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いつも整えた心を持つ?

多くのクリスチャンは、イエス様がいつ戻られるかに関心を寄せています。そのため、イエス様が戻られる時期を予測しようとするクリスチャンも少なくありません。

私が高校生だった頃、ある本が出版されました。そのタイトルは「1988年にイエス様がきっとこの世に戻る88の兆候」でした。

もちろん、イエス様は1988年に戻られることはありませんでした。それでも、その著者はがっかりすることなく、さらに別の本を書き、再びイエス様の戻りを予測しました。

なぜでしょうか。その著者を含め、多くのクリスチャンはイエス様のお言葉を無視しているように思えます。

ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。父だけが知っておられます。(マルコ13:32)

神様はご自身の計画を立てられました。しかし神様は、私たちにイエス様がいつ戻られるかを教えてはくださいませんでした。

とはいえ、イエス様はご自身の戻りに関するしるしを示されました。そして私たちに対し、「目を覚ましなさい。自分の心を整えなさい」と警告されました。イエス様は次のように語られました。

気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。

それはちょうど、旅に出る人のようです。家を離れるとき、しもべたちそれぞれに、仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているように命じます。

ですから、目を覚ましていなさい。家の主人がいつ帰って来るのか、夕方なのか、夜中なのか、鶏の鳴くころなのか、明け方なのか、分からないからです。

主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見ることがないようにしなさい。

わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい。」(マルコ13:33-37)

残念なことですが、多くのクリスチャンはその言葉を無視しているようです。

前回の記事でも述べましたが、イエス様はこの箇所で同じことを四回繰り返されていますので、私も繰り返すべきだと感じます。

多くのクリスチャンは、イエス様がクリスチャンたちを集め、天国に連れていく時期を議論します。大きな患難の前にイエス様は私たちを集められるでしょうか。その患難の途中で集められるでしょうか。それとも、その患難の後に集められるのでしょうか。

私はその疑問が重要でないとは言いません。イエス様が戻られる時期を問うよりも、戻られた時に私たちの心が整えられているかどうかを問う方が重要です。もし、あなたの心が常に整えられているなら、イエス様がいつ戻られても驚くことはありません。

これがイエス様のポイントです。そのため、イエス様の戻りに関する細かい議論をする前に、自分自身に次の質問を投げかけてください。

「もしイエス様が今日戻られたなら、私の心は整えられているだろうか。私はイエス様の御心に従っているだろうか。もしイエス様が今日戻られたなら、イエス様は私に何を言われるだろうか。」

これこそが最も重要な質問です。

では、あなたの心はすでに整えられているでしょうか。

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主が戻られるまで

この箇所では、イエス様はご自身が戻られるまでにどのような出来事が起こるかを説明されています。そしてイエス様のお言葉によれば、この世界は次第に悪化の一途をたどります。最終的には非常に厳しい状況になるでしょう。

戦争が起こり、地震や様々な災害が発生します。その混乱の中で、偽預言者たちが現れ、希望を語るメッセージを伝えるものの、多くの人々を欺きます。

さらに、反キリストも登場します。

その結果として、迫害が生じます。特にユダヤ人やイエス様に従う人々が迫害されるため、多くの人々が信仰を捨ててしまうのです。

現在、多くの人々は自分をクリスチャンだと主張しますが、イエス様に従わず自分の道を歩んでいます。しかし、迫害の時代が訪れると、このような「クリスチャン」はいなくなるでしょう。迫害を受ける前に、自らの「信仰」を捨てると考えられます。

また、周囲の邪悪さのため、多くの人の愛が冷えていきます。信頼は薄れ、人々は互いに、特にクリスチャンたちを裏切るようになります。そしてさらに災害が続くことで、人々の恐怖は増していきます。

ところが、この災厄が頂点に達するとき、イエス様が現れて、邪悪なものを終わらせ、ついに神の国が来るのです。

これらの言葉の後、イエス様は私たちを励ますと同時に警告もされています。

イエス様の最初の警告は、偽のキリストが現れるということです。

イエス様がこの世に戻られるとき、雲の中から偉大な力と栄光を伴って現れ、全世界が一斉にイエス様を目にするでしょう。だから、噂を信じてはなりません。

しるしや不思議を行う偽のキリストも現れますが、そのような人物を信じてはなりません。なぜなら、反キリストもまたしるしや不思議を行い、多くの人々を欺くからです。(第二テサロニケ2:3-9)

さらに、イエス様は私たちが厳しい試練に直面しても希望を失わず、イエス様を待ち望み、神様の御心に従い続けるよう励まされています。イエス様は次のように言われました。

これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです。(ルカ21:28)

要するに、迫害や災害などが起こっても、思い悩まないでください。絶望しないでください。なぜなら、その出来事はイエス様の戻りのしるしだから。

でもイエス様は私たちに警告します。

あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。(ルカ21:34)

その試練が訪れるとき、周囲の不正を目にして絶望に陥ることは容易です。だからこそ、イエス様は私たちが絶望に陥らないよう注意を促されています。

また、邪悪なものを見る際には皮肉的な心を持たないよう気をつけなければなりません。「イエス様はもう戻ってこられないのではないか」と思い始めてはいけません。

むしろ、イエス様を待ち望み続け、イエス様に仕え続けましょう。そうすれば、あなたは報いを受けることができます。しかし、そうしない場合、あなたは懲らしめを受けることになります。(マタイ24:46-51)

もしかすると、「この話は私には関係ない」と思うかもしれません。なぜなら、その試練が訪れる前、反キリストが現れる前に、あなたがすでにイエス様とともにいると思っているからです。

以前にも述べたように、私もそれを信じたいと願っています。けれども、もし反キリストを目にして、自分が誤っていたことに気づいたなら、そのときは、私が述べたことを思い出してください。

そして、どのような試練に直面しても、どれほどの苦しみを経験しても、主が戻られるまで、イエス様を待ち望み、忠実に仕え続けましょう。

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将来を現すしるし

前回の記事では、この箇所が非常に難解であると述べました。その理由の一つは、マタイ、マルコ、そしてルカが同じ話を伝えているものの、それらを統合するのが難しいという点です。

イエス様が神殿が破壊されると言われた際、弟子たちは大変な衝撃を受け、いつそのことが起こるのかを尋ねました。また、世の終わりのしるしがどのようなものなのかも尋ねました。

彼らの視点を考えてみてください。

その質問をした時点では、彼らはまだイエス様が十字架にかかり、死を迎え、そして復活しなければならないことを理解していませんでした。

さらに、復活された後にイエス様が天国へ帰られる必要があることについても全く分かっていませんでした。

そのため、彼らがイエス様の到来について尋ねた際、その質問はイエス様が天国から戻って来られる時期を指しているのではありませんでした。おそらく、彼らが意味していたのは、イエス様が自身の王国を築くのはいつなのかということだったのでしょう。

彼らは子供の頃から「主の日」について何度も聞いてきた経験がありました。その日は、主が国々を裁き、イスラエルを再び王国として確立される日とされています。

しかし、イエス様は彼らに、神殿が破壊されることを告げられました。それが起こる前に、確かに「主の日」は来ないでしょう。

加えて、その週の初めにイエス様と弟子たちがエルサレムに到着した際、多くの人々が「ホサナ。祝福あれ、主のみ名によって来られる方に。」と叫びました。

この出来事を踏まえて、弟子たちは非常に混乱していたのです。

とにかく、ルカによれば、イエス様は将来、偽のキリストが現れたり、戦争や様々な災害が起こったりするだろうと言われました。

けれども、それが起こる前に、イエス様は弟子たちに、彼らが迫害され、殺されることもあると警告されました。『使徒の働き』を読めば、そのことを目の当たりにすることができます。

また、彼らが捕まえられた時、イエス様が約束されたように、聖霊様が彼らに何を言うべきかを教えられたので、彼らの敵はその証言に対してどのように反論すべきか分からず困惑しました。

さらに、イエス様は彼らに、「軍隊がエルサレムを包囲するのを見たら、すぐに逃げなさい」と警告されました。エルサレムが破壊され、その住民が捕虜になる日が来るからです。イエス様は、妊娠中の女性たちにとってその日は特に困難でひどい時になると語られました。

西暦70年に、イエス様の預言は成就しました。その時、多くのクリスチャンはイエス様の警告を覚えていて逃げ延びましたが、他のユダヤ人たちはエルサレムに留まりました。彼らはエルサレムが最も安全な場所だと信じていたからです。

ところが、イエス様が言われた通り、彼らは殺されるか、捕虜として連れ去られました。

また、マタイとマルコは「荒らす忌まわしいもの」について言及しています。

ダニエルもその出来事を預言しており、アンティオコス4世エピファネスによってその預言が一度成就しました。彼はゼウスの偶像を神殿に立て、祭壇で豚を捧げました(豚は神様の律法によれば汚れたものとされています)。

西暦70年には、そのような具体的な出来事は起こりませんでしたが、一部の聖書学者たちは、ローマ人たちが神殿に入った際、別の方法で神殿を汚し、それがイエス様の預言の成就だったと考えています。私もその意見に同意します。

イエス様はこれらの出来事に関して、次のように語られました。

それらの日には、神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難が起こるからです。(マルコ13:19)

最近まで、私はイエス様が西暦70年の出来事について語っておられないと思っていました。なぜなら、反キリストが来るとき、クリスチャンたちはさらに大きな苦しみに直面すると考えていたからです。

けれども、今ではその確信は揺らいでいます。なぜなら、歴史を振り返ると、エルサレムが倒れた際にユダヤ人たちが味わった苦しみは本当に深刻だったからです。

それでも、おそらく2000年前の出来事は将来のしるしだと思います。実際には、その出来事は現代の状況にも関連していると感じます。

今でも私たちは戦争や戦争のうわさを耳にします。飢饉や地震、様々な災害を目の当たりにします。偽のキリストが現れることもあります。そして、クリスチャンに対する迫害が続いているのです。

さらに、イエス様がこの世に戻られるまで、これらの出来事は続くでしょう。しかし、イエス様が戻られると、天に現れて、全世界がイエス様を見るでしょう。その時、イエス様はご自身の民を呼び集められるのです。(マタイ24:30-31)

多くのクリスチャンたちは、反キリストが現れる前にイエス様がご自身の民を召し、彼らが反キリストを決して目撃しないと信じています。

私もそれを信じたいのですが、その考え方は誤りだと思います。

ただし、その考えについて何を信じるにしても、次の一点を覚えていてください。

エルサレムに関するイエス様の預言はすべて成就しました。そして、イエス様のその他の預言も今なお成就しつつあります。ですから、イエス様は必ずこの世に戻られるでしょう。イエス様はそのように約束されたからです。

イエス様は次のように言われました。

天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。(ルカ21:33)

だから、私たちがどれほどの苦しみを経験しても、私たちの心を整え、希望を持ってイエス様の御再臨を待ち望みましょう。

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私たちの神殿が堕落すると

この箇所は、聖書の中でも最も難解な箇所の一つです。

もしかすると、あなたはこの箇所のすべての解釈を求めているかもしれません。正直なところ、私自身もその答えをすべて知りたいと思っています。

ですので残念ながら、このブログにすべての答えが含まれているわけではありません。

そこで、いつものように私は明確な点に焦点を当てたいと思います。また、この箇所が私たちの人生とどのように関係しているかについて考えてみたいと思います。

さて、今日はイエス様がなぜこのような話を始められたのかを見てみましょう。イエス様がパリサイ人たちや律法学者たちと議論された後、イエス様の弟子たちは神殿を見て、こう言いました。

先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。(マルコ13:1)

もちろん、外見を見ると、神殿は非常に美しい建物でした。けれども、イエス様はすぐに彼らの熱意に冷水を浴びせました。

この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。(マルコ13:2)

イエス様が言われた通り、神殿は崩れました。西暦70年に、神殿は攻撃を受け、火事が起こり、屋根から金が溶け出して壁のひびに入り込んでしまいました。そこで、将軍はその金を取り出すために神殿の石を一つずつ崩すように命じました。

どうして神様はそのようなことを許されたのでしょうか。それは、その神殿の外見は美しかったものの、その内部には多くの堕落があったからです。

もちろん、神殿では良いことも起こりましたが、堕落があまりにも多かったため、最終的にその神殿は立ち続けることができませんでした。神殿には貪欲もありました(だからイエス様は業者たちを追い出されました)。

さらに、「私たちは神様に仕える」と言った祭司たちでさえ、神様に出会った時に神様を認識しませんでした。イエス様が彼らの中におられたにもかかわらず、彼らはイエス様を神様として認めず、むしろイエス様を殺そうと考えました。

私たちクリスチャンは神の神殿です。それでも、これまでどれほど多くの有名なクリスチャンや、そのミニストリーが堕落によって崩れるのを見てきたでしょうか。彼らは崩れるだけでなく、そのミニストリーも完全に崩壊してしまいます。

しかし、彼らを裁く前に、私たち自身の神殿を見直さなければなりません。私たちの神殿には、どのようなものがあるでしょうか。

堕落があるでしょうか。貪欲があるでしょうか。偽善があるでしょうか。嫉妬があるでしょうか。プライドがあるでしょうか。

これらはエルサレムの神殿にも存在していました。それらは、あなたの神殿にも入り込んでいるでしょうか。

また、他の要因も私たちの神殿を汚すことがあります。情欲、苦々しい思い、相手を許さない心は私たちの神殿を汚します。

一方で、愛や憐れみといったものが私たちの神殿にあるべきですが、それらはあなたの神殿に存在しているでしょうか。

周囲の人々が私たちの神殿を見たとき、それを素晴らしい神殿だと思うかもしれません。私たちはクリスチャンの模範に見えるかもしれません。

けれども、私たちの神殿に堕落があるなら、最終的にその神殿は崩れ、堕落は露わになります。

あなたの神殿には、何が存在しているでしょうか。