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イエス様に従う?

イエス様に従うとはどういう意味でしょうか。

この話では、三人の人々が「弟子であることの意味」を知りました。

律法学者がイエス様のもとへ来て、こう言いました。

先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。(マタイ8:19)

この人物は、他の律法学者たちとは異なっていました。多くの律法学者はイエス様に反対しましたが、この人は熱心にイエス様に従おうとしました。

もちろん、熱心であることは良いことです。けれども、イエス様は彼に警告されました。

狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。(マタイ8:20)

要するに、イエス様はこう言われました。

「私は楽な人生を約束しません。私に従うことは時に困難です。あなたが家を離れれば、戻る機会は限られるでしょう。もしかすると、一度も結婚しないかもしれません。それでも、あなたはまだ私に従いたいのですか。」

そして、イエス様は別の人にもこう言われました。

「わたしについて来なさい。」

しかし、その人はこう答えました。

まず行って、私の父を葬ることを許してください。(ルカ9:59)

おそらく、その人の父親はまだ生きていたでしょう。イエス様が「私について来なさい」と言われたのは、葬儀の最中ではなかったはずです。

もしかすると、その父親は病気で死にかけていたのかもしれません。いずれにせよ、あるいはとても元気ではあるものの、年老いていたのかもしれません。いずれにせよ、その人は父親が亡くなるまで待ちたいと考えました。

さらに、その父親がイエス様に反対していたため、その人がイエス様に従うならば、父親に拒絶される可能性もあったのです。

そこで、イエス様はこう言われました。

死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。(ルカ9:60)

おそらく、イエス様が意味されたことは、「霊的に死んでいる者たちが霊的に死んでいる者たちを葬らせなさい」ということだったのでしょう。

時に、人々はこう考えます。「私はクリスチャンになりたくありません。なぜなら、私の両親はすでに亡くなっており、もし私がクリスチャンになるなら、彼らが地獄に行ったと認めなければならないからです。」

しかし、イエス様が伝えたかったのは、あなたにそのことを決定する権限はないということです。霊的に死んでいる者たちがあなたの霊的な運命を決めることを許してはなりません。

また、霊的に死んでいる者のために、神様の働きを避けるべきではありません。なぜなら、あなたが他の霊的な死人に福音を伝えれば、その人は救われる可能性があるからです。

けれども、もしあなたが家族の意見を恐れて福音を伝えないなら、その人々も地獄へ行ってしまうかもしれません。

そのとき、もう一人の人がイエス様のもとへ来て、こう言いました。

主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。(ルカ9:61)

でも、イエス様はその人にこう言われました。

だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。(ルカ9:62)

なぜイエス様はこのように言われたのでしょうか。おそらく、イエス様はその人の心を見抜いておられたからでしょう。

つまり、彼は家族への愛ゆえに、心を尽くしてイエス様に従うことができませんでした。そのため、たとえイエス様について行っても、すぐに家へ戻ってしまうでしょう。

もし私たちがいつも過去を振り返ってばかりいるならば、イエス様に従うことは非常に困難になります。イエス様は私たちの心のすべてを求めておられます。一部分だけを望まれるのではありません。

そのため、時には良いことであっても手放さなければならないことがあります。なぜなら、私たちはより優れたものを求めているからです。

その三人の人々がイエス様の言葉にどのように反応したのか、私たちには分かりません。おそらく、福音書の著者たちは、私たち自身が心を探るように意図したのでしょう。

たとえ困難でも、あなたはイエス様に従うでしょうか。

家族や友人がイエス様に従うことを拒んだとしても、それでもイエス様に従うでしょうか。

イエス様に従うために、すべてを捨てるでしょうか。

もしイエス様が「わたしについて来なさい。」と言われたなら、あなたはどうするでしょうか。

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解放された

これは実に不思議な話だと思います。

嵐の後、イエス様とその弟子たちは湖の向こう側に到着します。そこで彼らは、二人の悪霊につかれた男性に出会います。

(マルコとルカの福音書では、悪霊につかれた一人の男性についてのみ記述されていますが、その理由は分かりません。もしかすると、一人だけがイエス様を信じたのかもしれません。ただし、それは推測にすぎません。)

おそらく、イエス様と弟子たちが浜辺へ漕ぎ寄せる途中で、奇妙な叫び声を耳にしたことでしょう。そして突然、裸の二人の男性が駆け寄ってきます。彼らは腕や足に壊れた鎖をつけていたかもしれません。

そして、弟子たちがよく見ると、彼らの体に多くの傷があることに気づきます。彼らは何度も自分自身を傷つけていたからです。

あなたがその二人を見たら、どのように感じるでしょうか。おそらく私は非常に恐怖を感じたでしょう。

それでも、イエス様は冷静に振る舞い、悪霊たちにその二人から出ていくよう命じられました。

悪霊たちは最初は従わずに叫びます。

神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。

神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。(マタイ8:29;マルコ5:7)

けれども、イエス様がもう一度「出て行け」と命じられると、その悪霊たちはイエス様に懇願します。

もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。(マタイ8:31)

イエス様が「行け」と命じられると、悪霊たちは豚の中に入りました。そして、その豚の群れは湖へ駆け降り、水に溺れて死んでしまいました。

その二人の人々は解放されましたが、町の人々はその光景を見ても喜ぶどころか、逆に恐怖を抱きました。

そのため、彼らはイエス様に「どうかこの地方を立ち去ってください」と懇願しました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

まず第一に、悪霊は実在するということです。そして、悪霊は非常に危険な存在です。

一部の人々は、タロットカードやウィジャ板を使いながら「これはただの遊びだ」と考えるかもしれません。しかし、それらを使うことで私たちは悪霊の影響を受けやすくなります。

ある牧師がこう言っています。「悪霊の世界に通じるドアがあるが、そのドアには取っ手が一つしかありません。それは私たちの側にあります。私たち自身がそのドアを開けるとき、悪霊が私たちの人生に入ることができるのです。」

タロットカードやウィジャ板、占い師などはそのようなドアを表しています。

さらに、悪霊は私たちの益を全く望んでいません。時には光の天使のように装いますが、彼らの本当の目的は私たちを破滅に導くことです。

この箇所では、悪霊がその二人の人々や豚たちにどのように影響を与えたかをよく見ることができます。それは悪霊の意図を明確に示しています。

タロットカードやウィジャ板、占いは一見楽しそうに見えるかもしれませんが、それらの背後には悪霊が潜み、私たちを滅ぼそうとしています。

良い知らせは、私たちはその悪霊を恐れる必要がないということです。悪霊は確かに力を持っていますが、イエス様は彼らをはるかに超えた力を持っておられます。また、悪霊に対して、イエス様は完全な権威をお持ちです。

それでも、オカルトからは距離を置いてください。いつかイエス様と弟子たちのように、あなたも悪霊と向き合うことになるかもしれませんが、悪霊を求めることは決してしないでください。

さらに、この話から私たちが学べるもう一つの教訓があります。

最初、罪は魅力的に見えるかもしれませんが、最終的にその罪はあなたを支配するようになります。

どうして悪霊がその二人に入ったのかは分かりませんが、確かなのは、彼らが神様を求めていなかったということです。

そして、彼らが悪霊にドアを開けてしまった結果、悪霊が彼らに入り込み、彼らは自分自身をコントロールできなくなりました。その代わりに、悪霊が彼らを支配し始めたのです。

そのように、私たちは最初は罪を選んでしまうかもしれませんが、最終的にその罪に支配されることになります。そして、この話にあるように、私たちは自分自身を傷つけてしまいます。

神様が私たちに恵みを与えず、私たちが決して悔い改めないなら、私たちは最終的に滅びてしまうでしょう。

しかし、イエス様は私たちを解放する力を持っておられます。もし私たちが心から悔い改めるなら、イエス様は私たちを赦し、罪に打ち勝つことができるよう助けてくださいます。

ただ、私たちの変化を周りの人々が見たとき、必ずしも喜んでくれるわけではありません。

この話では、町中の人々は喜びませんでした。それどころか、イエス様に「どうかこの地方を立ち去ってください」と願ったのです。

悪霊につかれていた人々は恐ろしい存在でしたが、町の人々はむしろ彼らが解放されなかったほうが良かったと思っていたかのようです。

あなたの周りの人々も、あなたの変化を見たとき、同じように感じるかもしれません。

それでも、イエス様は私たちをその人々のもとに送り出されます。そして、イエス様が彼らに言われたように、私たちにもこう言われます。

家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。(ルカ8:39)

イエス様はあなたを解放してくださいました。神様があなたにしてくださったことを周りの人々に伝えてみませんか。そうすることで、彼らも解放される可能性があります。

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私たちの信仰

イエス様の言葉、「信仰の薄い者たちだ」を読むとき、私はこう思います。「もし、イエス様が私を見ると、イエス様に同じ言葉を言われるかなあ。「ブルース、どうしてあなたの信仰はそんなに薄いか。」」

イエス様の弟子たちの状況についてちょっと考えてみてください。

イエス様が言った通りに、彼らは湖を渡ろうとしました。最初は、湖は静かだったけど、急に大暴風が起こりました。その船は大波にぶつかったし、どう漕いでも、進めることができませんでした。

そして、彼らは思い出しました。「イエス様はここにおられる。どうして、イエス様は何もしてくださらないだろうか。」

彼らはイエス様を見たけど、イエス様は寝ていました。「私たちはすぐに死んでしまうのに、イエス様は寝ているのか。」

だから、彼らはイエス様を起こして、叫びました。「先生。私たちはおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。助けてください。」

その時点で、弟子たちはイエス様から何を期待したのでしょうか。この話の最後で、彼らはイエス様の力に本当に驚きました。だから、何を期待していたでしょうか。

多分、彼らは全然何も期待していませんでした。彼らはイエス様に頼んだけど、「多分イエス様には何もできない」、と思ったでしょう。

でも、彼らが分かったのは、彼らを助ける力を持つ人は、イエス様しかいないということです。だから、彼らの反応には、信仰と不信が入っていました。

どのぐらい、私たちもそのように反応するでしょうか。私たちは自分の問題におぼれているし、私たちはずっと頑張ったけど、最終的に希望がなくなりました。

だから、やっと私たちはイエス様に叫ぶけど、実は、私たちはイエス様が私たちを助けられないと思っているけれど、もうほかの解決が見えないのだと思います。

私たちは信仰をもつ心から叫べずに、恐れから叫びます。

私たちは「イエス様は寝ているの?私たちのことを本当に愛しているだろうか」、と思います。

でも、恵みによって、イエス様は私たちを助けて、優しく叱責します。「どうして、そんなに怖がっているのでしょうか。まだ信仰がないのですか。」

だから、この記事の元の質問に戻ります。どのぐらいイエス様はそのことを私に言うでしょうか。どうして、私はイエス様の愛を疑うでしょうか。イエス様が何回も自分の力を現したのに、どうして私はその力を疑うでしょうか。でも、私はそうします。

私がイエス様を心から信頼できたら、なんと素晴らしいことでしょう。

自分の状況をコントロールできないとき(そもそも私たちにコントロールできることが本当にあるのでしょうか)、私はパニックにならずに、イエス様に信頼して歩むことを願っています。

さらに、信仰をもって、イエス様が私を愛し、私の必要を備えてくださることを信じて生きることを願っています。

あなたはどうですか。それがあなたの願いなのですか。

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恵みと信仰

この二つの箇所をまとめると、私たちはこの話全体を見渡すことができます。

ルカの福音書によると、百人隊長がイエス様の助けを求めた際、実際には百人隊長の代わりにユダヤの長老たちがイエス様に願い出てくれました。彼らはこう言いました

この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。(ルカ7:4-5)

長老たちは、百人隊長について「この人はイエス様の助けをいただく資格があります」と言いました。

けれども、百人隊長自身はこう言いました。

あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。(ルカ7:6-7)

時々、私たちは救いをいただくために、あるいは神様から何かをいただくために、自分には「資格」が必要だと思い込むことがあります。

しかし、恵みはそうした条件とは無縁のものです。恵みとは、「あなたに資格がないにもかかわらず、私はあなたに永遠の命や、その他の必要なものを与えます。あなたがしなくてはならないのは、ただ私に頼むことだけです。」ということです。

だからこそ、私たちは自分自身にこう問いかけるべきです。「私は神様に祈り、信頼する信仰を持っているだろうか。」

時に、私たちは信仰を失い、皮肉っぽくなることがあります。私自身もそう感じることがあります。なぜなら、祈りが必ずしも神様の期待通りに答えられるとは限らないからです。

そんな時、私たちは疑問を抱きます。「祈りには本当に意味があるのだろうか。神様は本当に私の祈りに答えてくださるだろうか。神様には私を助ける力があるのだろうか。神様は私を本当に愛してくださるだろうか。」

けれども、信仰はこう答えます。「神様の良さを信じ続けます。神様は私の最善をよくご存じです。それに、神様には私を助ける力があります。だから、私は祈り続けます。」

百人隊長はそのような信仰を持っていました。彼はこう考えました。

「私はローマ人であり、ユダヤ人は普通ローマ人を嫌っています。だから、私はイエス様の助けをいただく資格がないと思う。

とはいえ、きっとイエス様には私を助ける力があり、さらにイエス様が喜んで私を助けてくださると思う。だからこそ、頼んでみよう。」

その結果、彼のしもべは癒やされました。

イエス様が驚かれることは非常に珍しい出来事です。聖書の中でその記述は二回だけあります。一つは、イエス様の地元の人々がイエス様を信じなかった時(マルコ6:6)です。

そしてこの話では、イエス様はこのローマ人の信仰を見て驚かれました。イエス様は、彼についてこう言われました。

まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。

あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。

しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。(マタイ8:10-12)

この箇所から、もう一つの重要なポイントを学ぶことができると思います。

この百人隊長のように、恵みが必要であると認め、イエス様を信じる人は神の国に入ることができます。私たちは家系の資格によって神の国に入ることはできません。また、私たちの良い行いによって入ることもできません。

むしろ、私たちはこう認めなくてはならないのです。

「私には、あなたから何かをいただく資格はありません。でも、私はあなたを信じます。私はあなたの十字架の働きを信じます。そして、私はあなたが三日目によみがえられたことを信じます。だから、どうか私を救ってください。」

パウロはこう言いました。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8-9)

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私たちを清める方

この箇所を読むと、イエス様の慈悲深さに私は感動します。ツァラアトに冒された人がイエス様のもとに来て、こう願い求めました。

主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。(マタイ8:2)

その時代、ツァラアトに冒された人々は社会から完全に疎外されていました。彼らは自分の家を出て、他の人々から距離を置かなければなりませんでした。

もし誰かが近づいてきた場合、その人は「私は不潔です。近づいてはならない」と叫ばなければならなかったのです。

彼らの人生は、本当に孤独で惨めでした。交わることができる相手は、他のツァラアトに冒された人々だけでした。

しかし、この男性はイエス様のことを聞いたとき、再び希望を感じました。彼はイエス様に近づいて、癒しを願い求めました。

おそらくイエス様は、彼が期待した以上のことを行われました。イエス様は遠くから癒すのではなく、直接彼に触れて癒されたのです。

ユダヤ人の律法によれば、ツァラアトに冒された人に触れると、触れた者も一時的に「不潔」とされました。それに加えて、その病気に感染する可能性もありました。

この男性にとって、数年ぶりに誰かが自分に触れた瞬間だったかもしれません。それは彼にとって、驚きと深い感動をもたらしたことでしょう。

私はその感覚を少し理解することができます。日本人は、アメリカ人ほどハグをしません。私は日本に住んで20年以上経つので、友達にハグされると、今でも少し驚いてしまいます。

そのように、人々はツァラアトに冒された人に触れるのを恐れました。不潔になることを避けたかったからです。

けれども、イエス様がその人に触れたとき、イエス様ご自身は不潔とはならず、むしろ相手を清められました。

同じように、イエス様が私たちを見るとき、私たちの罪によって不潔な状態を見ておられることでしょう。私たちは罪の泥から抜け出すことができず、自己救済も不可能でした。

だからこそ、ツァラアトに冒された人のように、「主よ、お心一つで私をきよくしてください」と願うしかありません。

その願いに応えて、イエス様は手を差し伸べてくださり、私たちに触れ、癒してくださいます。

イエス様がその人の病を癒されたのであれば、私たちの魂を癒してくださらないということがあるでしょうか。

あなたは自分の罪に縛られているでしょうか。あなたは不潔な状態で、自己救済できないでしょうか。

イエス様のみ前に進んでください。イエス様の助けと赦しを心から願い求めてください。そうすれば、あなたは癒されるでしょう。

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私たちを癒やしてくださる方

この箇所では、私たちはイエス様の癒やしの働きを垣間見ることができます。

イエス様がペテロの家を訪ねられた際、ペテロの義理のお母さんを癒してくださいました。おそらくイエス様は初めて安息日に人を癒されましたが、人前では行わなかったため、非難を受けませんでした。

さて、ここでひとつの質問が思い浮かびます。

前回の話では、イエス様が安息日に悪霊をある人から追い出されました。もしその会堂にパリサイ人たちがいたら、イエス様を責めたでしょうか。もしかしたら彼らは、「おい、それはだめだ。別の日に悪霊を追い出しなさい」と言ったかもしれません。

いずれにせよ、この日はイエス様が責められることはありませんでした。安息日が終わると、多くの人が癒しを求めてペテロの家を訪ねてきました。そして、イエス様は皆を癒してくださいました。

マタイはその癒やしについて、こう記しています。

これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」(マタイ8:17)

少し注意が必要です。マタイによれば、イエス様はこの世にいる間、その預言を成就されました。しかし、現在では癒やしの約束はありません。

もちろん、イエス様は今でも人々を癒やすことがおできになりますが、私たちを必ず癒やしてくださるという保証はありません。

さて、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

一つ目は、イエス様の哀れみについてです。イエス様は群衆を愛されましたが、たった一人の女性に対しても愛を示されました。私たちはペテロの義理のお母さんの名前を知りません。それでもイエス様は彼女を癒してくださいました。

あなたはこの世でごく普通の人かもしれません。周りの人々があなたの名前を知らないかもしれません。けれども、イエス様はあなたの名前をよくご存じです。そして、あなたが苦しんでいるとき、イエス様はあなたを見て、あなたを愛してくださいます。

以前も言ったように、神様は私たちを癒やすことを約束されていません。時には神様の見えない計画の一環として、私たちは癒されないこともあります。それでも、イエス様は「私に祈り、頼みなさい」と言われるので、祈り求めるべきです。

とはいえ、もしあなたが感情的な傷を持っているなら、イエス様はその傷をきっと癒してくださると思います。

イエス様が肉体的な病気を通して神様の栄光を現されることはあるでしょう。

しかし、神様はあなたが感情的な重荷を持ち続けることを望んでおられません。だからこそ、その重荷をイエス様の足元に置いてください。そうすれば、癒やしを体験することができます。

この箇所から、もう一つ心に響くことがあります。それは、ペテロの義理のお母さんが癒やされた後、すぐにイエス様に仕えることを始められたことです。

私たちもそのようにするべきです。もしイエス様が私たちを病気や感情的な傷、罪からの傷から癒してくださるなら、私たちが愛と感謝を持ってイエス様に仕えることはふさわしいでしょう。それは義務ではなく、愛に満ちた心からの奉仕です。

多くの場合、神様は私たちが経験した困難を持つ人々を私たちのもとへ導いてくださいます。

イエス様が私たちを癒してくださる理由の一つは、その癒しを周りの人々にも分かち合うためです。

さて、あなた自身はどうでしょうか。その癒しをあなたの周りの人々に分かち合っていますか。