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マタイの福音書 マタイ28章

私たちと共におられる方

私たちはもうすぐ福音書を読み終えます。予想以上に時間がかかりましたが、それでも楽しむことができました。

さて、イエス様は弟子たちに指示を与えた後、こう言われました。

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイの福音書28:20)

イエス様はすぐに天に戻られる計画を立てておられました。そして、イエス様が天に戻られた後、弟子たちは大きな使命を担わなければなりませんでした。それは神の国を広げることです。

もちろん、その使命には喜びが伴いました。しかし、イエス様が弟子たちに教えられたのは、彼らが迫害や苦しみを必ず経験するということでした。最終的に、弟子たちの多くは自分の信仰のために命を捧げました。

それでも、イエス様は彼らにこう約束されました。

「あなたがたは私を見なくなります。それでも、私はいつもあなたがたと共にいます。あなたたちを捨てて孤児にすることはありません。

むしろ、私はあなたたちに聖霊様を与えます。そして、聖霊様はあなたたちと共に住み、あなたたちのうちにおられます。」(ヨハネ14:16-20)

イエス様は私たちにも同じ約束を与えてくださいました。私たちがどこへ行っても、何をしていても、どんな喜びや苦しみを経験していても、イエス様は私たちを決して見捨てることがありません。

イエス様は今も私たちと共におられ、永遠に私たちと共にいてくださいます。

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マタイの福音書 マタイ28章

弟子作り

数年前まで私は、マタイ28:16-20の出来事と使徒の働き1章の出来事が全く異なる時に起こったことだと気づいていませんでした。

マタイの出来事はガリラヤで起こり、使徒の働きの出来事はオリーブ山で起こったのです。

もしかすると、ガリラヤでイエス様は11人の弟子たちだけではなく、500人の弟子たちにも現れたのかもしれません。(第一コリント15:6)

そのため、ガリラヤに来た時、「疑う者たちもいた」。(17)

つまり、11人の弟子たちはすでによみがえられたイエス様を見ていましたが、その500人はまだイエス様を見ていなかった可能性があります。

けれども、イエス様に会うと、彼らの疑いは消え去り、イエス様は彼らにこう言われました。

わたしには天においても地においてもすべての権威が与えられています。

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイの福音書28:18-20)

イエス様が単に「福音を述べ伝えなさい」と言わなかったことには重要な意義があると思います。(もちろん彼らには福音を述べ伝える役割もありました。)

イエス様は彼らに「弟子を作りなさい」と言われました。その弟子たちは自分の弟子を作るのではなく、イエス様の弟子を作るべきでした。では、弟子を作る方法は何だったのでしょうか。

彼らは新しい信者にバプテスマを授けました。バプテスマは、彼らがイエス様に従う決意を示すしるしでした。

私たちがバプテスマを受けるとき、私たちはキリストに属することを表現しています。バプテスマの水は墓を象徴しています。その水に入るとき、私たちはこう宣言しているのです。

「イエス様が死んでよみがえられたように、私は自分の古い生活に対して死に、新しい人としてよみがえります。そして、私の体が死んでも、私はよみがえってイエス様と共に永遠にいます。」

時折、日本ではノンクリスチャンの親が、クリスチャンである息子や娘にこう言うことがあります。「教会に行ってもいいけれど、バプテスマを受けてはだめです。」

そのため、その息子や娘は本当に困ります。「私の家族を怒らせても、洗礼を受けるべきなのだろうか。」

実は、使徒の時代にも、多くのユダヤ人たちが同じようなプレッシャーに直面していたかもしれません。しかし、イエス様の弟子になりたいのであれば、私たちはイエス様を何よりも優先しなくてはなりません。

洗礼を受けるとき、私たちは皆の前でその決断を明確に宣言します。

イエス様は弟子作りについて、もう一つの重要なことを教えられました。それは、新しい弟子たちにイエス様の戒めを教えることです。そして、新しい弟子たちがその戒めを守るように教えることも含まれていました。

多くのクリスチャンたちはこれを聞いて、違和感を覚えるかもしれません。

「だって、それは律法主義でしょう?私たちは恵みによって救われたのではないですか?」

もちろん、私たちは恵みによって救われました。そして、キリスト教を単なる規則の体系として教えるべきではありません。

それでも、私たちが弟子たちに教えなくてはならないのは、神様が彼らを深く愛しておられるということです。そして神様は、私たちの最善を望まれます。

だからこそ、私たちが救いのために神様を信じるならば、神様の道が一番良いと信じ、従うのは当然のことです。私たちはその道を選んで進むべきです。

さらに、もし私たちが神様を本当に愛しているのであれば、神様を喜ばせることを選び取るべきです。

簡単に言えば、私たちは人々が神様に近づく方法を教えるべきです。そして、彼らが日々神様をさらに愛し、信頼するよう導くべきです。

残念ながら、多くの教会ではそのことが十分に教えられていません。そのため、教会の中には「赤ちゃんクリスチャン」と呼ばれる人々が多くいます。彼らは決して霊的に成長しません。

口では「神様を愛している」と言うかもしれませんが、神様に信頼することを学んでいないのです。その結果、彼らの人生は混乱してしまうことがあります。

ですから、私たちはただ福音を述べ伝えるだけではなく、弟子を作りましょう。イエス様を愛し、信頼し、従うクリスチャンを育てましょう。

そうすれば、彼らはイエス様の恵みと知識において成長するでしょう。

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マタイの福音書 マタイ28章 マルコの福音書 マルコ16章 ヨハネの福音書 ヨハネ20章 ルカの福音書 ルカ24章

いつも私たちと共におられる方

イエス様の復活について、二つの注意事項をお伝えしたいと思います。

一つ目は、マルコ16:9-20を省略することです。なぜなら、多くの聖書学者によれば、マルコはこの部分を書いていなかったと考えられているからです。

では、なぜマルコは具体的にイエス様の復活について語らなかったのでしょうか。私は三つの説を聞いたことがあります。

1つ目は、マルコが福音書を完成させる前に亡くなったという説です。

2つ目は、元々の結末が何らかの理由で失われたという説です。

3つ目は、使徒の時代には、教会で牧師がマルコの福音書を朗読した後に、イエス様の復活を目撃した人々が自分の証を語っていた可能性があるという説です。

いずれにせよ、マルコが亡くなった後、現在の結末が加えられたと考えられています。

二つ目の注意事項は、福音書間でイエス様の復活の記録を統合するのが非常に難しいということです。できる限り、復活の出来事の順番を整理しようと思いますが、これはあくまで私の考えです。

とはいえ、どの福音書を読んでも、基本的な事実は一致しています。

女性たちがイエス様の墓に着いたとき、その墓はすでに空っぽでした。そして、天使たちが現れ、イエス様の復活を彼女たちに知らせました。

その後、イエス様はマリアやほかの女性たちにご自身を現され、彼女たちは弟子たちにイエス様の復活を伝えました。

現代の弁護士によれば、法廷では証人の証言に多少の違いがあったとしても、これらの四つの事実は十分に認められるでしょう。

では、簡単にですが、復活の出来事の順番を説明します。

1.女性たちはイエス様の墓に行ったが、イエス様の遺体はありませんでした。

2.マリアが墓に入り、イエス様の遺体がないと分かると、すぐに弟子たちに知らせるために戻りました。

3.ほかの女性たちはその場に残り、おそらく何が起こったのか疑問に思ったでしょう。そして、二人の天使が現れ、そのうちの一人がイエス様の復活の良い知らせを伝えました。

4.そこで、女性たちは弟子たちに伝えるために急いで戻りました。彼女たちは急いでいたため、誰とも話しませんでした。(マタイ28:5-8;マルコ16:1-8;ルカ24:1-10)

5.その間に、マリアは弟子たちにイエス様の遺体がなくなったことを伝えました。(ヨハネ20:2)そこで、ペテロと(おそらく)ヨハネは墓を調べに行きました。マリアは彼らと共に墓に戻りました。

彼らが家を出た後、ほかの女性たちは家に来て、残っていた弟子たちに天使のメッセージを伝えました。(ルカ24:9-11)

6.ペテロとヨハネは墓に着き、マリアの話を確認しました。ヨハネはイエス様が復活されたと信じたようですが、ペテロはまだ疑っていたようです。おそらく、彼らは戻る途中でそのことを話し合ったでしょう。(ルカ24:12;ヨハネ20:3-9)

7.ペテロとヨハネが墓へ向かう際、走ったため、もしかするとマリアは遅れて着いたかもしれません。そのため、マリアがようやく墓に着いたとき、ペテロとヨハネがまだそこにいたかどうかは分かりません。

そして、イエス様はマリアの前に現れ、彼女を慰められました。その後、彼女はすぐに弟子たちのもとへ戻りました。(ヨハネ20:12-18)

8.マリアが戻っている間に、イエス様はほかの女性たちの前に現れました。彼女たちは道中だったのかもしれません。また、弟子たちが彼女たちの言葉を信じなかったため、多少の失望を感じていたかもしれません。

けれども、イエス様が彼女たちを励まされたので、彼女たちはもう一度弟子たちのもとへ向かいました。

その頃、マリアも戻ってきたため、弟子たちはマリアと女性たちの話を聞きました。(マタイ28:9-10)

その順番が正しいかどうかは分かりませんが、これが私の推測です。

さて、マリアのことを少し考えてみましょう。私がこの場面を想像すると、イエス様の墓の外で、マリアが深い悲しみに沈み、絶望している姿が浮かびます。

もし私の考えが正しければ、彼女はまだほかの女性たちの天使の経験を聞いていません。マリアが知っているのは、ただイエス様の遺体がなくなったという事実だけです。

そして、マリアが墓に入ると、二人の天使がいました。ところが、ほかの女性たちの話をまだ聞いていなかったため、マリアは彼らが天使であることを認識しませんでした。

すると、天使たちは「なぜあなたは泣いているのですか」と尋ねました。

マリアはただこう答えました。「誰かが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」

もしかすると、天使たちがイエス様の復活を伝えようとしたその瞬間、イエス様が現れたのかもしれません。

最初、マリアはイエス様を認識しませんでした。しかし、イエス様が彼女の名前を呼ばれました。

「マリア。」

その瞬間、マリアの悲しみの涙は、一気に大きな喜びへと変わりました。

私たちはどれほどマリアのようでしょうか。苦しみに沈み、神様が遠く感じることがあります。

祈っても、まるでその祈りが天井にぶつかり、神様に届かないかのように感じることもあります。

神様を求めても、見つけられないことがあります。まるで神様が沈黙し、いなくなったかのように思えることもあります。

けれども、実際には神様は私たちとともにおられます。マリアのように、私たちは神様を見ていないだけかもしれません。しかし、神様は確かにそこにおられます。そして、最もふさわしい時に、ご自身を現してくださいます。

だから、諦めないでください。誰もが悲しみの時を経験します。誰もが、神様が遠く感じる時を通ることがあります。けれども、神様はインマヌエルです。すなわち、「神様は私たちとともにおられる」ということです。

そして、イエス様を復活させたのと同じ力で、神様は私たちの悲しみを喜びへと変えてくださいます。

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マタイの福音書 マタイ28章

信じようとしない人?

私は祭司長たちとパリサイ人たちの頑なな心に驚きを禁じ得ません。

彼らはイエス様のお墓を警備するために対策を練りましたが、そのお墓は空っぽになりました。結局、彼らはその事実を認めざるを得ませんでした。

彼らは番兵たちの話を通して、地震と天使の存在を知りました。

さらに、彼らはおそらく、ほかの復活した人々についても聞いたことでしょう。(マタイ27:52-53)

それでもなお、その証拠を目の当たりにしながらも、彼らはイエス様がキリストであることを信じませんでした。

そのため、弟子たちがイエス様の遺体を盗んだという噂を広めるために、彼らは番兵たちにお金を渡しました。律法を厳格に守ることで自分を誇る人々であったにもかかわらず、彼らはこのような嘘を広めたのです。

この行為を通じて、彼らはイエス様の言葉の真実性を証明することになりました。ラザロのたとえ話で、イエス様はこう言われました。

モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、誰が死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。(ルカ16:31)

イエス様とほかのユダヤ人たちがよみがえられたにもかかわらず、パリサイ人たちや祭司長たちはどうしても信じようとしませんでした。

今でも同じような人々がいます。あなたが神様の存在を示し、聖書やイエス様について彼らの疑問に答えたとしても、彼らは信じないかもしれません。

さらに、彼らは自分では説明できない事実を目撃することがあるでしょう。例えば、彼らがクリスチャンの知り合いのがんが癒される様子を目にするかもしれません。それでもなお、彼らはどうしても信じようとしません。

最終的に、イエス様を信じない人々がいます。彼らは信じることができないわけではありません。ただ、信じたくないのです。そして、神様が彼らに恵みを与えてくださらなければ、彼らは決して信じないでしょう。

では、私が言いたいことは何でしょうか。

祈り続けましょう。神様だけが彼らの目を開けることができるのです。パウロはこう語りました。

それでもなお私たちの福音に覆いがかかっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いがかかっていると言うことです。

彼らの場合は、この世の神が(つまり、サタン)、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を、輝かせないようにしているのです。(第二コリント4:3-4)

それでは、私たちは何を祈るべきでしょうか。それは、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、神様が彼らの心を照らしてくださるように祈るべきです。(第二コリント4:6)

実際、パウロ自身もそのようにして救われました。彼は霊的に盲目で、真理を拒んでいましたが、神様は文字通りにも、また比喩的にも、光をパウロに照らしてくださいました。その光によって、パウロの人生は完全に変えられました。

愛する人々の頑なな心を見て、失望を感じていませんか。あなたがどれほど何かを言ったり、行ったりしても、彼らの心を変えることはできません。けれども、神様にはその力があります。

だから、どうか諦めないでください。祈り続けましょう。熱心に祈りましょう。そして、神様の恵みによって、彼らが救われる可能性を信じましょう。

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マタイの福音書 マタイ27章 マタイ28章

だれも妨害できない神様の計画

ちょっと考えてみると、これは非常に面白い聖書の話です。

パリサイ人たちや祭司長たちは、弟子たちがイエス様の遺体を盗み、イエス様がよみがえられたと宣言することを懸念しました。そのため、彼らはピラトにイエス様の墓を警備するよう頼みました。

ピラトはその依頼を受け入れ、番兵を派遣しました。

ところが、三日目に地震が起こり、天使がイエス様の墓を覆っていた石を転がし、その石の上に座りました。番兵たちはその光景を目撃し、恐怖のあまり気を失いました。

パリサイ人たちや祭司長たちが混乱し、苛立っている様子を想像してみてください。おそらく、彼らは互いにこう問い合ったでしょう。

「どうして私たちは番兵を頼んだのだろう?空っぽの墓をどう説明すればいいのだろう?番兵たちが眠ったという話を信じる人はいないし、弟子たちが番兵を倒したという話も信じられるはずがない。一体どうしたらいいのだろう?」

この話から、私たちは重要な教訓を学ぶことができると思います。

人々は、神様の計画を妨害したり、自分の目的を果たそうとしたりして、さまざまな計画を立てることができます。

しかし、最終的には神様の計画を妨害することはできません。神様の目的は確固として立ち続けます。

多くの人々は人間の自由意志と神様の主権に関して疑問を抱くことがあります。私はそのすべての答えを持っているわけではありませんが、この箇所を通して、私たちはその答えの一端を見ることができると思います。

パリサイ人たちと祭司長たちは、自分たちの自由意志によって番兵を頼みました。神様はその選択を阻止することはありませんでした。

けれども、彼らが選択をした後、神様はご自身の選択をされました。

神様はイエス様を復活させ、石を転がし、番兵たちに恐怖を与えました。

このように、神様は私たちの選択を許してくださいます。しかし、その後、神様はご自身の選択をされます。だからこそ、私たちは神様の計画を妨害することはできません。

パリサイ人たちと祭司長たちはイエス様のお墓で神様の計画を阻止することができませんでした。そして、これからも神様の計画を妨害できる人は誰もいないでしょう。

だからこそ、確信を持って神様を賛美しましょう。神様はすべてを支配しておられ、その計画は必ず成し遂げられるからです。