イエス様はこの女性と話された時、何を考えておられたのでしょうか。また、どのようなトーンで話されたのでしょうか。
ユダヤ人と向き合われた後、イエス様はイスラエルを離れて、ツロとシドンへ行かれました。その場所はイスラエルの北にあり、海岸の近くに位置しています。
イエス様はひっそりとそこに行かれましたが、すぐに人々はイエス様がおられることを聞きつけました。その中に一人の女性もいました。彼女はギリシャ人で、その地域で生まれ育った人でした。
(マルコの福音書によれば、彼女はカナン人とも呼ばれていました。)
彼女の娘が悪霊に取りつかれていたため、イエス様に助けを求めに来ました。
主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。(マタイ15:22)
通常、イエス様は人々に思いやりをもって話されましたが、この場合はそうされませんでした。イエス様は彼女の願いを聞かれましたが、彼女を無視されました。
それでも、彼女はあきらめず、必死に叫び続けました。「主よ、私の娘を助けてください。」
だから、主の弟子たちはイエス様にこう言いました。
あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。(マタイ15:23)
それを聞いて、イエス様はその女性に向かって、こう言われました。
わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません。(マタイ15:24)
イエス様はどのようなトーンでその言葉をおっしゃったのでしょうか。少し苛立たれた声だったのでしょうか。それとも、少し謝罪するような優しい声だったのでしょうか。
「ごめんね。助けたいけれど、私はユダヤ人たちのために遣わされているのです」と。
イエス様がその言葉をどのように言われたのかは分かりませんが、彼女はまだあきらめませんでした。それどころか、彼女はイエス様のもとに近づき、ひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と懇願しました。
それでもイエス様は、もう一度、少し厳しい言葉で彼女を拒まれます。
子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです(マタイ15:26)
イスラエルでは、誰かを犬と呼ぶことは侮辱とされていました。しかし、イエス様は「子犬」と言われました。彼らの言語では、「小」を付けることで、相手を少し可愛がるニュアンスが生まれます。
それでも、多くの人がその言葉を聞いたならば、感情を害されたかもしれません。
ところが、彼女は怒ることなく、イエス様の言葉を用いてこう言いました。
主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。(マタイ15:27)
つまり、彼女はこう言いました。「あなたがユダヤ人のために遣わされていることは分かっています。でも、彼らが食卓から落とすパンくずを、私たちがいただいてもよいのではないでしょうか。」
それを聞いて、イエス様は意外な言葉で彼女を褒められました。
ああ、あなたの信仰はりっぱです。(マタイ15:28)
イエス様が相手の信仰を褒められることは本当に珍しいことでした。それはたった二回だけ記録されています。そして、その二人目も異邦人でした。(マタイ8:5-13)
とにかく、イエス様はその女性の信仰を見て感動され、その娘を癒されました。
私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか?
時には、私たちが祈るとき、神様が沈黙されているように感じることがあります。無視されているように思うかもしれません。けれども、この女性のように、私たちは根気強く祈り続けるべきです。
もちろん、私たちはイエス様に命令することはできません。(時々、ある牧師たちはそのように教えることがありますが、それは誤りです。)
しかし、謙虚な態度をもって、イエス様が私たちを助けることができると信じるならば、多くの場合、イエス様はその願いを叶えてくださいます。
ですから、私たちは自分自身にこう問いかけるべきです。
1.神様が良い方であり、私たちを愛しておられることを信じますか?
2.神様がその願いを叶えられても、断られても、その答えが私たちの益のためだと信じますか?
3.神様が答えられるまで(「はい」でも「だめ」でも)、私たちは祈り続けるでしょうか?
では、あなたはどうでしょうか?根気をもって祈り続けますか?神様を信頼しますか?神様があなたの願いを断られたとしても、謙遜にその答えを受け入れるでしょうか?