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マタイの福音書 マタイ23章

神様に遣わされた人々を拒絶すると

叱られるのが好きな人は誰もいません。

「君は間違っている」と言われるのが好きな人もいません。

では、そう言われたとき、あなたはどう反応するでしょうか。

パリサイ人たちは彼らの先祖たちの例に従いました。彼らは懲らしめられたとき、その言葉に耳を貸さず、悔い改めることもせず、神様に遣わされた人々を攻撃しました。

彼らはイエス様に反対し、殺してしまいました。その後、彼らは弟子たちに反対し、彼らを殺そうとしました。それでも彼らはこう言いました。「私たちが自分の先祖なら、私たちは決して預言者たちを殺さなかっただろう。」

だから、イエス様は彼らにこう言われました。

蛇よ。まむしの子孫よ。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうして逃れることができるだろうか。

だから、見よ。私は預言者、知者、律法学者を遣わすが、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して回る。

それは、義人アベルの血から、神殿と祭壇の間でおまえたちが殺した、バラキヤの子ザカリヤの血まで、地上で流される正しい人の血が、すべておまえたちに降りかかるようになるためだ。

まことに、おまえたちに言う。これらの報いはすべて、この時代の上に降りかかる。(マタイの福音書23:33-36)

それで、イエス様は泣いて、こう言われました。

エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。

見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。わたしはおまえたちに言う。

今から後、「祝福あれ、主のみ名によって来られる方に」とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」(37-39)

最終的にそれは起こりました。イエス様を殺した世代の人々が生きているうちに、イスラエルは滅び、その神殿が破壊され、今なお再建されていません。

私たちが神様に遣わされた人々を拒絶すると、何が起こるでしょうか。私たちの人生は崩れ去り、私たちは裁かれます。

神様はそれを見て、決して喜ばれることはありません。神様はそれを見て、泣かれるのです。けれども、私たちが自分の主としてイエス様を認めるまで、私たちは決して命と平和を知ることができません。

ソロモンはこう記しました。

愛する者が傷つけるのは誠実による。(箴言27:6)

真実は厳しいかもしれません。真実を聞くのは辛いかもしれません。しかし、真実を受け入れると、私たちは癒されます。

あなたが叱られるとき、どう反応するでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ23章

内側を清める?

この箇所では、イエス様はパリサイ人たちや律法学者たちを厳しく責め続けられます。

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。お前たちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。

目の見えないパリサイ人。まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる。

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。お前たちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。

同じように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。(マタイの福音書23:25-28)

それは非常に厳しい批判ですね。多くのユダヤ人たちはパリサイ人たちと律法学者たちを正しい人と見なしていました。しかし、イエス様は彼らの心の汚れを暴露されました。彼らの強欲、放縦、そして偽善をすべて暴露されたのです。

イエス様は彼らを白く塗った墓と呼ばれました。彼らの外側はきれいでしたが、内側には腐っている骨がありました。

では、あなたの場合はどうでしょうか。イエス様があなたの心をご覧になるなら、何と言われるでしょうか。あなたを白く塗った墓と呼ばれるでしょうか。それとも、外側がきれいで内側が汚れている杯と呼ばれるでしょうか。

仮面をかぶるのはとても簡単なことです。実は、ギリシャ語で「偽善者」という言葉の本来の意味は「役者」でした。

けれども、神様はあなたの外側だけでなく、あなたの心もご覧になります。その時、神様は何をご覧になるでしょうか。

また、あなたが自分の心を見るとき、何をご覧になるでしょうか。神様が見苦しいと見なすものが見えるでしょうか。あなたは周りの人々の罪は見えますが、自分の罪が見えていないでしょうか。

神様からどれほどの憐れみを受けているかを理解しているなら、周りの人々の罪を見るときに、彼らに同情を感じるはずです。そうなのに、あなたは彼らを責めて「私は一切そんなことをしない」と思うでしょうか。

あなたの心の中には何が入っているでしょうか。あなたの杯から何を清めなくてはならないでしょうか。

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神様にとって大切なことを心に留めておく

日本では状況が異なるようですが、最近、アメリカ人が「クリスチャン」という言葉を聞くと、しばしば悪いイメージを思い浮かべることがあります。

ある程度、それはイエス様を愛する人々に対して当然の反応だとも言えます。イエス様はこう言われました。

世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。。。

人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。(ヨハネ18:18,20)

でも時々、私はこう疑問に思います。「どうして彼らはそんな悪いイメージを持っているのでしょうか。それは私たちがイエス様に従っているからなのでしょうか。それとも、私たちが一番大切なことを忘れてしまっているからなのでしょうか。」

アメリカのクリスチャンたちの多くは、毎週の日曜日に教会に行ったり、バイブルスタディーに参加したり、毎日聖書を読んだり、祈ったり、聖書的な価値観を周りの人々に伝えたりしています。

実は、イエス様の時代にも、そのような人々がいました。それはパリサイ人たちと律法学者たちです。しかし、イエス様は彼らについてこう言われました。

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみあわれみと誠実をおろそかにしている。

十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。

目の見えない案内人たち。ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる。(マタイの福音書23:23-24)

ルカ11:24では、イエス様はもう一つのことを加えられました。それは、彼らが神への愛を持っていなかったということです。

また、ある時、イエス様は弟子たちにこう言われました。

互いの間に愛があるなら、その弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:35)

だから、私たちが自分自身にこう訊くべきだと思います。私の人生は神様の愛と憐れみで印されているでしょうか。

周りの人々が私たちを見るとき、私たちからの愛と憐れみを見ることができるでしょうか。私たちが彼らを愛しているのを知っているでしょうか。彼らに対する私たちの憐れみを見ることができるでしょうか。それとも、ただ彼らを責める人を見るだけでしょうか。

私たちの職場では、周りの人々は誠実さのある人を見るでしょうか。また、忠実な人を見るでしょうか。それとも、彼らはできるだけ仕事をサボる人を見るでしょうか。

もし、周りの人々が私たちの中に愛と憐れみと誠実を見ることができないなら、私たちは彼らの批判に値します。残念ですが、私たちのせいで彼らは決してクリスチャンにならないかもしれません。

神様は彼らを裁かれますが、私たちをも裁かれます。なぜなら、私たちの行動によって、「主の敵に大いに侮りの心を起こさせた」からです。(第二サムエル記12:14)

では、あなたはどうでしょうか。あなたの心からは何が出ているでしょうか。愛?憐れみ?正義?誠実?

神様にとって、それが一番大切なことです。

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マタイの福音書 マタイ23章

抜け穴

別の記事で、私は律法主義がなぜそんなに悪いのかについて話しました。

この箇所では、律法主義のもう一つの悪い点を見ることができます。律法主義では、人々は常に抜け穴を探し求めています。彼らは律法を文字通り守っていると思うかもしれませんが、その律法の精神をしばしば無視してしまいます。

パリサイ人たちや律法学者たちも、多くの抜け穴を見つけていたと考えられます。この箇所で、イエス様はその具体的な例を示されました。

律法によると、神様に何かを誓うなら、その誓いを誠実に守らなければなりませんでした。

しかし、パリサイ人たちや律法学者たちはその律法を解釈する際に、多くのくだらないルールを作り出しました。

例えば、もし神殿にかけて誓うのであれば、その誓いを守らなくてもよいとされました。その一方、神殿の黄金にかけて誓う場合は、その誓いを守らなければならないのです。

また、もし祭壇にかけて誓うのであれば、その誓いを守らなくてもよいとされました。一方で、祭壇の上のささげものにかけて誓う場合は、その誓いを守らなければなりません。

しかし、イエス様はそのルールの無意味さを明確に指摘されました。なぜなら、神殿によって黄金は聖なるものとなり、また祭壇によってそのささげものは聖なるものとなるからです。

そのため、イエス様は彼らにこう言われました。

「もし、あなたが神殿にかけて誓うなら、あなたはその神殿に住まわれる神にかけて誓うことになります。

また、もし天にかけて誓うなら、それは神の御座、そしてその御座に座しておられる神に誓うことになるのです。」

では、イエス様のポイントは何でしょうか。

正しいことをしなさい。

神様が「私の名にかけて誓うなら、その誓いを守りなさい」と言われたとき、神様は「私の名にかけずに誓うなら、その誓いを守らなくてもよい」という意味で言われたわけではありません。

もちろん、誓いを守ることは大切です。とはいえ、最も重要なのは真実を語ることです。もしあなたが何かをすると言うなら、それをしっかりと実行しなさい。

パリサイ人たちと律法学者たちは「神様に対する誓い」という言葉に過度に集中するあまり、「誓いを誠実に守りなさい」という原則を見逃してしまいました。

その結果、彼らは「ブヨをこして除いた」のです。(つまり、神様に対する誓いを定義するために、数多くの細かいルールを作り上げました。)

ところが、「らくだを飲み込んでしまいました」。(彼らは何度も自分の誓いを破るという重大な過ちを犯してしまいました。)(マタイ23:24)

では、あなたの場合はどうでしょうか。あなたは心から正しいことを行い、神様を喜ばせたいと願っていますか。

それとも、正しいことをすることを嫌がり、いつも抜け穴を探し回っているでしょうか。

もしあなたが抜け穴を見つけ、それを利用しようとするなら、神様を喜ばせることはできません。だからそのような態度を捨てましょう。むしろ、神様があなたに示されたことを忠実に行いましょう。

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マタイの福音書 マタイ23章

私たちの先生が悪い時

私は子供の頃、「ベスト・キッド」という映画を観ました。それはもう30年前のことですが、今でも面白い映画だと思います。

実は現在、YouTubeでその映画に基づいた現代のシリーズを見ることができます。(おそらく、それは英語だけですが。)それも非常に人気があります。

その映画では、ダニエルという少年が、ある空手道場の生徒たちにいつもいじめられていました。そのため、ダニエルは空手を習いたいと思うようになります。

あるとき、ダニエルは自分の先生にこう訊きました。「どうして彼らはあのような振る舞いをするのでしょうか。」

先生はこう答えました。「悪い弟子というものは存在しない。存在するのは悪い先生だけだ。」

私はその言葉に完全には同意できませんが、その中に真理が含まれていると思います。もし先生が悪ければ、その先生に従う者たちも同じ道を辿ることになります。

この箇所でも、私たちはそのことを学びます。イエス様はパリサイ人たちや律法の専門家を厳しく責め続けておられます。

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナ(つまり、地獄)の子にするのだ。(マタイの福音書23:13-15)

この律法学者たちやパリサイ人たちにはさまざまな欠点がありました。彼らは偽善者であり、律法の細かいルールに執着していて、神様が本当に大事にするものを理解していませんでした。

その結果はどうなったのでしょうか。彼らの弟子たちも同じように振る舞うようになりました。実際、その弟子たちはさらにひどくなりました。クリスチャンになる前のサウロはその一例です。

では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。

もしあなたが聖書を教えるなら、あなたの性格はどのようなものでしょうか。

ヤコブはこう言っています。

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しい裁きを受けます。(ヤコブ3:1)

ヤコブは主に私たちの教えについて話していると思いますが、私たちの人生についても語っています。教師であるなら、私たちはパリサイ人たちや律法学者たちとは異なり、教えと行為が一致していなければなりません。(マタイ23:3)

そこで、もしあなたが教師であるなら、あなたの教えと行為は一致していますか。それとも、偽善者のように生きていますか。

さらに、あなたが教えるとき、または人生を歩むときに、神様の優先順位を忘れずに覚えていますか。正義、憐れみ、誠実を忘れずにいますか。

心に留めておきましょう。神様はあなたの教えと行為によって裁かれます。しかし、それだけではありません。もしあなたが自分の弟子を忠実に訓練しないのであれば、神様はあなたが育てた弟子の姿を見て、あなたを裁かれます。

もう一つ忘れてはならないことがあります。それは、あなたの先生がどのような人であるかということです。

あなたの先生はどのように生きていて、何を教えているでしょうか。もし悪い先生に従うなら、あなたはその先生の歩む道を辿り、最終的には困難に直面することになるでしょう。

教会では、誰の話を聞いていますか。ポッドキャストでは、誰の言葉に耳を傾けていますか。どんな人の本を読んでいますか。

教師たちは自分の教えに責任を持ちますが、あなたは何を聞くかに責任を持っています。

ですので、以前にも述べたことではありますが、もう一度繰り返させてください。

ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。(第一テサロニケ5:21)

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リーダーシップに関する間違った考え方

リーダーシップとは何でしょうか。

イエス様は、パリサイ人たちと律法の専門家を厳しく批判された時、本当のリーダーシップを定義されました。

まず、イエス様は弟子たちと群衆に警告されました。

律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。

しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで事項しないからです。(マタイ23:1-2)

この箇所で、イエス様が彼らに教えられたのは、そのリーダーたちの権威ある立場を尊重する必要があるけれど、彼らの行動を模倣してはならないということです。なぜなら、彼らの言葉と行動が一致していなかったからです。

もちろん、彼らは律法の細かなルールや、さまざまな宗教的な伝統を守っていました。けれども、最も重要なこと、つまり正義、憐れみ、そして誠実を忘れていたのです。

その態度は、神様や周囲の人々に対する彼らの姿勢に悪影響を与えてしまいました。

さらに、その態度は彼らのリーダーシップに関する考え方にも影響を与えました。彼らは人々に仕えるのではなく、命令したいという考えを持っていました。

イエス様は彼らについてこう言われました。

また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。(マタイ23:4)

彼らは多くの律法やルールを人々に課しました。けれども、その人々がそのルールを守れず、罪悪感の重さで苦しみ始めると、パリサイ人たちや律法学者たちは彼らを励ますことも、彼らのために祈ることもせず、助けるどころかむしろ彼らを責めました。

さらに、パリサイ人たちと律法学者たちは、自分の立場を誇示していました。

彼らの聖句を入れる小箱は大きく、衣の房(その房にも神様の言葉が書かれていました)は長く、周りの人々は彼らを見た時に本当に感心しました。「その人は本当に霊的な人だ」と思ったのです。

また、彼らはお金を儲けるために自分の立場を利用しました。イエス様は「彼らはやもめたちの家を食い尽くします」と言われました。おそらくそれは、パリサイ人たちがやもめの歓心を買い、彼女たちのお金を搾取したということを意味しているのでしょう。

さらに、彼らは周りの人々に「先生」や「父」と呼ばれることを好みました。なぜなら、それは彼らの高い立場を示す印だったからです。

しかし、イエス様はこう言われました。

あなたがたは、先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。

あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。

また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。(マタイ23:8-10)

リーダーたちはそのことを心に留めていなければなりません。肩書を持つこと自体は良いことですが、実際には私たち全員が対等なのです。神様だけが私たちに対して優れた方です。

それでも、神様はしもべとしてこの世に来られました。イエス様は病気の人々を癒し、困難にある人々に良い知らせを伝え、十字架で私たちの罪のための罰を受けて下さいました。リーダーたちはそのような態度を取るべきです。

だからこそ、イエス様はこう言われました。

あなたがたのうちで、一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。(マタイ23:11-12)

本当のリーダーたちはしもべです。彼らは敬意、栄誉、またはお金を求めるのではなく、周りの人々に仕えるために全てをささげます。

さて、あなたはどのようなリーダーなのでしょうか。