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イエス様に従い甲斐がある?

イエス様に従うことは本当に甲斐があるのでしょうか。裕福な役人はその疑問に直面しなければなりませんでした。残念ながら、彼はイエス様に従うことに甲斐がないと感じてしまいました。

ペテロもまた、自分自身に同じ問いを投げかけました。「イエス様のために、私はすべてを捨ててきましたが、それは本当に価値あることなのでしょうか。」

そこで彼はイエス様に尋ねました。

ご覧ください。私たちはすべとを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。(マタイ19:27)

イエス様はこのように答えられました。

まことに、あなたがたに言います。

私のために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。

しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。(マルコ10:29-31)

ここには、二つの重要な注意事項があります。

1.イエス様は、私たちがイエス様に従うなら報いを得ると教えてくださいました。報いは天国で得るだけではなく、この世でも得られます。それだけではなく、イエス様は私たちが豊かに祝福されると語られました。

もちろん、私たち全員が金持ちになるわけではありません。それでも、私たちの人生の終わりに振り返るとき、「私は祝福された。イエス様に従った甲斐があった」と心から言えるでしょう。

2.マルコの福音書にのみ記されているこの言葉は特に目立つものです。イエス様は報いについて語るだけではなく、警告もしてくださいました。「あなたは迫害を受けるでしょう。私に従えば必ず迫害されるでしょう。」

つまり、クリスチャンとしての生活はいつも楽しいものではありません。もちろん、喜びの瞬間はありますし、神様が私たちに祝福を注いでくださることもあります。

しかし、イエス様に従うならば、あなたを憎む人々がいるでしょう。イエス様は完全な神の子であったにもかかわらず、人々は彼を憎んだのです。

そして、イエス様はこう語られました。

しもべは主人にまさるものではない。。。人々が、私を迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。(ヨハネ15:20)

だから、イエス様に従っている間に迫害を受けることがあっても驚かないでください。むしろ、永遠の報いに目を向けましょう。なぜなら、どんな苦しみがあっても、最終的にはイエス様に従う価値があるからです。

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救いの不可能性

私が大学生の時、宗教学の教授がキリスト教について話した際にこの話を取り上げました。彼の主張は何だったでしょうか。キリスト教によれば、天国に行きたいと思うなら、自分の持ち物をすべて売らなくてはならない、ということでした。

実は、私の教授の言葉は、私たち全員に全く別の教訓を教えています。それは、文脈を正しく理解しないと、聖書が教えていることを完全に誤解してしまう、ということです。

いずれにせよ、この箇所を総合的に比較してみると、イエス様と対話した人物について興味深い点が明らかになります。

彼は金持ちであり(全ての福音書の著者がそう記述しています)、若者であり(マタイ19:22)、さらに役人でもありました(ルカ18:18)。

そして彼はイエス様にこう尋ねました。

「良い先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」(マタイ19:16;マルコ10:17)

イエス様はこう答えられました。

なぜ、私を「良い」と言うのですか。また、なぜ、良いことについて、私に訊ねるのですか。良い方は神おひとりのほか、誰もいません。(マタイ19:17;マルコ10:18)

この箇所では、イエス様はご自身についての誤解の一つを明確にされます。それは、「イエス様は良い方だったが、神ではなかった」というものです。

イエス様はその人にこう言われました。

「あなたが私を神と呼ぶなら、それは正しいことです。 けれども、それを信じないなら、私をただの人間と呼ぶべきです。

とはいえ、もし私がただの人間であるなら、私を良い方と呼んではいけません。 なぜなら、唯一の神だけが良い方だからです。」

そして、イエス様は彼にこう言われました。

「いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」(マタイ19:17)

その言葉だけを読むと、イエス様が私たちの良い行動によって天国に入れると言っていると思うかもしれません。しかし、この役人の反応を見てください。

私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。(20)

多くの人々には同じ問題があります。彼らは一生懸命神様の戒めを守ろうとします。そして、頑張って正しいことをしようとします。その役人のように、自分はその戒めをちゃんと守ったと思う人もいるでしょう。

それでも、心の中では何かが欠けていることを感じています。それはなぜでしょうか。

なぜなら、私たちは周りの人々をだますこともできるし、自分自身をだますこともできます。しかし、神様の基準を完全に満たすことができる人は誰一人としていないからです。

パウロは次のように書きました。

全ての人は罪を犯し「ます」。(ローマ3:23)

もし、私たちが自分の心を探るなら、そのことが明らかになるでしょう。

それでは、イエス様が永遠の命への道について語られた時に、どうして神様の戒めを指されたのでしょうか。もしかすると、パウロがその答えを示してくれるかもしれません。

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては、神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。(ローマ3:20)

ちょっと考えてみてください。鏡には私たちの顔を洗う力があるでしょうか。そんな力はありません。むしろ、鏡は私たちの汚い顔を映し出します。

同じように、律法には私たちの罪を清める力はありませんが、私たちの罪を指摘することができます。

とはいえ、その「鏡」の反映が時々ピンぼけになることもあるかもしれません。

もちろん、神様の律法の言葉は明確です。けれども、私たちがその律法の意味を正しく理解できないときもあります。また、その律法の意味を理解していても、自分の罪がまだ見えないこともあるでしょう。

この役人には、その問題がありました。彼は自分が律法を完全に守ったと思っていました。そこで、イエス様はその人の「鏡」を拭いて、反映をはっきりと見えるようにしてくださいました。イエス様はこう言われました。

完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、私に従って来なさい。(21)

どうして、イエス様はそう言われたのでしょうか。それは、その役人自身が言ったように、彼にはまだ何かが欠けていたからです。

彼は神様を愛するよりも、お金に執着していました。その結果、実際には彼は十戒の最初の戒めを破り、お金を自分の神としてしまいました。

その役人がイエス様の言葉を聞いたとき、自分の罪をはっきりと見ることができました。それでも残念ながら、彼はこう言うことはありませんでした。

「イエス様、私を助けてください。私は罪人です。私を憐れんでください。」

むしろ、彼は悲しみながら立ち去ってしまいました。

だからイエス様はこう言われました。

富を持つものが神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。(マルコ10:23)

弟子たちはそれを聞いて衝撃を受けました。それは、彼らが金持ちは神様に恵まれた人だと信じていたからです。しかし、イエス様はその同じ教えを繰り返されました。

子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。(マルコ10:24-25)

どうしてでしょうか。それは、この世のものを持ちながら、神様からのものを持つことは不可能だからです。金持ちは普通の人よりも多く、この世のものを所有しています。そのため、彼らが手放さなければならないものは、普通の人よりも多いのです。

そこで、弟子たちはこう尋ねました。

それでは、だれが救われることができるでしょう。(マルコ10:26)

次に記されたイエス様の言葉こそ、この箇所の核心を示しています。

それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。(マルコ10:27)

神様から離れている状態では、救いを得ることは不可能です。私たちは不完全な存在であるため、自分の努力だけで自分自身を救うことはできません。

イエス様はその教訓を役人に伝えたいと望まれました。

けれども、イエス様の十字架の御業と神様の御業によって、救いは可能になります。私たちがすべきことはただ一つ、イエス様を信じることだけです。

ヨハネは次のように書きました。

神は、実に、そのひとり子を与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

今日あなたは、神様の救いの賜物を受けないでしょうか。

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子供のように

イエス様が弟子たちを子供たちを追い出そうとしたことで責められたとき、イエス様はこう言われました。

子供たちを、私のところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。

まことに、あなたがたに言います。子供のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。(マルコ10:14-15)

子供のように神の国を受け入れるとは、どういう意味でしょうか。子供の性格はどんなものでしょうか。

1.彼らは人を全面的に信頼します。年月が経ち、さまざまな傷や嘘、裏切りを経験し、その心が固くなってしまうまで、彼らは人の言葉を信じ、疑うことを知りません。私たちはそのような純粋な心を持つべきです。

罪とは、基本的に神様に対する信頼の欠如と言えます。つまり、私たちは神様にこう言うのです。「あなたの言葉を信じません。あなたが私の最善を望んでいることを信じません。だから、自分の道を行きます。」

しかし、そのような態度でいるならば、私たちは決して神の国に入ることができません。

2.彼らは完全に大人に依存します。そして、そのことを素直に認めます。彼らは自分で料理を用意することも、服やその他必要なものを買うこともできません。彼らはそれらを受け取るために、両親に依存しています。

同じように、私たちがどれほど神様に依存しなければならないかを理解できなければ、私たちは決して神の国に入ることができません。

なぜなら、私たちには救いを買う力がないからです。そしてまた、私たちは救いのために働くこともできません。むしろ、神様の恵みとイエス・キリストの十字架の御業に完全に依存する必要があります。

その真理は非常に単純であるため、多くの人々にとって受け入れるのが難しいものです。また彼らは、その真理を信じることを拒むかもしれません。

自分の救いを買えると思いたいのです。または、自分の救いのために働くことができると思いたいのです。彼らは、自分には何もできないという事実を認めるのを嫌うのです。

けれども、私が以前に述べたように、彼らは子供のように神様を全面的に信頼することを学ばなければなりません。

イエス様はこう言われました。

神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神の御業です。(ヨハネ6:29)

あなたはどうですか。神様の前に子供のような心で来ているでしょうか。

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取るに足りない者の神

父親として、私は自分の娘が大好きです。それでも、彼女がうっとうしい時もあります。特に、私が大切な仕事をしているとき(別に大切じゃないことをしている時でも)、彼女は必死に私の注意を引こうとします。

私が仕事を続けながら、彼女を見ずに「はい、はい」と適当に応えるのは、とても簡単です。もし特に参っている時には、「後で。今忙しいよ。」と言ってしまうかもしれません。

この箇所では、イエス様の弟子たちはまさにそのように反応しました。

お母さんたちが自分の赤ちゃん(きっと泣いている赤ちゃんもいたと思います)、また幼い子供たち(おそらく乱暴な子供もいたでしょう)をイエス様のもとに連れて行ったとき、弟子たちは参ってしまい、「もう帰りなさい。イエス様はこの子供たちのために時間がないよ。」と言いました。

しかし、イエス様はすぐに弟子たちの言葉に反応されました。

イエス様はそれを見て、憤っ[た]。(マルコ10:14a)

そして、イエス様は彼らにこう言われました。

子供たちを、私のところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。(マルコ10:14b)

この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちの子供たちや他の人々を、弟子たちがしたように扱ってはいけません。彼らを取るに足りない人として扱ってはいけません。重要ではない人として扱ってはいけません。私たちの時間に値しない人として考えるべきではありません。

なぜなら、そうすればイエス様はとても憤られるからです。彼らはイエス様の大切な創造物であり、イエス様は彼らのために死ぬほどまでに彼らを愛しておられました。

あなたもまた、同じように愛されています。自分が取るに足りない人間だと思うかもしれません。のけ者だと感じるかもしれません。

それでも、人々があなたをそのように扱うとき、イエス様は憤られます。イエス様はあなたを憐れんでおられます。そして、あなたを愛しておられます。イエス様は決してあなたを見捨てることはありません。

だから、イエス様に近づいてください。イエス様の目には、あなたはとても大切な存在です。あなたは貴い者です。そしてイエス様は、あなたとの関係を何よりも望んでおられます。

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結婚しない方がましでしょうか

イエス様の教えに対する弟子たちの反応は、非常に興味深いものがあります。

もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです。(マタイの福音書19:10)

要するに、「もし離婚できず、同じ人とずっと結婚していなくてはいけないのであれば、結婚しないほうが良い」ということです。「みじめな結婚よりも、独身の生活のほうがましです。」

もちろん、みじめな結婚よりも、独身の生活のほうがましですが、多くの人々はずっと独身でいる生活を望まないでしょう。だから、イエス様はこのように語られました。

そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。

母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。

また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。

それを受け入れることができる人は、受け入れなさい。(11-12)

要するに、独身の生活で満足できる人は少ないということです。

ある人は「母の胎から独身者として生まれた」と言われています。例えば、生まれつきの身体的な不自由があるために、彼らにとって結婚生活を送るのは非常に困難な場合があります。

または、「人から独身者にさせられた」とする人もいます。おそらくイエス様は宦官について語られたのかもしれません。現代では宦官は存在しませんが、過去のトラウマが理由で結婚を望まない人もいます。

さらに、パウロのように、神の国のために独身生活を選ぶ人もいます。

イエス様は、「もしあなたが独身生活に満足できるなら、それでも良い」と語られました。

けれども、残念なのは、弟子たちや現代の多くの人々が、一生の結婚を「牢獄」のように感じていることです。英語圏では、「Ball and chain」というイメージが使われることがあります。

だから、彼らは結婚する気が進みません。しかし、そのような考え方のせいで、彼らは一生の結婚の喜びを逃してしまいます。神様が初めて結婚を造られたとき、夫婦のために幸せな生活を計画されました。

結婚は本来、素晴らしいものであるはずです。結婚が必ずしも「Ball and chain」であるわけではありません。

では、良い結婚の秘訣とは何でしょうか。

結婚の初めから、あなたと伴侶はお互いに腹を決めなくてはなりません。

まず、神様に対して柔らかい心を保つことを決意しなくてはなりません。

そして、伴侶に対して柔らかい心を保つことを決意しなくてはなりません。

神様に対して柔らかい心を保つなら、あなたたちが喧嘩するとき、神様はあなたたちの心に語り、平和をもたらしてくださいます。多くの場合、神様はあなたに(または伴侶に)「もうやめなさい。相手に譲りなさい。」と語られるでしょう。

さらに、神様はあなたたちに、どのように結婚を強めるかを教えてくださいます。また、どのように相手のニーズを満たすかを教えてくださいます。そして、どのようにもっと愛し合えるかを教えてくださいます。

もし伴侶に対して柔らかい心を保つなら、あなたは相手のことをもっと深く理解できるようになります。

相手の動機がわかり、相手をイライラさせる原因がわかり、相手を喜ばせる方法もわかるようになります。

もし、あなたが努力してこれらを学び、相手をイライラさせないようにするだけでなく、積極的に相手を喜ばせようとすれば、相手もあなたに対して同じようにしてくれるでしょう。

その結果、あなたたちはみじめな結婚ではなく、幸せな結婚を築き、本当に一体となることができます。

あなたは結婚をどのようにとらえるでしょうか。「Ball and chain」としてとらえるでしょうか。それとも、神様が意図された喜びで満ちたものとしてとらえるでしょうか。

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私たちの伴侶が私たちに対して頑なな心と持つとき

以前の記事で、私は夫婦が自分の心を探らなくてはならないと言いました。

つまり、私たちが自分の伴侶に対して頑なな心を持っているかどうかを自分自身に問いかける必要があるということです。また、神様に対しても頑なな心を持っているかどうかを問いかけなければなりません。

健全な結婚においても、不健全な結婚においても、それらはとても大事な質問です。なぜなら、もし神様に対して、また伴侶に対して頑なな心を持っているなら、結婚は長く続かないからです。

では、もし私たちの伴侶が私たちに対して頑なな心を持っているなら、どうすればよいのでしょうか。

それは非常に難しい問題です。

聖書では、神様は二つの件についてしか教えていません。

一つ目は、相手が姦淫を犯した場合です。とくに、その罪を悔い改めようとしないときです。

イエス様ははっきりと語られています。その場合、神様は離婚を許されます。あなたが相手と離婚して別の人と結婚することは、姦淫とはみなされません。

多分その理由は、神様の目では、その結婚が修復できないくらい、相手が頑なな心を持っていることです。その夫婦の関係はすでに崩れてしまっています。なぜなら、相手が他の人と一体となったからです。

特に、相手が再婚した場合、最初の結婚は完全に壊れてしまい、あなたはその人に縛られる必要はありません。

しかし、相手が一度だけ不倫を犯したものの、悔い改めた場合はどうでしょうか。それはさらに複雑な問題です。

もちろん、壊れた信頼関係を修復するのは非常に困難です。それが不可能だとは言いませんが、とても難しいです。とはいえ、相手が悔い改めた場合、あなたが仲直りをもたらすために働くことは、神様の御心であると考えられます。

それは非常に難しいことですが、神様の恵みと、周囲のクリスチャンのサポートが必要になると思います。信頼関係を修復するには多くの時間がかかるでしょう。それでも、神様はあなたの結婚を癒すことができます。

もし、あなたと伴侶が神様に対して柔らかい心を持つならば、神様はあなたの心を癒し、あなたの結婚をも癒してくださるでしょう。

第一コリント7章で、パウロは別の件について語っています。それは、あなたのノンクリスチャンの伴侶があなたを捨てる場合です。その場合、パウロはこう述べました。

しかし、信者でないほうの者が離れていくなら、離れていかせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。(第一コリント7:15)

イエス様と使徒たちは、その二つの状況についてしか語っていません。

しかし現代では、多くの人々がDVについて疑問を抱いています。その場合、神様は離婚を許されるのでしょうか。イエス様と使徒たちはその問題については何も語っていません。

その理由は私には分かりません。その時代にも同様の問題は存在していました。ユダヤ人の妻たちは夫と離婚することはできませんでしたが、DVの場合は裁判官に訴え出ることで、裁判官が夫に妻との離婚を強制させることができました。

とはいえ、イエス様と使徒たちがDVに関して語らなかったため、多くの牧師たちはDVが離婚の理由にはならないと考えています。

私の考えでは、もしあなたの伴侶が危険な人であり、あなたが虐待を受けているならば、さらに相手がどうしてもカウンセリングを受けない場合は、あなたは相手と一緒に住み続ける必要はありません。まずはあなた自身と子供を守るべきです。

個人的な意見ですが、イエス様がパリサイ人たちに対して語った内容はDVのケースに適用できると考えています。

私が喜びとするのは真実の愛(あるいは、憐れみ)。いけにえではない」とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。(マタイ12:7)

神様が結婚の祭壇の上に、虐待された妻たちを犠牲として捧げることを要求することはないと思います。

では、DVの場合、神様は離婚を許されるのでしょうか。それは正しい質問ではないと思います。

正しい質問とは何でしょうか。

イエス様は、モーセの時代に神様が人々の頑なな心のために離婚を許されたと語られました。

少し質問させてください。

クリスチャンは頑なな心を持ち続けてもよいのでしょうか。

それは許されません。

だから、これは私の個人的な意見です。結婚がもう続けられないほど、相手が頑なな心を持っているなら、神様は離婚を許されると思います。

では、あなたが離婚を考えているなら、どうすれば良いのでしょうか。

どんな状況であっても(姦淫、あなたが捨てられた場合、DVなど)、決断する前に自分の心を探りましょう。

「私には神様に対して、また伴侶に対して頑なな心があるのだろうか」と自問しましょう。

それこそが最も重要な質問だと思います。

もしその質問に「はい」と答えるのであれば、離婚の決断を急がず、慎重に考えるべきです。自分の頑なな心が理由で離婚を選んではいけません。

とはいえ、あなたが自分の心を神様と伴侶に対して開いているのに、伴侶が頑なな心を持ち続け、離婚を求めたり、暴力であなたを脅したりする場合、離婚を選択しても良いと思います。

そのような場合、神様は離婚を命じられませんが、その状況をよく理解してくださり、離婚を許されると思います。

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神様と私たちの伴侶に対して、頑なな心を持つと

いろんな福音書を読んで同じ話を統合するのは非常に興味深いことです。私はマタイの福音書とマルコの福音書をしっかり統合しているかどうかわかりませんが、このように統合する試みは面白いと思います。

パリサイ人たち: 「何か理由があれば、妻を離婚することは律法にかなっているでしょうか。」

イエス様: 「知らないのですか。二人は結婚すると、もはや二人ではなく、一体になるのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」

パリサイ人たち: 「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」

イエス様: 「え?モーセはあなたがたに何と命じたでしょうか。『あなたの妻を離婚しなさい』と命じたのですか。」

パリサイ人たち: 「まあ、そういうわけではありませんが、モーセは私たちに妻を離別することを許しました。」

イエス様: 「その通りです。モーセは離婚を命じたのではなく、離婚を許したのです。どうして離婚を許したかわかりますか。それは、あなたがたの心が頑なだったからです。

しかし、神様がアダムとエバを造られたとき、結婚を設けられたとき、離婚は神様の元々の意図ではありませんでした。」

この話を統合するのは面白いかもしれませんが、イエス様はとても深刻な問題に取り組んでいます。

この箇所で、イエス様はなぜ多くの夫婦が離婚してしまうのかを説明されています。彼らは神様に対する頑なな心を持ち、伴侶に対する頑なな心も持っています。

では、人々はどのように神様に対する頑なな心を持つのでしょうか。

まず、彼らは結婚に関する神様の教えを拒んでいます。

結婚は一生のものです。私たちは自分の妻や夫に忠実でなければなりません。キリストが教会を愛するように、夫は妻を愛さなければなりません。教会がキリストに従うように、妻は夫に従わなければなりません。それらは神様の教えです。

それでも、多くの人々は、その教えに従うのは無理だと言い、様々な言い訳を作ります。

「私の妻が私に従わないのに、どうして愛するべきだろうか。」

「私の夫が私を愛してくれないのに、どうして私は彼に従わなければならないのでしょうか。」

「結婚生活がうまくいくかどうか、だれにもわかりません。もしかしたら、うまくいかないかもしれないので、離婚のオプションを残しておいた方がいいのかもしれません。」

また、彼らが喧嘩するとき、神様はこう語ります。「もうやめなさい。相手に譲りなさい。このことについて喧嘩するのは無駄です。」

ところが、彼らは誇りや怒りを捨てることを拒むので、神様の声に従いません。

では、どのように人々は伴侶に対する頑なな心を持つのでしょうか。彼らは互いに耳を傾けません。

妻が夫が働きすぎると言うと、夫は「だって、私たちはお金が必要だろう」と答えます。

夫が情交の欠如について不満を言うと、妻は「だって、私は疲れすぎている」と答えます。

妻が夫の言葉や行動がひどいと言うと、夫は「君は敏感すぎるよ」と答えます。

他にもさまざまな例を挙げることができます。

その結果はどうなるでしょうか?

離婚です。

多くの人々は、どうして自分の結婚が失敗したのか疑問に思います。2〜3回結婚する人もいますが、その再婚も離婚に至ることがほとんどです。なぜでしょうか。

それは、彼らが自分自身の心の問題に取り組まなかったからです。つまり、神様に対して、また伴侶に対して、柔らかい心を保つことを学ばなかったのです。

あなたは独身ですか。伴侶を求めていますか。その前に、自分の心をよく探ってください。

神様があなたの行為について訓戒されるとき、あなたはその言葉を聞き入れることができるでしょうか。結婚後、神様はきっと、伴侶をどのように扱うべきかをあなたに教えられるでしょう。

けれども、もし今、神様の言葉に対して頑なな心を持ち、その態度を結婚に持ち込むなら、あなたの結婚はきっと崩れてしまいます。

あなたは結婚していますか。伴侶に対してフラストレーションを感じていますか。まずは、伴侶に目を向けるのをやめ、自分自身の心を探りましょう。どのように伴侶に対して頑なな心を持っているのでしょうか。そして、何を変えるべきかを神様に尋ねましょう。

あなたは離婚していますか。別の伴侶を探していますか。

その前に、自分自身にこう訊きましょう。「私はどのように以前の伴侶に対して頑なな心を持っていたのだろうか。私はどのように神様に対して頑なな心を持っていたのだろうか。」

そう訊かないと、あなたは同じ失敗を繰り返してしまうかもしれません。

もう一つのことを考えてみてください。今でも、あなたは神様に対して、また元夫や元妻に対して、頑なな心を持っているでしょうか。

もしかすると、神様はあなたに、元夫や元妻との和解に向けて働きなさいと語っているのかもしれません。もし神様がそのように語っているなら、その言葉に従うことができるでしょうか。

次回は、相手があなたに対して頑なな心を持つ場合について話していきます。けれども、今日はまず自分自身の心を探りましょう。あなたの心のすべては神様のものでしょうか。

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どうして離婚はそんなに痛いでしょうか

離婚は非常に難しいトピックです。なぜなら、離婚に伴う痛みは非常に深いからです。日本でも離婚率は徐々に上昇しています。そのため、私たちは結婚と離婚に関するイエス様の教えを真剣に考えるべきだと思います。

パリサイ人たちはイエス様のもとに来て、こう尋ねました。

何か理由があれば、妻を離婚することは律法にかなっているでしょうか。(マタイ19:3)

その時代においても、離婚は論争の的となる問題でした。どんな理由でも離婚が許されるべきだと考えるパリサイ人もいれば、性的な罪だけが離婚の正当な理由だと考えるパリサイ人もいました。

実際、多くのパリサイ人は離婚を経験していました。彼らの多くは、他の女性と結婚したいと思ったために妻と離婚することを選びました。もちろん彼らは姦淫を犯したくなかったものの、他の女性と関係を持ちたいがために妻を離婚したのです。

おそらく、山上の垂訓やこの箇所で、イエス様が特にこの問題について話されたのだと思います。

つまり、「あなたが結婚していない人と肉体的な関係を持たなかったとしても、もし他の女性と関係を持つために妻を離婚したならば、それは神様の目には姦淫である」ということを教えたのです。

いずれにせよ、イエス様はパリサイ人の質問にこう答えられました。

あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から「男と女に彼らを創造され」ました。

そして、「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、二人は一体となるのである」と言われました。

ですから、彼らはもはや二人ではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。(マタイ19:4-6)

イエス様は律法の専門家たちの意見を全く無視し、聖書を示されました。そして、聖書を基に、イエス様は結婚の本来あるべき姿を説明されました。

結婚とは、男と女が一体となることです。彼らはもはや別々の存在ではありません。彼らは結び合い、一体となるのです。

時々、人々はこう疑問に思います。「なぜ神様はセックスを夫婦だけのものと命じるのでしょうか。」

その主な理由は、男性と女性が肉体的な関係を持つとき、彼らが結び合うからです。それは肉体的な結びつきに留まらず、精神的にも結びつき、さらには彼らの魂も結び合うのです。

ボンドを使って、うっかり指を二本貼り合わせた経験はありませんか。もし無理にその指を引き離そうとすれば、どうなるでしょうか。肌が傷ついてしまいますよね。

同じように、夫婦が離婚すると、完全に別れることはできません。肉体的および精神的な結びつきのために、彼らの魂は裂かれるのです。

また、結婚していない人々の場合でも、彼らが肉体的な関係を持った後に別れるなら、その魂の結びつきが原因で、彼らの魂は裂かれてしまいます。

結婚している人も、していない人も、カップルの関係が長く続けば続くほど、別れる際の痛みはひどくなります。なぜなら、彼らは性的に結びつき、また、良い経験も悪い経験も共有し合うことで、さらに深く結びつくからです。

では、なぜ離婚がそんなに苦しいのでしょうか。この箇所で、イエス様はその理由を教えておられます。

それは、離婚が私たちの魂の一部を裂くからです。本来は永遠に続くべきもの、すなわち体の一致、心の一致、魂の一致が裂かれてしまうのです。だからこそ、イエス様は命じられます。

「神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」(マタイ19:6)

それでは、離婚の痛みは決して癒されないのでしょうか。神様は離婚した人を赦してくださらないのでしょうか。

そうではありません。

しかし、私たちは二つのことを理解する必要があります。

一つ目は、神様が結婚を永遠のものとしてデザインされたということです。

二つ目は、神様のデザインを拒むなら、その結果として痛みが生じるのは当然です。

では、なぜ人々は離婚を選ぶのでしょうか。次の記事でこのことについて詳しく話すつもりです。