ある人々は「旧約聖書の神」を批判します。(「旧約聖書の神」と「新約聖書の神」は実際には同じ方であるにもかかわらず。)
彼らはこう言います。「旧約聖書の神は憐れみの神ではなく、怒りの神です。」
けれども、そのような主張をする人々は旧約聖書を慎重に読んでいないように感じます。彼らは神様の怒りの例を頻繁に見る一方で、なぜか神様の憐れみの例には目を向けようとしないのです。
(皮肉なことに、その人々が新約聖書を読む際には、神様の憐れみの例をよく見るものの、神様の怒りの例はほとんど見ていないようです。)
このミカ書の箇所では、神様の怒りの例と憐れみの例の両方を見ることができます。9節にはこのように記されています。
私(つまり、イスラエル)は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。(ミカ書7:9)
ある人々はこの箇所を読み、こう言います。「ほら、これが神様の怒りだよ。私が罪を犯すと、神様はすぐに私を罰すると書いてあるじゃないか。」
とはいえ、その箇所の最後の部分にも目を向けてください。
しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。
この箇所を読むとき、私はパウロの言葉を思い起こします。
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ書8:33-34)
このミカ書の箇所とローマ書の箇所に基づくと、神様は私たちの裁判官であるだけでなく、私たちの弁護士でもあるのです。もし私たちがイエス様に属しているなら、イエス様は私たちの隣に立ち、とりなしをしてくださいます。
その時、イエス様はこのように言われることでしょう。
「父よ、私はこの人の罪のためにすでに支払いました。私の血によって、彼の債務は完全に支払われました。」
そして、神様はこう言われます。
「そうだ。それは真実だ。正義は成し遂げられた。あなたの罪は赦され、あなたは自由だ。」
このミカ書の最後の部分は本当に素晴らしいと思います。
あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。
もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。(18-19)
この箇所で描かれる神様の姿が本当に素晴らしいと思います。
神様は私たちの罪のゆえに私たちを踏みつけることはされません。むしろ、神様は私たちの罪そのものを踏みつけてくださるのです。
神様は私たちを鎖で縛り、船から海の深みに投げ入れることはされません。むしろ、神様は私たちの罪を包み、海の深みに投げ入れてくださるのです。
この方こそ私たちの神です。怒りの神であるだけでなく、憐れみの神でもあるのです。
ミカはこう言いました。
昔、私たちの先祖に誓われたように、真実をヤコブに、いつくしみをアブラハムに与えてください。(20)
神様がヤコブとアブラハムに真実と憐れみを与えられたように、神様は私たちにも真実と慈しみを与えてくださいます。神様はそのように誓われました。(ヘブル6:13-20)
だから、ヨハネはこう書きました。
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)
