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私たちの信仰

イエス様の言葉、「信仰の薄い者たちだ」を読むとき、私はこう思います。「もし、イエス様が私を見ると、イエス様に同じ言葉を言われるかなあ。「ブルース、どうしてあなたの信仰はそんなに薄いか。」」

イエス様の弟子たちの状況についてちょっと考えてみてください。

イエス様が言った通りに、彼らは湖を渡ろうとしました。最初は、湖は静かだったけど、急に大暴風が起こりました。その船は大波にぶつかったし、どう漕いでも、進めることができませんでした。

そして、彼らは思い出しました。「イエス様はここにおられる。どうして、イエス様は何もしてくださらないだろうか。」

彼らはイエス様を見たけど、イエス様は寝ていました。「私たちはすぐに死んでしまうのに、イエス様は寝ているのか。」

だから、彼らはイエス様を起こして、叫びました。「先生。私たちはおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。助けてください。」

その時点で、弟子たちはイエス様から何を期待したのでしょうか。この話の最後で、彼らはイエス様の力に本当に驚きました。だから、何を期待していたでしょうか。

多分、彼らは全然何も期待していませんでした。彼らはイエス様に頼んだけど、「多分イエス様には何もできない」、と思ったでしょう。

でも、彼らが分かったのは、彼らを助ける力を持つ人は、イエス様しかいないということです。だから、彼らの反応には、信仰と不信が入っていました。

どのぐらい、私たちもそのように反応するでしょうか。私たちは自分の問題におぼれているし、私たちはずっと頑張ったけど、最終的に希望がなくなりました。

だから、やっと私たちはイエス様に叫ぶけど、実は、私たちはイエス様が私たちを助けられないと思っているけれど、もうほかの解決が見えないのだと思います。

私たちは信仰をもつ心から叫べずに、恐れから叫びます。

私たちは「イエス様は寝ているの?私たちのことを本当に愛しているだろうか」、と思います。

でも、恵みによって、イエス様は私たちを助けて、優しく叱責します。「どうして、そんなに怖がっているのでしょうか。まだ信仰がないのですか。」

だから、この記事の元の質問に戻ります。どのぐらいイエス様はそのことを私に言うでしょうか。どうして、私はイエス様の愛を疑うでしょうか。イエス様が何回も自分の力を現したのに、どうして私はその力を疑うでしょうか。でも、私はそうします。

私がイエス様を心から信頼できたら、なんと素晴らしいことでしょう。

自分の状況をコントロールできないとき(そもそも私たちにコントロールできることが本当にあるのでしょうか)、私はパニックにならずに、イエス様に信頼して歩むことを願っています。

さらに、信仰をもって、イエス様が私を愛し、私の必要を備えてくださることを信じて生きることを願っています。

あなたはどうですか。それがあなたの願いなのですか。

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良い先生の特質

私は20年以上英語を教えてきましたし、30年近く聖書を教えてきました。

それでも、イエス様の教える技術のレベルには決して達することができないと思います。イエス様は、本当に最も熟練した先生でした。

なぜイエス様はそんなに素晴らしい先生だったのでしょうか。それは、イエス様の教え方が本当に素晴らしかったからです。では、イエス様はどのように教えたのでしょうか。

この箇所によると、イエス様はいつもたとえ話を用いられました。では、なぜたとえ話を用いられたのでしょうか。

以前にも述べたように、たとえ話を通して、イエス様は誰が本当に学びたがっているのかを区別されました。学びたいと思う人々は、いつもイエス様に質問をしました。

一方で、質問をしない人々は、その話を楽しむことはできても、その話の意味を理解することはできませんでした。

けれども、イエス様に質問をする人々にとっては、たとえ話は分かりやすくなり、覚えやすいものとなったのです。

それは、良い先生が持つ特質の一つです。霊的な真実を説明する際、誰にでもその真理が理解できるようにすることです。

一部の先生は、自分の学歴や霊的な知識を誇示したいがために、誰も理解できない術語を使ったりします。また、会衆がすぐに忘れてしまうギリシャ語やヘブル語を紹介することもあります。

その結果、会衆は感激して「本当に深いメッセージだったね。学問的な内容だった。」と言うかもしれません。

それでも、最終的には彼らはこう思うのです。「いったい何の話だったのか、その意味がよく分からなかった。」

一方で、イエス様はいつもシンプルな言葉を用いられたため、誰にでも理解できました。

そのたとえ話とシンプルな言葉のおかげで、会衆はイエス様の教えに引き込まれました。会衆にとって、つまらない話を長時間聞くのは本当に苦痛です。しかし、イエス様は決してそのような話をされませんでした。

イエス様は会衆のレベルを正確に理解しておられました。マルコによれば、「イエス様は彼らの聞く力に応じて、みことばを語られた」(マルコ4:33)とあります。

つまり、イエス様は彼らが理解できないことを教えられることはありませんでした。

また、へブル人への手紙の著者も、赤ちゃんに堅い食べ物を与えるのは適切ではない、と述べています。その赤ちゃんが堅い食べ物を食べられるようになるまでは、ミルクを与えなければなりません。そして、成長したら堅い食べ物を与えることができるのです。(ヘブル5:11-14)

最後に、イエス様は弟子たちの質問にいつも答えてくださいました。マルコはイエス様についてこう記しています。

たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。(4:34)

普通、イエス様は弟子たちの質問を待って、その質問に答えてくださいました。

私たちはイエス様のようにいつも答えを持っているわけではありません。けれども、質問を通して、私たちはさらに学び、先生として成長していくことができます。

たとえあなたが教会の先生ではなくても、私たちは皆教える機会を持っています。例えば、子供たちを教える機会や、神様に導かれて私たちのもとに来た人々を教える機会が与えられます。

だからこそ、イエス様のような先生になるために努力していきましょう。

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からし種のたとえ話:小さいものから始まること

私は、イエス様が御自身の説教で用いられた生き生きとした描写が大好きです。

この話では、イエス様は神の国をからし種に例えられました。その種はとても小さいものですが、やがて大きな木に成長し、鳥はその枝に巣を作ります。

イエス様の要点は何でしょうか。たいていの場合、神の国は最初から大きなものとして始まるのではなく、むしろ小さなものとして始まります。

特に、多くの場合、神様は御自身の国を建てるために、世の目には取るに足りないと思われる人々を選ばれます。

例えば、マリアは貧しい十代の女性でした。ヨセフはただの大工でした。

そして、イエス様が来られたとき、大軍を率いる王としてではなく、父ヨセフと同じく大工として来られました。

イエス様が弟子たちを選ばれたとき、漁師、ローマ帝国と協力する収税人、そしてローマ帝国を憎む愛国者を選ばれました。

キリスト教が始まったとき、それは世の基準では取るに足りない都市で始まりました。当時の世界にはエルサレムよりも重要な都市がいくつもありましたが、神様はエルサレムを選ばれました。

それでも、その取るに足りない都市から、クリスチャンたちは世界中に行き、福音を宣べ伝えました。

では、この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

あなたは自分を取るに足りない人間だと思うかもしれません。神様が天の国のためにあなたを用いることはできないと思うかもしれません。

けれども、世の目には取るに足りないと思われるからこそ、神様は喜んであなたを用いられます。神の国には、たくさんの「取るに足りない人」がいるのです。

そして、あなたのような人を通して、神の国は広がり、この世の人々に触れていきます。

だからこそ、パウロはこう記しました。

兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。(第一コリント1:26-29)

心に留めておきましょう。神様の目には、あなたは取るに足りない人ではありません。むしろ、神様は小さな者を通して偉大な御業を行われます。

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イエスのたとえ話:御国の種

このたとえ話には、前回のたとえ話と大体同じ意味があると思います。前にも言いましたが、私たちは神様の言葉を人々の心に蒔くかもしれませんが、その種を成長させることができるのは神様だけです。

例えば、私たちが福音を伝えるとき、相手は無関心かもしれません。または、彼らが本当に怒るかもしれません。それでも、私たちが意識しなくても、その種は根を張っているかもしれません。

私たちの力がなくても、神様は聖霊様を通して、相手の心の中で働き始めます。神様は状況や他の人々を用いて、その人を近づけてくださいます。

そして、いつの間にか、その人はあなたのところに来て、微笑みながらこう言うのです。「イエス様のことを教えてくださって、本当にありがとうございます。あなたのおかげで、私はクリスチャンになりました。」

しかし、このたとえ話はまた別の解釈もできると思います。

時々、私たちはこの世を見てフラストレーションを感じます。「神様の国は本当に来るのだろうか。そうは見えないなあ。この世界はだんだん悪くなっているようだから。」

でも、このたとえ話では、私たちはいくつかのことを学ぶことができます。

イエス様とその弟子たちを通して、神の国の種はすでに蒔かれました。今でも、人々の心にたくさんの種が蒔かれています。そして、その種は成長し続けています。

とはいえ、多くの場合、私たちはその成長に気づきません。けれども、振り返ると、その福音の種がどれほど成長したかに気づくことができるのです。

イエス様が天に戻られて以来、福音がどれだけ広まったか考えてみてください。一つの都市から始まり、世界中に広まりました。今でも、その福音は広がり続けています。

そして、神様の国が打ち勝つことは確かなものです。誰もその成長を止めることができません。ソ連もそれを学びました。福音を滅ぼそうとした他の国々も、それを学びました。

だから、最終的に神様の国が来て、すべての人々がその国を見ることになります。その日、イエス様はすべてを治められます。そして裁きの日に、イエス様に従う人々は報いを受け、自分の道を選んだ人々は滅びるのです。

では、私たちはどうすればよいのでしょうか。

1.希望を持って待つこと。 周りの悪を見て、失望するのは簡単なことです。でも、勇気を持ってください。神様の国は確かに来ています。そして今も成長を続けており、誰もその成長を止めることはできません。

だから、たとえフラストレーションを感じたり苦しみを経験したりしても、待ち望み続けてください。この邪悪な世界は永遠に続くことはありません。そして裁きの日には、あなたは必ず報いを受けます。

2.ちゃんと準備をすること。 いつイエス様が戻られるかわかりませんが、その日まで私たちは天の父のご用を果たさなくてはなりません。

イエス様が戻られる時期は重要ではありません。重要なのは、イエス様が戻られるその時に、私たちがちゃんと準備を整えていることです。

あなたはどうでしょうか。あなたは準備ができていますか。

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種まきのたとえ話:種を蒔こう

前回、この箇所についてお話ししましたが、今日は同じ箇所から別の視点についてお話ししたいと思います。

この話を見ると、農夫がイエス様を象徴していると考えることがよくあります。それも確かにそうかもしれませんが、イエス様が農夫について語られたとき、私たちのことを考えていた可能性もあります。

イエス様がこの世におられた時間は非常に短いものでした。その間に、イエス様は神様の御言葉を人々の心に蒔きましたが、今や私たちがその種を蒔く役割を担っているのです。

このたとえ話から、本当に重要なことを学ばなければならないと私は思います。

私たちが神様の御言葉を蒔くとき、その種が固い心に落ちることがあります。相手がその言葉を聞いても理解せず、また理解しようともしないため、サタンがその言葉を奪ってしまいます。

また、別の人々はその言葉を聞き、喜んで受け入れ、自分の信仰を宣言します。その姿に私たちは大変喜びます。けれども、困難や迫害が訪れると、彼らはその信仰を簡単に捨ててしまいます。

ある人々は、その言葉を信じ、クリスチャンとして成長し始めます。しかし、彼らの仕事や生活の忙しさが、神様との関係を妨げてしまうことがあります。

おそらく彼らは、お金や物を優先しすぎるのかもしれません。教会には通っているかもしれませんが、それ以上の霊的な成長は見られず、霊的な実を結ぶこともありません。

けれども、他の人々はその言葉を聞き、神様の国のために豊かな実を結び始めます。

私のポイントは何でしょうか。その結果は私たちの責任ではありません。私たちは相手の心を変えることはできません。では、私たちにできることは何でしょうか。

私たちは、種を蒔くことができます。そして、水を注ぐことができます。さらに、祈ることができます。パウロはこう言いました。「植える人もいるし、水を注ぐ人もいるけど、成長させたのは神です。」(第一コリント3:6-7)

蒔いた種が成長せず、実を結ばないとき、がっかりした経験があるでしょうか。その結果をコントロールすることはできません。

私たちにできることは、ただ種を蒔き、水を注ぐことです。その後、その人を神様に委ねるしかありません。

あなた自身はどうでしょうか。その種を周りの人々に蒔いていますか?

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種まきのたとえ話:私たちの心の状態

以前、イエス様はさまざまなたとえを用いられましたが、これはイエス様の最初の本格的なたとえ話です。

このたとえ話では、農夫が多くの種をあちらこちらに蒔きました。おそらく、もっと効率的な方法があったかもしれませんが、その時代の農夫たちはこのようにして種を蒔いていました。

道に落ちた種もありましたが、鳥が来てその種を食べてしまいました。イエス様によれば、その道は、神様のみ言葉を聞く人を象徴しています。けれども、残念ながら、その人はその言葉を理解できず、理解しようとも思いませんでした。

私は前に述べたように、たとえ話は本当に学びたいと思った人と、ただエンターテインメントを求める人とを区別しました。

イエス様の弟子たちのように学びたい人々は、イエス様にそのたとえ話の意味を尋ねました。一方で他の人々は意味が分からないまま帰りました。

彼らはイエス様の話を楽しんだかもしれませんが、そのたとえ話の意味を理解せず、理解しようとも思わなかったのです。その結果、サタンがその言葉を奪い、彼らはその言葉をすぐに忘れてしまいました。

また、他の種は岩地に落ちました。岩地とは、石灰岩の上に薄い層の土がある場所です。その土は浅かったため、種はすぐに芽を出しましたが、日が昇ると、根がないためにすぐに枯れてしまいました。

このような人々について、イエス様は次のように言われました。「み言葉を聞くと、すぐに喜んで受け入れます。しかし、み言葉のために困難や迫害が起こると、彼らはすぐにつまずいてしまいます。」(マルコ4:16-17)

彼らはそもそもクリスチャンだったのでしょうか。おそらくそうではないと思います。なぜなら、彼らには根がなかったからです。

もしかすると、彼らには一時的な感情的経験だけがあったのかもしれません。けれども、その感情がなくなり、「信仰」のために迫害が訪れたとき、彼らはすぐにキリストに背を向けてしまいました。

また、他の種はいばらの中に落ちました。ところが、「いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。」(マルコ4:7)

このような人々について、イエス様はこう言われました。「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。」(マルコ4:19)

多くのクリスチャンがそのような生き方をしています。この世を愛しすぎるあまり、イエス様に対する愛を忘れてしまうのです。

最後に、ある種は良い地に落ち、たくさんの実を結びました。このような人々は、神様の言葉を聞き、理解し、受け入れ、そしてずっとその言葉を覚え続けます。そのため、彼らは神様の国のために豊かな実を結びます。

あなたの心はどのような状態でしょうか。

神様の言葉がわからないとき、あなたはその言葉をただ置いておくだけでしょうか。それとも、その意味を求めるでしょうか。誰かに尋ねるでしょうか。

私たちは質問することで成長します。けれども、もし私たちが尋ねないままでいるなら、全く成長することはありません。そして、サタンが神様の蒔いた種を盗んでしまいます。

教会に行くとき、ただ感情的な経験だけを求めていませんか。感情は移り変わるものです。もし感情に基づいて信仰を築こうとするなら、その信仰はすぐに崩れてしまいます。むしろ、あなたの信仰はイエス様とそのみ言葉に基づいて築かなければなりません。

あなたは毎日、何を求めているでしょうか。

すべてに優先して、神様を求めていますか。それとも、お金、快楽、持ち物を求めるあまり、神様のために時間がなくなってしまっていますか。また、あなたはもう神様の御心と御国を求めることを忘れてしまっていませんか。

それとも、あなたは神様のみ言葉を聞き、その意味を理解しようとしていますか。その言葉を受け入れ、信じ、心に刻んでいることで、豊かな実を結んでいますか。

あなたの心の状態は、今どのようなものですか。

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イエスのたとえ話:真理を求める目と耳

イエス様の口癖の一つは、「聞く耳のある者は聞きなさい」という言葉です。

福音書においても、イエス様はその言葉を語られ、黙示録においても同じ言葉を語られました。

では、イエス様が意味されたことは何だったのでしょうか。

ある日、イエス様がたとえ話を語られた後、弟子たちはこう尋ねました。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」

イエス様は次のように答えられました。

あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。

というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。

わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。

「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。

この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。

それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。」(マタイ13:11-15)

「あなた方に天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません」という言葉は、一見すると少し不公平に感じられるかもしれません。

なぜイエス様はそのようなことを言われたのでしょうか。少し考えてみましょう。

イエス様のたとえ話は、だれでも聞くことができました。そのたとえ話の意味は、漠然としていたかもしれませんが、イエス様はその意味がいつか明らかになるよう意図されました。そして最終的に、それらのたとえ話は真理を照らします。

イエス様は次のように言われました

隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。(ルカ8:17)

だから、弟子たちがイエス様のたとえ話の意味を求めると、イエス様はその意味を説明されました。そして、最終的に彼らは教会の人々にその意味を伝えました。

とはいえ、すべての人々が真理を本当に知りたいと思うでしょうか。彼らは答えを求めているでしょうか。それとも、彼らはただのエンターテインメントを求めているだけでしょうか。

イエス様のたとえ話は、神様の真理を求める人々とエンターテインメントを求める人々を区別しました。

現代の教会が抱える問題の一つは、多くの人々が神様の真理を求めるよりも、エンターテインメントを求めていることです。

そのため、彼らは賛美を歌ったり、牧師のメッセージを聞いたりするかもしれませんが、それでもその言葉が彼らの心を貫くことはありません。

そして、万が一その言葉が心を貫き、違和感を覚えるとしたら、彼らはその言葉を聞くことをやめて、別のことを考え始めます。

残念ながら、彼らがその状態を続けるなら、最終的に彼らは神様の声を聞くことができなくなります。マタイが引用したイザヤの預言は彼らに実現します。

彼らは見ても、本当に見ることはありません。聞いても、本当に聞くことはありません。むしろ、彼らは自分の目と耳を神様の真理に対して閉ざしてしまうのです。

だからこそ、イエス様は私たちに警告されます。

「神様の真理を聞くとき、あなたの聞き方に注意しなさい。そして、その言葉にきちんと思いを巡らしなさい。もしその言葉を正しく聞いて従うなら、神様はさらに多くを教えてくださいます。

けれども、そうしないなら、学んだことを忘れ、ついには神様がもうあなたに語りかけてくださらなくなるのです。(マルコ4:24;ルカ8:18)

そして、イエス様は弟子たちにこう言われました。

しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。

まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。(マタイ13:16-17)

あなたはどうでしょうか。あなたには真理を見極める目と神様の言葉に耳を傾ける耳があるでしょうか。