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マラキ書

私たちが神様に聞かないと

神様はイスラエル人を責められた後で、彼らに警告されました。

つまり、裁きの日が来ることを警告されます。もし彼らが罪を犯し続けるなら、彼らは裁かれ、救いの希望はなくなります。根も枝も残らない木のように、彼らは滅び尽くされます。

けれども、主を恐れる人には、この世で受けた傷のすべてが癒されます。悪はすべて消え、決して戻りません。だから、彼らの喜びは決して取り去られることはありません。

だから、神様は彼らにこう言われました。

あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を記憶せよ。それは、ホレブで、イスラエル全体のために、わたしが彼に命じたおきてと定めである。(マラキ書4:4)

つまり、「裁きの日が来るので、私が言ったことを覚えていなさい。私の命令に従いなさい。」

もちろん、私たちはもうモーセの律法の下にはおりません。しかし、神様は私たちに命令を与えてくださいました。それは何でしょうか。ヨハネが私たちに教えてくれます。

神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。(第一ヨハネ3:23)

そして、マラキはエリヤの到来を預言します。以前言ったように、バプテスマのヨハネはその預言を成就しました。彼はイエス様の道を整えました。そして、神様はヨハネの到来に関して、こう警告されました。

彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。(6)

2章で、私たちはイスラエル人の結婚の決裂を見ました。イスラエルの主人たちは妻を離婚し、この箇所によれば、父子の関係も決裂していました。私たちの社会のように、その二つの問題は関係があると思います。

マラキ書2章で、神様が言われたように、結婚の一つの目的は神様の子孫が生まれることです。つまり、その子どもは神様に従うのです。

けれども、結婚と家族が壊れたので、父子の関係も壊れ、その子どもの神様との関係も壊れました。

だから、その世代では、親も子どもも神様に聞かず、神様に従わないので、神様の呪いが来ていました。

そのように、この社会が悔い改めないと、結局神様の呪いがこの地を打ち滅ぼします。

あなたはどうですか。どんな心を持っているでしょうか。神様の御言葉に向かっている心を持っているでしょうか。それとも、神様の御言葉を無視しているでしょうか。

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マラキ書

虚しい?

神様に従う私たちの信仰の旅路において、失望を感じる時もあります。そのような時に注意しなければ、私たちは苦々しくなり、皮肉な態度を取ってしまうかもしれません。

イスラエルの民も同じようになりました。彼らは次のように言いました。

神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。

今、私たちは、高ぶる者をしあわせ者と言おう。悪を行なっても栄え、神を試みても罰を免れる。(マラキ書3:14-15)

彼らは、神様が求められたことを行っていたと思ったかもしれません。彼らは安息日に主の宮に行き、いけにえを捧げ、モーセの律法によって定められた祭りを祝いました。

けれども、彼らは神様の祝福を見ることができませんでした。むしろ、神様に従わない人々が繁栄するのを目の当たりにしました。

だから、彼らはこう言いました。「神様に従うことに何の利益があるだろうか。神様に仕えることは虚しい。」

しかし、彼らの問題の一部は、さまざまな宗教的な行いをしても、それらを心から行っていなかったということです。以前、私たちが読んだように、彼らは足のなえたものや病気の動物をいけにえとして捧げました。

それに、神様のすべての命令に従うのではなく、どの命令に従うかを選んでいました。だから、十一献金をきちんと捧げませんでしたし、多くの指導者たちは偶像礼拝する外国人と結婚してしまいました。

それにもかかわらず、彼らは図々しくこう言いました。「あなたが命じた通りに私たちはしたのに、なぜあなたは私たちを祝福してくださらないのですか。」

私たちも同じようなことをするでしょうか。正しいことをしているつもりでも、それを心からしていない。「神様に従っている」と言いながら、実際にはどの命令に従うかを自分で選んでいます。

それでも、「なぜ神様が私を祝福してくださらないのでしょうか」と不満を口にします。

とはいえ、時には、私たちが本当に心から神様に従っているのに、まだ神様の祝福を感じられないこともあります。だから、私たちは「どうして?」と尋ねます。その時、神様は私たちに何と言われるでしょうか。

そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。

「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる――

わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。

あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。(16-18)

つまり、「私はあなたを見て思い出します。私に忠実に仕える者は、私の宝となります。裁きの日には、彼らは恥じることなく私の前に立つことができます。その一方、不実な者は裁かれるでしょう。」

私たちががっかりしてしまう時には、どうすれば良いでしょうか。苦々しく皮肉な者にならないためには、何をすべきでしょうか。

おそらく、最も重要なことは、クリスチャンとの交わりを大切にすることです。あなたの感情を兄弟姉妹と分かち合いましょう。フラストレーションをシェアし、彼らの意見に耳を傾けてみてください。

彼らは、あなたの不実な部分を指摘するかもしれません。また、彼らはあなたを励ますかもしれません。そして、神様の忠実さや将来の報いを思い出させてくれるかもしれません。

けれども、私たちの苦々しく皮肉な思いが、私たちを神様から引き離すことのないようにしましょう。むしろ、イエスに目を留め、最後まで従い続けましょう。

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マラキ書

十一献金

このブログを見た時、「どうして十一献金について書いているのだろう。それは旧約聖書の律法であり、新約聖書にはクリスチャンが十一献金を捧げるべきだとは書かれていない」と考える人もいるかもしれません。

それは確かにその通りです。マラキがイスラエルの民に語った際、彼が話していたのはモーセの律法の下にいる人々でした。

時折、人々はアブラハムがメルキゼデクに十一献金を捧げた出来事を指摘します。

彼らの主張は、ヘブル人への手紙によれば、メルキゼデクがイエス様の象徴であり、さらにアブラハムがモーセの律法以前に十一献金を捧げたことから、クリスチャンも十一献金を捧げるべきだということです。

もしヘブル人への手紙の著者が、クリスチャンが十一献金を捧げるべきだという主張をしているのなら、私はその考えを受け入れるでしょう。

しかし、著者の主張は実際には、イエス様の祭司職がアロンの祭司職よりも優れているという点にあります。

したがって、この箇所を根拠にして「クリスチャンは十一献金を捧げるべきだ」と言うのは少し行き過ぎた解釈だと思います。

それでも、この箇所から献金についての原則を学ぶことができます。この原則はクリスチャンにも適用されます。

第一に、神様はクリスチャンに教会を献金で支えるように命じています。特に私たちの牧師を献金で支えることが求められています。

前述したように、ネヘミヤの時代、イスラエルの民がレビ人を支えなかったため、レビ人は主の宮での務めを諦めざるを得ませんでした。自分の家族を養うために、彼らは田畑に戻り働かなければならなかったのです。

もし私たちの牧師が家族を支えるためにアルバイトをしなければならない状況に置かれるなら、どうなるでしょうか。牧師は疲れ果て、その家族も疲弊するでしょう。

そして牧師が教会の務めに集中できない結果として、私たちも影響を受けることになります。

だからこそ、パウロはこう言いました。

よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。

聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない」、また「働き手が報酬を受けることは当然である」と言われているからです。(第一テモテ5:17-18)

それは新約聖書の教えです。

さらに、第一コリント9:7-12によれば、パウロとバルナバは自分たちのミニストリーのために報酬を受け取ることをしませんでした。むしろ、彼らは別の仕事をして自分自身を支えました。

それでも、パウロが主張したのは、「私たちはミニストリーの働きのために給料を受け取る権利を持っている」ということです。

それゆえ、マラキ書では神様がイスラエルの民に次のように言われました。

十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。(マラキ書3:10)

その食べ物は神様のためではありません。神様は食べ物を必要とされないからです。それは、宮で働いていた祭司たちとレビ人たちのためのものでした。

もう一つ重要なポイントがあります。時々、クリスチャンはこう言います。「これは私のお金です。だから、もし十一献金が神様の命令でないなら、私は教会に何も与えません。」

しかし、心に留めてください。クリスチャンであるあなたの人生は神様のものです。あなたは、イエス様が代価を払って買い取られた者です。その代価は十字架で流されたイエス様の尊い血です。

だから、あなたの持ち物は、実のところキリストのものです。あなたはイエス様から託された管理人です。

つまり、あなたのお金はあなた自身のものではありません。それは神様のものです。

タレントのたとえ話(マタイ25:14-30)から、その真理を学ぶことができます。

多くのクリスチャンがこの話を読むとき、霊的な賜物について考えます。けれども、神様は私たちにお金を儲ける能力も与えてくださっています。だから、私たちがそのお金をどのように使うのかを神様は問われます。

イスラエルの民がその真理を思い出すために、神様は彼らに悪い作物を与えられました。そして、神様は彼らにこう言われました。

「あなたたちは私のものを取り、それをただ自分自身のために使っています。だから、あなたたちは苦しんでいる。

しかし、もしあなたたちがそのものが本当に私に属することを覚えていたなら、私はあふれるばかりの祝福をあなたたちに注いでいたことでしょう。」

あなたはどうですか。あなたは自分のお金があなた自身に属すると考えていますか。ただ自分の目的のために使っていますか。

あなたが誰に属しているかを思い出しましょう。そして、あなたのお金が神様に属していることを心に留めましょう。

10%が神様のものなのではありません。100%が神様のものです。

そのお金を神様の目的のために使っていますか。

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正義はどこだろうか

多くの人々は、「もし神様が良いお方なら、どうしてこの世に悪があふれているのだろう。もし神様が正義の神なら、この世の正義はどこにあるのだろう」と問いかけます。

その疑問は決して新しいものではありません。マラキの時代にも、イスラエルの民は同じ質問を神様に投げかけました。そして、神様はこう言われました。

あなたがたは、あなたがたのことばで主を煩わした。しかし、あなたがたは言う。「どのようにして、私たちは煩わしたのか。」

「悪を行なう者もみな主の心にかなっている。主は彼らを喜ばれる。さばきの神はどこにいるのか」とあなたがたは言っているのだ。(マラキ書2:17)

神様は彼らの文句に、どのように答えられたのでしょうか。

「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。

あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている」と万軍の主は仰せられる。(3:1)

つまり、「あなたたちは、私がどこにいるのかを訊いています。あなたたちは、なぜ私がこの世の不正義を扱わないのかを問うています。けれども、私はすぐに来ます。あなたの宮に、私は現れます。」

イエス様がこの世に来られたとき、その預言が成就しました。また、イエス様の道を整えた使者はバプテスマのヨハネでした。

しかし、神様は心に刺さるような質問をされます。

だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現われるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。(3:2)

つまり、「あなたは私が来て正義を行うことを待っています。あなたは私が遅いと文句を言っています。けれども、私が来る準備ができているでしょうか。

私が来るとき、銀と金を清める火のように来ます。また、私はすべての罪を清める灰汁のように現れます。

私が来る時、あなたはその前に立つことができるでしょうか。」

そして、神様はご自身に属する祭司たちにこう言われました。(クリスチャンとして、あなたが神様の祭司であることを思い出してください。)

「私はあなたを清め、製錬します。」

けれども、神様はこう言われました。

「わたしは、さばきのため、あなたがたのところに近づく。

わたしは、ためらうことなく証人となり、呪術者、姦淫を行なう者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人をしいたげ、やもめやみなしごを苦しめる者、在留異国人を押しのけて、わたしを恐れない者たちに、向かう。――万軍の主は仰せられる――」(3:5)

つまり、「裁きの日が来ます。罪を犯す者はすべて裁かれます。だから、もう一度私は尋ねます。あなたはその日のために準備ができているでしょうか。」

だから、人が神様の正義を疑う時、こう伝えてください。

「まず、あなたが何を言っているかをよく考えてみてください。あなたは神様がすべての悪を取り除くことを望んでいますか。

もし、あなたの中に小さな悪があったとしても、それも取り除かれるべきです。

あなたは完全な人間ですか。過去に悪いことをしたことがありませんか。あなたは自分自身が裁かれることを本当に望むのでしょうか。」

では、なぜ神様はまだこの世を裁いていないのでしょうか。それは、神様が可能な限り多くの人々が悔い改めることを待っておられるからです。

だから、神様はこう言われます。

主であるわたしは変わることがない。ヤコブの子らよ。あなたがたは、滅ぼし尽くされない。

あなたがたの先祖の時代から、あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった。(3:6-7)

つまり、「あなたたちは、長い間ずっと私の命令を破り続けてきました。そのため、本来ならあなたたちはすでに裁かれ、滅びていたはずです。

しかし、私は忍耐強く、憐れみ深い神であるがゆえに、あなたたちはまだ滅びていないのです。

ただし、私の忍耐を不正義と混同してはなりません。裁きの日は必ずやって来るのです。」

あなたはその日のための準備ができていますか。

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妻を裏切る

多くの人々にとって、離婚は本当に辛いトピックです。

アメリカでは、離婚率は約50%と言われています。クリスチャンの結婚でも、離婚率はほぼ同じくらいです。

一方、日本では離婚率は比較的低いものの、徐々に上昇傾向にあります。

この箇所では、神様は二つの重要なことについて語られます。まず最初に、神様はこう言われました。

私たちはみな、ただひとりの父を持っているではないか。ただひとりの神が、私たちを創造したではないか。なぜ私たちは、互いに裏切り合い、私たちの先祖の契約を汚すのか。

ユダは裏切り、イスラエルとエルサレムの中では忌まわしいことが行なわれている。まことにユダは、主の愛された主の聖所を汚し、外国の神の娘をめとった。(マラキ書2:10-11)

エズラ記とネヘミヤ記によると、祭司たちと他の指導者たちまでもが外国人と結婚し始めました。

では、なぜそれが大きな問題だったのでしょうか。それは、その外国人が再びイスラエル人を偶像礼拝へと導いていたからです。

偶像礼拝の結果、以前イスラエル人はバビロンに追放されるという辛い歴史を経験しました。

ネヘミヤはその状況を目の当たりにして、激しい怒りを覚えました。そして、イスラエル人を厳しく叱責しました。

イスラエルの王ソロモンは、このことによって罪を犯したではないか。多くの国々のうちで彼のような王はいなかった。

彼は神に愛され、神は彼をイスラエル全土を治める王としたのに、外国の女たちが彼に罪を犯させてしまった。(ネヘミヤ記13:26)

ネヘミヤのポイントは何だったのでしょうか。

それは、神様に従わない人々の影響によって、たとえ強い信仰を持つ者であっても神様に不実になる可能性があるということでした。

だからこそ、クリスチャンがノンクリスチャンと結婚することは非常に危険なのです。そのため、神様はイスラエルの民に偶像礼拝をしている人々と結婚することを禁じられました。

しかし、その結婚に関してはさらに深刻な問題がありました。そのことについて、マラキはこう言いました。

あなたがたはもう一つのことをしている。あなたがたは、涙と、悲鳴と、嘆きで主の祭壇をおおっている。主がもうささげ物を顧みず、あなたがたの手から、それを喜んで受け取らないからだ。

「なぜなのか」とあなたがたは言う。

それは主が、あなたとあなたの若い時の妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。(マラキ書2:13-14)

イスラエル人は、「どうして神様は私たちに反対するのだろうか。どうして神様は私たちの捧げ物を喜んで受け取らないのだろうか」と疑問に思いました。

神様はその理由をはっきりと説明されました。

それは、彼らが偶像礼拝をする人々と結婚しただけでなく、そのために、自分の妻を裏切り離婚してしまったからです。

しかし、妻との誓いを破る時、彼らは神様も裏切ることになったのです。なぜなら、彼らは神様の前でその誓いを立てたからです。そのため、神様は「私はあなたとあなたの妻との証人だ」と言われました。

また、神様はこう言われました。「私が結婚を作りました。あなたが結婚した時、私はあなたとあなたの妻を一体に造りました。だから、夫と妻は互いに属し合い、そして神様にも属します。」

ヘブル語での15節の意味は少し複雑です。英語の翻訳をいくつか比較すると、さまざまな解釈が見られます。

おそらく日本訳での理解は次のようになるでしょう。神様はアダムとエバを造られた時、結婚によって彼らを一体にされました。(創世記2:24)

その一体の中に神様の霊が宿っていました。そして、彼らが望んでいたのは、また神様が望んでいたのは、「神の子孫」でした。

アダムとエバの希望は、彼らの子孫を通して救い主が来ることでした。(創世記3:15)だから、彼らは神様に従う子供たちを望んでいました。

さらに、神様の計画によれば、親たちを通して子供たちは神様がどのような方であるかを知り、どうやって神様と強い関係を築くことができるかを学ぶのです。

しかし、離婚は子供にとても悪い影響を与えます。離婚は子供の結婚観や神様に対する考え方を歪めてしまいます。

神様はご自身を私たちの天の父として示されます。けれども、離婚の場合、多くの子供たちはそれを正しく理解することができません。なぜなら、彼らは自分の父親とほとんど会うことができないからです。

そのため、「神様は私たちの天の父だ」と聞いた時、悪いイメージを抱いてしまいます。彼らは「神様は約束を守らない。私が神様を必要とする時、神様は決してそこにいない」と感じるのです。

そして、神様は離婚についてご自身の感情を明確に語られます。

「わたしは、離婚を憎む」とイスラエルの神、主は仰せられる。(16)

新改訳聖書において、次の言葉はこのように訳されています

「わたしは、暴力でその[夫の?]着物をおおう」と万軍の主は仰せられる。(16b)

その翻訳は、少しわかりにくいかもしれません。けれども、おそらく、その意図するところは、神様がその夫を裁くことだということでしょう。

一方、口語訳は英語の翻訳により近いものとなっています。

(わたしは、)しえたげ(つまり、虐げ/暴力)をもってその衣をおおう人を憎むと、万軍の主は言われる。(16b)

どの翻訳においても、神様の要点は非常に明確であると言えます。神様は離婚を憎まれます。姦淫を憎まれます。妻への虐待を憎まれます。そして、妻を裏切ることをも憎まれます。

興味深い点として、神様は妻ではなく夫を責められることがあります。おそらく、その理由の一つは、その時代において夫だけが離婚を行う権利を持っていたからでしょう。

けれども、もう一つ別の理由として考えられるのは、神様が結婚を守る主な責任を夫に託しておられるということです。聖書を通じて、この原則を見いだすことができます。ペテロは次のように書きました。

同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。

それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。(第一ペテロ2:16)

マラキの時代、夫たちは妻を離婚したり、妻を虐待したりしていた可能性があります。そのため、神様は彼らを厳しく叱責されました。

あなた自身はいかがでしょうか。あなたは妻を裏切るような行為をしていませんか。また、あなたは夫を裏切るような行動を取っていませんか。

私たちの伴侶に忠実でいましょう。そして、私たちを結び合わせてくださる神様に誠実に歩み続けましょう。

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祭司としてのあなたの役割

あなたはこのタイトルを見て、「私は祭司じゃない。この箇所は私には無関係だ」と思うかもしれません。

けれども、もしあなたがクリスチャンであるならば、あなたは神様の祭司です。ペテロは私たちについて次のように語りました。

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。

それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(第一ペテロ2:9)

だから、クリスチャンとして、マラキ書2章は私たちにも深く関連があります。

この箇所で、神様は祭司たちを責められました。なぜなら、彼らは神様から与えられた務めを忠実に果たしていなかったからです。

しかし、他のユダヤ人と同様に、彼らの最大の問題は、自分の人生で神様を敬わなかったことにありました。

それにもかかわらず、彼らは祭司であったため、神様は特に厳しく彼らを責められました。祭司として、彼らには他のユダヤ人よりも大きな責任があったのです。

その中で、神様は祭司たちと結んだ契約について語られました。その契約は「いのちと平和である」契約でした。(申命記25:12-13)

そして、神様は彼らにこう言われました。

わたしの彼との契約は、いのちと平和であって、わたしは、それらを彼に与えた。それは恐れであったので、彼は、わたしを恐れ、わたしの名の前におののいた。

彼の口には真理の教えがあり、彼のくちびるには不正がなかった。平和と公正のうちに、彼はわたしとともに歩み、多くの者を罪から立ち返らせた。

祭司のくちびるは知識を守り、人々は彼の口から教えを求める。彼は万軍の主の使いであるからだ。(マラキ書2:5-7)

神様の祭司として、神様は私たちに何を求めておられるのでしょうか。神様は私たちにその答えをはっきりと教えてくださいます。

まず第一に、私たちは神様を恐れ、神様の名前におののくべきだということです。つまり、私たちは神様を深く敬うべきなのです。

確かに、神様は私たちを友と呼んでくださいますが、神様は私たちの友達だけではありません。昨日のブログで述べたように、神様は私たちの王であり主でもあります。

クリスチャンの牧師ゴードン・マクドナルドはこう語りました。「私が少しでも神様を恐れることをやめた時、最悪の罪を犯してしまいました。」

神様の祭司として、私たちはそのようになってはいけません。

第二に、私たちは平和と公正のうちに神様と共に歩むべきだということです。このことは、第一のポイントから自然に導かれます。もし私たちが神様を深く敬うならば、平和と公正のうちに神様と共に歩むことができるでしょう。

残念ながら、マラキの時代の祭司たちはそうしませんでした。彼らは神様を恐れることをやめてしまったため、自分たちの要らなくなった足の不自由なものや病気のものをいけにえとして捧げました。

では、神様の祭司として、私たちの役割は何でしょうか。

それは、周りの人々に神様の道を教えることです。私たち自身がその道を歩むことで、周りの人々が私たちの生き方を通して神様を見ることができるようになるはずです。また、彼らが私たちを通じて神様の御教えを求めるようになるでしょう。

けれども、私たちが神様を深く敬わなければ、彼らはそのようにはしないでしょう。

さらに、私たちの唇は神様の言葉を守るべきです。

ただし、私たちが神様の言葉を知らなければ、そうすることはできません。だからこそ、私たちは神様の言葉を学び続ける必要があります。その結果、私たちは知っていることを周りの人々と分かち合うことができます。

この役割は牧師だけのものではありません。あなたも神様の祭司ですから、それはあなた自身の役割でもあります。

そして、私たちは周りの人々を罪から立ち返らせるべきです。彼らが罪に陥り、悪い道を進んでいる時、私たちはそれを見て見ぬふりをしてはなりません。私たちは彼らに警告を与えるべきです。

彼らがその警告を受け入れるかどうかは分かりません。場合によっては無視されるかもしれません。それでも、神様は私たちが彼らに警告を与えることを命じておられます。(エゼキエル記33:7-9)

マラキの時代の祭司たちは大いに失敗しました。彼らはユダヤ人を罪から立ち返らせず、神様の道を教えませんでした。むしろ、彼らの教えによってユダヤ人はつまずいてしまいました。

さて、あなた自身はどうでしょうか。あなたはどのような祭司でしょうか。

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神様が値するもの

この箇所で、私たちはユダヤ人の主な問題を目にします。その問題はユダヤ人のすべての行動に影響を与えました。

では、その問題は何だったのでしょうか。それは、彼らが神様を敬わなかったことです。神様に対する畏れを全く持っていませんでした。神様は大いなる方であり、大いなる王であるにもかかわらず、ユダヤ人はそのようには考えていなかったのです。

そのため、神様は彼らにこう問いかけられました。

子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。(マラキ書1:6)

驚くべきことに、祭司たちはこう尋ねました。「一体何を言っているのでしょうか。どのように私たちはあなたを敬わなかったのでしょうか。どのように私たちはあなたの名前を軽んじたのでしょうか。」

おそらく、彼らはこう考えたのでしょう。「私たちはきちんと仕事をしている。いけにえも捧げている。やるべきことはやっている。この上、神様は一体何を求めておられるのだろう。」

けれども、神様はこう答えられました。

あなたがたは、盲目の獣をいけにえにささげるが、それは悪いことではないか。足のなえたものや病気のものをささげるのは、悪いことではないか。

さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたをよみし、あなたを受け入れるだろうか。――万軍の主は仰せられる――(8)

神様は律法をモーセとイスラエルの民に与えた際、いけにえには傷のない健康な動物を求められました。

ところが、ユダヤ人は神様を敬わず、自分たちが要らない足の不自由なものや病気のものをいけにえとして捧げました。

そのため、神様はこう言われました。

「あなた方は、総督を私以上に敬っている。私はあなたの王であるにもかかわらず。あなたの総督は最も良い物しか受け入れないのに、どうして私がこのような劣った物を受け入れると思うのだろうか。」

それに対し、ユダヤ人はこう言いました。

主の食卓は汚れている。その果実も食物もさげすまれている。。。見よ。なんとうるさいことか。(12-13)

彼らは愛を持って捧げ物をすることはありませんでした。むしろ、捧げ物をすることは彼らにとって面倒な義務となっていました。その結果、彼らは神様を敬わず、その行動によって神様を軽んじました。

しかし、神様は彼らにこう言われました。

わたしが大いなる王であり、わたしの名が諸国の民の間で、恐れられているからだ。(14)

あなた自身はどうでしょうか。神様についてどのように考えているでしょうか。私たちは、神様との関係の中でバランスを取ることが必要です。

イエス様は、「わたしはあなたがたを友と呼びました」と語られました。(ヨハネ15:15)

多くのクリスチャンにとって、その真実は心を打つものです。王の友となることは素晴らしい特権です。

けれども、私たちはイエス様が大いなる王であることを忘れてはなりません。イエス様は私たちの王として、私たちの敬いを受けるにふさわしい方です。

ですから、私たちは最も良いものをイエス様に捧げるべきです。それは、私たちのお金だけではなく、私たちの時間や人生も含まれます。

あなたは、神様に何を捧げているでしょうか。神様がふさわしいとされる敬いを捧げているでしょうか。

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神様の愛を疑う

マラキ書は旧約聖書におけるイスラエルの歴史の締めくくりとなる書です。

以前述べたように、マラキ書が正確にいつ書かれたのかは明確ではありません。けれども、主の宮が建て直された後に書かれたものと考えられます。したがって、おそらくマラキ書はエズラとネヘミヤの時代に記されたものでしょう。

エズラ記とネヘミヤ記を通して、私たちはイスラエルの民が直面していた多くの問題を読みました。特に、ネヘミヤ記13章では彼らの抱えていたさまざまな問題が詳しく描かれています。

マラキも、これらの問題についてイスラエルの民を責めました。

その冒頭で、神様は非常に印象的な言葉を語られます。

わたしはあなたがたを愛している。(マラキ書1:2)

私たちの多くは愛を求めています。残念なことに、多くの人々はその愛を決して見つけることができません。

しかし、もし神様を求めるならば、それはただの愛ではなく、永遠に続く絶えることのない愛を見つけることができるでしょう。

わたしはあなたがたを愛している。

あなたがどんな苦しみを抱えていても、どんな罪を犯していても、どんな失敗をしていても、神様の愛は決して変わることはありません。

神様は過去においてもあなたを愛していました。

現在も、神様はあなたを愛しています。

そして、これからも永遠に、神様はあなたを愛し続けられるのです。

けれども、イスラエルの民はそのことを理解していませんでした。そのため、彼らは皮肉っぽく答えたのです。

どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。(2)

どうして、彼らはその質問をしたのでしょうか。それは、神様が彼らをご自身の国に導いたにもかかわらず、彼らの人生はまだ上手くいっていなかったからです。

ペルシャ帝国が依然としてイスラエルを支配しており、イスラエルの地はあまり繁栄していませんでした。彼らの作物の収穫は乏しく、日々の生活は余裕のない厳しいものでした。

私たちもどれほど神様の愛を疑うでしょうか。

「もしあなたが私を愛しておられるなら、なぜ私はこんなにも苦しまなければならないのでしょう。もしあなたが私を愛しておられるなら、なぜ私の人生はこんなにみじめなのでしょう。」

しかし、神様はご自身の愛を証明するために、イスラエルの民、そして私たちにこう言われます。

エサウはヤコブの兄ではなかったか。――主の御告げ――わたしはヤコブを愛した。わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、彼の継いだ地を荒野のジャッカルのものとした。(2-3)

「エサウを憎み」というのはどういう意味でしょうか。神様が本当にエサウを憎んだのでしょうか。そうではありません。実際、神様はエサウを祝福されました。(創世記33:9)

とはいえ、神様がイエス様をこの世に送る計画を考えると、神様がエサウの家系ではなく、ヤコブの家系を選び、エサウの家系を断絶したことがわかります。

では、なぜでしょうか。ヤコブがエサウよりも良い人だったからでしょうか。

違います。実は、ヤコブは若い頃、詐欺師のような生き方をしていました。彼は神様の道を歩まず、自分勝手な道を選びました。(創世記25:27)

そして、その結果として悪い決断を重ね、自分の家を追われることになりました。

その時、神様はご自身をヤコブに現されました。それにもかかわらず、ヤコブは神様に自分の人生を捧げることをせず、神様と交渉しようとしたのです。(創世記28:20-22)

ヤコブは長い間、そのような生き方を続けました。それでも神様はヤコブを選び、愛し、彼の人生に働きかけ続けられました。

同じように、神様はイスラエルの民を愛されました。たとえ彼らが神様に不実であり、自分勝手な道を歩んでも、神様は彼らを愛し続けられました。

当然ながら、神様は彼らを懲らしめられました。そのため、彼らはバビロンに追放されました。けれども、彼らが破滅に値していたにもかかわらず、神様は彼らを憐れまれました。

一方、エサウの子孫も罪を犯し、破滅に値していました。しかし、エサウの子孫の場合、神様は彼らに彼らが値するものを与えました。すなわち、荒れ果てた地を与えられました。

神様が言われたのは次のようなことです。

「あなたに対する私の愛の証明を見たいのか。私はエサウの子孫には彼らが値したものを与えた。その一方、あなたには値するものを与えなかった。むしろ、あなたが値しない恵みを与えたのだ。」

私たちが神様の愛を疑う時、神様は同じことを言われます。私たちは神様の愛に値せず、また赦しにも値しません。しかし、神様は私たちが値しないにもかかわらず、イエス様を送り、私たちの罪のために死んでくださいました。

だから今、神様は私たちにこう語られます。「私はあなたを選んだ。私はあなたを救った。私は決してあなたを見捨てない。」

これが恵みです。これこそが神様の愛です。

パウロはこう言いました。

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ[た]。(エペソ1:4-8)