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罪のない者たちを罪に定めはする?

以前の記事では、私たちは宗教的なリーダーたちが、イエス様が安息日を破ったと責めたことを見ました。しかし実際には、イエス様は神様の安息日に関する律法を破ったわけではありません。イエス様が破ったのは、彼らが作った余計なルールでした。

この箇所でも、イエス様は宗教的なリーダーたちと安息日について議論されます。イエス様とその弟子たちが麦畑を通っていた時、弟子たちはお腹が空いたため、穂を摘んで食べ始めました。

(その時代、それは合法的な行為でした。申命記23:25に記されています。)

けれども、パリサイ人の目には、穂を摘む行為は仕事と見なされました。そして、律法では安息日に仕事をしてはならないとされていました。

それに対して、イエス様は二つの理由を挙げてその考え方を否定されました。

一つ目は、祭司たちが安息日に働いていても、それが罪とは見なされなかったことです。

二つ目は、ある律法はほかの律法よりも優先されるべきだということです。つまり、命を守ることは安息日の律法よりも重要だということです。この点については、パリサイ人もある程度同意していました。

例えば、誰かが死にかけている場合、お医者さんはその人が次の日まで生き延びられるように治療を行い、その後、その人を完全に治療しました。

そして、もう一度、イエス様は預言者ホセアの言葉を引用されます。

「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。(マタイ12:7)

多くの人々は、神様の目にはルールを守ることが最も重要なことであると思っています。そして、彼らは神様が私たちを罰する機会を待っていると考えています。

けれども、実際には神様はルールを守ることよりも、人々自身を大切にされます。

パリサイ人はこのことを理解しておらず、神様の律法を守るために、たくさんの余計なルールを作り出しました。そして、その余計なルールを守らない人を見ると、パリサイ人はその人を責めました。

しかし、イエス様は彼らにこう言われました。

安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。(マルコ2:27)

神様が立てられたルールはすべて正しいものです。それらのルールは、私たちの利益のために存在しています。

私たちはそのルールのために造られたのではありません。神様は、私たちを支配するためではなく、私たちを祝福するためにそのルールを作られました。

その原則を理解すれば、ルールの目的を正しく把握し、それを私たちの人生に適切に当てはめることができます。

、その原則を理解しなければ、パリサイ人のようにルールの本質が分からず、間違った方法で当てはめてしまうでしょう。それだけでなく、私たちは神様の目に無実の人を責めることになりかねません。

あなたはどうでしょうか。神様のルールをどのように考えているでしょうか。それらを余計なルールだと思っているでしょうか。

あるいは、それらのルールがあなたの利益のためだと理解しているでしょうか。そして、そのルールの背後にある理由を正しく理解しているでしょうか。

そのように理解すれば、無実の人を責めることはなくなるでしょう。

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神様があなたを用いるために

ユダヤ人の宗教的なリーダーたちは、しばしばバプテスマのヨハネをイエス様と比較し、ヨハネの弟子たちに嫉妬心を抱かせようとしました。そして、ヨハネの弟子たちは、たびたびその罠にかかってしまいました。

ヨハネ3章では、あるユダヤ人(おそらくユダヤ人のリーダー)がヨハネの弟子たちにこう言いました。「イエス様があなたたちよりも多くの人々にバプテスマを授けていることを知っていますか。」

この箇所では、宗教的なリーダーたちの言葉によって、ヨハネの弟子たちはイエス様に「どうして断食しないのですか」と質問します。

なぜパリサイ人や他の宗教的なリーダーたちは、いつもバプテスマのヨハネとイエス様を比べたのでしょうか。それは、ヨハネがイエス様の証人だったからかもしれません。

ヨハネはイエス様のために道を整えましたが、もしヨハネとその弟子たちがイエス様を批判し始めるなら、その証言は台無しになってしまったでしょう。

イエス様が結婚式の比喩を用いられたのは偶然ではないと思います。なぜなら、ヨハネ3章でバプテスマのヨハネも同じ比喩を用いたからです。その時、ヨハネは自分自身を花婿の友人と比較し、イエス様を花婿と比べました。

そのため、イエス様はヨハネの弟子たちにヨハネの言葉を思い起こさせようとされたのかもしれません。

その時、ヨハネは牢に入っていました。彼の役目は終わっていたのです。それでも、なぜかヨハネの弟子たちはイエス様に従おうとしませんでした。彼らはアンデレの模範に従うべきだったのです。(ヨハネ1:35-40)

イエス様は彼らにこう言われました。

「ヨハネは、あなたたちに私が花婿だと語りました。花婿と共にいる時に、どうして周りの人々が断食したり悲しんだりする必要があるでしょうか。花婿が取り去られる時には断食するのが良いでしょう。

とはいえ、その時はまだ来ていません。私はまだここにいるのです。私が去る時が来たなら、その時、断食し、祈りなさい。」

そして、イエス様はたとえ話を語られました。イエス様は皮袋と衣服の継ぎについて話されました。その時代の人々には、このたとえがよく理解されていましたが、現代の私たちには少し分かりにくいかもしれません。

少し考えてみてください。もし古いジーンズに穴が開いたなら、新しいデニムの継ぎでそのジーンズを修繕しますか?それではうまくいきません。そのジーンズを洗うと継ぎが縮んでしまい、ジーンズ全体が裂けてしまうからです。

現代では、私たちはワインをビンに保存します。けれども、その時代の人々はワインをヤギの皮袋に入れていました。そのワインが発酵すると皮袋は膨らみます。しかし、新しいワインを古い膨らんだ皮袋に入れると、その皮袋はすぐに裂けてしまうのです。

では、イエス様はヨハネの弟子たちに何を教えようとされたのでしょうか。

「神様は新しいことを始めています。私は神の子としてここに来ました。罪によって滅びかけている人々に手を差し伸べています。私は永遠の御国を築いています。

けれども、あなたたちは古い皮袋のようです。あなたたちが自分の伝統や古い方法を愛しすぎるために、神様はあなたたちを用いることができません。」

パリサイ人は律法を愛しました。彼らにとって最も重要なのは人を救うことではなく、律法を守ることでした。彼らは人々を救うよりも、いけにえを捧げたり宗教的な儀式を行うことに関心がありました。

ヨハネの弟子たちは自分の師をあまりにも愛しすぎて、ヨハネの目的を忘れてしまいました。

その目的は単に人々にバプテスマを授けることではありませんでした。その目的は単に悔い改めのメッセージを伝えることでもありませんでした。その目的は人々の心をイエス様のために準備することだったのです。

しかしヨハネが牢に入れられた時、彼らはイエス様の元へ行かず、神様が彼らに与えた目的を逸れてしまいました。

神様はイエス様のミニストリーを通して、新しいぶどう酒(つまり、聖霊の働き)を人々に注いでおられました。それでも、ヨハネの弟子たちはヨハネの教えと伝統的な修行に固執して、「古い物の方が良い」と言ったのです。(ルカ5:39)

あなたはどうでしょうか。あなたの人生に聖霊の働きを歓迎していますか。

それとも、伝統にしがみついているでしょうか。律法主義にしがみついているでしょうか。それとも、古い方法に固執しているでしょうか。その方法が以前は効果的だったかもしれませんが、今はそうではないかもしれません。

もし神様があなたを用いることを望んでいるなら、神様が何をしているのかを見て、その働きに参加する必要があります。そして、あなたの伝統や古い方法を手放す必要があるかもしれません。

あなたは古い皮袋でしょうか。それとも新しい皮袋でしょうか。

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憐れみを与える人

この箇所では、イエス様とその時代の宗教的なリーダーたちの大きな違いが見えてきます。

イエス様がマタイを選ばれたことで、マタイは本当に嬉しくなり、イエス様を宴会に招待しました。マタイは自分の友人たちも招きました。

もちろん、マタイがイスラエルでのけ者だったため、彼の友人たちは皆、のけ者でした。その友人たちには取税人や「罪人」と呼ばれる人々が含まれていました。

それでも、イエス様はためらうことなく宴会に来られ、マタイやその友人たちと一緒に食事をされました。

私たちはどれほどそのようなことをするでしょうか。どれほど、宗教的な人たちが拒絶した人々と付き合おうとするでしょうか。

もしかすると、マタイは悔い改めていたかもしれませんが、その友人たちはまだ悔い改めていなかったかもしれません。それでも、イエス様は彼らと時間を過ごされました。さらに、イエス様はその時間を心から楽しまれました。

では、宗教的なリーダーたちはどう反応したでしょうか。彼らは驚きました。

少し想像してみてください。もし有名な牧師がゲイの人たちと一緒に食事をし、飲んでいたら、ほかの牧師たちはどう反応するでしょうか。日本では分かりませんが、アメリカでは、おそらくその牧師を批判するでしょう。

パリサイ人も同じように反応しました。「いったいどうしてそんな人たちと遊ぶことができるのだろうか。彼らは最低な罪人なのに。」

しかし、イエス様はこう言われました。

医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。(マルコ2:17)

つまり、私たちはこのような人たちとも関わらなくてはなりません。彼らは自分では気づいていないかもしれませんが、霊的に病んでいます。彼らにはお医者さんが必要なのです。

もし私たちが彼らを避けたら、彼らは自分の罪のゆえに滅びてしまうでしょう。

マタイがその場にいたため、彼はマルコやルカが記録していない一つのことを私たちに伝えてくれました。イエス様は、さらにもう一つのことを言われ、マタイはその言葉を一生忘れませんでした。

イエス様は、その宗教的なリーダーたちにこう言われたのです。

「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。(マタイ9:13)

つまり、「あなたたちは律法や自分たちの伝統に非常に熱心です。律法の細かい部分を守り、さまざまないけにえを捧げるために一生懸命努力しています。けれども、神様にとって、それが最も大切なことではありません。

神様が望んでおられるのは、あなたたちが憐れみを与える人になることです。

神様は、罪に縛られた人々を助ける人を求めておられるのです。あなたたちは、そのような人たちと時間を過ごすべきです。そのような人たちに福音を伝えるべきです。

しかし、あなたたちが彼らを避けている限り、彼らは救いの希望がないのです。

あなたはどうでしょうか。罪人を避けているでしょうか。彼らの罪のゆえに、彼らを見下しているでしょうか。

それとも、イエス様の態度を見習い、彼らを医者を必要とする病める人々とみなし、救い主を必要としている人々だと考えるでしょうか。

毎日、私たちは周りの人々に憐れみを示しましょう。神様はそのような人々を望んでおられるからです。

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救われる希望がない?

私はこの箇所が大好きです。なぜなら、この箇所から私たちは重要なことを学べるからです。つまり、たとえ私たちがどんなに堕落していても、神様は私たちを救おうとしてくださるのです。

ある日、イエス様は収税所に近づき、マタイという取税人をご覧になりました。マタイがイエス様を見たとき、彼は心の中で何を考えたのでしょうか。

私には分かりませんが、多分、彼は深い後悔の念を抱いていたことでしょう。彼は数年前、自分の魂を売るような選択をしてしまったからです。

イスラエル人は取税人を非常に嫌っていました。収税人はローマ帝国のために税金を徴収していたため、彼らは敵に協力する者と見なされていました。

さらに、彼らはローマ帝国が要求する税額以上のお金をイスラエル人同士から取り上げ、その余分な金を自分のポケットに入れていました。

どうしてマタイがその道を選んだのかは分かりません。しかし、多分、時間が経つにつれて、そのお金の価値は彼の中で失われていったのでしょう。つまり、彼が何を買っても満足できず、ますます惨めになったのです。

マタイはイエス様を見ると、多分イエス様について行った群衆を羨ましいと思ったかもしれません。彼もまた、イエス様について行きたかったのではないでしょうか。

彼はイエス様の教えを耳にし、イエス様が行われた奇跡についても聞いていました。そして、イエス様に従えば、その惨めな人生から救われると思ったのかもしれません。

けれども、多分彼はこうも考えたでしょう。「それは無理だ。私はもうだめだ。イエス様は決して私のような者を弟子として受け入れないだろう。」

ところが、突然イエス様は、マタイが座っている収税所の前で立ち止まられました。そして、イエス様はマタイに目を留められました。マタイがイエス様の目を見ると、多分、自分の心のすべてが見透かされたと感じて恥ずかしくなり、頭をうなだれたことでしょう。

でも、イエス様は「マタイ」と名前を呼ばれました。

マタイが再びイエス様の目を見ると、その中に叱責は見えませんでした。むしろ、慈悲がありました。赦しがありました。

そして、イエス様はこう言われました。「私について来なさい。」

それはとても単純な言葉です。「私について来なさい。」

でも、その言葉には、深い意味がありました。「あなたにとって、遅すぎることはありません。私はあなたを赦します。あなたには希望があります。救いがあります。私について来なさい。」

だから、マタイはすべてを捨てて、イエス様について行きました。もちろん、彼の心の中にはまだ罪が残っていました。けれども、その日、彼は新しい人生に踏み出しました。

あなたはどうでしょうか。あなたに救われる希望はないと思いますか。自分がもうだめだから、神様があなたをあきらめたと思いますか。

神様は決してあなたをあきらめていません。神様は今でもあなたを愛しておられます。神様は慈悲深い目であなたを見ておられます。そして、赦しと哀れみをあなたに与えてくださいます。

あなたが神様に従うことを決心し、踏み出すなら、神様はあなたを受け入れてくださいます。

もちろん、人生が急にすべて変わるわけではありません。それは時間が必要です。

マタイのように、あなたが一晩で完璧になることはありません。時には罪と戦い、時には失敗することもあるでしょう。

しかし、あなたが「イエス様、あなたに従いたいです。私の主になってください」と祈るなら、イエス様はあなたに新しい心を与えてくださいます。そして、イエス様があなたの心を変え始め、やがてあなたの行動も変わり始めます。

あなたは、その新しい人生に踏み出す決心をしませんか。

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赦しの権威

イエス様は誰でしょうか。ただの偉い宗教的なリーダーだったのでしょうか。ただの良い人だったのでしょうか。それとも、奇跡を行う人だったのでしょうか。いや、イエス様はそれらをはるかに超えたお方だったのです。

この箇所を通して、私たちはイエス様がそうしたお方であることを理解できます。イエス様はカペナウムに戻られました。(その頃、イエス様の家はカペナウムにありました。(マタイ4:13))

この話では、イエス様がその日ご自分の家におられたかは定かではありませんが、イエス様がおられた家は人々でいっぱいでした。おそらく、窓の外からも大勢の人が覗き込み、イエス様の言葉を聞こうとしたのでしょう。

そして、四人の人たちが足が不自由な友達をその家に連れて行き、癒しを求めました。けれども、人があまりにも多く、家の中に入ることができませんでした。

そこで彼らは工夫して、クリエイティブな方法を考えました。彼らは屋根をはがし、穴を開け、その穴から友達を寝かせたまま床に吊り下ろしました。

そのシーンを想像してみてください。イエス様が教えている最中、突然屋根から奇妙な音がし始めます。

そして、急に屋根の破片が落ちてきて、人々は逃げようとしましたが、家が人でいっぱいだったため、逃げるのが難しい状況でした。

結局、人々は家から出て、スペースを空けました。当然ながら、イエス様の説教は中断されました。そして、皆は何が起こるのか気になり、じっと見守っていました。

やがて、足が不自由なその人がイエス様の足下に運ばれてきました。多分、皆はイエス様がその人をすぐに癒やすと期待していたでしょう。ところが、イエス様は意外なことを言われました。

子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。(マタイ9:2)

多分、その落ちた屋根の破片よりも、その言葉がさらに強い衝撃を与えたことでしょう。皆は静まり返りました。そして、パリサイ人と律法の学者が、皆の心に浮かんだ思いを代弁しました。

神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。(ルカ5:21)

つまり、「イエス様には罪を赦す権威がないでしょう。神様だけが罪を赦すことができます。」

彼らの言うことの半分は確かに正しいことでした。

もちろん、罪を赦すことができるのは神様だけです。傷つけられた方だけが、相手を赦すことができるのです。

しかし、彼らが理解していなかったのは、神様ご自身が彼らの間に立っておられたということです。イエス様は神なので、罪を赦す権威をお持ちです。

そして、イエス様はその人の癒やしを通して、その赦す権威を明確に示されました。

イエス様は、ただの宗教的なリーダーではありません。ただの良い人でもありません。また、ただの奇跡を行う人でもありません。イエス様において、神様は人間となられたのです。

イエス様はこの世に来られ、私たちと共におられました。そしてその後、私たちの罪のために十字架で死なれました。その御業を通して、神様は私たちの罪を赦すことができるのです。

イエス様は、その人を赦し救われたように、あなたをも赦し救ってくださいます。あなたがイエス様に祈るなら、必ず応えてくださいます。