族があなたを神様の御心から引き離しているでしょうか。

そういうわけで、クリスチャンと結婚することが重要なのです。なぜなら、そうしないと、神様のご希望が配偶者の希望と対立する時に、大きな問題を引き起こす可能性があるからです。

また、たとえ配偶者が「私はクリスチャンだ」と言っていても、神様と共に歩んでおらず、神様の御心に従わないのであれば、それもまた大きな問題となります。

ですから、自分の心を神様にささげている人と結婚しましょう。そして、私たちのために死んで復活された方に、私たちの心と思いと力をささげましょう。

あなたの心は誰のものでしょうか。

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イエス様を悲しませる?

私たちがこの三つの箇所をまとめると、この話全体を理解することができると思います。

イエス様は会堂におられ、片手のなえた人をご覧になりました。同時に、イエス様はパリサイ人たちと律法学者たちの存在にも気づかれました。そして彼らは、イエス様がその人を安息日に癒やすかどうかをじっと見守っていました。(マルコ3:1-2)

イエス様は、彼らの思いをよく知っておられました。そのため、イエス様は片手のなえた人を呼ばれました。その時、そのリーダーたちはイエス様にこう尋ねました。

安息日にいやすのは正しいことでしょうか。(マタイ12:10)

イエス様は、いつものように、質問で答えられました。

あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。(ルカ6:9)

もちろん、そのリーダーたちはその質問に答えることができませんでした。

もし彼らが「安息日に善を行うのはだめです」または「命を救うのはだめです」と答えたなら、彼らは愚か者と見なされたでしょう。

しかし、もし彼らが「善を行ってもよいです。命を救ってもよいです。」と答えたなら、イエス様は「よし、この人を癒やします」と言われたことでしょう。

さらに、彼らはもちろん「悪を行うのは良いです」または「命を失うのは良いです」と全く言えませんでした。

そのため、彼らはずっと沈黙を守り続けました。英語のことわざには真理があると思います。「Better to remain silent and be thought a fool than to speak and to remove all doubt.」

つまり、「黙っていることで周りの人々に愚か者だと思われる方が、言葉によってそれがはっきり知られるよりも良いです。」ということです。

ルカはイエス様が彼らの答えを待っていたと記していますが、マルコはさらに詳しい情報を教えてくれます。

イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆き[ました。] (マルコ3:5)

だから、イエス様は、彼らにもう一つの質問を投げかけられました。

あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。(マタイ12:11-12)

つまり、「あなたは自分の羊を助けるでしょう。どちらの方が大切でしょうか。羊でしょうか、人間でしょうか。もし、人間の方が大切であるなら、どうして私が安息日に人を癒やすと、あなたたちは私を責めるのでしょうか。」

こうして、イエス様はご自身の疑問に答えられました。

それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。(マタイ12:12b)

そして、イエス様はその人を癒やされました。

この話には皮肉な点があります。イエス様は彼らに「安息日にしてよいのは、いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」と尋ねられました。

そのリーダーたちは、この出来事の後、イエスをどのようにして殺すかを相談し始めました。彼らは安息日にそのことを考え始めたのです。(マルコ3:6)

けれども、もう一つのことが私の心に深く響きます。

イエス様は彼らの頑なな心をご覧になり、嘆かれました。彼らの伝統と律法主義的な考え方によって心が固くなりすぎていたため、神様の言葉と真理がその心を貫くことはできませんでした。

彼らは心の中で、自分たちが間違っていることに気づいて、沈黙しました。それでも、自分たちの間違いを認めることはありませんでした。

あなたはどうでしょうか。神様に対して頑なな心を持っていませんか。

もしかすると、あなたの行動や思いが間違っているために、神様が語りかけておられるのかもしれません。そして、その言葉を通して、自分の誤りに気づき、変わらなければならないと示されることもあります。

それでもなお、自分の間違った考えや罪にしがみついてしまうでしょうか。もしそうなら、あなたは神様を悲しませてしまうことになります。

なぜなら、神様はあなたの最善を望んでおられるからです。けれども、罪によってあなたは神様だけでなく、周りの人々、そして自分自身をも傷つけてしまいます。

だから、あなたの心を開いてください。神様のみ言葉を受け入れてください。そして、私たちのために死なれたイエス様を悲しませることのないようにしましょう。むしろ、イエス様を喜ばせましょう。

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罪のない者たちを罪に定めはする?

以前の記事では、私たちは宗教的なリーダーたちが、イエス様が安息日を破ったと責めたことを見ました。しかし実際には、イエス様は神様の安息日に関する律法を破ったわけではありません。イエス様が破ったのは、彼らが作った余計なルールでした。

この箇所でも、イエス様は宗教的なリーダーたちと安息日について議論されます。イエス様とその弟子たちが麦畑を通っていた時、弟子たちはお腹が空いたため、穂を摘んで食べ始めました。

(その時代、それは合法的な行為でした。申命記23:25に記されています。)

けれども、パリサイ人の目には、穂を摘む行為は仕事と見なされました。そして、律法では安息日に仕事をしてはならないとされていました。

それに対して、イエス様は二つの理由を挙げてその考え方を否定されました。

一つ目は、祭司たちが安息日に働いていても、それが罪とは見なされなかったことです。

二つ目は、ある律法はほかの律法よりも優先されるべきだということです。つまり、命を守ることは安息日の律法よりも重要だということです。この点については、パリサイ人もある程度同意していました。

例えば、誰かが死にかけている場合、お医者さんはその人が次の日まで生き延びられるように治療を行い、その後、その人を完全に治療しました。

そして、もう一度、イエス様は預言者ホセアの言葉を引用されます。

「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。(マタイ12:7)

多くの人々は、神様の目にはルールを守ることが最も重要なことであると思っています。そして、彼らは神様が私たちを罰する機会を待っていると考えています。

けれども、実際には神様はルールを守ることよりも、人々自身を大切にされます。

パリサイ人はこのことを理解しておらず、神様の律法を守るために、たくさんの余計なルールを作り出しました。そして、その余計なルールを守らない人を見ると、パリサイ人はその人を責めました。

しかし、イエス様は彼らにこう言われました。

安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。(マルコ2:27)

神様が立てられたルールはすべて正しいものです。それらのルールは、私たちの利益のために存在しています。

私たちはそのルールのために造られたのではありません。神様は、私たちを支配するためではなく、私たちを祝福するためにそのルールを作られました。

その原則を理解すれば、ルールの目的を正しく把握し、それを私たちの人生に適切に当てはめることができます。

、その原則を理解しなければ、パリサイ人のようにルールの本質が分からず、間違った方法で当てはめてしまうでしょう。それだけでなく、私たちは神様の目に無実の人を責めることになりかねません。

あなたはどうでしょうか。神様のルールをどのように考えているでしょうか。それらを余計なルールだと思っているでしょうか。

あるいは、それらのルールがあなたの利益のためだと理解しているでしょうか。そして、そのルールの背後にある理由を正しく理解しているでしょうか。

そのように理解すれば、無実の人を責めることはなくなるでしょう。