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マタイ1章 マタイの福音書

没我的な人生

「私の人生です。」

「私の権利です。」

「私の幸福です。」

どれほど私たちは、こうした言葉を耳にするでしょうか。どれほど私たちは、そのような言葉を口にするでしょうか。

しかし、ある著者が言ったように、「あなたの人生の中心は、あなたではありません。」

むしろ、あなたの人生の中心は神様です。そして、神様はこの世界に歴史を織り成しておられます。

ヨセフの話を読むとき、この真理を見ることができます。

彼のマリヤに対する反応について考えてみてください。彼らは婚約していましたが、当時の文化では、現代の私たちが考える婚約よりもはるかに強いコミットメントでした。

彼らはまだ一緒に生活しておらず、肉体的な関係もありませんでしたが、ユダヤの律法によれば、婚約を解消するには離婚の手続きをしなければなりませんでした。

けれども、その婚約の期間中に、マリヤは妊娠しました。

ヨセフはどう感じたでしょうか。深く傷ついたことでしょう。裏切られたと感じたかもしれません。怒りに震えたかもしれません。そして、ユダヤの律法によれば、彼にはマリヤを処刑する権利がありました。

しかし、彼の反応を見てみましょう。

夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。(19)

どうやら、ヨセフはもはやマリヤと結婚することを望んでいなかったようです。その状況では、おそらく誰もマリヤと結婚したがらなかったでしょう。

けれども、彼は傷ついても、復讐を望みませんでした。「正義」を主張しませんでした。自分の「権利」を訴えませんでした。

むしろ、彼はマリヤをあわれみました。彼は彼女を公の場で恥さらしにしたくありませんでした。できる限り彼女を守るために、内密に離婚しようと考えました。

マリヤは、自分の妊娠についてヨセフに説明しようとしたでしょうか。一体何が言えるでしょうか。

「誤解しないでください。私はほかの男性と関係を持ったわけではありません。この子は神様によるものです。」

そう言ったとしても、ヨセフがそれを信じるはずがありませんでした。

神様はその状況をよく理解しておられたので、ヨセフのもとに天使を遣わされました。その天使はこう言いました。

ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。(20-21)

ある程度、ヨセフは安心したかもしれません。とはいえ、その責任を拒むのは容易だったでしょう。

なぜなら、もし彼がマリヤと結婚すれば、おそらく彼の評判が傷つくからです。周囲の人々はこう思ったかもしれません。 「ああ、ヨセフは結婚する前にマリヤと関係を持ったに違いない。マリヤだけでなく、ヨセフも悪かったのだ。」

また、ヨセフはこのように答えることもできたでしょう。 「分かっているけれど、私の子ではない。私はこの子のために祈ったことはないし、あなたは事前に私の意見を求めなかった。どうして私がその責任を負わなければならないのか。」

けれども、ヨセフはそのようにはしませんでした。彼はマリヤと結婚しました。噂やさまざまな困難があったにもかかわらず、彼はマリヤと結婚しました。なぜでしょうか。

それは、ヨセフが自分の人生の中心が自分自身ではないことを知っていたからです。

神様がイスラエル、そしてこの世界を救うための計画を立てておられることを理解していました。そして、その計画が自分よりもはるかに大きなものであることも知っていました。

だからこそ、ヨセフは自分の権利や計画を脇に置き、神様とマリヤに仕えることを選びました。そして、その決断を通して、彼は本当の喜びを見出したのだと思います。

あなたはどうでしょうか。自分のために生きているでしょうか。もしそうなら、あなたの人生はむなしいものになるでしょう。しかし、神様のために、神様の目的のために生きるなら、充実した人生を見出すことができます。

イエス様はこう言われました。

いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。(マタイ16:25)

あなたは誰のために生きているのでしょうか。

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罪深い人と同じような形を取られた方

私たちがイエス様の系図を見るとき、二つの注意点があります。

一つ目は、マタイの福音書にある系図が不完全であるということです。つまり、いくつかの王たち(ヨアシュ、アマツヤ、エホヤキムなど)が省略されています。

英語の訳では「誰々は誰々の父である」と翻訳されていますが、この「父」という言葉は「先祖」という意味も含みます。

そのため、例えば「ヨラムにウジヤが生まれた」と書かれていても、実際の意味は「ヨラムはウジヤの先祖である」となります。

二つ目は、多くの学者が、マタイの福音書に記された系図がヨセフの系図であり、ルカの福音書に記された系図がマリヤの系図だと考えている点です。これは、ルカの福音書に「イエス様は人々からヨセフの子だと思われていた」と記されているためです。

そのため、言い換えると、「イエス様は人々からヨセフの子だと思われていたが、実際には彼はヘリの子孫であった」ということになります。

(「父」という言葉が「先祖」を意味するように、「子」という言葉も「子孫」を意味する場合があります。)

実際、この系図の違いについてはさまざまな学説がありますが、それが非常に複雑であるため、ここでそれ以上深掘りすることはしません。😊

さて、この系図を見たときに、私の心に強く響いたことがありました。それは、イエス様がこの世に来られたとき、天から降りてきて「私は神だ!」と宣言するのではなく、私たち罪びとと同じ姿を取られたということです。イエス様は人間となったのです。

イエス様の先祖を見てみましょう。

アダムは完全な世界に造られたのに、罪をこの世に招き入れました。

テラ(アブラハムの父)は偶像を礼拝していました。おそらく彼の先祖たちも同じように偶像を礼拝していたでしょう。

ヤコブは詐欺師でした。

ユダは、義理の娘タマルに騙され、彼女が売春婦だと思ったため、彼女と寝ました。その結果、タマルは双子を産み、そのうちの一人がイエス様の先祖となりました。(創世記38章)

ラハブは、イスラエル人から見れば外国人であり、売春婦でもありました。

ルツもまた外国人であり、モアブ人でした。通常、ユダヤ人はモアブ人を見下していました。(申命記23:3-4)

ダビデは、ほかの人の妻バテ・シェバと関係を持ち、彼女の夫を殺しました。けれども、ダビデとバテ・シェバの間にはソロモン(マタイ1:6)とナタン(ただし預言者ナタンではありません。ルカ3:31)が生まれました。

また、多くのユダの王たちは神様に背を向けました。(例えば、アハズとマナセ)。

イエス様はそのような系図から来られました。 なぜでしょうか。なぜ、別の系図に属されなかったのでしょうか。なぜ、直接天から来られなかったのでしょうか。

ところが、イエス様はそうはされませんでした。むしろ、人間となられて、「私はあなたのようになります」と示されたのです。

また、別の方法でも、イエス様は私たちのようになられました。

彼は特別にハンサムな方ではありませんでした。(イザヤ書53:2)

彼は貧しい家庭にお生まれになり、その父ヨセフが亡くなった後、イエス様は懸命に働いて家族のニーズを支えられました。

イエス様は時々疲れ、時にはお腹がすくこともありました。

彼はさまざまな試練を経験されました。拒絶され、誤解され、虐待され、裏切られ、そして深い苦しみを味わわれました。

それはなぜでしょうか。

そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。

それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。(へブル4:17)

つまり、イエス様は私たちを理解するために人間となられました。イエス様が私たちのことを深く理解されているからこそ、彼は私たちの大祭司として慈悲深いのです。それゆえ、へブル人への手紙の著者は次のように言っています。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:16)

今日、あなたはどのように感じていますか。自分の罪によって落ち込んでいるでしょうか。家族を支えるために、いつも疲れ切っていますか。苦しみの中にいるでしょうか。拒絶されたと感じていますか。傷ついているでしょうか。裏切られた経験がありますか。

その感情をイエス様の前に捧げましょう。イエス様はあなたのことを深く理解されています。そして、イエス様は必ずあなたを助けてくださいます。