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マタイの福音書 マタイ18章 マルコの福音書 マルコ9章

仲間を赦さない悪い家来のたとえ話:憐れみか火か:どちらで塩気がつけられる?

マタイ、マルコ、ルカの三人は、同じ事件について語っています。その話をまとめることは本当に興味深いものです。

けれども、この話の最初に戻りましょう。それは、弟子たちが誰が一番偉いかを論じ合っていたことです。

おそらく論じ合う中で、多くの酷い言葉が交わされ、人々は深く傷ついたでしょう。そのため、イエス様は私たちが傷ついた時、どのように対応するべきかを教えてくださいました。

その後、ペテロがイエス様に質問をしました。おそらく他の弟子たちは彼を傷つけたことでしょう。それが初めてではなく、おそらくこれからもペテロは傷つけられることがあるでしょう。そのため、ペテロはイエス様に問いかけたのです。

主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。(マタイ18:21)

おそらく、ペテロは相手を七回赦すことが寛容な態度であると考えたのでしょう。その時代、多くの先生たちは三回赦すことが適切であると教えていました。(「ただし、聖書にはそのような教えは記されていません。)

しかし、イエス様はこう答えられました。

七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。(マタイ18:22)

イエス様が意味されたことは、私たちが490回まで許さなくてはならないというわけではありません。むしろ、私たちは数えることなく許さなくてはならないのです。

そして、イエス様は有名なたとえ話を語られました。

ある王が、しもべの大きな借金を免除しました。けれども、そのすぐ後、そのしもべは別の人に出会いました。その以前、しもべはその人にお金を貸していたため、返済を要求しました。相手が払えなかったので、しもべはその人を牢に投げ込みました。

王はそのことを聞いたとき、そのしもべを呼びました。そして、しもべが来た時、王はこう言われました。

悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。(マタイ18:32-33)

そのため、借金をすべて返済するまで、そのしもべは牢に投げ込まれました。そしてイエス様はこう言われました。

あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。(35)

この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

そのしもべにとって、仲間が返済しなければならなかった借金は大きなものでした。それは約4か月分の給料に相当しました。

けれども、その借金をしもべが王に返済しなければならなかった借金と比べると、非常に小さいものでした。その額は何億円にも及ぶものでした。

時々、人々は私たちを傷つけ、その傷は本当に深いものです。とはいえ、私たちの神様に対する負債の方がはるかに大きいのです。私たちは自分の罪が小さいものだと思うことがあるかもしれませんが、実際にはその罪は積み重なります。

もし、あなたが毎日罪を3回ほど犯すとすれば、それは1年間で約1000の罪になります。そしてその数字をあなたの年齢に掛けると、何千もの罪になるのです。

それにもかかわらず、神様はあなたの罪をすべて赦してくださいました。だからこそ、私たちも他の人々を許すべきです。

では、もしそうしなかった場合にはどうなるでしょうか。そのしもべが仲間を牢に投げ込んだ時、その仲間は罪悪感に浸りました。

私たちも、しばしば同じような行動を取ります。私たちは相手を許さず、その縁を切ります。そして私たちは、相手が罪悪感に浸ることを望んでいるのです。

しかし、例え話では、王はそのしもべの行動を知った時、彼を獄吏に引き渡しました。その時代、獄吏は囚人を見張るだけでなく、その囚人を拷問する役割を担っていました。

同じように、私たちが相手を許さないなら、神様が私たちをサタンに引き渡すことがあると思います。(異なる文脈ですが、第一コリント5:5をご参照ください。)

その結果、サタンは私たちを苦しめ、私たちは自分の怒りや苦々しい思いに浸ることになります。

なぜ神様はそのようなことをされるのでしょうか。それは、私たちを憎んでいるからでしょうか。違います。それは、私たちが悔い改めることを望んでおられるからです。

いずれにせよ、このたとえ話の後に、もしかしたらイエス様はこう言われたかもしれません。

すべては、火によって、塩けをつけられるのです。(マルコ9:49)

つまり、もしあなたが神様の憐れみによって塩気を付けられないなら、火によって塩気を付けられることになります。あなたが悔い改めるまで、あなたの人生は惨めなものになるでしょう。

そして、イエス様はこう言われました。

塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。(マルコ9:50a)

イエス様は、私たちを地の塩と呼ばれました。私たちは、この世の人々を憐れみと恵みで味付けする役割を果たすべきです。

けれども、もし怒りや苦々しい思いを持ち続けるなら、私たちは塩気を失ってしまいます。そのため、イエス様は弟子たちと私たちにこう語られます。

あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。(マルコ9:50b)

あなたはどうでしょうか。あなたを傷つける人に対して、あなたは塩の役割を果たしているでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ18章

傷ついたとき、神様の手を解く?

この箇所は、マタイ16章に似ています。この箇所も少し解釈が難しいです。

マタイ16章では、イエス様は繋ぐことと解くことについて話されています。

何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。(16:19)

その箇所では、イエス様は神の国と救いについて話されています。新約聖書を読むと、多くの場合、神様が私たちを通して人々に触れたいと望んでおられることがわかります。

私たちはキリストの体です。私たちは周りの人々にとって、イエス様の目や耳、口、そして手です。

もし私たちが出て行って福音を伝えるなら、神様の手が解き、多くの人々が救われます。しかし、私たちが福音を伝えないなら、ある程度まで神様の手は縛られてしまいます。

もちろん、私たちが働かなくても神様は働くことができますが、多くの場合、私たちが働かない時、神様は何もしません。

ペテロは二つの方法で神様の手を解きました。彼はユダヤ人たちに福音を伝えました。

それでも、弟子たちはイエス様の命令に従わず、異邦人たちに福音を伝えませんでした。そこで、神様は直接行動を起こされました。神様はペテロに幻を示し、またコルネリオという異邦人に天使を遣わされました。

それは神様の理想ではありませんでした。神様の理想は、ペテロたちが積極的に異邦人たちに福音を伝えることでした。

それでも、その話の後、神様は天使を遣わず、人々を通して異邦人たちを救われました。弟子たちが福音を伝え、多くの人々が救われたのです。

さらに、ペテロは異邦人たちをユダヤ人の律法の要求から解放しました。それによって神様の手が解き、多くの人々が救われました。

とはいえ、この箇所では、その前後は全く異なります。そして再び、イエス様は語られます。

何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。(マタイ18:18)

でも、この場合、イエス様が意味されたことは何でしょうか。

私の意見ですが、もし相手があなたを傷つけ、謝らないなら、あなたはその人のために祈るべきです。そうすることで、私たちが神様の手を解き、神様は彼らの人生に働き始められます。

多くの場合、私たちは相手に対する怒りや苦々しい思いに縛られています。私たちは相手のために祈るのではなく、相手について祈っています。

「主よ、彼が何をしたかご覧になりましたか?信じられません。彼を罰してください。」

ところが、十字架の上で、イエス様は敵について祈られたのではありません。イエス様は彼らのために祈られました。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)

その祈りを通して、神様は彼らの人生に働き始め、さらに救いの業を行われました。

そのように、もし私たちが相手のために祈るなら、神様の手を解き、神様は彼らの人生に働き始められます。

もちろん、私たちが祈らなくても、神様は働くことができます。とはいえ、多くの場合、神様は働く前に私たちの祈りを待っておられることがあります。

けれども、私たちが苦々しい思いを持ち続けるなら、神様の手を縛ることになり、神様は私たちの人生にも、相手の人生にも働かれません。

怒りや苦々しい思いを手放すことは難しいものです。そのため、神様は私たちを支えてくださる兄弟姉妹たちを与えてくださいました。彼らは、和解をもたらすために助けてくれ、私たちのために祈ってくれます。

だから、イエス様はこう言われました。

まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(19-20)

あなたはどうですか。心の中で何か痛みを抱えているでしょうか。あなたは天の父の手を縛っているでしょうか。それとも、その手を解いているでしょうか。

つまり、あなたはただ相手について祈っているのでしょうか。それとも、相手のために心から祈っているのでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ18章

傷ついたとき

私たちが傷つくことは、本当に辛いことです。さらに、私たちが信頼している人に傷つけられると、その痛みはさらに深いものとなります。

おそらく、弟子たちが誰が一番偉いかを論じ合っていた時、互いに傷つけ合っていたでしょう。イエス様はそれを知っておられたので、彼らにこう言われました。

また、もし、あなたの兄弟が{あなたに対して}罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。(マタイの福音書18:15)

二つのことに注目してください。

まず第一に、誰かがあなたを傷つけた時、その人があなたの元に来て謝るのをただ待つべきではありません。あなた自身が積極的にその人の元に行き、その問題について話し合うべきです。

多くの場合、私たちは怒り、相手が私たちの元に来て謝るように要求してしまいます。

けれども、その態度は和解の姿勢ではなく、誇りの姿勢です。神様は私たちが平和をつくる者になることを望んでおられます。イエス様の言葉を心に留めておきましょう。

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。(マタイ5:9)

もちろん、あなたのケンカしている友達を助けるべきです。しかし、あなたが相手と喧嘩している場合には、あなた自身が平和をつくる者となる必要があります。もしプライドを持ち続けるなら、相手と和解することはできません。

さらに、もし相手が意図せずあなたを傷つけた場合、彼らはあなたの傷に気づいていないかもしれません。そのため、私たちがただ待っているだけでは、彼らが謝ることは決してないでしょう。ですから、私たちは積極的に相手のところに行くべきです。

第二に、私たちはゴシップや中傷をしてはいけません。イエス様は「あなたが傷ついた時、皆にそのことを話しなさい」とは言われませんでした。むしろ、イエス様は「行って、ふたりだけのところで責めなさい」と言われました。

もちろん、私たちの希望は、相手が私たちの傷に気づき、そして謝罪することです。

ところで、もし相手があなたの元に来て、そのように責めてきたら、どのように反応すべきでしょうか。特に、あなたが相手が繊細すぎると感じる場合、どのように対応するのが良いでしょうか。

それでも、彼らの感情を大切にするべきです。そして、素直に謝りましょう。また、相手の言葉を心に留めて、次に気を付けるべきことを考えるようにしてください。それこそが、平和をつくる者の態度です。

しかし、あなたが傷ついたにもかかわらず、相手が自分の過ちを認めない場合、どうすれば良いでしょうか。

その場合、イエス様は「二人の人々を連れて行き、その人と話しなさい」と言われました。

もちろん、その二人には状況を正確に説明すべきです。それでも、相手を悪く言うことは避けなければなりません。あなたの目的はあくまで和解です。

実際に、その二人と相談することで、あなた自身が相手を誤解していたことに気づく場合もあるかもしれません。 または、彼らの助けによって、相手が自分の至らなさに気づくこともあるでしょう。

ただし、改めて強調しますが、あなたの目的は和解です。

しかし、相手が聞き入れてくれない場合には、教会にその問題を伝えるべきです。

必ずしも全員の前で公にする必要はありません。 とはいえ、牧師や他のリーダーの助けを求めるのが良いでしょう。

けれども、相手が聞き入れてくれないなら、イエス様はこう言われます。

教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。(17)

イエス様が意味されたことは、あなたが相手に対する期待を変えるべきだということです。相手がクリスチャンとしてふるまうことを期待しない方が良いでしょう。

むしろ、彼らをクリスチャンではない人として見た方が良いです。私たちは、クリスチャンではない人がクリスチャンのようにふるまうことを期待しないでしょう。そして、相手が悔い改めない限り、クリスチャンとしての行動をしているとは言えません。

ですから、相手に会うときには気をつけてください。相手が悔い改めないなら、あなたを何度も傷つける可能性があります。

イスラエル人が取税人を避けたように、あなたもできるだけ相手を避けた方が良いでしょう。それでは、なぜ避けるべきなのでしょうか。それはあなたが怒っているからですか。それとも苦々しい思いを持っているからですか。そうではありません。

実際には、その怒りや苦々しい思いを手放さなくてはなりません。そうしなければ、あなた自身がその感情に縛られてしまうからです。

むしろ、相手が危険な人物であるため、その人を避ける方が良いのです。もし彼らが自分の過ちを認めないなら、その人はあなたにとって危険な存在です。ですから、相手を避けてください。

さて、あなたはどうですか。傷つけられた時、どのように対応しますか。

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神様がどのように子供を見ておられるのか

イエス様が神の国について教えられた時、神様がどのように子供たちを見ておられるかを明確に示されました。

まず最初に、イエス様は私たちに「子供に罪を起こさせるようにするな」と警告されました。

そして、イエス様は続けてこう言われました。

しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。

つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。(マタイ18:6-7)

また、イエス様は「子供につまずきを与えるくらいなら、自分の手や足を切った方が良い」と言われました。

どうしてイエス様はそのような極端なことを言われたのでしょうか。それは、子供たちが非常に影響を受けやすいからです。彼らは私たちの行動を見て、すぐに学びます。

もし私たちが怒りっぽいなら、彼らも怒りっぽくなります。

もし私たちが夫や妻に感謝しないなら、彼らが成長して結婚した時、自分の伴侶に対して感謝をしないでしょう。

もし私たちが彼らを虐待するなら、彼らも自分の子供を虐待する可能性があります。

ですから、子供がいる時は、自分の言動に注意してください。神様はそれに基づいてあなたを裁かれるからです。

イエス様はさらに私たちに警告されます。

あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。

まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。(マタイ18:10)

神様は子供たちを愛しておられるので、その子供たちを守るために天使を遣わされます。ですから、私たちも子供たちを大切にしなければなりません。彼らを取るに足りない存在と見なしてはいけません。神様はその宝物を私たちに託されたのです。

さらに、イエス様は子供たちを迷子になった羊に例えられます。神様はその子供たちを救いたいと望んでおられます。ですから、イエス様はこう言われました。

このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。(マタイ18:14)

子供に関して、私はもう二つのことをお伝えしたいと思います。

まず第一に、人には責任を取らなければならない年齢があると思います。つまり、子供が自分の罪の責任を取らなければならない時が来るということです。

その年齢が具体的にいつなのかは分かりませんが、きっと子供によって異なるでしょう。彼らが自分の罪を認識し、さらに罪の悪さを理解するのであれば、責任を取る必要があると思います。

第二に、「この小さい者たちのひとりが滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません」と書かれています。

それでも、私は子供たちが滅びる可能性があると考えます。このことについては、ペテロが似たようなことを言っています。

[神様は]あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(第二ペテロ3:9)

けれども、ペテロははっきりと言っています。人は悔い改めなければ救われません。ですから、子供がどうしても悔い改めないのであれば、救われることはありません。

だからこそ、神様が子供たちを大切にされるように、私たちも子供たちを大切にしましょう。また、彼らが救われるように、福音を彼らに伝えましょう。

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最も偉い人

時々、私はクリスチャンとしてどれほど成長しなければならないかを見て、落胆してしまいます。けれども、弟子たちに対するイエス様の忍耐を思うと、私は励まされます。

弟子たちがカペナウムへ向かう途中、彼らは「誰が一番偉いか」について議論していました。おそらく、イエス様はそのやり取りを聞きながら、静かに歩みを進めておられたのでしょう。そして、彼らが家に着いたとき、イエス様はこう尋ねられました。

道で何を論じ合っていたのですか。(マルコ9:33)

多分、弟子たちは恥ずかしくて、何について話していたのかを認めることができず、黙っていました。そこで、イエス様は彼らにこう語られました。

だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。(マルコ9:35)

おそらく、弟子たちはそれを聞いて混乱し、イエス様に尋ねました。

それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。(マタイ18:1)

おそらく、弟子たちは「私たちの中で、一番偉いのは誰でしょうか」と尋ねたかったのでしょう。

すると、イエス様は小さな子供を腕に抱き寄せ、こう答えられました。

まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。(マタイ18:3-4)

イエス様が意味されたことは何でしょうか。

まず一つ目は、小さな子供のようにならなければ、誰も天国に入ることができないということです。

小さな子供の特徴は何でしょうか。彼らは謙遜であり、すべてを知っているとは思いません。そのため、いつも両親に質問をし、何事にも両親を頼りにします。

私たちが天国に入りたいのなら、そのような態度を持たなければなりません。神様の前で謙遜になり、自分がすべてを知っているわけではないと認め、神様の知恵と導きを求める必要があります。

また、神様に頼ることを学ばなければなりません。もちろん、救いのために神様に頼ることは不可欠です。けれども、それだけではなく、日々の生活の中で神様の知恵と力に頼ることを学ぶ必要があります。

しかし、多くの人々はそのように生きません。彼らは、自分の力と知恵が十分であると考え、それに頼って生きています。けれども、そのように考え、生きるなら、彼らは決して神様の国に入ることはできません。

クリスチャンの中にも、自分の知恵と力に頼り続ける人がいます。私自身もそのようになりがちです。しかし、私も少しずつ、自分の弱さを理解し、どれほど神様が必要なのかを実感するようになっています。

イエス様の二つ目のポイントは、偉さとは、何人の人があなたに仕えるかによって測られるものではないということです。むしろ、一番偉い人は周囲の人々に仕える者です。だから、イエス様はこう言われました。

「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」

偉大なリーダーたちについて考えてみてください。彼らは無理やり人々を従わせる必要はありませんでした。むしろ、人々はそのリーダーに喜んで従いました。そして、彼ら自身も周囲の人々に仕えるために生きました。

そのため、たとえ相手から何の利益も得なくても、真のリーダーは人々に仕えるのです。

イエス様はこう言われました。

だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。

また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。(マルコ9:37)

子供に仕えても、大きな利益があるわけではありません。なぜなら、彼らはあなたに多くを与えることができないからです。しかし、子供に仕えることは、実はイエス様に仕えることなのです。

さらに、イエス様への愛ゆえに、あなたが誰かに仕えるとき、実はイエス様に仕えているのです。イエス様の目には、そのような人こそ偉大な存在です。

あなたは偉い人になりたいでしょうか。

子供のようになりましょう。謙遜でいましょう。他者に仕えましょう。相手が偉い人であっても、そうでなくても、彼らのニーズを優先しましょう。

あなたはどうしますか。