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マタイの福音書 マタイ5章 ルカ6章

山上の説教:完全の愛。完全の憐れみ。

おそらく、私たちクリスチャンは、イエス様のこの言葉をよく耳にすることでしょう。

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(マタイ5:48)

この箇所の前後は興味深いです。もちろん、私たちは清い人生を送るべきです。とはいえ、この箇所では、イエス様は特に愛について語って言われるようです。私たちの愛は、完全であるべきなのです。

時々、人々は、イエス様の「しかし、わたしはあなたがたに言います。」という表現を誤解します。彼らは、イエス様が神様の律法に反対していると思うのです。

けれども、イエス様は神様の律法に反対されたのではなく、パリサイ人や律法学者の律法に関する間違った解釈に反対されたのです。

前回の記事で、この点について学びました。イエス様は、その正義に関する律法に反対されたわけではありませんでした。「目や歯に害を与えた者を殺してもよい」といった言葉を語られたのではありません。

むしろ、イエス様はこう言われました。「民法によれば、罪に応じた罰を与えるべきです。けれども、あなたがたは律法を乱用し、復讐の言い訳としてその律法を持ち出しているのです。」

もちろん、公平さと正義を求めること自体は良いことです。とはいえ、自分のためにいつも公平さと正義を求めるのではなく、相手に憐れみと愛を与えたら、あなたがたは天の父のようになり、この世でもっと輝く光となるでしょう。」

イエス様は、そのような人生を送られました。もしイエス様が自分のために正義を要求されていたら、十字架で死なれることは決してなかったでしょう。

この箇所では、私たちはさらにもう一つの律法に関する間違った解釈を見ることができます。旧約聖書には「自分の隣人を愛しなさい」という命令が簡単に見つかります。(レビ記19:18)

けれども、「自分の敵を憎め」という命令はどこにもありません。それはユダヤ人たちがそのアイデアを付け加えたものです。

そこで、イエス様はその考え方を訂正されました。

自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)

また、

あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。(ルカ6:27-28)

イエス様は、十字架の上でそうされました。

イエス様の敵が彼を十字架にかけた時、そして彼を嘲笑した時でさえ、イエス様は彼らのために祈られました。

イエス様は彼について祈られたわけではありません。「ほら、彼らはひどいでしょう?」とは言われませんでした。

むしろ、イエス様は彼らのために祈られたのです。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)

彼らがイエス様を憎んでいたとしても、イエス様は彼らのことを愛されました。そして、イエス様の死によって、私たちは永遠の命への希望を持つことができるのです。

イエス様はこう言われました。「あなたを愛している人を愛するのは簡単なことです。誰にでもできることです。悪い人でさえそれができます。けれども、あなたを憎む人を愛することは本当に難しいのです。」

しかし、神様はそれをされます。私たちが神様を憎んだり侮ったりして背を向けても、神様は毎日私たちにさまざまな祝福を与えてくださいます。

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイ5:45)

それに、私たちを罪から救い出すために、神様はご自身の子をこの世に送られました。

だから、神様は私たちにご自身のようになるように呼びかけておられます。私たちの愛は神様の愛のように完全であるべきです。神様が憐れみに富んでおられるように、私たちも憐れみに富むべきです。

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山上の説教:でも、フェアじゃない

すべての人々は、おそらくフェアなことを望みます。だからこそ、物事がフェアではないと感じると、「フェアじゃない」と叫びたくなります。しかし、それが最善の反応なのでしょうか。

イエス様の言葉は、私たちの本能のすべてに反しています。

イエス様はこう言われました

「目には目で、歯には歯で」と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38-39)

38節は、神様の律法から来ています。(出エジプト記21:23ー25)

その出エジプト記の箇所では、神様はモーセと裁判官に、悪い行動をどのように罰するべきかを教えられました。

この律法は復讐について語っているものではなく、その要点は罪に応じた罰を与えるということです。つまり、罰が過度であってはならないということです。

例えば、誰かが相手の目に害を与えた場合、その相手がその人を殺してはならないということです。

それでも、実際にはモーセや裁判官はその律法を文字通りには適用しませんでした。それは神様の意図ではなかったからです。

その箇所の後を読んでみると、その律法の応用についての具体例が見られます。普通は、相手が償いをしなくてはなりませんでした。

この律法のポイントは公平さ、すなわち正義です。

とはいえ、この箇所でイエス様は、私たちが公平さを心配しすぎるべきではないとおっしゃっています。それよりも、あなたを傷つける人々に対して、あなたは光となるべきです。

イエス様の最初の例は非常に興味深いものです。

なたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(マタイ5:39)

私は左利きなので、相手の右の頬を打つのは簡単なことです。けれども、ほとんどの人々は右利きです。したがって、右利きの人が相手の右の頬を叩こうとする場合、手の甲で打たなくてはなりません。

つまり、イエス様はここで、単なる暴力ではなく、侮辱について話しておられるのです。ユダヤ人の文化において、相手を手の甲で打つ行為は、侮辱と見なされていました。

ですから、イエス様が言われた意味は、相手があなたを侮辱したとしても、それを許しなさい、ということです。侮辱を侮辱で返す必要はないのです。

それは公平でしょうか。それは公平ではありません。それでも、イエス様はこう語られます。「公平を気にするのではなく、恵みを与えなさい。」

そして、イエス様はこう言われました。

あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。(40)

イエス様の時代、イスラエル人は下着を複数持っていることが多かったですが、多くの場合、上着は一枚しか持っていませんでした。そして、寝るときには、その上着を毛布として使用していました。

そのため、律法では、もし貧しい者が上着を担保として差し出した場合、貸し手は毎晩、その上着を必ず返さなければなりませんでした。(申命記24:12-13)

しかし、イエス様はこう語られました。「もし相手があなたを訴えて下着を取るなら、公平であることを気にせず、上着も与えなさい。」

さらに、ローマの律法では、ローマ兵がユダヤ人に対し、1.5キロほどの荷物を運ばせるよう命じることができました。

当然、ユダヤ人はそのような命令に従いたいとは思いませんでした。けれども、イエス様はこうおっしゃいました。「1.5キロ運ぶだけでなく、3キロ運びなさい。」

そして、イエス様はこう言われました…。

求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。(42)

では、相手が私たちのやさしさに付け込むことを許してもよいのでしょうか。

そうとは限りません。けれども、私たちが公平さについて心配しすぎると、フラストレーションをよく感じるようになります。なぜなら、この世界は不公平だからです。そして、私たちはその不公平さをコントロールすることはできません。

私たちがコントロールできるのは、自分自身の態度だけです。

フラストレーションを感じて、叫ぶこともできますし、戦うこともできます。

それとも、私たちは別の道を選ぶこともできます。つまり、相手に恵みを与え、憐れみを示すことができるのです。

イエス様は、私たちに対してそうしてくださいました。

イエス様が十字架で死なれることは、決して公平ではありませんでした。イエス様は、何も罪を犯していませんでした。

それでも、イエス様は私たちに恵みと憐れみを与えてくださいました。その結果、私たちは神様からの赦しと永遠の命を受け取ることができるようになりました。

もしイエス様が私たちにその恵みと憐れみを与えてくださるのであれば、私たちも周りの人々にそれを与えるべきではないでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:正直さ

時には、信頼できる人を見つけるのは難しいことがあります。この壊れた世界では、人々がお互いを信頼できないため、契約や誓いを求めることがあります。

「私は約束します。」

「私は誓います。」

けれども、イエス様は、私たちが正直な人になるべきだと教えます。つまり、周りの人々があなたの言葉を信じるようになり、契約や誓いを必要としないようになるのです。

イエス様はこう言われました。

さらにまた、昔の人々に、「偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ」と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。

地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。

エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。

あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。

だから、あなたがたは、「はい」は「はい」、「いいえ」「いいえ」とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。(マタイの福音書5:33-37)

イエス様の時代では、もしあなたが神様のみ名によって誓ったなら、その誓いを守らなくてはなりませんでした。けれども、パリサイ人たちや律法学者たちは、天や地や自分の頭を指して誓った場合、その誓いを守らなくても良いと教えていました。

しかし、イエス様は私たちにすべての誓いを守らなくてはならないと教えました。なぜなら、エルサレムや天や地は神様に属しており、それらは神様の栄光を反映しているからです。したがって、これらの物を指して誓うことは、実際には神様を指して誓うことと同じです。

さらに、あなたの頭も神様に属しています。白髪がいつ出るかをあなたはコントロールすることはできません。

とはいえ、イエス様の要点は「すべての誓いを守らなくてはならない」ということではありません。

むしろ、イエス様の要点はこうです。「誓わない方が良いのです。相手があなたに誓いを要求する理由はただ一つです。それは、相手があなたの言葉を信頼できるかどうか分からないからです。」

では、どうして彼らはあなたの言葉を信じられるかどうかわからないのでしょうか。

1.彼らは、あなたのことを知らないからです。そのため、裁判所では、人々が「真実を言うことを誓います」と言わなくてはなりません。裁判官たちは、あなたのことを知らないからです。

2.彼らは、あなたのことを知っているけれど、あなたを信頼できないため、あなたの言葉を疑います。その場合、相手は、あなたに誓いを要求するかもしれません。

一つ目の場合は、仕方がありません。私たちは、罪によって壊れた世界に生きているからです。人間不信は普通のことです。だから、裁判所で私たちは誓わなくてはなりません。

イエス様は、すべての誓いを禁じるわけではありません。実際、イエス様もそうされたからです。(マタイ26:63-64)

けれども、二つ目の場合、ある程度まで、あなたはコントロールすることができます。もし、あなたがいつも正直に話すなら、周りの人々はあなたの言葉を信じるようになります。

そうすれば、彼らはあなたからの誓いや約束を要求しません。むしろ、あなたが話すと、彼らはあなたの言葉を疑わずに信じます。

周りの人々は、あなたの言葉を信頼できるでしょうか。小さいことでも(パーティーにちゃんと間に合うこと)、また大きいことでも(仕事やミニストリーへの忠実さ)、彼らはあなたを信頼できるでしょうか。

イエス様は、私たちが世の光として生きるように招いておられます。人々が他人を信頼できないことが多いこの世界で、あなたは光となっているでしょうか。周りの人々は、あなたのことを信頼できるでしょうか。

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山上の説教:なんとしても

私の一番好きなスポーツチームは、アメリカンフットボールのピッツバーグ・スティーラーズです。

1970年代にスティーラーズの監督が好んで使った標語は、「何としても」というものです。つまり、「何としても、勝たなければならない。」という意味でした。

イエス様にも、似たような態度がありました。けれども、イエス様は勝負について話されたのではありません。むしろ、罪について語られました。簡単に言えば、イエス様は「何としても、罪をあなたの人生から追い出しなさい。」と教えたのです。

イエス様はこう言われました。

もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。

もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。(マタイの福音書5:29-30)

ある人々は、この言葉を文字通りに解釈しますが、それはイエス様が意図された意味ではありません。イエス様は、あなたが自分の目や手を捨てることを望まれているのではありません。

イエス様が意味されたのは、私たちが罪について真剣に考えるべきだということです。けれども、多くの場合、私たちは罪を軽く考えます。

私たちは、「大丈夫。神様は赦してくださる」と考えます。山上の垂訓でのイエス様の教えに反して、私たちは自分の罪を嘆きません。むしろ、悔い改めることなく罪を犯し続けます。

しかし、イエス様が十字架で死なれた理由は私たちの罪のためです。自分の罪のため、人々は地獄に行きます。イエス様に出会う前、私たちは自分の罪のために地獄に行くことに値していました。

どうして、私たちは自分の罪を軽く考え、悔い改めることなく罪を続けることができるでしょうか。

だからこそ、イエス様は「何としても、罪を捨てなさい」と教えます。では、どうやって罪を捨てることができるのでしょうか。

1.祈り。 私たちには、自分の力で罪に勝つことはできません。神様の力が必要です。

2.できるだけ誘惑を避けること。 例えば、アルコール依存の問題がある場合、バーなどに行かない方が良いでしょう。情欲の問題がある場合は、インターネットの利用に注意し、ポルノを販売している場所を避けるべきです。

3.クリスチャンの友人に問題を伝えること。 その人に祈りを頼み、時々その罪についてチェックしてもらうようにお願いするべきです。

ヤコブはこう書いています。

ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。(ヤコブ5:16)

あなたの罪を軽く考えないでください。イエス様は決してそのようにはされませんでした。あなたの罪のために、イエス様は十字架で死なれたのです。

ですから、神様が聖であるように、あなたも聖でなければなりません。

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山上の説教:姦淫

前回の記事では、イエス様が殺人について話されました。今回は、イエス様は姦淫について話されています。イエス様がそのことについて話されたとき、その言葉は宗教的リーダーたちの良心を貫いたかもしれません。

私が以前述べたように、パリサイ人たちは、律法の具体的な部分を守り、それを誇りにしました。けれども、彼らはその律法の精神を見逃してしまいました。

一例として姦淫があります。パリサイ人たちの間にもさまざまな派閥が存在しました。例えば、「あざができたパリサイ人」と呼ばれる人たちがいました。(もちろん、この名前は侮辱として使われていました。)

「あざができた」パリサイ人たちは、情欲に対する懸念から、女性が通り過ぎるときに目を閉じました。ところが、目を閉じている間に、しばしば壁にぶつかってしまうことがありました。

また、あるパリサイ人たちは離婚について議論しました。モーセは律法でこう言っています。

人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ[る]。(申命記24:1)

パリサイ人たちは、「恥ずべき事」について議論しました。では、「恥ずべき事」とは何のことでしょうか。一部の人々は、「恥ずべき事」とは「不品行」という意味だと解釈しました。

一方、他のパリサイ人たちは、例えば妻がうるさかったり、料理を焦がしたりした場合、それも「恥ずべき事」に含まれると主張しました。

けれども、より深刻な問題が存在していたのではないでしょうか。それは、既婚のパリサイ人が不倫をしようと考え始めた時です。

ちょっと造像してみましょう。女性が通り過ぎるとき、そのパリサイ人は最初は情欲を避けようと目を閉じ、壁にぶつかることがあるかもしれません。

しかしその後、その女性をちらっと見てしまい、さらに振り返ってもう一度彼女を見てしまうかもしれません。

そして、やがて彼はずっとその女性のことを考えてしまい、関係を持ちたいと思い始めます。けれども、彼は既婚者で、こう考えるかもしれません。

「姦淫は罪だ。では、どうすればいいだろうか?あ、そうだ。妻と離婚して、あの女性と結婚すればいい。」

実際に、このように「正しい」とされるパリサイ人たちは、頻繁に離婚をしていました。

そのため、イエス様ははっきりと言われました。「あなたが婚外関係を持っていなくても、それだけで無罪とは言えません。」

つまり、

だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(5:28)

そして、恋人のために自分の妻と離婚しようかと考えたパリサイ人に、イエス様はこう言われました。

また「だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ」と言われています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。

また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。(31-32)

つまり、もしあなたが結婚している間に、他の人に恋をし、その人と結婚するために妻や夫と離婚したら、神様の目にはそれが姦淫です。

あなたはどうでしょうか。心の中で姦淫を犯していないでしょうか。恋人と結婚しようと思い、そのために妻や夫と離婚しようと考えているでしょうか。

また、恋人が既に別の人と結婚しているのに、「離婚したら。。。」と勧めているでしょうか。それは姦淫です。そして、神様はそのような罪を裁かれます。

あなたは他の人と肉体関係を持っていないかもしれませんが、妻や夫と一体になっているでしょうか。それは肉体的な結びつきだけでなく、心の一致、霊の一致も含まれるべきです。

私たちが愛する方に忠実でありますように。神様に忠実であり続け、また妻や夫にも忠実でありますように。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:和解

前の記事で、私たちはこの言葉を読みました。

平和をつくる者は幸いです。(マタイ5:9)

その言葉を読むと、多くの場合、私たちはケンカしている二人の友達を助けることを考えます。

けれども、私たち自身がケンカをしている時にも平和を作る者になるべきです。

イエス様はこう言われました。

だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。

それから、来て、その供え物をささげなさい。(5:23-24)

注意事項が二つあります。

まずは、イエス様は「もしあなたの兄弟があなたに恨みをもつなら、あなたは彼のところに行って、仲直りしなさい。」と言われます。

多くの場合、私たちは自分が悪いことをしていないと思うのに、誰かが私たちに怒っています。だから、私たちは「それは彼の問題です。私には関係ない。」と言います。

しかし、そうするなら、実はあなたは彼のことを見下しています。

あなたは口では言わないかもしれませんが、あなたの行動によって、「この人は私の時間に価値しない。もし彼が問題を抱えているなら、彼がこちらに来るべきだ。」という態度を示します。

けれども、イエス様はそのような態度を許されません。もし誰かが私たちを恨んでいるなら、私たちは積極的に仲直りしようとしなくてはなりません。

時には、あなたが謝らなくてはならない場合もあります。

あなたはこう言うかもしれません。「でも、私は悪いことをしていないのに。」

そうかもしれません。相手が繊細過ぎるかもしれません。それでも、相手の感情を考えてください。もしあなたの行動や言葉で彼らを傷つけたのであれば、あなたは謝るべきです。

せめて、「思わずあなたを傷つけてしまい、ごめんなさい。許してくれませんか。」と言った方が良いです。

そして、彼らを傷つけた言葉や行動を二度としないように気を付けるべきです。これは、相手のためだけでなく、彼らのために十字架で死なれたイエス様のためでもあります。

二つ目は、私たちの壊れた人間関係が、私たちの神様との関係に影響を与えるということです。

もし私たちができる限り相手と仲直りしようとしないのなら、神様は私たちの供え物を受け入れてくださいません。ペテロも、夫が妻を思いやりを持って扱わないなら、神様があなたの祈りを受け入れてくださらないと言います。(第一ペテロ3:7)

さらに、もし私たちが本当に悪かった場合、イエス様は私たちがすぐに積極的に償いをしなくてはならないと言われました。

あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。

そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。

まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。(5:26-28)

でも、あなたが悪くなくても、できるだけ相手と仲直りをしようとするべきです。

もう一つのポイントがあります。時々、相手には私たちと仲直りする気がありません。それは私たちがコントロールできないことです。私たち自身の行動だけがコントロールできます。

だから、相手のために祈ってください。相手と仲直りするために何をした方がいいか、神様に尋ねてください。そして、神様があなたにアイデアを与えてくださるなら、それを実行すべきです。

そのあとのことは、相手の責任です。もし彼らが反応しないなら、その状況を神様の手にゆだねることしかできません。

パウロはこう書きました。

あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ12:18)

あなたの周りの人々とはどのような関係がありますか。

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山上の説教:心の中で人々を侮ると

この箇所では、私たちは、イエス様がなぜパリサイ人たちと律法学者たちの律法の解釈を批判されたのかを知ることができます。つまり、彼らは外見だけに注意を払っていましたが、心の状態を完全に無視していたのです。

その一例が殺人についての教えです。イエス様はこう言われました。

昔の人々に、「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。(マタイの福音書5:21)

もちろん、パリサイ人たちと律法学者たちは、その命令に従っていました。彼らは誰も殺しませんでした。(とはいえ、後に、彼らのせいでイエス様は十字架にかけられました。)

それでも、イエス様続けてこう言われました。

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって{理由なくして}腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。

兄弟に向かって「能なし」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。

また、「ばか者」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(22)

イエス様は殺人だけを指摘されるのではなく、心の態度についても指摘されます。要するに、「あなたは誰も殺していないでしょう。それは良いことです。けれども、あなたの心の中で相手を殺したことがあるでしょうか。」と問いかけられるのです。

心の中で相手を殺すとはどういう意味でしょうか。

相手を殺すとき、あなたの態度はどうでしょうか。あなたはその人を侮っています。「この人には価値がないので、彼は生き続けない方が良い。」という態度を取っています。

もし私たちが相手に「あなたがバカ者だ」と言う時、実際には何をしているのでしょうか。私たちは心の中で相手を侮り、「あなたには価値がない」という態度を取っています。

殺人とは、その態度を極端な程度まで取ることです。しかし、私たちの心がその態度を持ち続ければ、やがて殺人に至るかもしれません。ニュースでは、そうした話を私たちはよく耳にします。

さらに、イエス様は怒りの問題についても指摘されます。怒りは自然な感情です。私たちがいつ怒るかをコントロールすることはできません。それは感情だからです。時には何かが起こり、私たちは怒りを感じます。

それでも、私たちはその怒りをどのように制御するかを決めることができます。私たちは、その怒りをずっと持ち続けるでしょうか。その怒りを抱え込んで、だんだん大きくさせるでしょうか。

ちゃんと制御されない怒りは、次の段階へ進むかもしれません。たとえば、私たちはその人との縁を切ることがあります。最悪の場合、私たちは彼らを殺してしまうこともあります。

そうなれば、イエス様は私たちが裁かれると言われます。また、神様の恵みから離れた結果、私たちは地獄に行くと警告されています。

あなたはどうでしょうか。心の中で誰かを侮っているでしょうか。「彼はろくでなしだ」と考えたことがあるでしょうか。

あなたの怒りによって、誰かと縁を切ったことがあるでしょうか。もしそうであれば、神様の目には、あなたはその人を殺したことになるのです。

兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。(第一ヨハネ3:15)

また、

光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。。。

兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。(第一ヨハネ2:9,11)

だから、たとえ相手があなたを傷つけたとしても、その人を価値のある人として見なすようにしましょう。なぜなら、実際に彼らには価値があるからです。そのために、イエス様は彼らのためにも、私たちのためにも十字架で死んでくださいました。

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山上の説教:律法を成就するお方

多分、イエス様がパリサイ人たちや律法学者と安息日について言い争いを始められた後で、イエス様はこの言葉を言われたのだと思われます。イエス様は、すでに何度も安息日に人々を癒しておられたことでしょう。

それでも、イエス様は、はっきりと言われました。

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(5:17)

どのように、イエス様は律法や預言を成就されたのでしょうか。それは、大体三つの方法で成就されました。

一つ目は、イエス様がメシアの預言を成就されたことです。

二つ目は、イエス様が他の人にはできないことをされたことです。つまり、イエス様は律法を完全に守られました。そのため、イエス様は私たちの罪のために死ぬことがおできになりました。

パウロはこう書いています。

肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。

神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。

それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(ローマ書8:3-4)

三つ目は、イエス様の死によって、イエス様は神様が要求されたすべてのいけにえを成就されたことです。

ヘブル人への手紙の著者によれば、神様はそのいけにえを要求されましたが、そのいけにえは私たちの罪を本当に清めることができませんでした。そのいけにえは、ただイエス様の十字架の働きの一つの「画」となるものでした。

しかし、今やイエス様にあって私たちの罪は清められ、赦されたので、そのいけにえはもう必要ありません。イエス様にあって、そのいけにえは成就されました。(ヘブル10:1-18)

律法はイエス様にあって成就され、私たちは神様の目には清い者となりました。それでも、律法は神様の聖さについて教え、私たちがどんな人になるべきかを示します。

そして、神様が聖なる方であるため、私たちも聖い人生を生きるべきです。

もちろん、私たちは自分の救いを買おうとは思いません。

けれども、聖霊様は私たちの心に住まわれ、私たちが清い人生を歩むよう助けてくださいます。

以前、私たちには清い人生を送る力がありませんでした。しかし、今神様は私たちと共におられ、神様がそもそも私たちをデザインされたように生きる力を与えてくださいます。

そして、イエス様は、私たちに警告を与えられます。

まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。(20)

たぶん、ユダヤ人たちはそれを聞くと、面食らったことでしょう。なぜなら、パリサイ人たちと律法学者は、一番律法を守る人とみなされていたからです。彼らはその律法を守るために、たくさんの余計なルールを立てました。

しかし、本当の義は、律法の文字通りに守ることだけではありません。本当の義は心から来ます。もしあなたの心が神様の目に悪ければ、どんな良いことをしても神様にその行動を認めてくださいません。

だから、イエス様はパリサイ人たちと律法学者を本当に責められました。彼らが正義とあわれみと誠実を全く知らなかったからです。(マタイ23:23)

あなたの心はどうでしょうか。あなたは正しいことをしているかもしれませんが、あなたの心は神様の目に正しいでしょうか。神様は、あなたの心について何と言われますか。

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山上の説教:塩と光

この箇所は本当に有名ですが、どれだけ私たちはその前後に気づいているでしょうか。その前後とは何でしょうか。

イエス様は迫害について話しておられました。つまり、私たちがイエス様のために迫害された時、私たちは祝福されるのです。(5:10-12)

その言葉を言った直後、イエス様はこう言われます。

あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。(5:13)

私たちは、どのように塩気をなくしてしまうでしょうか。私たちが家族や友達からのプレッシャーに負け、イエス様に従わずに彼らのようになってしまう時、私たちは塩気をなくします。

なぜなら、私たちは彼らを恐れ、彼らを喜ばせようとするあまり、神様を私たちの人生で第一にすることを忘れてしまうからです。

私たちは地の塩であるべきです。塩は食べ物を保存します。例えば、肉が腐らないように塩を使うことができます。

そのように、私たちの文化が腐らないように、私たちは人々に神様の道を教えます。それだけではなく、私たちの行動を通して神様の道を示します。そして、私たちを通して彼らは健全な人生と壊れた人生の違いを見出すでしょう。

さらに、塩は食べ物に味を付けます。そのように、私たちはこの世にイエス様の愛で味を付けるべきです。

しかし、私たちがこの世の民のように振る舞う時、この世を保存することも、この世に味を付けることもできません。

それに、神様はこの世の光となるために私たちをこの世に置かれました。私たちは隠れることのできない町であるべきです。それはどうしてでしょうか。道に迷った人々や傷ついて死にかけている人々に神様の栄光を示すためです。

それなら、どうして私たちは相手からのプレッシャーのためにその光を隠すのでしょうか。

あなたはどうですか。あなたはこの世の民のようになったために塩気をなくしたでしょうか。あなたの光は周りの人々に見えなくなってしまいましたか。

誰を喜ばせたいですか。神様でしょうか、それとも周りの人々でしょうか。私たちはイエス様の言葉に従いましょう。つまり、

あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:16)

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山上の説教:全く新しい考え方

あなたがこの箇所を読むなら、イエス様の考え方がこの世の考え方と全く違うことが分かると思います。

多くの人は、あなたが超宗教的な人であれば、神様があなたを祝福すると考えます。また、祝福されたいなら、特別な霊的な段階に至らなくてはならないと考えます。

しかし、イエス様はこう言われました。

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(5:3)

つまり、神様は霊的に破産した人を祝福します。なぜなら、そんな人は恵みの必要性が分かるからです。その真実が分かれば、私たちは救われます。

世の人は、祝福される人とは、この世で幸福を見つける人だと思います。だから、彼らは「何か気持ちがいいなら、それをしろ」と言います。

しかし、イエス様はこう教えられます。「あなたの罪を嘆くなら、また、この世の罪による痛みを嘆くなら、あなたは祝福されます。」

なぜなら、私たちは私たちの人生とこの世を変えることのできるイエス様の力を見出すからです。

この世の人は、思い切って自分の人生とその状況をコントロールすれば祝福されると思います。

しかし、イエス様はこう語れます。「良い時でも悪い時でも、神様に従う人は祝福されます。」

つまり、私たちは神様の良さと判断を信頼するべきです。そうすれば、私たちの人生はうまくいくでしょう。

この世の人は、やりたい放題の人が祝福されると思います。彼らは、幸せを得るために、何でもします。

しかし、イエス様はこう言われました。

義に飢え渇く者は幸いです。(5:6)

正しい道はいつも簡単ではないし、いつも快楽的なものでもありません。けれども、それに従えば、あなたは満ち足ります。

この世の人々は、「自分のために生きなさい。自分の目的を果たすためなら、周りの人々を踏みつけても構わない」と言います。

しかし、イエス様はこう言われました。

あわれみ深い者は幸いです。(5:7)

つまり、周りの人々のニーズを自分のニーズよりも優先して考えてください。

特に、相手を許すときにそうするべきです。自分の痛みを脇に置き、あなたを傷つけた人の痛みとニーズに焦点を当てるのです。

そうすれば、私たちはイエス様のようになることができます。イエス様が十字架にかけられた時、このように祈られました。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)

この世の人々は、道徳的な価値観は相対的なものであると考えています。だから、他人の道徳的な価値観を裁くことができないと思います。彼らにとって、すべての人の道徳的な価値観は平等です。

しかし、イエス様はこう語れました。

心のきよい者は幸いです。(5:8)

つまり、神様の聖なるさを知る人だけが神様を見ます。

この世の人々は、「すべての道は天国に至ります。だから、周りの人々にイエス様のことについて話さなくてもいい。仏教や、神道や、ヒンズー教を信じても大丈夫です。」と考えます。

しかし、イエス様はこう言われます。「神様の使節として福音を宣べ伝えるは、神様の子供たちです。なぜなら、彼らは神様と人々を和解させるからです。

また、ケンカしている人を和解させる人は、その天の父のようになります。なぜなら、天の父は、私たちとの和解のために働かれたからです。」

この世の人々によれば、あなたが皆に好かれたら、あなたは祝福されています。

しかし、イエス様は私たちがすべての人々を喜ばせる必要はないと語れます。だから、周りの人々よりも、神様を喜ばせる態度を取るべきです。

神様の国には、この世のものとは全く異なる価値観があります。けれども、それを受け入れると、本当の命を知ります。

だから、パウロはこう言いました。

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:2)

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山上の説教:迫害

迫害を好む人はいません。誰もが嫌われることを望んではいません。理想的なのは、すべての人々があなたを愛してくれる世界です。

しかし、ここは理想的な世界ではありません。この世界は罪によって堕落しました。そのため、多くの人々の心はゆがみ、善と悪を見分けることができなくなっています。たとえ善悪が分かっていても、多くの場合、彼らは悪を選びます。

ヨハネはこう言いました。

(イエス様を通して)光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。(ヨハネ3:19)

だから、イエス様は弟子たちに警告されました。

もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。(ヨハネ15:20)

少し考えてみてください。イエス様は完全な方でした。彼は一切罪を犯されませんでした。イエス様は愛そのものでした。それにもかかわらず、人々は彼を憎み、十字架で殺しました。

もしイエス様が完全であるにもかかわらず迫害されたのであれば、私たちは何を期待すればよいでしょうか。

しかし、イエス様はこう言われます。

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(マタイ5:10)

つまり、私たちがイエス様に従うがゆえに迫害されるなら、私たちは祝福されるのです。

それは少し奇妙に聞こえる言葉かもしれません。迫害が祝福なのでしょうか。正直なところ、私自身も迫害されたいとは思いません。

迫害そのものが祝福であるというわけではありません。ただ、私たちが迫害されるとき、それは主の足跡に従っている証拠となるのです。

要するに、私たちが愛しているイエス様が迫害されたように、私たちも迫害されるのです。それは私たちに与えられた特権であり、またその迫害は決して無意味なものではありません。裁きの日に、神様は私たちの忠実さに報いてくださいます。

ですから、イエス様のために迫害されても、決して絶望しないでください。友人や家族から拒絶されるときも、あきらめないでください。

あなたはいつも周りの人々を喜ばせることはできません。イエス様ですらそれができませんでした。だからこそ、神様を喜ばせることに焦点を当ててください。

そうすることで、本当の祝福を体験することができます。

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山上の説教:平和をつくる者

神様は、私たちを平和をつくる者として召されています。

なぜでしょうか。それは、イエス様ご自身が偉大な平和の仲介者だからです。

私たちの罪によって、神様との間に大きな隔たりがあったとき、イエス様はこの世に来て、十字架で私たちの罰を引き受けてくださいました。その御業によって、私たちは神様との平和を得ました。

だからこそ、私たちが人々を和解させるなら、私たちが本当に神の子どもたちであることを証明するのです。

神様は、ご自身の愛する子どもたちが争うことを悲しまれます。だからこそ、神様は私たちを和解のために召されるのです。

もちろん、私たちはすべての争いを止めるように召されているわけではありません。私たちがまったく関係のない争いなら、巻き込まないほうが良いでしょう。(箴言26:17)

しかし、あなたが愛する人々が争っているなら、できる限り平和をもたらすために努力すべきです。

もちろん、それには神様の知恵が必要であり、適切なタイミングを見極めることも大切です。また、愛と敬意のある関係がなければ、彼らはあなたの言葉を聞かず、かえってあなたを責めるかもしれません。

さらにもう一つの意味で、私たちは平和をつくる者として召されています。それは、神様と人々の間に平和をもたらすことです。

パウロはこう書きました。

これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。

すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。(第二コリント5:18-19)

それは大きな責任です。イエス様は十字架で和解の御業を成し遂げられました。しかし、神様は私たちにこう語られます。 「この和解の言葉をあなたに委ねます。あなたは私の使節となりなさい。」

では、その和解の言葉とは何でしょうか。

私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(5:20-21)

もちろん、私たちは人々の心を変えることはできません。それは御霊の働きです。

それでも、私たちは平和をつくる者として召されています。つまり、神様とその愛する者たちを和解させるために召されているのです。

イエス様はこう言われました。

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。(マタイ5:9)

あなたはどうでしょうか。あなたは平和をつくる者ですか。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:神を見るため

多くの歌は、神様を見たいという願いを表現しています。子どもの頃、私はこの歌を歌いました。

Open our eyes Lord,
私たちの目を開いてください。
We want to see Jesus.
私たちはイエス様を見たいです。
To reach out and touch him.
私たちは手を伸ばし、イエス様に触れたいです。
To say that we love him.
イエス様に、「あなたのことを愛している」と言いたいです。

また、大学生の時、私はこの歌を歌いました。

Open the eyes of my heart Lord,
主よ、私の心の目を開いてください。
Open the eyes of my heart.
私の心の目を開いてください。
I want to see you.
あなたを見たいのです。
I want to see you.
あなたを見たいのです。

私はこの二つの歌が大好きです。けれども、もし私たちが本当に神様を見たいと願うなら、イエス様は私たちにこう言われます。

心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。(マタイの福音書5:8)

どうして清い心は大切なのでしょうか。それは、神様が清い方だからです。

天使たちは神様のもとで歌うとき、神様の愛について歌うのではなく、こう歌います。

聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。(イザヤ6:6)

(もちろん、彼らは神様の愛についても歌うかもしれません。とはいえ、聖書には「愛深い、愛深い、愛深い、万軍の主」という歌は記されていません。)

旧約聖書でも新約聖書でも、神様は私たちにこう命じられます。

わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。(レビ記11:44-45;第一ペテロ1:16)

神様は罪を憎み、その近くにおられることはできません。もし私たちが罪によって汚れてしまったなら、神様から遠ざかっていると感じるかもしれません。

それは、私たちが救いを失い、神様が私たちをもう愛しておられないという意味ではありません。けれども、神様との親しい関係を持つことができなくなってしまいます。

ある日、私は友人のガレージで話しているとき、その友人の2歳の娘が少しの間どこかへ行きました。

そして戻ってきたとき、彼女は父親がオイルを拭いていたスポンジを手に持っていました。そのため、彼女の手と顔はとても汚れていました。それでも、彼女は母親に抱っこしてほしいと願いました。

もちろん友人は彼女を抱きたがりませんでした。すると、その娘は泣き始めました。そこで、友人は少し考えた後、後ろから娘を抱き上げ、家に連れて行って、きれいに洗ってあげました。

時々私たちは、「なぜ神様から遠ざかっているように感じるのだろうか」と問いかけます。祈っても神様がその祈りを聞いてくださらないように感じ、神様の臨在を感じることができないことがあります。

そのようなとき、自分自身に問いかけてみるべきかもしれません。 「私は罪によって汚れてしまっているだろうか。その罪のために、神様は私から離れているのだろうか。」

ヘブル人への手紙の著者はこう書きました。

聖くなければ、だれも主を見ることができません。(へブル12:14)

二つの重要な注意点があります。

まず一つ目は、たとえ私たちが罪に陥ったとしても、神様はこう約束されています。

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

私たちにはいつも清い心が必要です。しかし、その清さを保つためには、毎日悔い改めなければなりません。

次に、あなたが神様から遠ざかっているように感じるとしても、それが必ずしもあなたの罪のせいだとは限りません。ほかの理由があるかもしれません。(ただし、それは別の記事のテーマです。)

それでも、私たちは神様にこう祈るべきです。 「私たちの間に何か障害があるでしょうか。罪があるでしょうか。」

もし罪の問題があるなら、神様はあなたに教えてくださいます。神様は決して、 「あなたは知っているはずだ。もし知らないなら、私は教えないよ。」 とは言われません。

ですから、もし神様があなたの罪を指摘されないのであれば、おそらく別の理由があります。そして、後に神様はきっとその理由を明らかにしてくださるでしょう。

それでも、毎日こう問いかけてましょう。 「私の心は神様のみ前に清いものでしょうか。」

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:憐れみ

数年前、私は不思議な夢を見ました。その夢の中で、私は中国でミニストリーの訓練を受けていました。(実際には、中国に行ったことはありません。)

すると、先生はこう言いました。「あなたたちは聖書をよく知っていますね。けれども、あなたたちは毎日その言葉に従っているでしょうか。」

そして、彼は憐れみについて話し始め、この箇所を引用しました。

「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。(マタイ9:13)

その言葉を聞いた瞬間、私は目を覚ましました。

「これはどういう意味なのだろうか。」と、私は思いました。

その夢を見たとき、私はハワイを旅行していました。そして、その夜、兄の教会に行き、礼拝が始まる前に、もう一度マタイの箇所を読みました。

賛美の時間の後、兄はヤコブの手紙からメッセージを語りました。そのテーマは何だったでしょうか。憐れみでした。

翌週の日曜日、私は自分の教会に戻りました。そして、牧師は再び憐れみについて語りました。

そのとき、私は思いました。「神様は私に憐れみについて学んでほしいのだろうか。」

そして、神様は私に憐れみについて教え始められました。

今でも私は憐れみについて学んでいます。本当は、「私は憐れみ深い人間です」と言いたいのですが、そうは言えません。まだまだ成長しなければならないのです。

イエス様はこう言われました。

あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。(5-7)

憐れみとは何でしょうか。

まず一つ目の意味は、人々を常に裁かないことです。つまり、私たちの基準や期待を押し付けるのをやめることです。

ある日、神様は私にこのことを教えられました。私が英会話の生徒を教えていたとき、彼らはなかなか上達していませんでした。そのため、私はフラストレーションを感じました。

「私は何度もこのことを教えたのに、どうして覚えていないのだろう。もう学んだはずなのに。なぜできないのか。」と私は思いました。(もちろん、口には出しませんでした。)

けれども、神様はこう語られました。 「ブルース、自分が立てた基準によって彼らを裁いてはいけません。あなたは、彼らが知っているはずだと思うかもしれませんが、彼らはまだ理解していません。

だから、批判するのをやめて、彼らのレベルを受け入れなさい。そして、彼らの英語学習の必要を理解し、その必要に応えられるように努めなさい。」

多くの場合、私たちは友人、配偶者、同僚、子どもが私たちの期待を満たさないと、彼らを批判してしまいます。

しかし、憐れみとは彼らを批判するのではなく、こう問いかけることです。 「彼らの本当の必要は何だろうか。どうすれば私はその必要に応えることができるだろうか。」

イエス様とパリサイ人の態度は大きく違いました。福音書の中で、イエス様は人々に仕えましたが、パリサイ人は人々を裁きました。

憐れみにはもう一つの側面があります。それは、人を許すことです。

多くの人は私たちの赦しに値しないかもしれません。決して謝らない人もいるでしょう。その結果、私たちの心には怒りや恨みが積み重なります。

英語の「resent」、つまり「恨み」という言葉の意味は、「再び感じる」です。私たちが恨みを持つとき、再び過去の傷を感じてしまいます。

恨みや苦々しい思いは、私たちを過去に縛り付けます。神様は私たちにそれを望まれていません。神様は私たちが恨みを手放し、神様の目的のために生きることを望まれます。

神様は私たちを素晴らしい目的のために造られました。しかし、恨みを持ち続けるなら、その目的を果たすことはできません。

それに、私たちは神様の憐れみに値しなかったにもかかわらず、神様は憐れみを注いでくださいました。同じように、私たちは値しない人々にも憐れみを与えるように呼ばれています。

イエス様は何度も言われました。 「もし神様の憐れみを望むなら、周りの人々に憐れみを示すべきです。」

この箇所でイエス様はそう教えられましたし、主の祈りでもそう教えられました。また、たとえ話の中でもそう語られました。

あなたはどうでしょうか。あなたは憐れみ深い人ですか。

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山上の説教:義に飢え渇く者

義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。(5:6)

おそらく、この言葉は2つの方法で解釈できるでしょう。

1つ目の解釈は、イエス様が私たちに聖なる人生を追い求めることについて語られたというものです。つまり、私たちは神様への愛ゆえに、神様を喜ばせ、清い人生を歩みたいと願うのです。

それでも私たちは罪との戦いに苦しみます。ローマ人への手紙7章で、パウロはその戦いについて語りました。この箇所から、パウロが義に飢え渇いていたことがわかります。

彼は叫びます。 「私は正しいことをしたいのに、どうしてもできません。何度も罪に陥ってしまうのです。私はなんと惨めな人間なのでしょう。」

私も、そう感じることがあります。私は清い人生を歩みたいと願っていますが、何度も失敗してしまいます。だからこそ、失望するのは簡単なことです。「もう諦めよう。私はもうだめだ。どうしても罪を犯してしまう。」そう思ってしまうこともあります。

しかし、イエス様は私たちにこう言われます。 「諦めないでください。義に飢え渇き続けなさい。ある日、その飢え渇きは満たされるのです。あなたは義人となるでしょう。」

もちろん、天国では私たちは完全に義人となります。とはいえ、この世に生きている間も、神様は私たちの人生に働きかけておられます。

パウロはこう書きました。

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(ピリピ2:13)

そして、私たちが完全に義人となる日まで、神様の恵みが私たちを支えます。パウロはこう書きました。

律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。

しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。(ローマ5:20-21)

だから、

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

けれども、もう一つの意味として、私たちの義への飢え渇きも満たされる日が来るでしょう。

私たちの周りを見渡すと、罪と不正義が蔓延していることに気づきます。堕落した裁判官を目にし、神様の律法に反する法案が可決されます。また、人々の道徳的な価値観は変わり、かつて悪とされたものが、今では良いものと見なされています。

そのため、私たちは「いつ正義はこの国に戻るのだろうか。もう希望はないのだろうか。」と問い始めます。

正直に言うと、おそらくこの状況が良くなることはないでしょう。パウロが「終わりの日」について語ったとき、彼は非常に暗い光景を描写しました。(第二テモテ3:1-5)

私たちは、その時代を生きています。誤解しないでください。「終わりの日」は2000年前に始まりました。(第一ヨハネ2:18)けれども、イエス様が再び来られる前に、この世界は次第に悪くなっていくでしょう。

私たちは政治家や司法制度、人間が作り上げた機関に頼ることはできません。

それでも、私たちは希望を持っています。なぜでしょうか。

それは、ある日、「イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白する」からです。(ピリピ2:10-11)

だからこそ、私の周りの悪を見ても、私は絶望することを拒否します。正義の日は必ず来ます。私たちの義への飢え渇きは満たされるのです。その日まで、私は政府や人間が作った制度に頼るのではなく、神様を信頼します。

私たちが義を求める飢え渇きを決して失わないように。イエス様は必ずご自身の約束を守られるのだから。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:天の父に従う

柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。(5:5)

英語では、「Blessed are the meek」と書かれています。

「Meek」、つまり「柔和」という言葉を見たとき、私はその意味をよく調べる必要があります。なぜなら、アメリカ人はこの言葉をあまり使わないからです。

「柔和」という言葉が日本人にとってどのようなイメージを持つかはわかりませんが、多くのアメリカ人にとって「Meek」という言葉は「弱い」という印象があります。

ところが、この言葉は「弱い」という意味ではありません。モーセとイエス様は柔和な者だと呼ばれました。この箇所では、新改訳聖書は「謙遜」や「へりくだっている」という表現を用いています。(申命記12:3、マタイ11:29)

彼らは謙遜な人だったかもしれませんが、彼らを「弱い」と呼ぶことはできません。彼らは本当に強い人たちでした。

実は、この言葉は飼いならされた動物を指す際にも使われていました。飼いならされた動物は、自分の力を持ちながらも、飼い主に従い、仕えるのです。

その意味で、モーセとイエス様は柔和な者でした。

モーセは、最初は自分の力でイスラエル人を奴隷の生活から解放しようとしました。けれども、結局彼はパロから逃げなければならず、諦めました。

しかしその後、モーセは神様の権威に従い、神様とイスラエル人のために偉大な働きをすることができました。

イエス様は神の御姿でありましたが、天の父に従い、天の父の計画を成し遂げられました。つまり、イエス様は十字架にかかり、私たちの罪のために死んでくださり、私たちを救われました。

モーセとイエス様はいろいろな試練に直面しました。彼らは自分の弱さと戦いました。それでも、彼らは最後まで神の計画を成し遂げるまで仕え続けました。

それが柔和な者です。

あなたはどうでしょうか。あなたは柔和な者でしょうか。

あなたは天の父に従いますか。試練に直面するとき、「どうして私はこんなに苦しまなければならないのでしょうか。私はあなたの御心に従っているはずなのに」と不満を言うでしょうか。

それとも、へりくだって神様の御心に従い続けるでしょうか。

そのような人に、イエス様は言われます。「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。」

私たちは毎日、天の父に従うなら、最終的に報いを受けることができます。

しかし、私たちは本当にそうするでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:悲しむ人

私は、山上の垂訓についてのメッセージを多く聞き、聖書の解釈書も数多く読んできました。そして、多くの聖書学者や牧師たちによれば、この箇所の意味は、「自分の罪を嘆く人は幸いである」ということです。

もちろん、その解釈は「心の貧しい者」という概念と一致しています。(マタイの福音書5:3)つまり、私たちは自分が霊的に破産している者であることを認め、その罪を嘆くのです。

実は、罪を嘆くことは時として良いことでもありますが、悪いことでもあります。もし、その嘆きの結果が悔い改めであれば、それは命に至ります。ところが、もしその嘆きが絶望へと導くのであれば、それは死に至ります。

ペテロとユダの話を考えてみましょう。ペテロは悔い改めたことで、命を見出しました。その一方、ユダは絶望し、自ら命を絶ってしまいました。

ですから、私たちの嘆きがどこへ向かうのかを考える必要があります。

嘆きは神様とその恵みへと導くものでしょうか。

それとも、私たちは自分自身の過ちや失敗に焦点を当てすぎてしまうでしょうか。

もし、私たちが神様とその恵みに焦点を当てるなら、神様の慰めを受けることができます。

しかし、自分自身の過ちばかりに焦点を当ててしまうなら、絶望へと向かいます。

とはいえ、この箇所でイエス様が「罪を嘆くこと」について話されたかどうか、私は確信がありません。

もちろん、私たちは罪を嘆くべきです。とはいえ、罪によって壊れたこの世界を嘆くこともあります。

私たちが愛する人が病気になったり、亡くなったりすると、深い悲しみに襲われます。

また、人々が互いに傷つけ合うのを見て、嘆くこともあります。

戦争や飢餓、苦しみを目の当たりにすると、絶望を感じるのは自然なことです。そして、未来に希望があるのかどうか、疑念が湧いてきます。

けれども、もう一度問いかけます。それらの出来事を見たとき、私たちはどこに焦点を当てるべきでしょうか。

もし、自分自身に焦点を当てるならば、絶望へと向かいます。なぜなら、私たちにはこれらのひどい状況を変える力がないからです。

しかし、もし私たちが神様に焦点を当てるなら、希望へと導かれます。なぜなら、神様は私たちの状況や問題よりも遥かに偉大な方であり、壊れたものを回復させることができるからです。

神様は、壊れた人間関係を回復させることができます。崩れた結婚を再生させることができます。失われた希望をよみがえらせることができます。そして、霊的に死んだ人を新しく生かすことができます。

あなたは、自分の罪のために人生が壊れていると感じていますか。あなたの傷や、周りの人々の傷を見て、嘆いていますか。

自分自身の弱さだけを見つめるのではなく、むしろ死んだものを回復させることができる方を仰ぎ見てください。そうすれば、あなたは神様の慰めを受けることができます。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:超霊的な人のためではなく

今日は少しマタイの福音書に移り、山上の垂訓と平地の説教を組み合わせます。なぜなら、以前にも述べたように、この二つの説教は共通のテーマを持っているからです。

この箇所におけるイエス様の言葉と、ルカの箇所におけるイエス様の言葉には少し違いがあります。

ルカの福音書では、イエス様は「貧しい者は幸いです」と言われました。けれども、マタイの福音書では「心の貧しい者は幸いです」と言われています。

ルカの福音書では、おそらくイエス様は金銭的に貧しい人々に語っておられたでしょう。しかし、マタイの福音書では、イエス様は別の視点から話されていました。

その群衆の中には、パリサイ人、律法学者、そして他の霊的に熱心な人々がいたことでしょう。そして、彼らを見たとき、周囲の人々はこう思ったかもしれません。

「きっとこの人たちは神様に恵まれているのだろう。なぜなら、彼らは非常に宗教的な人々であり、聖書を深く理解し、正しい生活を送っているからだ。」

けれども、その「普通」の人々は、自分自身を見たとき、霊的に劣っていると感じていたかもしれません。

特に、イエス様の12人の弟子たちは、そのように感じた可能性があります。彼らは特別な宗教的な訓練を受けていませんでした。ただの漁師でした。そして、一人は嫌われた収税人でした。

さらに、彼らは気性の荒いグループでした。彼らは度々口論してしまいました。

また、彼らの信仰の弱さゆえに、イエス様は何度も彼らを叱責されました。けれども、イエス様はこう言われました。 「確かに、あなたは霊的に貧しい者です。しかし、神の国は特にあなたのような人々のためのものです。」

対照的に、弟子たちが憧れていた霊的に見える人々の多くは、最終的に神の国の門に入ることができませんでした。なぜでしょうか。

それは、実際には、私たち全員が霊的に貧しい者だからです。誰も神様の前で「ほら、私はすごいでしょう。だから、私を入れなければなりません」と言うことはできません。

私たちは皆、霊的に破産した存在です。

パウロはこう言いました。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず。。。(ローマ3:23)

また、イザヤはこう言いました。

私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。(イザヤ64:6)

だからこそ、私たち全員にイエス様が必要です。パリサイ人であっても、収税人であっても、牧師であっても、売春婦であっても、すべての人がイエス様からの赦しと恵みを必要としています。

その赦しと恵みを受けなければ、誰も神の国に入ることはできません。

あなたは、自分が霊的に貧しい者だと思うでしょうか。あなたには希望があります。神学校に行ったことがなくても、特別な資格がなくても、人生がめちゃくちゃになっていたとしても、神の国はあなたのような人々のためにあります。

なぜでしょうか。

それは、あなたが牧師であっても、会社員であっても、売春婦であっても、私たち全員が同じだからです。つまり、私たちは皆、罪人です。私たちは皆、恵みを必要としている者です。

神の国は、霊的に優れた人々のためではありません。神の国は、赦され、恵みを受けた罪人のためにあります。

あなたは、自分が神の国に値しないと感じていますか。どうか安心してください。誰も神の国に値するわけではありません。

しかし、もしあなたが神の前にへりくだり、赦しを求め、イエス様を主として受け入れるならば、神様はあなたに永遠の命を与えると約束されています。

そして、神の国には「二流の市民」という者は存在しません。