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イエス様について行くように呼ばれた

しばらく聖書の部分を飛ばしてしまっていたので、今日はその箇所に戻りたいと思います。実は、これは非常に重要な箇所です。この箇所では、イエス様が初めて弟子たちを招かれました。

以前にもお話ししましたが、福音の出来事を年代順に進めようとしています。とはいえ、時にはその順番を推測しなくてはならない場合があります。

おそらく、このルカの箇所の出来事が最初に起こり、その2~3日後にマルコとマタイの出来事が起こったのだと思われます。

ある日、イエス様は群衆を教えようとされました。けれども、群衆がイエス様に押し迫ってきたため、イエス様はペテロとその仲間の船をご覧になり、すぐにその船に乗られ、彼らに陸から少し漕ぎ出すように頼まれました。そしてイエス様は、その船から群衆に教えられました。

ペテロとその仲間たちが進んでイエス様を助けたかどうかは分かりません。彼らは徹夜で漁をしていましたが、何も獲れませんでした。イエス様が彼らを呼ばれたとき、彼らは網を洗っているところでした。

おそらく彼らは、網を洗い終えたら帰ってすぐに眠ろうと思っていたのではないでしょうか。それでも彼らはイエス様を助けました。

その後、イエス様が教え終えられると、ペテロとその仲間に「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われました。

ペテロにとってそれは限界でした。彼は疲れ果てており、これ以上漁をしたいとは思っていませんでした。さらに、経験豊富な漁師である彼にとって、大工であるイエス様からの漁についての指示を受けるのは気が進まなかったのではないでしょうか。

それでも、ペテロはこう答えました。

先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。(ルカ5:5)

おそらく、イエス様はその言葉を聞いた時、何も言われずに、ただペテロをじっと見つめて待っておられたのでしょう。そうしている間に、結局ペテロは口ごもりながら言いました。

でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。(ルカ5:5)

だから、ペテロとその仲間たちは恥ずかしさを感じながら漁に出ました。なぜ彼らが恥ずかしかったのでしょうか。それは、誰も昼間に漁をすることがなかったからです。魚がいるはずがないと考えられていたためです。

おそらく、他の船に乗っている友人たちは笑ったかもしれません。「ペテロは愚かだね。なぜその大工の言葉に従うんだろう」と思った可能性もあります。

しかし、ペテロたちが網を下ろした時、大量の魚が網にかかりました。魚が多すぎたため、ペテロは他の船の友人たちを呼んで助けを求めました。それでも魚はあまりにも多く、二つの船が沈みそうになりました。

最初のうち、ペテロは大いに興奮したことでしょう。けれども、すぐに彼は自分たちの目の前で何が起こったのかを実感しました。そして、イエス様が普通の先生ではないことを悟りました。だから、ペテロはイエス様の足もとにひれ伏し、大声で言いました。

主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。(ルカ5:8)

でも、イエス様はこのように答えられました。

こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。(10)

これはあくまで私の推測ですが、もしかすると、ルカは話を少し簡潔にまとめたのかもしれません。そしてその後、皆が自宅に戻った可能性があります。

おそらく、イエス様は彼らにその日体験したことやご自分の言葉を深く考えてほしいと思われたのではないでしょうか。

そして翌朝、ペテロとアンデレが漁をしているのを見られた時、またヤコブとヨハネが網を繕っているのを見られた時、イエス様は改めて彼らを招かれました。

わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。(マタイ4:19)

その時、彼らはすべてを捨てて、イエス様に従い始めました。

この話から、私たちはどんな教訓を学べるでしょうか。

まず第一に、イエス様の恵みがペテロの失敗と罪を覆ったように、その恵みは私たちの失敗と罪も覆います。イエス様はペテロの罪を責めることはせず、むしろ新しい人生を始めるようにペテロを招かれました。

第二に、イエス様に従うために特別な資格は必要ありません。神学校に行く必要もありません。ペテロとその仲間たちは特別な教育を受けていませんでした。それでも、イエス様は彼らを弟子として招かれました。

第三に、最も重要なのは、イエス様を信頼し、イエス様の言葉に従うことです。たとえイエス様の言葉を完全に理解できなくても、「あなたがお命じになるので、私は従います」という信仰と従順の態度を取るべきです。

また、イエス様に従うために、私たちが愛するものを喜んで手放す態度を持つべきです。

最後に、イエス様の弟子として、イエス様の働きに参加する姿勢を持つべきです。つまり、人々を神様の御国へ導くことです。

あなたはペテロとその仲間たちの模範に従いますか。イエス様からの召しに応えますか。

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私たちを清める方

この箇所を読むと、イエス様の慈悲深さに私は感動します。ツァラアトに冒された人がイエス様のもとに来て、こう願い求めました。

主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。(マタイ8:2)

その時代、ツァラアトに冒された人々は社会から完全に疎外されていました。彼らは自分の家を出て、他の人々から距離を置かなければなりませんでした。

もし誰かが近づいてきた場合、その人は「私は不潔です。近づいてはならない」と叫ばなければならなかったのです。

彼らの人生は、本当に孤独で惨めでした。交わることができる相手は、他のツァラアトに冒された人々だけでした。

しかし、この男性はイエス様のことを聞いたとき、再び希望を感じました。彼はイエス様に近づいて、癒しを願い求めました。

おそらくイエス様は、彼が期待した以上のことを行われました。イエス様は遠くから癒すのではなく、直接彼に触れて癒されたのです。

ユダヤ人の律法によれば、ツァラアトに冒された人に触れると、触れた者も一時的に「不潔」とされました。それに加えて、その病気に感染する可能性もありました。

この男性にとって、数年ぶりに誰かが自分に触れた瞬間だったかもしれません。それは彼にとって、驚きと深い感動をもたらしたことでしょう。

私はその感覚を少し理解することができます。日本人は、アメリカ人ほどハグをしません。私は日本に住んで20年以上経つので、友達にハグされると、今でも少し驚いてしまいます。

そのように、人々はツァラアトに冒された人に触れるのを恐れました。不潔になることを避けたかったからです。

けれども、イエス様がその人に触れたとき、イエス様ご自身は不潔とはならず、むしろ相手を清められました。

同じように、イエス様が私たちを見るとき、私たちの罪によって不潔な状態を見ておられることでしょう。私たちは罪の泥から抜け出すことができず、自己救済も不可能でした。

だからこそ、ツァラアトに冒された人のように、「主よ、お心一つで私をきよくしてください」と願うしかありません。

その願いに応えて、イエス様は手を差し伸べてくださり、私たちに触れ、癒してくださいます。

イエス様がその人の病を癒されたのであれば、私たちの魂を癒してくださらないということがあるでしょうか。

あなたは自分の罪に縛られているでしょうか。あなたは不潔な状態で、自己救済できないでしょうか。

イエス様のみ前に進んでください。イエス様の助けと赦しを心から願い求めてください。そうすれば、あなたは癒されるでしょう。

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英気を養い、焦点を合わせ直す

イエス様は、ミニストリーを始めたとき、可能な限り多くの人々に触れ、天の父の心に従って歩まれました。

それでも、イエス様は決して燃え尽きることはありませんでした。

私自身、燃え尽きた経験がありますが、それは決して楽しいものではありませんでした。けれども、イエス様は一度もそのような状態にはなられませんでした。

群衆に触れ続け、自分の弟子たちを訓練される中で、燃え尽きるのは容易であったはずなのに、イエス様が燃え尽きることがなかったのはなぜでしょうか。

その答えは、この箇所に隠されていると思います。

さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコ1:35)

イエス様は神でしたが、ご自身の力と知恵に頼られることはありませんでした。むしろ、イエス様は完全に天の父に頼られました。

また、イエス様が群衆から離れたとき、彼は英気を養い、自分の焦点を新たにされました。けれども、それは具体的にどういう意味なのでしょうか。

そのとき、イエス様は天の父がご自身を愛しておられることを思い出されました。また、天の父がご自身に何を望んでおられるのかを思い起こされたのです。

多くの人々は、しばしばイエス様の時間を取ろうとしました。ルカはこう記しています。

朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。(ルカ4:42)

でも、イエス様が彼らの要求に譲らない時もありました。むしろ、イエス様は天の父の御声に聞き従いました。だから、イエス様は群衆にこう言われました:

ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。(43)

私の経験では、ミニストリーで燃え尽きる原因は二つあると思います。

一つ目は、その人がいつも他の人々に与えるばかりで、何も受け取らないことです。特に、彼らは天の父から何も受け取っていません。

しかし、それは天の父が自分の愛を与えたくないからではありません。むしろ、彼らが神様を十分に求めず、神様との時間を過ごしていないことが原因です。

結果として、彼らの心は神様の愛で満たされることなく、ほとんど空のガスタンクで走ろうとしています。

だからこそ、ミニストリーが困難に直面する時(どんなミニストリーでも、そんな時は必ず訪れるでしょう)、彼らは尽き果ててしまいます。なぜなら、彼らは神様からではなく、ミニストリーそのものからエネルギーを得ようとするからです。

そのミニストリーが必要なエネルギーを与えない場合、彼らは燃え尽きてしまいます。

二つ目の原因は、神様が彼らに求める以上のことをしようとすることです。つまり、周りの人々から頼まれたことを断ることができず、神様が求めていない重荷を背負ってしまう場合です。

彼らは「誰かがその重荷を担わなくてはならない」と考え、その結果、その重荷に押しつぶされてしまいます。

だからこそ、毎日神様との時間を過ごすことが本当に重要です。毎日、英気を養い、自分の焦点を合わせ直す必要があります。

具体的には、神様につながり、神様から必要な愛とエネルギーを受け取ることが大切です。

また、他者からの要求を慎重に評価し、その要求が神様の御心に沿っているかを判断することも必要です。

さらに、周りの人々のニーズに気づいても、それが自分が満たさなければならないニーズであるかどうかを識別することが重要です。

これらを怠ると、燃え尽きてしまう可能性が高くなります。

あなた自身はどうでしょうか。毎日、英気を養い、自分の焦点を合わせ直していますか。

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私たちを癒やしてくださる方

この箇所では、私たちはイエス様の癒やしの働きを垣間見ることができます。

イエス様がペテロの家を訪ねられた際、ペテロの義理のお母さんを癒してくださいました。おそらくイエス様は初めて安息日に人を癒されましたが、人前では行わなかったため、非難を受けませんでした。

さて、ここでひとつの質問が思い浮かびます。

前回の話では、イエス様が安息日に悪霊をある人から追い出されました。もしその会堂にパリサイ人たちがいたら、イエス様を責めたでしょうか。もしかしたら彼らは、「おい、それはだめだ。別の日に悪霊を追い出しなさい」と言ったかもしれません。

いずれにせよ、この日はイエス様が責められることはありませんでした。安息日が終わると、多くの人が癒しを求めてペテロの家を訪ねてきました。そして、イエス様は皆を癒してくださいました。

マタイはその癒やしについて、こう記しています。

これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」(マタイ8:17)

少し注意が必要です。マタイによれば、イエス様はこの世にいる間、その預言を成就されました。しかし、現在では癒やしの約束はありません。

もちろん、イエス様は今でも人々を癒やすことがおできになりますが、私たちを必ず癒やしてくださるという保証はありません。

さて、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

一つ目は、イエス様の哀れみについてです。イエス様は群衆を愛されましたが、たった一人の女性に対しても愛を示されました。私たちはペテロの義理のお母さんの名前を知りません。それでもイエス様は彼女を癒してくださいました。

あなたはこの世でごく普通の人かもしれません。周りの人々があなたの名前を知らないかもしれません。けれども、イエス様はあなたの名前をよくご存じです。そして、あなたが苦しんでいるとき、イエス様はあなたを見て、あなたを愛してくださいます。

以前も言ったように、神様は私たちを癒やすことを約束されていません。時には神様の見えない計画の一環として、私たちは癒されないこともあります。それでも、イエス様は「私に祈り、頼みなさい」と言われるので、祈り求めるべきです。

とはいえ、もしあなたが感情的な傷を持っているなら、イエス様はその傷をきっと癒してくださると思います。

イエス様が肉体的な病気を通して神様の栄光を現されることはあるでしょう。

しかし、神様はあなたが感情的な重荷を持ち続けることを望んでおられません。だからこそ、その重荷をイエス様の足元に置いてください。そうすれば、癒やしを体験することができます。

この箇所から、もう一つ心に響くことがあります。それは、ペテロの義理のお母さんが癒やされた後、すぐにイエス様に仕えることを始められたことです。

私たちもそのようにするべきです。もしイエス様が私たちを病気や感情的な傷、罪からの傷から癒してくださるなら、私たちが愛と感謝を持ってイエス様に仕えることはふさわしいでしょう。それは義務ではなく、愛に満ちた心からの奉仕です。

多くの場合、神様は私たちが経験した困難を持つ人々を私たちのもとへ導いてくださいます。

イエス様が私たちを癒してくださる理由の一つは、その癒しを周りの人々にも分かち合うためです。

さて、あなた自身はどうでしょうか。その癒しをあなたの周りの人々に分かち合っていますか。

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権威

イエス様はほかの宗教を始めたリーダーたちとどう違うでしょうか。もちろん多くの違いがありますが、一番重要な違いは、イエス様が神であり、ご自身の復活によってそのことを証明されたということです。

ほかの偉大なリーダーたちはすでに死んでしまいました。だからこそ、彼らが神ではないことは明白です。

けれども、この箇所では、私たちはさらにもう一つの違いを見ることができます。それは、イエス様が真の権威を持っておられるということです。

ユダヤ人たちはイエス様の教えを聞いたとき、そのことをすぐに理解しました。

ほかの教師たちが聖書について教えるとき、彼らはいつもこう言いました。「誰々先生はこの箇所についてこう言っています。」また、「誰々先生によれば、この言葉はこういう意味です。」

イエス様は決してそのような言い方はされませんでした。むしろ、イエス様はいつもこう言われました。「まことに、まことに、私はあなたがたに告げます。」

ユダヤ人たちはそれを聞いて驚きました。「この方は権威を持っているかのように話されます。彼は教えられることについて、本当に自信を持っているようです。」

聖書を教える者として、私も驚いたことでしょう。もちろん、私は懸命に学び、神様に知恵を求めて祈りますが、イエス様の権威のほんの一部しか持っていません。イエス様の教えを直接聞くことは、素晴らしい経験だったに違いありません。

そして、会堂でイエス様はある人から悪霊を追い出し、その権威を証明されました。その結果、イスラエル全土でイエス様に関する噂がまるで山火事のように広がりました。

では、この話は私たちとどう関係があるのでしょうか。

私たちは自分自身にこのような質問をしなければなりません。「イエス様は本当に特別な権威を持って話されたのだろうか。それとも、彼の意見と私の意見は同じ権威を持っているのだろうか。」

多くのクリスチャンは口ではイエス様の権威を認めていますが、その言葉には従いません。イエス様の言葉は理想的だと認めながらも、イエス様は実生活について理解していなかったと思う人もいます。

また、イエス様の言葉に従いたくないクリスチャンもいます。彼らは自分の道を選びたいと思っているからです。

しかし、もし私たちがイエス様を「主」と呼ぶのなら、そうした考え方を捨てなければなりません。また、そのような生き方をも捨てる必要があります。

イエス様はこう言われました。

なぜ、わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。(ルカ6:46)

「主よ、それをしたくない。」という言葉は、矛盾した言葉です。

あなたはどうでしょうか。本当にイエス様の権威を受け入れますか。

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暗闇の中の光

前回の記事で、私はこう問いかけました。「どうして神様はバプテスマのヨハネが牢に閉じ込められることを許されたのでしょうか。」

私には分かりませんが、ひょっとすると一つの理由は、イスラエル人がヨハネではなく、イエス様に焦点を当てるためだったのかもしれません。

ヨハネが牢に閉じ込められた後、イエス様はガリラヤに戻り、そのミニストリーを始められました。マタイによれば、イエス様はこのイザヤの予言を成就されました。

ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。

暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。(マタイ4:15-16)

パリサイ人がこの箇所を忘れ、イエス様の背景を侮るとは、私には信じられません。(ヨハネ7:52)

この箇所では、私たちはイエス様の目的の一つを知ることができます。私たちは暗闇の中にいました。つまり、私たちは自分の罪のために神様から離れ、死刑囚だったのです。

しかし、イエス様によって光が上がりました。イエス様は天の父への道を示してくださったので、希望が現れました。イエス様はこう宣言されました。

時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)

それは私たちへのメッセージです。王が来ました。神の王国は近づいています。今、イエス様は信者の心の中で働いておられます。そして、将来、イエス様はご自身の物理的な王国をこの世に設立されます。

だから、私たちは悔い改める必要があります。というのは、私たちは神様の道に戻らなくてはなりません。私たちの考え方を変えなくてはなりません。自分のために生きるのではなく、神様のために生きなくてはなりません。

また、私たちの神様に対する不信を捨てて、心から神様を信頼する必要があります。

もちろん、一番大切なのは、イエス様に関する良い知らせを信じる必要があるということです。つまり、神様は私たちのように人間になられました。そして、イエス様は十字架で私たちのために死なれ、三日目によみがえられました。

そして、私たちがイエス様を私たちの救い主と主として信じるなら、私たちは地獄から救われます。

それがイエス様が伝えられたメッセージです。

だから、この二つの質問について考えてみてましょう。

1.あなたはイエス様を信じるようになりましたか。

2.あなたがクリスチャンなら、そのメッセージを周りの人々に伝えていますか。

あなたはどう答えますか。

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天の父に従う?

この箇所は本当に有名な聖書の話です。それは、イエス様が砂漠で誘惑される話です。

サタンからの誘惑に対するイエス様の反応は、私の心に深く響きます。イエス様が本当に天の父を信頼されたからです。

洗礼を受けられた後、イエス様は聖霊に満たされ、また聖霊に導かれて砂漠に行かれ、そこで40日間過ごされました。

だからこそ、サタンが来た時のイエス様の反応は特にふさわしいものだったと思います。サタンは三度イエス様を誘惑しましたが、イエス様が答えられた時、すべて申命記から引用されました。

なぜそれがふさわしかったのでしょうか。それは、イスラエル人が砂漠で40年間過ごした後に、モーセが申命記を書いたからです。そして、イエス様が誘惑された時、その言葉に従われたのです。

では、モーセは何を言ったのでしょうか。

あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。

それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。(申命記8:2-3)

天の父がイスラエル人を試すために彼らを砂漠に導かれたように、天の父はイエス様を試すために、彼を砂漠に導かれました。イスラエル人と同じように、イエス様も苦しみ、飢えを経験されました。

けれども、イスラエル人と違って、イエス様は文句を言わず、天の父がふさわしい時にイエス様の必要を備えてくださることを信じ続けられました。

サタンは言いました。「自分の力を使えばいいじゃないか?あなたの天の父はあなたの必要に備えていないじゃないか。もう40日間が経った。だから、この石をパンに変えたらどうだ?」

しかし、イエス様はサタンの薦めを拒絶されました。むしろ、イエス様は天の父がイエス様の必要に備えてくださることを信じ続けられました。

次に、サタンは聖書を引用してイエス様にこう言いました。「神殿の頂から身を投げてみなさい。天使たちはきっとあなたを救うでしょう。」

(サタンも聖書をよく知っています。だからこそ、私たちは聖書の箇所の前後をしっかりと読まなければなりません。)

けれども、イエス様は再びモーセの言葉を引用されました。

あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。(申命記6:16)

マサでは何が起こったのでしょうか。イスラエル人はもう一度神様を信頼しなかったため、文句を言いました。水を見つけることができなかったので、彼らは叫びました。「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」(出エジプト記17:7)

時々、私たちも同じ質問をします。私たちが苦しんでいる時、神様に「あなたは私と共におられるのですか、それともおられないのですか」と訊きます。

同じように、サタンはイエス様が天の父を疑うように誘惑しました。

「あなたの天の父は本当にあなたと共におられるでしょうか。天の父に仕えたいなら、そのことを確認した方がいいですよ。だから、神殿の頂から飛び降りてみなさい。もし天の父が本当にあなたと共におられるなら、あなたを救ってくださいます。」

けれども、イエス様は拒絶されました。それは、たとえイエス様に天の父が見えなかったとしても、天の父がイエス様と共におられることを信じておられたからです。

最後に、サタンはこう言いました。

もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。(マタイ4:9)

しかし、イエス様は再び拒絶されました。それは、イエス様が天の父に従うことを決心されていたからです。そこで、イエス様はこう答えられました。

引き下がれ、サタン。「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」と書いてある。(マタイ4:10/申命記6:13;10:20)

あなたは誰に従っているのでしょうか。天の父に従っているのでしょうか。天の父があなたと共におられることを信じていますか。天の父があなたの必要を備えてくださることを信じていますか。天の父を家族よりも、友達よりも、仕事よりも大切にしていますか。

あなたは誰に従っているのでしょうか。

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天の父に愛され、御霊に満たされた人

バプテスマのヨハネが人々にバプテスマを授けていた時、イエス様もヨハネのもとを訪れ、バプテスマを受けることを求められました。彼らはいとこでしたが、ヨハネはイエス様について何を知っていたのでしょうか。

ヨハネの両親はイエス様について何を教えたのでしょうか。そして、神様はヨハネにイエス様についてどのようなことを示されたのでしょうか。

ヨハネは一人暮らしができる年齢になると、砂漠で生活を始めた可能性があります。そのため、イエス様を見た時に、イエス様を認識することができたのでしょうか。

もしかすると、ヨハネがイエス様を見た瞬間、イエス様が特別な存在であることを理解したのかもしれません。ヨハネはイエス様が悔い改めを必要としていないことに気づきました。それゆえ、彼はこう言ったのです。

私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。(マタイ3:14)

けれども、イエス様はこのように答えられました。

今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。(マタイ3:15)

どうしてイエス様はバプテスマを受ける必要があったのでしょうか。おそらく二つの理由が考えられます。

一つ目は、ヨハネがユダヤ人たちの心を誰のために整えるのかを明確に知るためです。その後、ヨハネはこのことについて証をしました。

見よ、世の罪を取り除く神の小羊。私が「私のあとから来る人がある。

その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ」と言ったのは、この方のことです。

私もこの方を{メシヤとしては}知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」

またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。私もこの方を知りませんでした。

しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。「御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。」

私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」(ヨハネ1:29-34)

ヨハネの言葉によれば、ヨハネはイエス様が特別な存在であることを理解しましたが、イエス様がメシアであることはまだ知りませんでした。

二つ目の理由は、バプテスマを通してイエス様が次のように示されたことです。「私は、この罪人たちの兄弟です。」

イエス様がこの世に来られた時、こうは言われませんでした。「私は偉大な神です。あなたは惨めな罪人です。」

むしろ、イエス様はこう言われました。「あなたは罪人だけど、私はあなたの兄弟です。」(ヘブル人への手紙2:11-12)

もちろん、イエス様は決して罪を犯されませんでした。それでも、十字架の上でイエス様は私たちの罪を背負い、その罪のために死なれました。

イエス様は生まれた時、私たちと人間として共感されました。そして、バプテスマを受けられた時、私たちと罪人として共感してくださいました。

さらに、イエス様がバプテスマを受けられた時、もう一つの出来事が起こりました。

イエス様がバプテスマを受けられた時、聖霊がイエス様の上に下り、イエス様を力で満たされました。それだけではなく、天の父がイエス様に対する愛を宣言されたのです。

もし、私たちが影響力のあるクリスチャンになりたいなら、その二つのことが必要です。神の一人子であるイエス様にそれらが必要だったなら、私たちにもそれらが必要です。

つまり、私たちは、天の父が私たちを愛しておられることを知らなくてはなりません。その愛を知らなければ、私たちは神様を恐れてしまい、決して神様に近づこうとはしません。いつも神様からの叱責を恐れ、神様と親しい関係を築くことができません。

また、天の父の愛を知らないと、私たちの人間関係も難しくなります。周りの人々が私たちの愛に、私たちが期待するように反応しなければ、彼らを愛し続けることも、許すことも難しくなります。

もしあなたが神様のように周りの人々を愛することができないなら、それは神様の愛を十分に理解していないからかもしれません。実は、私自身も神様の愛を十分に理解していないので、神様のように人々を愛することができない時があります。

しかし、イエス様は神様の愛で満たされていたので、周りの人々の失敗や欠点を見る中でも、彼らを愛し続けられました。

天の父はイエス様に対する愛を宣言されました。そして、聖霊はイエス様を力で満たしてくださいました。イエス様はその力を受けられるまで、ミニストリーを始められませんでした。

それゆえ、私たちが神様のために効果的なしもべになりたいなら、聖霊で満たされる必要があります。バプテスマのヨハネによれば、それはイエス様の働きの一つです。イエス様は私たちを聖霊によってバプテスマを授けてくださいます。

あなたはどうでしょうか。神様の愛を知っているでしょうか。聖霊に満たされていますでしょうか。

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真理を語っている?

この話では、私たちは18年間ほど時を飛ばします。イエス様は30歳になり、自分のミニストリーを始められました。けれども、彼が始める前に、イエス様のいとこバプテスマのヨハネは、すでに自分のミニストリーを始めていました。

使徒ヨハネは、バプテスマのヨハネが誰であるかを説明します。

神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。

彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。(ヨハネ1:6-8)

祭司たちや、パリサイ人、サドカイ人(パリサイ人とサドカイ人はユダヤ人の宗派です)がヨハネに「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、彼はこう答えました。

私はキリスト(つまり、メシア、または、救い主)ではありません。。。私は、預言者イザヤが言ったように「主の道をまっすぐにせよ」と荒野で叫んでいる者の声です。(ヨハネ1:20,23)

彼の人生の目的は、人々の心をイエス様をメシアとして受け入れるために整えることでした。

私たちはイエス様の弟子として、神様から同じ使命を与えられています。私たちは周りの人々の心をイエス様のために整えるべきです。私たち自身には彼らを救う力はありません。ただ、神様の言葉という種を彼らの心にまくことができるだけです。

私たちのメッセージもヨハネのメッセージとほぼ同じです。

主な違いは、ヨハネの時代には神様からの救いがイエス様を通してまだ到来していなかったという点です。しかし、イエス様がすぐに来られるので、彼らは自分の心を準備しなくてはなりませんでした。(ルカ3:6)

一方で、私たちのメッセージは、イエス様を通して神様の救いがすでに到来したということです。

また、ヨハネの言葉を見ると、一つのことが私の心に深く響きます。ヨハネは率直に話しました。

パリサイ人とサドカイ人が来たとき、彼はこう言いました。

まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。

「われわれの父はアブラハムだ」と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。

斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。

その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。(マタイ3:7-12)

どうしてヨハネはそんなに厳しく話したのでしょうか。それは、彼らが偽善者だったからです。彼らは神の律法を守ろうと努力しました。つまり、外面的には正しいことを行いましたが、心は堕落していました。

彼らはこう思っていました。「私はユダヤ人だから、神様に受け入れられているだろう。それに、神の律法を知らない多くのユダヤ人と違って、私はよく知っている。」

しかし、彼らの心がプライドに満ちていたため、神様のあわれみを知ることができませんでした。

一方で、ヨハネは他の人々に対してもっと優しく話しました。イスラエル人に嫌われていた人々(取税人やローマの兵士)にも優しく接しながら、「悔い改めなさい」と語りました。裁きの日が来るので、罪深い人生を続けてはいけなかったのです。

私たちも真理を伝えなければなりません。そのメッセージは厳しく感じられるかもしれませんが、伝えることが重要です。

もちろん、イエス様の愛についても語るべきです。そして、イエス様が彼らの罪のために死なれたこと、またその死によって赦され、その心が癒されることを伝えるべきです。

けれども、彼らがプライドや罪、頑固さを持ち続けるなら、私たちは裁きの日について警告すべきです。そうしないと、神様は私たちに責任を負わせるでしょう。(エゼキエル書3:16-21;使徒の働き20:26-27)