カテゴリー
マタイの福音書 マタイ16章 マルコの福音書 マルコ8章 マルコ9章 ルカの福音書 ルカ9章

最も大切なもの

あなたは何のために生きているでしょうか。何を求めているでしょうか。

楽な人生でしょうか。富でしょうか。この世の物でしょうか。

この箇所で、イエス様は私たちに自分の優先順位を見直すように挑戦されています。イエス様は弟子たちに、そして私たちに、本当に難しいことを語られました。

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい(ルカ9:23)

イエス様は私たちにそう要求されましたが、ご自身もそのように生きておられました。

イエス様は自分自身を捨てられました。

イエス様は天国に留まり、私たちをそのまま放置し、地獄へ向かわせることもできました。けれども、イエス様は天国を離れ、栄光を捨て、天使の礼拝を後にしてこの世に来られ、人間となられました。

この世において、イエス様はご自身のニーズを優先せず、周囲の人々の必要を満たすことを選ばれました。

イエス様は十字架を背負われました。

イエス様は打たれ、血を流されながらも、自らの十字架を死刑の場まで運ばれました。そして、十字架上で激しく苦しまれ、死なれました。なぜでしょうか。

天の父の計画を成し遂げるためです。私たちの救いのために死なれました。

イエス様がご自身を捨てられたように、私たちも自分自身を捨てるべきです。とはいえ、それは人生を楽しんではいけないという意味ではありません。イエス様もご自身の人生を楽しまれました。

ただし、神様の計画を果たすために、時には自分のニーズや願いを手放す必要があるのです。

時には、私たちは苦しまなければならないことがあります。私たちの家族は、私たちの信仰のゆえに私たちを拒絶するかもしれません。日曜日に働かないことで、職を失うかもしれません。イエス様に従うがゆえに、迫害を受けるかもしれません。

それでも、私たちは苦しみの中にあっても、イエス様に従うべきです。

なぜでしょうか。それは、イエス様にあって、私たちが最も大切なものを見出すからです。それは、イエス様との関係であり、また私たちのために備えられたイエス様の計画を成し遂げることです。

しかし、ある人々は、自分が欲しいもののために、イエス様とその計画を捨てます。彼らは自分の欲望を手放さず、代わりにイエス様を手放してしまいます。

イエス様は彼らにこう言われます

人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。

もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。

しかし、わたしは真実をあなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます。(ルカ9:25-27)

時に厳しい現実ですが、もし私たちがイエス様を捨て、自分の欲望を持ち続けるなら、最終的にすべてを失ってしまうのです。

けれども、逆に自分の願いを手放し、イエス様に従うなら、真の満足と平安を見出すことができます。なぜなら、裁きの日に、イエス様は私たちに報いを与えてくださるからです。

この世においても、私たちはその栄光を垣間見ることができます。

そのため、イエス様は弟子たちにこう約束されました。

まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。(マルコ9:1)

弟子たちはイエス様のために苦しみましたが、彼らは神の国が力強く到来するのを目の当たりにしました。神様は彼らを通して奇跡を行われ、福音によって多くの人々の人生が変えられました。

また、彼らはイエス様のために殉教しましたが、神の国に着いたとき、素晴らしい報いを受けました。

あなたはどうでしょうか。一番大切なものを得るために、自分の欲するものを手放すことができるでしょうか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ16章 マルコの福音書 マルコ8章 ルカの福音書 ルカ9章

イエス様の邪魔するもの

私たちはよく、他のクリスチャンにつまずきや妨げとなるものを置かないよう、注意するように教えられます。

また、キリストを信じない人々に対して、イエス様が「つまずきの石」や「妨げの岩」であるということをよく聞きます。

しかし、私たちはどれほどイエス様の働きを妨げる存在になってしまうことがあるでしょうか。この箇所を読んだとき、そのことを考えさせられました。

イエス様は弟子たちに、神様の計画を成し遂げるために、ご自身が死ななければならないと語られました。

弟子たちはその言葉を聞いて驚きました。彼らは初めてこの話を聞いたし、それは彼らが思い描いていたメシア像とはかけ離れたものでした。

彼らは、イエス様がローマ帝国を打ち倒し、イスラエルを解放されると信じていました。そして、彼ら自身がイエス様の大臣になると思い込んでいました。そのため、イエス様の言葉に深く戸惑ったのです。

けれども、いつものように、ペテロは真っ先に自分の思いを表現しました。

主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。(マタイ16:22)

「神の御恵みがありますように」という言葉は直訳するとそのようになりますが、その本当の意味は「まさか!」という驚きの表現です。

つまり、ペテロはイエス様の言葉に対して強く反対しました。

私たちはどれほどイエス様を「主」と呼びながらも、イエス様の言葉に逆らうことがあるでしょうか。ペテロもそうしました。

そのため、イエス様は彼を厳しく叱責されました。

下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。(23)

もしイエス様に「サタン」と呼ばれたら、あなたはどう感じるでしょうか。イエス様はペテロを「サタン」と呼ばれました。なぜなら、ペテロの口から出た言葉は、サタンの考えそのものだったからです。

イエス様は、私たちの罪のために十字架で死ぬことをすでに決断されていました。しかし、ペテロはイエス様の計画に強く反対しました。だからこそ、イエス様の敵がイエス様を逮捕しようとしたとき、ペテロは下手ながらも彼らを攻撃しました。

ところが、その態度によって、彼はイエス様とその計画を妨げる者となってしまいました。ペテロは、自分の思いをイエス様の思いに合わせようとはしませんでした。むしろ、イエス様の思いを自分の思いに合わせようとしたのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生において、あなたは神の御心を考えていますか?それとも、人の考えにばかりとらわれていますか?

あなたは自分の計画を神様の計画に合わせているでしょうか?それとも、神様の計画を自分の計画に合わせようとしているでしょうか?

あなたは神様の御心に従っているでしょうか?それとも、神様の名前を自分の計画に利用しようとしているでしょうか?

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ16章 マルコの福音書 マルコ8章 ルカの福音書 ルカ9章

最も大切な質問

イエス様がミニストリーの半ばに差し掛かった頃、十字架のことを考え始められました。それゆえ、イエス様は弟子たちが自分についてどう思っているかを知りたいと願われました。

彼らはイエス様をただの預言者だと考えていたでしょうか。ただの良い教師だと思っていたでしょうか。

そこで、イエス様は弟子たちにこう尋ねられました。「人々は私のことをだれだと言っていますか。」

弟子たちは様々に答えました。その後、イエス様はさらに問われました。「では、あなたがたは、私をだれだと言いますか。」

この問いは、あの時代の人々のためだけでなく、すべての世代の人々のためのものです。今もなお、イエス様は私たちに尋ねられます。「あなたは私をだれだと言いますか。」

イエス様を預言者だと思うでしょうか。もちろん、イエス様は預言者でした。イエス様を通して、私たちは神様の言葉を聞くことができます。

では、イエス様を良い人だと思うでしょうか。もちろん、イエス様は良い人です。彼は一切罪を犯されませんでした。

とはいえ、イエス様はただの預言者なのでしょうか。ただの良い人なのでしょうか。

ペテロはそうは考えませんでした。彼はこう言いました。

あなたは、生ける神の御子キリストです。(マタイ16:16)

ペテロがそう言ったとき、ユダヤ人たちは「メシア」、つまり「キリスト」という言葉の本当の意味を十分に理解していませんでした。(「メシア」と「キリスト」は同じ意味です。)

弟子たちも、その意味を完全には理解していませんでした。そのため、イエス様はご自身がキリストであることを誰にも言ってはならないと、弟子たちを戒められました。

もしある概念を理解できていなければ、それを他の人々に正しく説明することは難しいでしょう。

彼らは、メシアが人々の罪のために死ななければならないことを理解していませんでした。彼らが理解していたのは、「いつかメシアがイスラエルを治める」ということでした。

そのため、「キリスト」や「メシア」という言葉を聞くと、そのイメージがまず浮かびました。

あなたはどうでしょうか。イエス様がメシアであることを信じていますか?つまり、イエス様があなたの罪のために死なれたことを信じていますか?そして、イエス様はあなたの王ですか?あなたの人生をイエス様に捧げていますか?

イエス様は、ただの預言者ではありません。イエス様は、ただの良い人でもありません。イエス様は神です。

ユダヤ人たちは、イエス様の主張を正しく理解していました。確かに、ある意味では私たちすべてが神の子供です。なぜなら、神様が私たちを創造されたからです。

けれども、イエス様は「神様が自分を造られた」という意味ではなく、「自分は永遠から本当に神の子である」と主張されました。

そのような主張は、実際には「自分が神である」という宣言です。

その主張のために、ユダヤ人たちはイエス様を十字架につけて殺しました。(ヨハネ5:18、マタイ26:63ー66)

もしイエス様があなたの神であり、王であるなら、イエス様はあなたの礼拝と奉仕に値します。しかし、あなたは本当にそう信じていますか? ペテロのように、あなたは言うことができますか?「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

もしあなたがそのことを信じているけれど、まだ告白していないのなら、今、祈りませんか。

イエス様、私はあなたをただの良い人だとは思いません。私はあなたをただの預言者だとも思いません。

あなたが神であることを信じます。 私は、あなたが十字架で私の罪のために死なれたことを信じます。また、あなたが三日目によみがえられたことを信じます。 それを心から感謝します。

どうか私の神になってください。私の王になってください。 これから、私はあなたに従いたいです。どう生きるべきかを教えてください。アーメン。

カテゴリー
マルコの福音書 マルコ8章

盲人

17年くらい前の話ですが、私の父が転倒した際にメガネが割れ、父の目にガラスが入ったため、視力を失いました。

おそらく、この聖書の箇所に出てくる男性も似た経験をしていたのではないかと思います。彼は若い頃にはきちんと見ることができたけれど、事故や病気のせいで視力を失ったのかもしれません。そう考えられる理由は、彼が木や人の形をよく知っていたからです。

さて、イエス様がその男性を癒された際、その手順は少し変わっていました。イエス様はその男性の両目に唾をつけ、その目に触れました。

もしかしたら、多くの盲人と同じように、彼の瞼は粘着質のものが原因で閉じていたのかもしれません。そのため、洗い清める必要があったのでしょう。

そしてイエス様は彼の目を開きました。その後、イエス様は彼に「何か見えるか」と尋ねられました。

男性は、「人が見えます。木のように見えますが、歩いているのが分かります」と答えました。

イエス様がもう一度彼の両目に触れると、その男性の目は完全に癒されました。

イエス様がその人の目を癒されたように、イエス様は霊的に盲目な人々も癒してくださいます。ただし、この話のように、時には段階があります。

イエス様は彼らの霊的な瞼を開くために、彼らの罪深い考えを洗い清めてくださいます。そして彼らは少しだけ見ることができるようになりますが、まだはっきりとは見えません。

しかし、イエス様が彼らにもう一度触れると、彼らの霊的な目は完全に癒されます。その時、彼らが最初に見るものはイエス様です。

その後、イエス様は彼らの思いと人生を変え、彼らは新しい人に生まれ変わります。

ですから、もし周りの人々がイエス様を見ることができず、人生を変えられる真理に気づいていないとしても、諦めないでください。時間がかかることもあるでしょう。

また、あなたが彼らの霊的な目を開くことはできません。彼らの目を開くことができるのはイエス様だけです。そのため、彼らのために祈り続け、霊的な種を蒔き続けてください。

そして、神様の恵みによって、いつの日か彼らの目が開かれる時が来るでしょう。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ15章 マタイ16章 マルコの福音書 マルコ8章

律法主義?それとも、この世を愛する?

私は、このブログで何度も言っていることですが、牧師のメッセージを聞くときも、ポッドキャストを聞くときも、クリスチャンの本を読むときも、その教えを必ず聖書と比べるべきです。

実際、このブログの記事も同様です。私が書く内容も、聖書と比べて確認する必要があります。(あなたがこのブログを読まれる際、ぜひ聖書の箇所も読んで、私の言葉を確かめてみてください。)

さて、この箇所では、私たちがなぜ人々の教えを聖書と比べるべきなのか、その重要性を学ぶことができます。

この箇所では、イエス様が5000人にパンを与える奇跡を繰り返されます。けれども、この出来事はまったく別のものです。人数も異なり、パンと魚の数も違っています。

その奇跡の後、パリサイ人たちとサドカイ人たちがイエス様のもとに来ました。(もしかすると、サドカイ人たちの中にはヘロデ王に従う者も含まれていたかもしれません。)

彼らは再びイエス様に天からのしるしを求めましたが、イエス様はそれを断られました。そして、その会話の後、イエス様は弟子たちにこう言われました。

パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。(マタイ16:6)

(マルコによれば、イエス様は「ヘロデのパン種に十分気をつけなさい」と言われました。多分、イエス様はヘロデに従うサドカイ人たちについて話されたのでしょう。)

いつものように、弟子たちは混乱しました。

「私たちはパンを持っていない。でも、もしかすると、パリサイ人やサドカイ人からパンを買うことは禁止されているのではないでしょうか。」

しかし、イエス様は彼らを叱られました。

「なぜ、パンについて話しているのですか。あなたたちは、私が5000人にパンを与えた時、また、4000人にパンを与えた時のことをもう忘れてしまったのですか。私は、そんなパンについて話しているのではありません。」

そして、マタイはこう記しています。

彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。(マタイ16:12)

彼らの教えは何だったでしょうか。

パリサイ人の教えは律法主義でした。彼らは、自分の良い行動によって神様の国に入ることができると考えました。だから、彼らは律法を勉強し、その律法に従おうと懸命に努力しました。

ところが、彼らは神様の律法に多くのルールを加えたため、人々に神様が意図されなかった重荷を負わせました。それだけでなく、彼らは自分たちが加えたルールを守らない人々を批判しました。

さらに、彼らは神様の律法に反するルールさえも作り上げました。

それだけではなく、彼らは律法の細かな点に集中しすぎたため、その律法の精神を見逃してしまいました。その結果、彼らは誤って人々を裁き、本当の正義と憐れみを忘れてしまったのです。他の箇所を読むと、そのことがより明確にわかります。

一方、サドカイ人たちは富と力に強い関心を持っていました。そのため、彼らはローマ帝国(およびヘロデ王)と協力しました。また、彼らは復活を信じていませんでした。そのため、永遠の物ではなく、一時的な物事に重点を置いていました。

だからこそ、イエス様は律法主義とこの世を愛することに対して警告を発せられたのです。どちらもパン種のように教会の中に広まり、やがて神様がその教会を用いられなくなる原因となるからです。

残念ながら、その時代の多くの人々は、パリサイ人とサドカイ人の教えを吟味しませんでした。

そのため、彼らは律法とルールに押しつぶされ、神様に裁かれると感じました。また、別の人々は永遠の物に目を向けることなく、一時的な物のためだけに生きていました。

では、あなたはどうでしょうか。あなたは、この二つの罠に陥っていないでしょうか?