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マタイの福音書 マタイ6章 ルカの福音書 ルカ12章

山上の説教:心配

私はこの箇所の意味を頭では理解していますが、この真理を本当に実感できているかはわかりません。

今はあまり心配していません。けれども、5年前、私は仕事や家計についてよく悩んでいました。

そのとき、この箇所を読んでこう思いました。「これは理にかなっている。神様は鳥を養い、花を美しく保っておられる。だから、神様はきっと私のことも世話してくださるだろう。」

それでも、私は心配し続けました。「どうやって、お金を節約できるだろうか。もっといい仕事が見つかるだろうか。」

振り返ってみると、神様の忠実さと良さを見て取ることができます。だからこそ、私はこれから心配する必要はないはずです。

とはいえ、将来トラブルが起こったとき、私はどう反応するでしょうか。

時々、私がある程度コントロールできる問題に直面します。でも、まったくコントロールできない問題に直面することもあります。

そのとき、私の心はこう言います。「もう、自分にできることはやったでしょう?もう心配せずに、そのことを神様の手に委ねよう。」

それでも、心の別の部分では、なおも心配し続けます。

私は、イエス様の言葉を想像できます。

「信仰の薄いブルース。この世の人々は、こういったものを求めている。しかし、あなたの天の父があなたを愛しておられることを知らないのか。あなたのことを養ってくださることを知らないのか。

だから、この世のことから目を離し、天の父に焦点を当てなさい。天の父にあなたの悩みを委ねなさい。そうすれば、すべてよりも神の御国を第一に求めるならば、天の父は必ずあなたを養ってくださる。」

天のお父さん。あなたは私を愛してくださると約束されました。それを信じています。でも、私の信仰を強めてください。

私は信仰が薄いため、よく心配してしまいます。しかし、あなたはこれまで私にあなたの忠実さを示してくださいました。私には、あなたを疑う理由が何もありません。それなのに、どうして疑ってしまうことがあるのでしょうか。

私が自分の心配を手放せるように助けてください。あなたの光によって、私の問題が力のない影のようになるように。

私があなたに焦点を当てられるように助けてください。あなたを信頼できるように助けてください。アーメン。

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マタイの福音書 マタイ6章 ルカの福音書 ルカ11章

山上の説教:私たちはどこに照準を合わせるのか?

前回の記事で私が述べたのは、私たちがいつも「この罪を避けなきゃ、この罪を避けなきゃ」と考えると、多くの場合、かえってその罪に落ちてしまうということです。それよりも、もっと良い方法は、神様に焦点を当てて従うことです。

ただし、この態度は誘惑に対する場合だけでなく、すべてのことに対して持つべきだと思います。この箇所では、イエス様が私たちが何に照準を合わせるべきかについて語られます。

自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。

自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。(マタイ6:19-21)

そして、イエス様はこう言われました。

だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。

あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(24)

私たちは自分自身にこう問いかけるべきです。「私は何に照準を合わせているだろうか。」

多くの人々は、一時的なものに照準を合わせます。例えば、お金や持ち物などを得ることに焦点を当てています。

しかし、イエス様はこう言われます。「そんなものは結局なくなります。あなたは永遠のものに照準を合わせるべきです。」

では、永遠のものとは何でしょうか。

永遠のものは二つしかありません。神様との関係と、ほかのイエス様を信じる人々との関係です。

私たちは天国に、この地からほかのものを持っていくことはできません。だからこそ、この世に生きている間に、その二つのものに焦点を当てるべきです。

私たちは神様との関係をより深めるために努力するべきです。また、イエス様を知らない人々に福音を伝えるべきです。そして、クリスチャンの兄弟姉妹との関係を強めるために働くべきです。

そうするなら、私たちは天国に宝を蓄えることができます。神様との関係と、私たちが愛する人々との関係よりも、もっと素晴らしい宝があるでしょうか。

しかし、多くの人々、たとえクリスチャンであっても、お金を儲けることやこの世のものを獲得することに焦点を当てています。けれども、イエス様は「あなたはそれができない」と警告されます。

神様はあなたの心の半分だけを望まれるのではありません。もし神様があなたの心の半分しか持たないなら、あなたの奉仕は受け入れられません。私たちはお金に仕えることもできるかもしれませんし、神様に仕えることもできます。両方に仕えることはできません。

そこで、イエス様は私たちに問いかけられます。「あなたはどんな目を持っていますか?物の本当の価値が見えていますか?何が本当に大切かわかっていますか?

もしそうなら、あなたの全身も明るいでしょう。あなたは生きがいのある人生を送り、神様が意図された人生を知るでしょう。それは、神様との関係と人間関係を中心とした人生です。」

けれども、もしそれが見えないなら、あなたは暗闇に満ちた人生を送ります。あなたはいつも不満を感じますが、その理由を決して理解することはありません。お金や他のものを追い求めても、最終的にあなたの心は空っぽのままです。

そのため、イエス様はこう言われます。

もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。(マタイ6:23)

また、イエス様は私たちに警告されます。

だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。(ルカ11;35)

どうでしょうか。あなたは何に照準を合わせていますか。

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山上の説教:日常の霊的な戦い

毎日、私たちは霊的な戦いに直面しています。そのため、イエス様は私たちにこのように祈るべきだと教えられました。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(マタイ6:13)

私たちは邪な世界に生きています。この世界はサタンの住まいであり、彼は私たちに対して悪意を持っています。どうしても私たちを倒したいと思っているのです。

つまり、サタンは私たちの心の中で働き、私たちを誘惑して、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢に負けさせようとします。(第一ヨハネ2:16)

だから、私たちは神様の導きを祈るべきです。具体的には、罪に焦点を当てるのではなく、神様に焦点を当てるように祈るべきです。

私たちには誰しも誘惑に負けやすい弱点があります。その弱点を正しく認識し、できる限りその誘惑から逃げるべきです。しかし、してはいけないことに過剰に注目しすぎると、その誘惑がますます強くなってしまうこともあります。

一方で、もし私たちが神様に焦点を当てるなら、自然と誘惑から離れることができます。ただ罪を避けるだけでは十分ではなく、神様に従うことが必要なのです。

さらに、サタンは私たちを誘惑するだけでなく、私たちを滅ぼしたがっています。サタンは人々を通して私たちを攻撃することもあります。

また、サタンは私たちに嘘をつくことがあります。「あなたはもうダメだ。神様があなたを愛するはずがない。あなたは失敗しすぎたから、神様はもうあなたを赦さない。」

だからこそ、イエス様は私たちに「悪からお救いください」と祈るよう教えられます。(もう一つの翻訳では「悪者から、つまり悪魔からお救いください」となっています。)

私たちは、私たちを憎むサタンと戦っています。だから、ペテロもこう言いました。

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。(第一ペテロ5:8)

神様がサタンの私たちに対する影響を制限してくださるように祈りましょう。

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マタイの福音書 マタイ6章

山上の説教:許しの必要性

多くの人々にとって、この箇所は本当に受け入れがたいものです。

イエス様は、このように祈るように教えます。

「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」(マタイの福音書6:12)

そして、イエス様は続けてこう言われます。

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。(6:14-15)

それは本当に厳しい言葉です。そして、他の箇所では、イエス様はその言葉をさらに具体的に説明されています。

では、その祈りを少し見てみましょう。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」

多くの人々は、この祈りをしばしば祈りますが、自分が何を言っているのか真剣に考えません。

けれども、この祈りを想像してみてください。「主よ。私は姉に本当に怒っています。彼女は私を深く傷つけました。私は絶対に許せません。だから、主よ、お願いがあります。私が姉を許さないように、私を赦さないでください。」

それは愚かな祈りに思えるかもしれませんが、主の祈りを祈るとき、実際にはそのような意味を込めているのです。

「私が相手を許すように、私を赦してください。けれども、もし私が相手を許さないなら、私を赦さないでください。私が怒りと苦さを彼らに注ぐように、あなたも私に怒りと裁きを注いでください。」

神様の目には、許しは選択肢ではありません。もしあなたが相手を許さないなら、あなたは神様からの赦しを期待することはできません。

どうしてでしょうか。

なぜなら、あなたが神様からの赦しに値しなかったにもかかわらず、神様はあなたを赦すために高い代価を支払われたからです。その代価は、御子イエスの命でした。

あなたは決して、神様からの赦しを買うことができませんでした。また、あなたの罪のために償うこともできませんでした。それでも、神様はあなたを憐れんでくださいました。

神様が私たちを赦してくださったのなら、どうして私たちは相手を許せないのでしょうか。

もしあなたが相手を許せないなら、あなたは本当に神様の赦しを理解していません。

それはつまり、「私の罪はそんなに悪くなかったのです。だから神様は私を許してくれました。」と言っているのと同じです。ようるするに、あなたは自分の罪を軽く見てしまい、深刻さを控えめに捉えています。

しかし、あなたの罪のために、あなたは地獄に行くことに値しました。あなたの罪があまりにも深刻だったので、イエス様はその罪のために十字架で死なれなければなりませんでした。それを本当に信じているでしょうか。

それなのに、どうして「私の罪はそんなに悪くない」という態度を取れるのでしょうか。

もしあなたが相手を許せないなら、あなたは自分の罪をあまりにも軽く考えています。自分の罪の深刻さを正しく理解するなら、相手を許せないはずがありません。

だから、次の二つのことを考えてください。

1.あなたはどれだけ真剣に自分の罪の深刻さを考えるでしょうか。その罪のゆえに、あなたが地獄に値することを信じるでしょうか。

2.神様があなたの酷い罪を赦してくださったのなら、どうしてあなたはあなたに対して犯された酷い罪を許せないのでしょうか。

許すことは簡単なことでしょうか。多くの場合、許すことは本当に難しいです。もしあなたが深い傷を受けたなら、自分の力だけで許すことは難しいでしょう。もしくは、不可能でしょう。

けれども、神様の恵みと憐れみによって、あなたが赦されたように、神様の恵みと憐れみによって、あなたは相手を許す力をいただくことができます。

そのため、自分自身に次の質問をするべきです。「私は今、相手を許せないかもしれないけれど、神様が私の心を変えてくださることを望んでいるでしょうか。」

もし「はい」と答えるなら、このように祈ってください。

主よ、私は深く傷ついており、今は相手を許す意思が全くありません。

しかし、私があなたの憐れみに値しなかったにもかかわらず、あなたは私を赦してくださいました。私を赦すために、あなたは高い代価を支払われました。

どうか私がその真理をさらに深く理解できるように。私がその真理を心から感じることができるように助けてください。

そして、相手を許す心を私に与えてください。どうか私の心を変えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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マタイの福音書 マタイ6章 ルカの福音書 ルカ11章

山上の説教:私たちのニーズのために祈る

私にとって驚くべきことは、この宇宙を支配される神様が、私を愛してくださることです。また、私が些細なことについて祈る時でさえ、神様は私の祈りをしっかりと聞いてくださいます。

イエス様もそのことを教えてくださいました。彼はこう言われました。

だから、こう祈りなさい。。。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。(マタイ6:9,11)

イエス様がこの説教の後半で「心配」について話される時、神様が私たちのニーズをどれほど気にかけてくださるかを教えられます。

つまり、イエス様によれば、神様は私たちが食料や衣類、寝る場所を持っているかどうかを気にかけておられるのです。

もちろん、こういったものを手に入れるためにはお金が必要であり、さらにお金を得るには仕事が必要です。

私たちは、そういったことをよく心配します。

しかし、神様は「そんなことについて心配するな」と言われます。このような心配が私たちの心を支配してはいけません。むしろ神様は、天の父が私たちを愛しておられ、私たちのニーズに備えてくださることを信じるように望まれているのです。

だからこそ、私たちはそのニーズについて祈った後は、神様の手に委ねるべきです。

とはいえ、私たちはどれほど祈ることなく心配してしまうでしょうか。私自身も、そうする時があります。

私たちはこう自問すべきです。「私の天のお父さんが本当に私を愛しておられると信じているだろうか。私の天のお父さんが本当に私のニーズに備えてくださると信じているだろうか。」

もし、そのことを本当に信じるならば、私たちの心配はすぐになくなるでしょう。

あなたはどうでしょうか。あなたはただ心配しているでしょうか。それとも、祈っているでしょうか。

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山上の説教:神の御国。神の御心。

私は、英語のブログでこの箇所について書いたのは4年前でした。その記事を読み返すと、本当に懐かしい気持ちになり、振り返ってみると、神様の良さを見ることができます。

その当時、私は強いフラストレーションを感じていました。家計は悪くはありませんでしたが、理想的な状態ではありませんでした。

また、より良い仕事の機会がありましたが、その面接の日が平日だったため、休暇を取る必要がありました。けれども、なぜか私が勤めていた派遣会社はその休暇のリクエストを断りました。そのため、私は「どうすればいいのだろう」と悩みました。

最終的に、神様の恵みによってその面接に行くことができました。派遣されていた中学校の教頭先生が助けてくださり、派遣会社を説得して私が面接に行けるようにしてくださいました。

その面接に合格し、今ではより良い学校で働いています。

では、この話とこの箇所がどのように関係しているのでしょうか。この箇所で私たちはこう祈ります。

御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6:10)

正直に言うと、その朝、私は本当にストレスを感じていました。派遣会社が不公平だと思ったからです。(その以前、英語のブログ記事で、不公平な世界について書いたことがあったのに。)

以前も言った通り、私は自分の状況をコントロールすることはできませんでした。ただ、私の態度をコントロールすることだけはできました。とはいえ、それは非常に難しいことでした。

最終的に私はこう祈りました。「主よ、あなたの御心が天で行われるように地でも行われますように。天ではあなたの御心が完全に行われています。この地上でも、とりわけこの状況の中で、あなたの御心が完全に行われますように。

もし私がこの仕事を得ることがあなたの御心なら、それは素晴らしいことです。もしそうでないなら、私がそのことを受け入れられるように助けてください。」

さらに私は「御国が来ますように」という祈りも捧げました。

私にとってその仕事を得ることは非常に重要でした。しかし、それ以上に神様の御国は断然重要でした。

その時私が考えていたのは、「この仕事を得れば、もちろん給料が上がるけれど、一番大切なことは、時間が増えて、神の御国のためにもっと何かできるようになることです。」ということでした。

その日、私はこの箇所を読みましたが、6章の終わりまで読み続けました。なぜなら、この箇所でイエス様は「自分の命のことを心配したりしてはいけません」と言われたからです。

その日、私は本当にその言葉が必要でした。そして、この箇所の終わりでイエス様はこう言われました。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)

今、振り返ると、イエス様はその約束を確かに守ってくださいました。

それにもかかわらず、私は今でも時々物事を心配してしまうことがあります。

それでも、神様の恵みによって、私は次のように祈ります。「私の人生において、またこの地上で、あなたの御国が来ますように。あなたの御心が行われますように。」

4年前、私はこう祈りました。

主よ。あなたは私のストレスをすべてご存じです。私の心配もすべてご存じです。でも、あなたはこの全地の主です。

あなたは私の雇い主の主です。そして、もっと大切なのは、あなたが私自身の主であるということです。

どうかあなたの御心が行われますように。私の仕事の状況で、あなたの御心が行われますように。私の将来においても、あなたの御心が行われますように。

私が何よりもあなたの御国に焦点を当てられるよう助けてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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山上の説教:私たちの誉れにふさわしい方

多くの人々は、この祈りを「主の祈り」と呼びます。しかし、実は「弟子の祈り」と呼ぶ方が適切だと思います。なぜなら、この祈りを祈るのはイエス様ご自身ではなく、イエス様の弟子たちだからです。

とにかく、イエス様は、こう言われました。

だから、こう祈りなさい。。。御名があがめられますように。(マタイ6:9)

この箇所では、新改訳聖書の翻訳者は「あがめる」という言葉を使いました。このギリシャ語には確かにその意味があります。

とはいえ、この言葉にはもう一つのニュアンスがあります。それは「聖い」という概念を含んでいます。

そのため、マタイ23:17では「聖いものにする」と翻訳され、ローマ15:16では「聖なるものとされた」と訳されています。さらに、第一テモテ4:5では「聖められる」と訳されています。

つまり、「御名があがめられますように」という祈りの意味は「御名が聖なるものと見なされますように」または「御名が聖なるものとしてあがめられますように」ということです。

もう一つ重要な点があります。聖書時代の文化では、人の名前がその人の性格や本質を表していました。

したがって、「御名が聖なるものとしてあがめられますように」と祈るとき、その意味は「神様ご自身が聖なる方としてあがめられますように」ということになります。

では、私たちが「神様は聖なる方だ」と言うとき、それはどういう意味でしょうか。

基本的には、神様が完全であり、欠点が全くない方だという意味です。神様は全く聖い存在であり、何一つ欠けるところがありません。

その一方で、私たち人間は不完全であり、私たちの性格は全く聖いものではありません。

だから、私たちは神様の完全さと聖さを見ると、神様に畏敬の念を抱くことはふさわしいことです。また、神様の完全さと聖さを見るとき、神様をあがめるのは当然のことです。

けれども、神様をあがめるだけでは十分ではありません。神様を見るとき、私たちは天のお父さんのようになりたいという思いが湧くべきです。つまり、私たちは天のお父さんを喜ばせたいと願い、自分の霊的な不潔と欠点を嘆くのです。

もし、「御名が聖なるものとして、あがめられますように」と祈るなら、罪深い生活を送る余地はありません。「まあ、神様が私を赦してくれるので、罪を犯してもいい」と言うことは全くできません。

もしあなたが本当に神様の子供であるなら、「御名が聖なるものとして、あがめられますように」と祈るとき、その祈りの意味は「神様、私はあなたに畏敬の念を抱きます。あなたを愛しているので、あなたのようになりたいです。どうか私を助けてください」ということです。

そのように祈るなら、神様はその祈りにきっと答えてくださいます。神様はご自身の子供が神様を模倣することを見ると、本当に喜ばれるのです。

そして、もし私たちが罪の泥に落ちるなら、神様は私たちを助けてくださり、イエス様の血によって私たちを清め、導き続けてくださいます。

また、神様は私たちに、神様のように聖い人生を送る力を与え、どのようにそのような生活を送るかを教えてくださいます。

あなたはどうでしょうか。神様に畏敬の念を抱いているでしょうか。そして、天のお父さんのようになりたいと願っているでしょうか。

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山上の説教:私たちのお父さん

一つの記事で主の祈りについて話そうかなあと思ったけれど、結局少しずつ話した方が良いと思いました。

この箇所では、イエス様は神様をどのように呼ぶべきか教えてくださいます。

マタイの福音書では、イエス様は「天にいます私たちの父よ」と祈ります。

ルカの福音書では、イエス様はもっと簡単な表現で「父よ」と祈ります。

実際、日本では、主の祈り以外で「天にいます私たちの父よ」や「父よ」と祈る人はほとんどいないように感じます。

むしろ、私の教会では「天のお父様」と祈る人が多いです。

その理由は正確には分かりません。私の個人的な意見ですが、クリスチャンがこのような呼び方を使うと、少し神様との距離を感じさせるように思います。

もし、「天のお父さん」や「お父さん」と祈れば、イエス様が意図された意味により近づくのではないでしょうか。

なぜなら、イエス様は私たちが神様に親しみを持ち、近づくべきだと教えることを望まれたのだと思います。

もちろん「主よ」と祈ることも良いことです。神様はまさに私たちの主であり、その呼び方はふさわしいものです。ペテロもそのように祈りました。(使徒4:24)

けれども、依然と言ったように、その呼び方は、神様と私たちの間に距離があることを暗示します。もちろん、王様としもべには関係がありますが、親しい関係ではありません。そのしもべは、いつでも王様と話すことができるわけではありません。

しかし、王様の子供は、いつでもそのお父さんと話すことができます。その子は、王に仕えるしもべにはないアクセスを持っています。それに、その子は、父の愛を確信しています。

私たちの天のお父さんは、大いなる王です。神様は、この世界、この宇宙を支配されています。それでも、神様はいつでもあなたのために時間を割いてくださいます。なぜなら、神様はあなたの王だけではなく、あなたのお父さんでもあるからです。

残念なことに、多くの人々は「天のお父さん」と祈っても、その言葉の意味を深く理解していません。なぜなら、彼らの実のお父さんが不完全だったからです。

そのお父さんは、彼らの話を聞いてくれず、愛してくれず、養ってくれなかったかもしれません。また、中にはお父さんから虐待を受けた人もいます。

だから彼らは、その否定的なイメージを天のお父さんに投影してしまいます。

しかし、神様はそのようなお父さんではありません。たとえあなたの実のお父さんが欠点を抱えていたとしても、神様にはそのような欠点はありません。

神様は、あなたを愛してくださいます。神様は、あなたの祈りを聞いてくださいます。神様は、あなたのニーズに備えてくださいます。そして、神様は、決してあなたを捨てられることはありません。

あなたが「天のお父様」と祈るとき、どんなイメージを持っていますか。

もし否定的なイメージを持っているなら、神様があなたの実のお父さんとは異なる存在であることを心に留めてください。そして、次のように祈ることをおすすめします。

神様が、あなたの実のお父さんによって受けた傷を癒してくださるように。あなたが実のお父さんを赦せるように。そして、神様があなたの「天のお父さん」へのゆがんだイメージを正してくださるように祈りましょう。

神様は完全なお父さんです。あなたが天のお父さんを本当に知ることができますように。

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山上の説教:無駄な言葉

祈りは簡単なものです。けれども、ある意味では祈りは難しいものでもあります。

根本的に、祈りとは神様と話すことです。私たちが他の人々と話すように、私たちは神様と話します。

それなら、どうして祈りはそんなに難しいのでしょうか。

おそらく、一つの理由は、私たちが耳で神様の答えを聞くことができないからです。もしモーセのように神様と直接話すことができたなら、祈りはもっと簡単なものになるでしょう。

しかし、私たちがそのように会話することができないために、私たちはしばしば「神様は本当に私の祈りを聞いてくださるだろうか。もしかして、私は間違った方法で祈っているのだろうか」と疑問に思います。

そのため、多くの人々は自然に神様と話すことができず、「祈りの形式」を使用します。つまり、「主の祈り」を彼らの祈りの指針とします。

けれども、祈りはただの形式ではありません。「主の祈り」を通して、私たちは祈りがどんなものか理解し、どんなことについて祈るべきかを知ることができます。

ただし、「主の祈り」は魔法の言葉ではありません。その言葉を言ったとしても、それが必ず神様があなたの言葉を聞かれることを意味するわけではありません。

それでも、多くの人々はそのように考えます。彼らは「主の祈り」をただの形式として使います。なぜなら、「イエス様はそのように祈りなさいと言われたでしょう?」と思うからです。

しかし、イエス様はこう言われました。

また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。

彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。

あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。(マタイの福音書6:7-8)

つまり、神様と普通に話す方が良いのです。特別な言葉は必要ありません。長く祈る必要もないし、美しい言葉を使う必要もありません。そのような祈りは神様を感動させるものではありません。

神様は、あなたの心からの言葉だけを聞くことを望んでおられます。

時々、人々はこう訊きます。「もし、神様が私の願いをするより先に、私に必要なものを知っておられるなら、どうして祈らなくてはならないのでしょうか。」

それは、神様があなたとの親しい関係を望んでおられるからです。もちろん、私たちが話さなくても、神様は私たちの思いをよく知っておられます。そして、私たちが願わなくても、神様は私たちのニーズに備えることがおできになります。

しかし、私たちが祈るとき、私たちは神様と出会い、その関係はさらに親しいものになります。神様は何よりも、そのような関係を望んでおられます。

一方で、私たちが何を言っているか考えずに祈ったり、ただ暗記した言葉を繰り返したりすると、そのような親しい関係を築くことはできません。

神様は、私たちの祈りを聞いてくださいます。そして、私たちが心を開いて聞けば、神様は私たちに語りかけてくださいます。だから、形式的な祈りをやめましょう。むしろ、心から神様と話しましょう。すべての喜び、悲しみ、悩みを神様に伝えましょう。

あなたはどうでしょうか。本当に祈っているでしょうか。それとも、ただ無駄な言葉を繰り返しているだけでしょうか。

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山上の説教:私たちの動機

山上の垂訓において、イエス様はしばしば私たちの心にあるものを指摘されます。

この箇所では、イエス様は、神様が私たちの行動だけでなく、私たちの動機も見ておられると教えます。

それゆえ、イエス様はこう教えます。

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。(1)

そして、イエス様は三つの例を挙げられます。

一つ目は、施しをすることです。その時代、施しをするときに人々に認められたがる人がいました。彼らは、皆の前で貧しい人々にお金を渡しました。

けれども、イエス様は次のように言われました。「そうすれば、神様から報いを受けることはできません。あなたは神様からの報いを求めずに、周りの人々からの誉れを求めたからです。あなたは、すでに周りの人々から報いを受けました。」

次に、イエス様は祈りについて話されました。その時代、周りの人々を感動させるために、大きな声で長い祈りをする人がいました。おそらく、あなたも誰かの祈りを聞いたとき、その人が誰に祈っているのか疑問に思ったことがあるかもしれません。

最後に、イエス様は断食について話されました。断食するとき、自分がかわいそうだという顔をする人がいました。そのため、周りの人々は「あの人は断食している。本当に霊的な人だ」と思ったのです。

しかし、イエス様によれば、神様はそのような断食に対して報いを与えられません。むしろ、神様は周りの人々に見えない行動を褒められます。なぜなら、その行動は神様への愛のために行われたものだからです。

相手を批判するのは簡単なことですが、あなた自身はどうでしょうか。周りの人々があなたについてどう思うかを気にしていないでしょうか。あなたは、自分の霊的な人生を見せたがっているでしょうか。

それとも、あなたは本当に神様と周りの人々を愛しているでしょうか。

周りの人々をだますことはできても、神様をだますことはできません。ただ正しいことをするだけでは十分ではありません。正しい動機が必要なのです。

では、正しい動機とは何でしょうか。それは、神様に対する愛、そして周りの人々に対する愛です。神様の目には、他の理由はまったく重要ではありません。

神様に対する愛も、周りの人々に対する愛も、外に向かうものです。

けれども、私たちの焦点が内に向き、つまり周りの人々が私たちをどう見ているかばかりを考えるようになると、私たちの良い行いは神様の目には価値を失ってしまいます。

実を言うと、私も自分の動機についてよく戦っています。いつも自分自身に問いかけます。

「私は誰を喜ばせようとしているのだろうか。教会でメッセージをする時、私は自分の霊的さで人々を感動させようとしているのだろうか。それとも、神様が本当に私を通して話しておられるのだろうか。私は誰の歓心を買おうとしているのだろうか。」

あなたはどうでしょうか。誰を喜ばせようとしているでしょうか。あなたの動機は何でしょうか。