カテゴリー
マタイの福音書 マタイ4章 マルコの福音書 マルコ1章 ルカの福音書 ルカ5章

イエス様について行くように呼ばれた

しばらく聖書の部分を飛ばしてしまっていたので、今日はその箇所に戻りたいと思います。実は、これは非常に重要な箇所です。この箇所では、イエス様が初めて弟子たちを招かれました。

以前にもお話ししましたが、福音の出来事を年代順に進めようとしています。とはいえ、時にはその順番を推測しなくてはならない場合があります。

おそらく、このルカの箇所の出来事が最初に起こり、その2~3日後にマルコとマタイの出来事が起こったのだと思われます。

ある日、イエス様は群衆を教えようとされました。けれども、群衆がイエス様に押し迫ってきたため、イエス様はペテロとその仲間の船をご覧になり、すぐにその船に乗られ、彼らに陸から少し漕ぎ出すように頼まれました。そしてイエス様は、その船から群衆に教えられました。

ペテロとその仲間たちが進んでイエス様を助けたかどうかは分かりません。彼らは徹夜で漁をしていましたが、何も獲れませんでした。イエス様が彼らを呼ばれたとき、彼らは網を洗っているところでした。

おそらく彼らは、網を洗い終えたら帰ってすぐに眠ろうと思っていたのではないでしょうか。それでも彼らはイエス様を助けました。

その後、イエス様が教え終えられると、ペテロとその仲間に「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われました。

ペテロにとってそれは限界でした。彼は疲れ果てており、これ以上漁をしたいとは思っていませんでした。さらに、経験豊富な漁師である彼にとって、大工であるイエス様からの漁についての指示を受けるのは気が進まなかったのではないでしょうか。

それでも、ペテロはこう答えました。

先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。(ルカ5:5)

おそらく、イエス様はその言葉を聞いた時、何も言われずに、ただペテロをじっと見つめて待っておられたのでしょう。そうしている間に、結局ペテロは口ごもりながら言いました。

でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。(ルカ5:5)

だから、ペテロとその仲間たちは恥ずかしさを感じながら漁に出ました。なぜ彼らが恥ずかしかったのでしょうか。それは、誰も昼間に漁をすることがなかったからです。魚がいるはずがないと考えられていたためです。

おそらく、他の船に乗っている友人たちは笑ったかもしれません。「ペテロは愚かだね。なぜその大工の言葉に従うんだろう」と思った可能性もあります。

しかし、ペテロたちが網を下ろした時、大量の魚が網にかかりました。魚が多すぎたため、ペテロは他の船の友人たちを呼んで助けを求めました。それでも魚はあまりにも多く、二つの船が沈みそうになりました。

最初のうち、ペテロは大いに興奮したことでしょう。けれども、すぐに彼は自分たちの目の前で何が起こったのかを実感しました。そして、イエス様が普通の先生ではないことを悟りました。だから、ペテロはイエス様の足もとにひれ伏し、大声で言いました。

主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。(ルカ5:8)

でも、イエス様はこのように答えられました。

こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。(10)

これはあくまで私の推測ですが、もしかすると、ルカは話を少し簡潔にまとめたのかもしれません。そしてその後、皆が自宅に戻った可能性があります。

おそらく、イエス様は彼らにその日体験したことやご自分の言葉を深く考えてほしいと思われたのではないでしょうか。

そして翌朝、ペテロとアンデレが漁をしているのを見られた時、またヤコブとヨハネが網を繕っているのを見られた時、イエス様は改めて彼らを招かれました。

わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。(マタイ4:19)

その時、彼らはすべてを捨てて、イエス様に従い始めました。

この話から、私たちはどんな教訓を学べるでしょうか。

まず第一に、イエス様の恵みがペテロの失敗と罪を覆ったように、その恵みは私たちの失敗と罪も覆います。イエス様はペテロの罪を責めることはせず、むしろ新しい人生を始めるようにペテロを招かれました。

第二に、イエス様に従うために特別な資格は必要ありません。神学校に行く必要もありません。ペテロとその仲間たちは特別な教育を受けていませんでした。それでも、イエス様は彼らを弟子として招かれました。

第三に、最も重要なのは、イエス様を信頼し、イエス様の言葉に従うことです。たとえイエス様の言葉を完全に理解できなくても、「あなたがお命じになるので、私は従います」という信仰と従順の態度を取るべきです。

また、イエス様に従うために、私たちが愛するものを喜んで手放す態度を持つべきです。

最後に、イエス様の弟子として、イエス様の働きに参加する姿勢を持つべきです。つまり、人々を神様の御国へ導くことです。

あなたはペテロとその仲間たちの模範に従いますか。イエス様からの召しに応えますか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ4章 マルコの福音書 マルコ1章 ルカの福音書 ルカ4章

英気を養い、焦点を合わせ直す

イエス様は、ミニストリーを始めたとき、可能な限り多くの人々に触れ、天の父の心に従って歩まれました。

それでも、イエス様は決して燃え尽きることはありませんでした。

私自身、燃え尽きた経験がありますが、それは決して楽しいものではありませんでした。けれども、イエス様は一度もそのような状態にはなられませんでした。

群衆に触れ続け、自分の弟子たちを訓練される中で、燃え尽きるのは容易であったはずなのに、イエス様が燃え尽きることがなかったのはなぜでしょうか。

その答えは、この箇所に隠されていると思います。

さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコ1:35)

イエス様は神でしたが、ご自身の力と知恵に頼られることはありませんでした。むしろ、イエス様は完全に天の父に頼られました。

また、イエス様が群衆から離れたとき、彼は英気を養い、自分の焦点を新たにされました。けれども、それは具体的にどういう意味なのでしょうか。

そのとき、イエス様は天の父がご自身を愛しておられることを思い出されました。また、天の父がご自身に何を望んでおられるのかを思い起こされたのです。

多くの人々は、しばしばイエス様の時間を取ろうとしました。ルカはこう記しています。

朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。(ルカ4:42)

でも、イエス様が彼らの要求に譲らない時もありました。むしろ、イエス様は天の父の御声に聞き従いました。だから、イエス様は群衆にこう言われました:

ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。(43)

私の経験では、ミニストリーで燃え尽きる原因は二つあると思います。

一つ目は、その人がいつも他の人々に与えるばかりで、何も受け取らないことです。特に、彼らは天の父から何も受け取っていません。

しかし、それは天の父が自分の愛を与えたくないからではありません。むしろ、彼らが神様を十分に求めず、神様との時間を過ごしていないことが原因です。

結果として、彼らの心は神様の愛で満たされることなく、ほとんど空のガスタンクで走ろうとしています。

だからこそ、ミニストリーが困難に直面する時(どんなミニストリーでも、そんな時は必ず訪れるでしょう)、彼らは尽き果ててしまいます。なぜなら、彼らは神様からではなく、ミニストリーそのものからエネルギーを得ようとするからです。

そのミニストリーが必要なエネルギーを与えない場合、彼らは燃え尽きてしまいます。

二つ目の原因は、神様が彼らに求める以上のことをしようとすることです。つまり、周りの人々から頼まれたことを断ることができず、神様が求めていない重荷を背負ってしまう場合です。

彼らは「誰かがその重荷を担わなくてはならない」と考え、その結果、その重荷に押しつぶされてしまいます。

だからこそ、毎日神様との時間を過ごすことが本当に重要です。毎日、英気を養い、自分の焦点を合わせ直す必要があります。

具体的には、神様につながり、神様から必要な愛とエネルギーを受け取ることが大切です。

また、他者からの要求を慎重に評価し、その要求が神様の御心に沿っているかを判断することも必要です。

さらに、周りの人々のニーズに気づいても、それが自分が満たさなければならないニーズであるかどうかを識別することが重要です。

これらを怠ると、燃え尽きてしまう可能性が高くなります。

あなた自身はどうでしょうか。毎日、英気を養い、自分の焦点を合わせ直していますか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ4章 マルコの福音書 マルコ1章 ルカの福音書 ルカ4章

暗闇の中の光

前回の記事で、私はこう問いかけました。「どうして神様はバプテスマのヨハネが牢に閉じ込められることを許されたのでしょうか。」

私には分かりませんが、ひょっとすると一つの理由は、イスラエル人がヨハネではなく、イエス様に焦点を当てるためだったのかもしれません。

ヨハネが牢に閉じ込められた後、イエス様はガリラヤに戻り、そのミニストリーを始められました。マタイによれば、イエス様はこのイザヤの予言を成就されました。

ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。

暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。(マタイ4:15-16)

パリサイ人がこの箇所を忘れ、イエス様の背景を侮るとは、私には信じられません。(ヨハネ7:52)

この箇所では、私たちはイエス様の目的の一つを知ることができます。私たちは暗闇の中にいました。つまり、私たちは自分の罪のために神様から離れ、死刑囚だったのです。

しかし、イエス様によって光が上がりました。イエス様は天の父への道を示してくださったので、希望が現れました。イエス様はこう宣言されました。

時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)

それは私たちへのメッセージです。王が来ました。神の王国は近づいています。今、イエス様は信者の心の中で働いておられます。そして、将来、イエス様はご自身の物理的な王国をこの世に設立されます。

だから、私たちは悔い改める必要があります。というのは、私たちは神様の道に戻らなくてはなりません。私たちの考え方を変えなくてはなりません。自分のために生きるのではなく、神様のために生きなくてはなりません。

また、私たちの神様に対する不信を捨てて、心から神様を信頼する必要があります。

もちろん、一番大切なのは、イエス様に関する良い知らせを信じる必要があるということです。つまり、神様は私たちのように人間になられました。そして、イエス様は十字架で私たちのために死なれ、三日目によみがえられました。

そして、私たちがイエス様を私たちの救い主と主として信じるなら、私たちは地獄から救われます。

それがイエス様が伝えられたメッセージです。

だから、この二つの質問について考えてみてましょう。

1.あなたはイエス様を信じるようになりましたか。

2.あなたがクリスチャンなら、そのメッセージを周りの人々に伝えていますか。

あなたはどう答えますか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ4章 マルコの福音書 マルコ1章 ルカの福音書 ルカ4章

天の父に従う?

この箇所は本当に有名な聖書の話です。それは、イエス様が砂漠で誘惑される話です。

サタンからの誘惑に対するイエス様の反応は、私の心に深く響きます。イエス様が本当に天の父を信頼されたからです。

洗礼を受けられた後、イエス様は聖霊に満たされ、また聖霊に導かれて砂漠に行かれ、そこで40日間過ごされました。

だからこそ、サタンが来た時のイエス様の反応は特にふさわしいものだったと思います。サタンは三度イエス様を誘惑しましたが、イエス様が答えられた時、すべて申命記から引用されました。

なぜそれがふさわしかったのでしょうか。それは、イスラエル人が砂漠で40年間過ごした後に、モーセが申命記を書いたからです。そして、イエス様が誘惑された時、その言葉に従われたのです。

では、モーセは何を言ったのでしょうか。

あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。

それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。(申命記8:2-3)

天の父がイスラエル人を試すために彼らを砂漠に導かれたように、天の父はイエス様を試すために、彼を砂漠に導かれました。イスラエル人と同じように、イエス様も苦しみ、飢えを経験されました。

けれども、イスラエル人と違って、イエス様は文句を言わず、天の父がふさわしい時にイエス様の必要を備えてくださることを信じ続けられました。

サタンは言いました。「自分の力を使えばいいじゃないか?あなたの天の父はあなたの必要に備えていないじゃないか。もう40日間が経った。だから、この石をパンに変えたらどうだ?」

しかし、イエス様はサタンの薦めを拒絶されました。むしろ、イエス様は天の父がイエス様の必要に備えてくださることを信じ続けられました。

次に、サタンは聖書を引用してイエス様にこう言いました。「神殿の頂から身を投げてみなさい。天使たちはきっとあなたを救うでしょう。」

(サタンも聖書をよく知っています。だからこそ、私たちは聖書の箇所の前後をしっかりと読まなければなりません。)

けれども、イエス様は再びモーセの言葉を引用されました。

あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。(申命記6:16)

マサでは何が起こったのでしょうか。イスラエル人はもう一度神様を信頼しなかったため、文句を言いました。水を見つけることができなかったので、彼らは叫びました。「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」(出エジプト記17:7)

時々、私たちも同じ質問をします。私たちが苦しんでいる時、神様に「あなたは私と共におられるのですか、それともおられないのですか」と訊きます。

同じように、サタンはイエス様が天の父を疑うように誘惑しました。

「あなたの天の父は本当にあなたと共におられるでしょうか。天の父に仕えたいなら、そのことを確認した方がいいですよ。だから、神殿の頂から飛び降りてみなさい。もし天の父が本当にあなたと共におられるなら、あなたを救ってくださいます。」

けれども、イエス様は拒絶されました。それは、たとえイエス様に天の父が見えなかったとしても、天の父がイエス様と共におられることを信じておられたからです。

最後に、サタンはこう言いました。

もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。(マタイ4:9)

しかし、イエス様は再び拒絶されました。それは、イエス様が天の父に従うことを決心されていたからです。そこで、イエス様はこう答えられました。

引き下がれ、サタン。「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」と書いてある。(マタイ4:10/申命記6:13;10:20)

あなたは誰に従っているのでしょうか。天の父に従っているのでしょうか。天の父があなたと共におられることを信じていますか。天の父があなたの必要を備えてくださることを信じていますか。天の父を家族よりも、友達よりも、仕事よりも大切にしていますか。

あなたは誰に従っているのでしょうか。