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あなたの間違った考え方を認めないと

私たちの考え方が間違っていると分かる時、時にはそれを認めるのが難しいものです。私自身もそれを認めたくないことがあります。どうしてでしょうか。

それは、プライドがあるからです。「私は間違っていた」と言うのは簡単ではなく、謙虚な態度が求められます。

けれども、もし私たちが神様との関係や人々との関係を守りたいと思うなら、その謙虚な態度が不可欠です。

イエス様の時代の宗教的なリーダーたちは、このような態度を持っていませんでした。イエス様は何度も彼らの間違った考え方を指摘されましたが、彼らはどうしてもそれを認めようとはしませんでした。特にイエス様の最後の週(つまり、十字架にかかる前)に、その姿が明らかになります。

イエス様が神殿から商人たちと両替人を追い出された後、祭司長たちや民の長老たちがイエス様のところに来て、こう尋ねました。

何の権威によって、これらのことをしてるのですか。だれがあなたにその何の権威を授けたのですか。(マタイ21:23)

いつものように、イエス様は彼らの質問に対して別の質問で答えられました。

ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか、それとも人からですか。(マタイ21:25)

それを聞かれた時、彼らは板挟みになってしまいました。

もし彼らが「天から」と答えたなら、イエス様は「では、どうしてヨハネの言葉を信じなかったのでしょうか。ヨハネは私がメシアであることを語りました。もしその言葉を受け入れるなら、私の権威がどこから来るのかが理解できるはずです。」と言われたでしょう。

その一方で、彼らが「人から」と答えたなら、周りの群衆は彼らに怒りを向けたでしょう。なぜなら、群衆はヨハネが本当の預言者であると信じていたからです。

そこで彼らは「分かりません」と答えました。

すると、イエス様は「もし私の質問に答えないなら、私もあなたの質問に答えません。」と仰いました。

その後、イエス様は彼らにたとえ話を語られました。その話では、あるお父さんに二人の息子がいました。お父さんが長男に何かを頼んだ時、最初はその息子が「それをしたくありません」と答えましたが、最終的にはその仕事をしました。

一方で、次男は頼まれた時に「はい、します。」と言いましたが、結局その仕事をしませんでした。

このたとえ話を通して、イエス様は宗教的なリーダーたちを、かつて罪を犯していた罪人たちと比較されました。

宗教的なリーダーたちは正しい人たちに見えましたが、心の中では神様に背いていました。

彼らがバプテスマのヨハネを見た時、彼が頭がおかしいと思いました。しかしすぐに分かったのは、ヨハネのミニストリーを通して多くの人々の人生が変わったということです。神様がヨハネを通して働かれていることは明らかでした。それでも、彼らはプライドのゆえにヨハネを拒絶しました。

さらに、彼らはイエス様をも見ていました。彼らはイエス様の奇跡を目の当たりにし、イエス様の教えを聞きましたが、それでもイエス様を拒絶しました。

イエス様が彼らの間違った考え方を暴露し、彼らがイエス様の議論に反論することができなくても、彼らは自分の考えに固執しました。

一方で、このリーダーたちに見下されていた罪人たちは、かつて神様に背き、人々をだましたり、自分の体を売ったりしましたが、ヨハネやイエス様の言葉を聞くと、謙虚に自分の罪を認め、悔い改めました。

そこで、イエス様は宗教的なリーダーたちにこう言われました。

まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。(マタイ21:31)

あなたはどうでしょうか。自分が間違った時、それを認めることができるでしょうか。プライドは人間関係を壊します。けれども、さらに深刻なのは、プライドが神様との関係を壊してしまうことです。

だからこそ、謙虚な心を保ちましょう。相手から訓戒された時は、その言葉を素直に受け入れましょう。そして、自分が間違ったと気づいた時には、すぐにそれを認めましょう。

そうしなければ、あの宗教的リーダーたちのように、私たちは周りの人々から距離を置かれ、さらには神様からも離れてしまうかもしれません。

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私の信仰の強さは?

信仰。

実は、私は自分の信仰があまり強くないと感じています。特に、祈るときに自分の信仰が弱いと感じることがあります。私は祈るとき、本当に信仰をもって祈っているのでしょうか。「信仰をもって祈る」とは、どういう意味なのでしょうか。

イエス様が呪われた木が枯れたとき、弟子たちは非常に驚きました。そして、彼らはイエス様にこう尋ねました。

どうして、すぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。(マタイ21:20)

イエス様はこのように答えられました。

神を信じなさい。(マルコ11:22)

「神様を信じなさい」とは何を意味するのでしょうか。私たちは何を信じるべきでしょうか。

1.神様が良い神であるということ。 神様は私たちを愛する天の父であり、私たちに良い賜物だけをくださいます。

だから、私たちがパンを願えば、神様は石を与えるようなことはされません。また、私たちが魚を願えば、神様は蛇を与えるようなこともされません。

2.神様が私たちの祈りを聞いてくださるということ。 どんなに小さな願いであっても、神様はそれを聞いてくださいます。私たちの問題がどれほど大きくても、またはどれほど小さくても、神様は祈りを聞いてくださいます。

3.神様が私たちの祈りをかなえる力を持っておられるということ。 神様にとって、私たちの願いは決して難しいものではありません。

4.神様が私たちを祝福したいと望んでおられるということ。 正当な理由がない限り、神様は私たちに良いものを与えることを控えることはなさらないのです。

5.神様が私たちのために良い計画を持っておられるということ。 神様の計画は私たちにとって良いものであり、その計画は私たちの益のために働きます。

これらの五つのポイントを覚えながら、イエス様の次の言葉を読みましょう。

まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、「立ち上がって、海に入れ」と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。

ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求める者は何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、その通りになります。(マルコ11:23-24)

この箇所を読んで、神様に何を頼んでも、神様がその祈りを必ずかなえなければならないと考える人がいます。

けれども、時には、私たちが魚やパンに見えるものを願っても、実際にはそれらが石や蛇であることがあります。例えば、ある男性や女性と結婚することを祈ったとしても、十年後には神様がその祈りをかなえなかったことに感謝するようになる場合があります。

また、私たちは良いことのために祈ることがありますが、神様はさらに良いものを用意してくださることがあります。例えば、新しい仕事を願って祈ったとしても、神様はそれよりも良い仕事を与えてくださいます。

ですから、信仰をもって祈ったとしても、神様がその祈りをかなえてくださるとは限らないのです。

けれども、通常、私の問題は間違ったことのために祈るのではありません。多くの場合、私の問題は、神様が私の祈りをかなえてくださることを信じきれていないところにあるのです。

例えば、私の現在の職場は非常に素晴らしい場所です。以前の職場よりもはるかに良い職場です。

しかし、その学校に応募した際には、多くの疑いを抱いていました。実は、数年前、その同じ場所で不採用になった経験がありました。それに、何度も良い仕事を願って祈ったものの、その祈りがかなえられることはありませんでした。

それでも、私が十分な信仰を持っていなかったにもかかわらず、神様の恵みによって採用されることができました。

また、私はがんを患った友人のために祈ったことがあります。医師たちはその状態を見て「もう手の施しようがない」と言いましたが、多くの人が祈り、私も祈りました。ただ、私はあまり希望を持つことができませんでした。

もちろん、神様が友人を癒す力を持っておられることは信じていましたが、本当に癒してくださるかどうかは分かりませんでした。結局、2人とも亡くなりました。それでも、神様は1人の命を約5年延ばしてくださいました。

さて、ここで私が言おうとしているのは何でしょうか。

神様は信仰を見ると喜び、祈りに応えてくださいますが、祈りが叶うかどうかは私たちの信仰の強さにはあまり関係がありません。たとえ信仰が小さくても、神様が祈りに応えてくださることは多々あります。

それでも、私はもっと希望を持って祈るべきだと感じています。なぜなら、神様は私を助けてくださるだけでなく、実際に私を助けてくださった経験があるからです。

そのため、私はよく次のように祈ります。

「あなたを信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:24)

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実のない木

多くの人々はこの話を読むと、イエス様の行為に疑問を抱きます。いちじくのなる季節ではなかったのに、どうしてイエス様は実を結ばない木を呪われたのでしょうか。

聖書学者たちにはさまざまな意見があります。

その中の一つの意見によれば、過ぎ越しの祭りの時期には、普通のいちじくの木は食べられる芽を実らせることがあります。もしかしたら、イエス様はそのような芽を探しておられたのかもしれません。けれども、木にそのような芽がなければ、おそらくいちじくの実がなる季節が来ても、その木は実を結ばないでしょう。

その意見が正しいかどうかはわかりませんが、筋の通った説明のように思えます。

いずれにせよ、マルコの福音書によれば、イエス様はいちじくの木を呪われた後、エルサレムに入って神殿を清め、エルサレムを離れる途中で弟子たちがその木が枯れていることに気づきました。

ですから、イエス様はこのいちじくの木を通して、弟子たちに何かを教えたかったのだと思われます。それは何でしょうか。

いちじくの木が実を結ばなかったために裁かれたように、イスラエルが霊的な実を結ばないために裁かれることです。このことは神殿の出来事において明らかにされています。

イエス様のミニストリーの初めにも、イエス様は神殿を清められました。イエス様は牛や羊を売っている人々を追い出し、両替人たちも追い出されました。それは、そこが外国人たちが入って礼拝できる場所だったからです。

彼らが神殿のさらに近い場所に行くことは禁止されていましたが、祭司たちはその場所を市場として使いました。それに加え、多くの人々がその業者や両替人によってだまされていました。

神殿であるべきその場所を、市場にしてしまったのです。祭司たちはそのような行為を許していました。

だから、彼らの修行や宗教的な熱心が堕落していたことは明らかでした。

さらに、彼らはイエス様をメシアとして拒絶するだけでなく、イエス様を殺そうともしていました。そのため、イスラエルは裁きを受けました。

ローマ帝国の将軍タイタスは、その神殿を破壊しました。そして今なお、その神殿は再建されていません。なぜでしょうか。それは、神様が長い間イスラエルに愛と恵みを注いでくださったにもかかわらず、彼らが霊的な実を結ばなかったからです。

一方で、神様の働きは実を結ばないわけではありません。ユダヤ人たちがイエス様を拒絶したことで、福音が世界中に広がりました。そして、ある日、ユダヤ人もイエス様を信じるようになるでしょう。(ローマ書11章)

とはいえ、私たちは自分自身に問いかける必要があります。私たちの人生はどのような実を結んでいるでしょうか。私たちの体は神様の宮です。その宮は霊的な実を結んでいるでしょうか。

私たちは周りの人々に良い影響を与えているでしょうか。もしかすると、この世のものに執着し、私たちの宮は汚されてしまっているかもしれません。

ユダヤ人の祭司たちのように、私たちはお金に執着しているでしょうか。または、他の世のものに心を奪われているでしょうか。もしそうなら、霊的な実を結ばないことによって、裁きの日に私たちの功績は焼き尽くされてしまうでしょう。

私たちが実を結ばない木のようにならないために、霊的な実を結びましょう。聖霊に満たされ、私たちの周りの人々に神様の愛を分かち合いましょう。

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私たちに平和を与えるもの

この箇所で、イエス様はついにエルサレムに到着されました。そして、四つの福音書を読むと、ユダヤ人たちの興奮がよく伝わってきます。彼らは叫び声をあげていました。

「ホサナ、ダビデの子に。」

「祝福あれ、主のみ名によって来られる方に。」

「ホサナ、いと高き所に。」(マタイ21:9)

また、

「祝福あれ、われらの父ダビデの、来るべき国に」(マルコ11:9)

そして、

「天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」(ルカ19:38)

そして最後に、

「ホサナ。祝福あれ、主のみ名によって来られる方に。イスラエルの王に。」(ヨハネ12:13)

大騒ぎのため、多くの人々が「一体これは何の騒ぎだ?この人は誰だ」と尋ねました。そして、ほかの人々が「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と答えました。(マタイ21:10-11)

ヨハネによれば、その大騒ぎの理由の一つは、多くの人々がまだラザロの復活について語り続けていたことでした。(ヨハネ12:17-18)

最初に、パリサイ人たちはイエス様にこう言いました。

先生、あなたの弟子たちを叱ってください。(ルカ19:39)

イエス様がその願いを拒まれると、彼らは不満を漏らしました。

見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。(ヨハネ12:19)

それでも、イエス様がエルサレムに近づき、その都市をご覧になった時、喧噪の中で、イエス様は涙を流しながらこう言われました。

もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたらーー。しかし今、それはおまえの目から隠されている。

やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。

彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。

それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。(ルカ19:42-44)

西暦70年、聖書に書かれている出来事が実際に起こりました。ローマの将軍タイタスは、エルサレムとその神殿を破壊しました。

なぜ神様はそれを許されたのでしょうか。それは、ユダヤ人たちが神の訪れの時を認識しなかったからです。彼らは神様の平和を逃しました。心の平安を失い、さらに神様との平和をも失いました。

同じように、神様は私たち一人ひとりに訪れます。ローマ人への手紙1章によれば、神様のことを聞いたことがない人であっても、すべての人が神様の存在を知っています。

彼らが星空を見たり自然の美しさを見たりするとき、聖霊様が彼らの心にこう語るかもしれません。「これは偶然ではありません。これはデザインされたものです。あなたが作った偶像はこれを作ることができません。真の創造者を求めなさい。」

また、教会でイエス様について聞くことがあるかもしれません。あるいは、友達がイエス様について教えてくれることがあるでしょう。

その時、彼らは分岐点に立たされます。彼らはどう選択するでしょうか。神様の言葉を聞いて従うでしょうか。それとも、その言葉を拒絶するでしょうか。

神様に従うなら、彼らは神様との平和と永遠の命を知ることができます。しかし、その言葉を拒絶すれば、裁かれます。

あなたはどうでしょうか。神様は今、あなたを呼んでおられます。今日は救いの日です。今、イエス様を受け入れませんか。

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主がお入り用なのです。

私たちはついに、イエス様の人生の最後の週にたどり着きました。

この箇所では、一つのフレーズが私の心を深く打ちました。イエス様は弟子たちに次のように言われました。

向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、連れて来なさい。

もし「どうして、ぼくのか」とだれかが尋ねたら、「主がお入り用なのです。」と言いなさい。(ルカ19:30-31)

弟子たちがイエス様の言葉に従うと、その持ち主たちは彼らに問いかけました。

どうして、子ろばをほどくのか。(33)

弟子たちはイエス様の指示に従い答えました。その結果、持ち主たちはその子ろばを貸してくれました。

それを読んで、私は心の中で問いかけました。「主が私に、『私はこれが必要だ』と言う時、私はどう反応するだろうか。」

例えば、イエス様が「その人を助けるために、私はあなたのお金が必要です。その人は経済的に苦しんでいるから」と言ったら、私はすぐに「はい、どうぞ」と答えるでしょうか。

または、私がどこかに向かっている途中で誰かにばったり会った際に、イエス様が「私はあなたの時間が必要です。その人と話しなさい」と言ったら、私はどうするでしょうか。

または、イエス様が「あなたが西宮を去る時が来ました。私に仕えるために別の場所へ行きなさい」と言ったら、私は「はい、行きます」と答えるでしょうか。

それとも、私が自分の持っているものにしがみついてしまうのでしょうか。

実際には、自分自身で確信を持てません。過去を振り返ると、何度もイエス様が「こうしなさい。私はあなたからこれが必要だ」と言われたにもかかわらず、私は拒んでしまったことがあります。

「忙しい。」

または、

「私はそのお金が必要だ。別の物を買いたいから。」

弟子たちはそのろばをイエス様の元に連れて行き、イエス様をそのろばに座らせて、王としてあがめました。

私たちも同じようにするべきです。イエス様が私たちに「これが必要だ」と言われた時、私たちはその物をイエス様にささげ、イエス様を私たちの王としてあがめるべきです。

私はそうできるでしょうか。

あなたはどうでしょうか。