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人々を清め、命を与えてくださる神

旧約聖書を読んでいると、「清いもの」と「汚れたもの」についての記述が頻繁に出てきます。ユダヤ人たちにとっては、触れても良いものと触れてはならないものが多くありました。

例えば、死骸は汚れたものとされていました。また、生理中の女性たちも汚れたものとみなされていました。もしそのような者に触れると、自分自身も汚れたものとされてしまいました。

以前にも述べたように、不思議なのは、イエス様が汚れた人々に触れた時、イエス様自身が汚れたものとならず、むしろその汚れた人々が清い者とされたことです。

この箇所では、まさにそのような場面を見ることができます。

一人の女性が、十二年もの間、長血の病に悩まされていました。これはおそらく、生理的な問題だったかもしれません。

彼女は一か月に一度だけではなく、常に汚れたものとみなされていました。彼女は多くの医者に診てもらいましたが、全く治りませんでした。

そこで彼女は必死にイエス様の服に触れようとしました。彼女は「この服に触れさえすれば、必ず治る」と信じていたからです。

では、なぜ彼女はイエス様に直接お願いしなかったのでしょうか。おそらく彼女は、自分の病のために深く恥じていたからではないでしょうか。

また、「汚れたもの」としてみなされていたため、イエス様に拒絶されるかもしれないと思っていた可能性もあります。

しかし、彼女がイエス様の服に触れた瞬間、病が癒された時、イエス様はこう尋ねられました。

だれがわたしの着物にさわったのですか。(マルコ5:30)

そして、彼女が自分の行動を認めるまで、イエス様は待っておられました。なぜイエス様が彼女の返事を求められたのでしょうか。おそらく二つの理由があったのだと思います。

一つ目は、彼女が完全に癒されたことを確信させたかったからです。つまり、その病気がもう二度と再発しないことを伝えるためでした。

二つ目は、イエス様が周りの人々にこの癒しについて知らせたかったからです。12年間、彼らはその女性を除け者にしていました。けれども彼女が清いものとなったことを公に知らせたいとイエス様は思われたのでしょう。

その後、イエス様は会堂管理者であるヤイロの家へ行かれました。彼の娘が瀕死の状態だったからです。ところが、その家に着く前に、ヤイロの家から人々が来て、「あなたのお嬢さんは亡くなりました」と伝えました。

それにもかかわらず、イエス様はヤイロに「恐れないで、ただ信じていなさい」とおっしゃいました。

そして、イエス様はその少女のそばに行かれ、愛を持ってこう言われました。「少女よ、あなたに言う。起きなさい。」

その言葉が告げられた瞬間、彼女は起き上がりました。

この話から、私たちは何を学ぶべきでしょうか。

私たちの罪によって、私たちは皆「汚れたもの」となってしまいました。「自分はあまりにも汚れていて、もうきよめられることはない」と感じているかもしれません。あるいは、「神様はもう私を赦してくださらない」と思っているかもしれません。

罪のために、希望を失っていると感じているかもしれません。結婚や家計が壊れてしまい、将来への展望がないと思っているかもしれません。

けれども、その女性を癒された神、またその少女を復活させられた神は、今も生きておられます。神様はあなたを清め、新しい命を与えることができます。

神様は、一つの言葉、一つの手で、あなたを癒すことができます。

もしあなたがイエス様に向かい、イエス様とその十字架の働きを信じるならば、イエス様はあなたを癒してくださいます。

ですから、あなたのために私はパウロのように祈ります。

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。(ローマ15:13)

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解放された

これは実に不思議な話だと思います。

嵐の後、イエス様とその弟子たちは湖の向こう側に到着します。そこで彼らは、二人の悪霊につかれた男性に出会います。

(マルコとルカの福音書では、悪霊につかれた一人の男性についてのみ記述されていますが、その理由は分かりません。もしかすると、一人だけがイエス様を信じたのかもしれません。ただし、それは推測にすぎません。)

おそらく、イエス様と弟子たちが浜辺へ漕ぎ寄せる途中で、奇妙な叫び声を耳にしたことでしょう。そして突然、裸の二人の男性が駆け寄ってきます。彼らは腕や足に壊れた鎖をつけていたかもしれません。

そして、弟子たちがよく見ると、彼らの体に多くの傷があることに気づきます。彼らは何度も自分自身を傷つけていたからです。

あなたがその二人を見たら、どのように感じるでしょうか。おそらく私は非常に恐怖を感じたでしょう。

それでも、イエス様は冷静に振る舞い、悪霊たちにその二人から出ていくよう命じられました。

悪霊たちは最初は従わずに叫びます。

神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。

神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。(マタイ8:29;マルコ5:7)

けれども、イエス様がもう一度「出て行け」と命じられると、その悪霊たちはイエス様に懇願します。

もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。(マタイ8:31)

イエス様が「行け」と命じられると、悪霊たちは豚の中に入りました。そして、その豚の群れは湖へ駆け降り、水に溺れて死んでしまいました。

その二人の人々は解放されましたが、町の人々はその光景を見ても喜ぶどころか、逆に恐怖を抱きました。

そのため、彼らはイエス様に「どうかこの地方を立ち去ってください」と懇願しました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

まず第一に、悪霊は実在するということです。そして、悪霊は非常に危険な存在です。

一部の人々は、タロットカードやウィジャ板を使いながら「これはただの遊びだ」と考えるかもしれません。しかし、それらを使うことで私たちは悪霊の影響を受けやすくなります。

ある牧師がこう言っています。「悪霊の世界に通じるドアがあるが、そのドアには取っ手が一つしかありません。それは私たちの側にあります。私たち自身がそのドアを開けるとき、悪霊が私たちの人生に入ることができるのです。」

タロットカードやウィジャ板、占い師などはそのようなドアを表しています。

さらに、悪霊は私たちの益を全く望んでいません。時には光の天使のように装いますが、彼らの本当の目的は私たちを破滅に導くことです。

この箇所では、悪霊がその二人の人々や豚たちにどのように影響を与えたかをよく見ることができます。それは悪霊の意図を明確に示しています。

タロットカードやウィジャ板、占いは一見楽しそうに見えるかもしれませんが、それらの背後には悪霊が潜み、私たちを滅ぼそうとしています。

良い知らせは、私たちはその悪霊を恐れる必要がないということです。悪霊は確かに力を持っていますが、イエス様は彼らをはるかに超えた力を持っておられます。また、悪霊に対して、イエス様は完全な権威をお持ちです。

それでも、オカルトからは距離を置いてください。いつかイエス様と弟子たちのように、あなたも悪霊と向き合うことになるかもしれませんが、悪霊を求めることは決してしないでください。

さらに、この話から私たちが学べるもう一つの教訓があります。

最初、罪は魅力的に見えるかもしれませんが、最終的にその罪はあなたを支配するようになります。

どうして悪霊がその二人に入ったのかは分かりませんが、確かなのは、彼らが神様を求めていなかったということです。

そして、彼らが悪霊にドアを開けてしまった結果、悪霊が彼らに入り込み、彼らは自分自身をコントロールできなくなりました。その代わりに、悪霊が彼らを支配し始めたのです。

そのように、私たちは最初は罪を選んでしまうかもしれませんが、最終的にその罪に支配されることになります。そして、この話にあるように、私たちは自分自身を傷つけてしまいます。

神様が私たちに恵みを与えず、私たちが決して悔い改めないなら、私たちは最終的に滅びてしまうでしょう。

しかし、イエス様は私たちを解放する力を持っておられます。もし私たちが心から悔い改めるなら、イエス様は私たちを赦し、罪に打ち勝つことができるよう助けてくださいます。

ただ、私たちの変化を周りの人々が見たとき、必ずしも喜んでくれるわけではありません。

この話では、町中の人々は喜びませんでした。それどころか、イエス様に「どうかこの地方を立ち去ってください」と願ったのです。

悪霊につかれていた人々は恐ろしい存在でしたが、町の人々はむしろ彼らが解放されなかったほうが良かったと思っていたかのようです。

あなたの周りの人々も、あなたの変化を見たとき、同じように感じるかもしれません。

それでも、イエス様は私たちをその人々のもとに送り出されます。そして、イエス様が彼らに言われたように、私たちにもこう言われます。

家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。(ルカ8:39)

イエス様はあなたを解放してくださいました。神様があなたにしてくださったことを周りの人々に伝えてみませんか。そうすることで、彼らも解放される可能性があります。