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ミカ書

神様の怒りと憐れみ

ある人々は「旧約聖書の神」を批判します。(「旧約聖書の神」と「新約聖書の神」は実際には同じ方であるにもかかわらず。)

彼らはこう言います。「旧約聖書の神は憐れみの神ではなく、怒りの神です。」

けれども、そのような主張をする人々は旧約聖書を慎重に読んでいないように感じます。彼らは神様の怒りの例を頻繁に見る一方で、なぜか神様の憐れみの例には目を向けようとしないのです。

(皮肉なことに、その人々が新約聖書を読む際には、神様の憐れみの例をよく見るものの、神様の怒りの例はほとんど見ていないようです。)

このミカ書の箇所では、神様の怒りの例と憐れみの例の両方を見ることができます。9節にはこのように記されています。

私(つまり、イスラエル)は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。(ミカ書7:9)

ある人々はこの箇所を読み、こう言います。「ほら、これが神様の怒りだよ。私が罪を犯すと、神様はすぐに私を罰すると書いてあるじゃないか。」

とはいえ、その箇所の最後の部分にも目を向けてください。

しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。

この箇所を読むとき、私はパウロの言葉を思い起こします。

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ書8:33-34)

このミカ書の箇所とローマ書の箇所に基づくと、神様は私たちの裁判官であるだけでなく、私たちの弁護士でもあるのです。もし私たちがイエス様に属しているなら、イエス様は私たちの隣に立ち、とりなしをしてくださいます。

その時、イエス様はこのように言われることでしょう。

「父よ、私はこの人の罪のためにすでに支払いました。私の血によって、彼の債務は完全に支払われました。」

そして、神様はこう言われます。

「そうだ。それは真実だ。正義は成し遂げられた。あなたの罪は赦され、あなたは自由だ。」

このミカ書の最後の部分は本当に素晴らしいと思います。

あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。

もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。(18-19)

この箇所で描かれる神様の姿が本当に素晴らしいと思います。

神様は私たちの罪のゆえに私たちを踏みつけることはされません。むしろ、神様は私たちの罪そのものを踏みつけてくださるのです。

神様は私たちを鎖で縛り、船から海の深みに投げ入れることはされません。むしろ、神様は私たちの罪を包み、海の深みに投げ入れてくださるのです。

この方こそ私たちの神です。怒りの神であるだけでなく、憐れみの神でもあるのです。

ミカはこう言いました。

昔、私たちの先祖に誓われたように、真実をヤコブに、いつくしみをアブラハムに与えてください。(20)

神様がヤコブとアブラハムに真実と憐れみを与えられたように、神様は私たちにも真実と慈しみを与えてくださいます。神様はそのように誓われました。(ヘブル6:13-20)

だから、ヨハネはこう書きました。

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

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ミカ書

私たちが人々に頼ることができない時に

信頼関係が破れると、その修復は非常に難しいものとなります。浮気によって心に傷を負った人々は、その事実を深く理解していることでしょう。

時として、信頼関係が破れると、他の人々を信頼することさえ困難になります。「この世で一体誰を信頼できるのだろうか」と思うこともあるかもしれません。

ミカもそのように感じた可能性があります。彼の国は暴力と不正義に満ちあふれていました。ミカにとって、誰を信頼すべきかわからない状況だったのです。

リーダーたちや士師たちさえも信頼に値しませんでした。なぜなら、彼らには正義への関心が全くなく、むしろ常に賄賂を要求していたからです。

このような堕落はすべての人々に悪影響を及ぼしました。ミカは次のように言いました。

敬虔な者はこの地から消えうせ、人の間に、正しい者はひとりもいない。みな血を流そうと待ち伏せし、互いに網をかけ合って捕らえようとする。。。

彼らのうちの善人もいばらのようだ。正しい者もいばらの生け垣のようだ。(ミカ書7:2,4)

そして、ミカはこう言いました。

友を信用するな。親しい友をも信頼するな。あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ。息子は父親を侮り、娘は母親に、嫁はしゅうとめに逆らい、それぞれ自分の家の者を敵としている。(5-6)

それは確かに暗い言葉ですが、その国の中でミカは深刻な堕落を目の当たりにしていたため、そう感じたのです。

私たちも時として同じように感じることがあります。「この世で一体誰を信頼できるのだろうか」と思うことがあるでしょう。

けれども、間違いなく信頼できるお方がおられます。

ミカはこう書きました。

しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。(7)

たとえ皆が私たちをがっかりさせても、神様は決してそうなさいません。

たとえ皆が私たちに背を向けても、神様は私たちを決してお見捨てになりません。

たとえ皆が私たちを裏切っても、神様は常に私たちに忠実でいてくださいます。

神様はいつも私たちを見守ってくださっています。

神様は私たちの声に耳を傾け、私たちの祈りを聞き入れてくださいます。

神様は私たちが置かれている状況をすべてご存じです。

だからこそ、私たちは主を仰ぎ見て、主を待ち望みましょう。

主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」(へブル13:5-6)

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空しい宗教

この箇所では、イスラエルの民は神様の裁判所に立たされていました。そして、神様は彼らを被告として召喚し、問い詰められました。

わたしの民よ。わたしはあなたに何をしたか。どのようにしてあなたを煩わせたか。わたしに答えよ。(ミカ書6:3)

そして、神様はご自身の証言をされました。「私はあなたたちをエジプトから救い出しました。また、私はあなたたちを荒野で守り、私が約束した土地に導きました。」(4-5)

ところが、イスラエルの民はその言葉を聞いて苛立ちました。

彼らは答えました。

「しつこいですね。それでは、私たちに何を望んでおられるのですか。子牛や雄羊のいけにえですか。それとも、私たちの子供をいけにえとして捧げることでしょうか。一体何を求めておられるのですか。」

現代でも、多くの人々は同じような態度で神様に向き合います。彼らは、神様が宗教的な儀式を求めておられると誤解しています。例えば、神様が彼らに教会に行くことや献金を捧げることを望んでいると考えています。

多くの人々はイースターの六週間前からタバコや砂糖、肉を控えます。(これを四旬節と言います。)

けれども、その年の残りの期間は、まったく神様のことを考えず、自分自身のために生きるのです。

イスラエルの民も同じでした。彼らは神様の怒りを収めるためにいけにえを捧げることには同意しましたが、その後は自分自身のために生き続けたいと考えていました。

しかし、ミカはこう答えました。

主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。

それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(8)

神様は空しい宗教に興味を持っておられません。空しい宗教とは、神様を愛さずに宗教的な行為だけを行うことです。つまり、ある日は宗教的なことを行うけれど、その残りの日々は自分自身のために生きることです。

イスラエルの民の場合、彼らは日々の商売でお客さんを騙し、暴力や不正に満ちた生活をしていました。

それゆえ、神様は怒られました。イスラエルの民は宗教的な儀式を行ったにもかかわらず、神様が本当に望んでおられることは全く行いませんでした。すなわち、正しいことを行い、誠実を愛し、へり下って神様と共に歩むことです。

神様はそれを日々求めておられたのです。一週間に一度だけそのような態度を取ることを望んでおられたのではありません。

あなたはどうでしょうか。神様を喜ばせることは何だと思いますか。

それはお金だけではありません。それは教会に行くことだけではありません。それは宗教的な儀式を行うことだけでもありません。

イエス様が最も重要な戒めについて語られたとき、犠牲や献金、儀式については全く言及されませんでした。

むしろ、イエス様はこう言われました。

「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」

次にはこれです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」この二つより大事な命令は、ほかにありません。」 (マルコ12:30-31)

あなたは神様を喜ばせたいと願っていますか。

空しい宗教的な行動だけでは、神様を喜ばせることはできません。

もし神様を喜ばせたいと願うなら、毎日神様を愛し、周りの人々を愛するべきです。

それが神様の望まれることなのです。

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私たちの敵が攻める時に

イスラエルの歴史を振り返ると、その周囲には多くの敵が存在していました。この箇所では、アッシリヤがイスラエルを攻める敵の典型として描かれています。しかし、ミカはイスラエルの勝利を預言しました。

アッシリヤが私たちの国に来て、私たちの宮殿を踏みにじるとき、私たちはこれに対して七人の牧者と八人の指導者を立てる。

彼らはアッシリヤの地を剣で、ニムロデの地を抜き身の剣で飼いならす。アッシリヤが私たちの国に来、私たちの領土に踏み込んで来たとき、彼は、私たちをアッシリヤから救う。(ミカ書5:5-6)

つまり、ある日、神様に逆らう者たちがイスラエルを打倒するために攻めてきます。しかし、神様はリーダーを立ててイスラエルを救われます。ただし、イスラエルの力は軍隊から来るのではなく、神様から与えられるのです。

ミカは7節で、イスラエルの残りの者を「主から降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ」と描写しています。つまり、この救いと勝利は人間の働きではなく、主の働きです。

だから、イスラエルの残りの者は敵が止めることのできないライオンのようになるのです。(8節)

その日、以前イスラエル人が信頼していたもの、つまり、軍隊や呪術師、占い師、偶像を捨てて、永遠に敵を打倒する神様に信頼するのです。

私たちはこの箇所から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちの魂の敵が攻めてきたとき、どのように反応するでしょうか。私たちの人生、仕事、人間関係、経済、ミニストリーなどが攻められたときに何が起こるでしょうか。

私たちの勝利が自分の力と知恵から来るのではないことを思い出しましょう。

攻められたとき、私たちはよくパニックに陥り、自分の知恵と力でその問題を解決しようとしてしまいます。けれども、私たちは助けることのできる神様を忘れがちです。

もし本当の勝利を望むなら、神様に信頼しなければなりません。そして、神様がどうするかを教えてくださったら、私たちは従わなければなりません。そうすれば、私たちは勝利を得ることができるのです。

もう一つ覚えておかなければならないのは、イエス様はすでに最後の勝利を得られたことです。イエス様の十字架の働きによって、私たちは赦され、救われました。

だから、この世では、私たちの敵が私たちを攻めても、彼らは天国の報いに触れることはできません。

ですから、頑張り続けましょう。がっかりせず、むしろ神様に信頼しましょう。神様を待ち望みましょう。なぜなら、私たちはすでに勝利を得たのです。

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平和を与える方

平和。

あなたは平和を得るために、どれほどの代価を払うつもりですか。ミカの時代、多くのイスラエル人がそのように考えていたかもしれません。

現代でも、多くのユダヤ人が同じように考えているかもしれません。

この箇所では、ミカはエルサレムの崩壊について預言しました。その日、ユダの王が打たれ、倒れます。

とはいえ、ミカが伝えたのは、それがイスラエルの終わりではないということです。むしろ、ミカはこう言いました。

ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。(ミカ書5:2)

もちろん、これはイエス様についての預言です。ヘロデ王がメシアがどこから来るのかを尋ねたとき、祭司たちと律法学者たちはこの箇所を引用しました。(マタイ2:6)

ミカはイエス様についてこう預言しました。

彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ。(5:4)

5節では、英語の翻訳と新改訳は少し異なります。実は、この箇所では、日本語のリビングバイブルと英語の翻訳が一致しています。このように書かれています。

その方は私 たちの平和となる。(5)

ミカ時代のイスラエル人は、この言葉を聞いて慰めを受けたかもしれません。なぜなら、彼らは長い間トラブルを経験してきましたが、平和を与える方が来るという希望があったからです。

皮肉なことに、イエス様は来られました。しかし、イスラエル人は平和を与える方を受け入れず、十字架につけてしまいました。

今でも、人々はあまり変わっていません。

どれほど私たちは、恐れと痛みと戦っているでしょうか。どれほど私たちは、平和を望んでいるでしょうか。それにもかかわらず、私たちは平和を与える方を拒絶します。私たちは、自分の心の王座をイエス様に捧げることを拒否するのです。

ある日、イエス様は再びこの世に戻られます。その日、イエス様はこの世を治め、すべての人々が平安のうちに住むようになります。

しかし、もし私たちが今、自分の心の王座をイエス様に捧げるなら、どんなトラブルがあったとしても平和を得ることができます。たとえ周りに多くの苦しみがあったとしても、私たちの魂は平安を保つのです。

2000年前、イエス様がエルサレムのために泣かれたように、イエス様は私たちのために涙を流されます。イエス様はこう言われました。

ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。(ルカ13:34)

それで、エルサレムはどうなりましたか。

見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。(ルカ13:35)

今でも、その結果は変わりません。もしイエス様に背を向けるなら、私たちの人生は荒れ果てたままとなり、希望や平和を全く知らないままとなってしまいます。

あなたはどうでしょうか。希望がないと感じていますか。人生に意味がないと感じていますか。平和がないと感じていますか。その解決は、2000年が経っても変わることはありません。それはイエス様です。

イエス様はあなたを抱きしめ、あなたに平和と希望、そして人生の本当の意味を与えたいと願っておられます。

あなたの人生をイエス様に捧げてみませんか。

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神様の計画

神様について考えると、いつも「不思議だなあ」と感じます。

一つ興味深い点は、神様が決して驚かれることがないということです。この世界で何が起こっても、神様は驚かれません。

一方で、私たちはよく驚き、パニックになります。そのため、時々私たちは神様もそのような方だと思いがちです。

例えば、私たちはこう考えるかもしれません。「アダムとエバが罪を犯したとき、神様は驚かれたためにパニックになり、急いで新しい計画を立てなければならなかった。」

または、「イスラエル人を自分の民として選ばれたが、彼らが神様に背を向けたとき、神様はショックを受け、急いで新しい計画を立てなければならなかった。」

けれども、最初から神様はアダムとエバの選択を知っておられました。イスラエル人の選択も知っておられました。ですから、その知識に基づいて神様はご自身の計画を立てられたのです。

この箇所でそのことが示されていると思います。この箇所では、神様がイスラエル人を彼らの罪のために懲らしめられました。

なぜ、あなたは今、大声で泣き叫ぶのか。あなたのうちに王がいないのか。あなたの議官は滅びうせたのか。子を産む女のような苦痛があなたを捕らえたのか。

シオンの娘よ。子を産む女のように、身もだえし、もがき回れ。今、あなたは町を出て、野に宿り、バビロンまで行く。(ミカ書4:9-10)

つまり、私はあなたたちの王であるべきでした。私はあなたたちの議官であるべきでした。けれども、あなたたちは私に背を向け、頼りにしていた人々はいなくなりました。だから、あなたたちはバビロンに追放される、と神様は言われています。

それでも、神様はイスラエル人のために計画を持っておられました。神様はこう言われました。

そこであなたは救われる。そこで主はあなたを敵の手から贖われる。(10b)

神様はパニックになって、計画を変えられたわけではありません。むしろ、神様は予めイスラエル人が何をするか、そしてイスラエル人の反応をすべてご存じでした。

だから、神様にはすでにご用意された計画がありました。それは、イスラエル人をその罪のために罰することですが、その後で憐れみと恵みによって彼らを贖われることです。

では、神様の計画がどうしても成就されるから、私たちの選択は何を選んでも構わないのでしょうか。

いいえ、そうではありません。私たちにとって、私たちの選択は非常に重要なのです。なぜなら、私たちが神様の計画に従うなら、神様の祝福を受けるからです。しかし、従わなければ、必ず苦しみが訪れるのです。

イスラエル人は追放されたとき、そのことを学びました。

イスラエルを打倒した国々も同じことを学びました。神様はその国々に関してこう言われました。

今、多くの異邦の民があなたを攻めに集まり、そして言う。「シオンが犯されるのをこの目で見よう」と。

しかし彼らは主の御計らいを知らず、そのはかりごとを悟らない。(11-12)

その国々は神様の計画を知らず、神様に逆らったため、結局イスラエル人のように砕かれました。けれども、悔い改めて救われたイスラエルの残りの者とは違い、その国々には救いがありませんでした。

あなたはどうでしょうか。神様の心を求めていますか。神様の計画に従っていますか。それを行うなら、本当の命を見つけることができます。けれども、そうしなければ、パロやバビロン、そして神様に逆らった他の国々のように、あなたも砕かれてしまうのです。

だから、モーセの言葉に耳を傾けましょう。

あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり[ます。] (申命記30:19-20)

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永遠までじゃない

多分、世界で一番戦争を嫌う国は日本ではないでしょうか。もし日本人にインタビューをしたら、彼らが他の先進国の民よりも戦争に対して嫌悪感を持っていると感じるでしょう。なぜなら、自分たちの目で戦争がどれほど恐ろしいものかを見たことがあるからです。

残念なことに、多くの国々はそのようには感じていません。

長い間、私たちは冷戦を経験しました。その時代、人々は核戦争が起こることを恐れていました。

今では少し状況が改善されていますが、人間が国々を治め続ける限り、戦争は決してなくならないでしょう。なぜなら、人々は常に持っていないものを求めたり、さらなる力を欲しがったりするため、本当に酷いことをし続けるからです。

とはいえ、この状態が永遠に続くわけではありません。ある日、神様が神様に背く人々からその力を取り去り、全世界の王となられるのです。そして、サタンとその民は裁かれ、その日から、この世には正義と平和が訪れます。

ミカはこのように書きました。

終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れて来る。。。

主は多くの国々の民の間をさばき、遠く離れた強い国々に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。

彼らはみな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下にすわり、彼らを脅かす者はいない。まことに、万軍の主の御口が告げられる。(ミカ書4:3-4)

その日が来る前に、私たちは自分自身にとって非常に重要な質問をしなければなりません。「私たちは誰の味方なのだろうか。」

もし私たちが神様の味方であるならば、その日が来たとき、ついに平和を知ることができます。しかし、もし神様の味方でないならば、あなたにとっては裁きしか残されていません。

ですから、今こそ神様を求めましょう。裁きの日を待つのではなく、今、この瞬間に応えましょう。

さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。(2)

また、

まことに、すべての国々の民は、おのおの自分の神の名によって歩む。しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩もう。(5)

あなたは誰の味方でしょうか。

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船を揺さぶるな

英語には、「Don’t rock the boat」という興味深い表現があります。

その直訳は、「船を揺さぶるな。」

つまり、「余計なもめ事を起こすな。」

また、「人を怒らせることを言うな。」

普通は、それは良いアドバイスです。

とはいえ、クリスチャンとして、いつもその言葉に従うことはできません。時には、相手が聞きたくないことを言わなくてはならないのです。

けれども、多くのクリスチャンはそうしたくありません。残念なことに、多くの教会もそうしたくありません。

その結果はどうなるでしょうか?神様の言葉、特に福音を正しく伝えないことです。つまり、神様の愛と恵みについてはよく話されますが、罪と裁きについてはほとんど話されません。

しかし、ミカは船を揺さぶることを恐れませんでした。ユダのリーダーたちはその民に正義を与えなかったため、ミカは彼らを責めました。

さらに、ユダの「預言者」たちは人々が聞きたいことだけを語っていたため、ミカは彼らにこう言いました。

預言者たちについて、主はこう仰せられる。彼らはわたしの民を惑わせ、歯でかむ物があれば、「平和があるように」と叫ぶが、彼らの口に何も与えない者には、聖戦を宣言する。

それゆえ、夜になっても、あなたがたには幻がなく、暗やみになっても、あなたがたには占いがない。

太陽も預言者たちの上に沈み、昼も彼らの上で暗くなる。先見者たちは恥を見、占い師たちははずかしめを受ける。彼らはみな、口ひげをおおう。神の答えがないからだ。(ミカ書3:5-7)

そしてミカはこう言いました。

しかし、私は、力と、主の霊と、公義と、勇気とに満ち、ヤコブにはそのそむきの罪を、イスラエルにはその罪を告げよう。(8)

私たちはそのようなクリスチャンにならなければなりません。愛する人々が罪の道を歩んでいるなら、私たちは彼らに警告しなければなりません。

たとえ彼らが怒っても、それは仕方がありません。クリスチャンとしての私たちの責任は、彼らに警告することなのです。

もちろん、「あなたは地獄に行くよ!」と叫ぶ必要はありません。

私が以前述べたように、ある人たちはそのようなメッセージを伝えることが大好きなように見えます。彼らは、まるで人々が地獄で苦しむことを喜んでいるかのようです。

しかし、神様はそのようなことを喜ばれません。神様は涙を流されます。私たちも泣くべきです。

けれども、泣くだけでは足りません。人々に警告しなければなりません。しかしそうすることで、時には船を揺さぶることになるでしょう。

ミカは船を揺さぶりました。幸いなことに、ヒゼキヤ王はこの警告を聞いて悔い改めました(エレミヤ書26:17ー19)。

イザヤもまた、真実を語ることをためらいませんでした。だからこそ、ミカとイザヤ、そして他の預言者たちの働きによって、その社会に影響を与えることができたのです。

あなたはどうでしょうか?船を揺さぶることを恐れていますか?他の人々の反応を恐れて、神様の言葉のすべてを伝えないままでいるのでしょうか?

その言葉とは何でしょうか。それは、イエス・キリストにあって、罪の赦しがあるということです。しかし、その賜物を拒むなら、裁きしかありません。

イエス様のみ名によって船を揺さぶることを恐れないでください。

もちろん、ただ人を怒らせるために船を揺さぶるのではありません。

そうではなく、イエス様の愛をもって、人々が悔い改めて救われるために船を揺さぶりましょう。

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聞きたくない

「それは聞きたくない。」

聖書を読むとき、私たちはどれほどそのような態度を取るでしょうか。つまり、困難に直面しているとき、聖書から何をすべきかが示されているのに、その言葉が好きではないために、すぐに拒絶してしまうのです。

ある友人は、いつも口から悪い言葉を出していました。彼は自分の罪をよく知っていたため、口についての聖書の箇所をいつも避けていました。例えば、箴言やヤコブの手紙を決して読みませんでした。

けれども、ある日、彼が聖書を読んだとき、これまで一度も読んだことのなかった箇所によって、神様がその口の悪さの罪について彼の心を打たれました。幸いなことに、彼は結局悔い改めることができました。

それでも、私たちはしばしば聖書の言葉を避け、その言葉を無視してしまいます。なぜなら、その言葉を聞くことが耳に痛いからです。

イスラエルの民も同じでした。彼らはミカにこう言いました。

たわごとを言うな。(ミカ書2:6)

でもミカは答えました。

そんなたわごとを言ってはならない。恥を避けることはできない。ヤコブの家がそんなことを言われてよいものか。主がこれをがまんされるだろうか。(6b-7a)

つまり、神様の言葉を拒絶してはいけません。「たわごとを言うな」という言葉に神様は我慢できません。そのような態度を取れば、恥を避けることはできないのです。

そしてミカは訊きました。

「これは主のみわざだろうか。」(7b)

3-5節では、神様はいろんな裁きについてイスラエル人に警告しました。そしてイスラエル人たちは訊きました。「その裁きは本当に神様のみわざだろうか。神様は本当に私たちの態度と罪のために私たちを裁くだろうか。」

ミカはその質問に答えませんが、その答えは明白です。「はい。神様は本当にあなたを裁きます。」

もし私たちが罪を犯すと、悪い結果が起こります。悔い改めないと、必ず裁きが来ます。この世では、私たちの罪によって結婚生活が壊れるかもしれません。経済的にも困窮するかもしれません。

とはいえ、この世で何も起こらなくても、私たちが死ぬと神様は私たちを必ず裁きます。その裁きから逃げられません。

しかし、良いニュースもあります。神様は訊かれました。

私のことばは、正しく歩む者に益とならないだろうか。(7c)

もう一度、神様はその質問に答えませんが、その答えも明白です。「もちろんその通りです。」

つまり、神様の言葉は私たちの人生を惨めにするためのものではありません。

むしろ、神様の言葉は私たちに命を与えるものです。神様の言葉は、私たちの人生がうまくいくために必要なものです。つまり、私たちの結婚生活が良いものになり、良い仕事があり、食べ物があり、寝る場所もしっかり確保できるために、神様の言葉が必要です。

とはいえ、たとえそのようなものがなくても、神様に従うと、満足のいく人生を送ることができます。なぜならば、神様との関係があれば、一番大切なものを持つことになるからです。

時には神様の言葉が痛みを伴うこともあります。しかし最終的に、その言葉は私たちを癒すものなのです。

もしその罪の傷を神様の言葉で治療しないと、あなたの傷はもっと悪くなり、その傷によって私たちは滅びてしまいます。

あなたはどうですか?あなたは神様の言葉から逃げているでしょうか?あなたの耳を閉じているでしょうか?

どうかあなたの心を開いてください。あなたの心を柔らかくしてください。神様の言葉は痛みを伴うかもしれませんが、あなたを癒せるのです。

あなたの人生に癒しが始まりますように。

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私ができるから

この箇所では、神様が人々を傲慢の罪のために責めておられます。

時として、人々は意図せずに罪を犯すことがあります。例えば、私たちは急に怒り、その怒りを悪い方法で表現してしまうことがあります。

けれども、この箇所では、その人々は自分たちの罪を計画し、その計画を実行しました。罪を犯していることをよく知っていながら気にしなかったのです。彼らがその計画を実行できる力を持っていたからです。

ですから、神様はこう言われました。

ああ。悪巧みを計り、寝床の上で悪を行なう者。朝の光とともに、彼らはこれを実行する。自分たちの手に力があるからだ。(ミカ書2:1)

そして、神様はこう警告されました。「裁きが訪れます。そして、その裁きから逃れることはできません。」

見よ。わたしは、こういうやからに、わざわいを下そうと考えている。あなたがたは首をもたげることも、いばって歩くこともできなくなる。それはわざわいの時だからだ。(3)

どれほど私たちはあえて罪を犯すのでしょうか。つまり、罪を犯す機会があり、誰にも知られず、誰も私たちを止められないから、私たちは罪を犯してしまうのです。

例えば、昔はポルノを見たい場合、店で購入しなければなりませんでした。そうすると他の人々にその罪が知られる可能性があったため、クリスチャンにとっては恥ずかしいことでした。

けれども、今では誰にも知られずにインターネットを通じてポルノを見ることができるため、多くのクリスチャンがその罪に陥っています。

さらに、多くの人々は不倫をします。それは罪を犯す機会があり、誰にも知られないと思うからです。

しかし、神様はすべてをご存じです。そして、結局その罪は必ず現れるのです。この世で現れないかもしれませんが、死後、その罪が現れ、神様が必ず裁きをされるのです。

ですから、罪を犯す機会が来たとしても、そこから逃れましょう。罪を犯す選択肢があっても、それをしてはなりません。

パウロが言ったように、

また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。(ローマ6:13-14)

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他の人々の罪についていく

イザヤ書を読むのをしばらく休みます。二つの理由があります。

一つ目は、イザヤがもうすぐエルサレムに対して預言するからです。この箇所では、ミカも同じことをします。

二つ目は、聖書の経緯をキャッチアップしなければならないからです。

ミカとイザヤは同じ時代に預言しましたが、ミカはイザヤの少し後に預言を始めました。イザヤはウジヤ王の時代に始めましたが、ミカはウジヤの息子ヨタム王の時代に預言を始めました。

この箇所では、北イスラエル王国はまだ立っていますが、ミカが預言したように、すぐに倒れます。彼らが偶像礼拝を行ったので、ミカは警告しました。「裁きが差し迫ります。もうすぐ、あなたの都市はすべて倒れ、あなたが信頼する偶像は砕かれます。」

そして、ミカはユダに対して話し始めました。二つの箇所が私に印象に残りました。

一つ目は9節です。

まことに、「イスラエル」の打ち傷はいやしがたく、それはユダにまで及び、わたしの民の門、エルサレムにまで達する。(ミカ書1:9)

そして13節です。

ラキシュに住む者よ。。。それはシオンの娘にとって罪の初めであった。イスラエルの犯したそむきの罪が、あなたのうちに見つけられたからだ。

つまり、イスラエル人は偶像礼拝を始めて罪を犯しましたが、その罪はユダにも及びました。

ここに少し皮肉なことがあります。ラキシュはユダの要塞都市の一つでした。そのため、ラキシュはユダを守るべき存在だったのです。けれども、ラキシュに霊的な隙が生じ、それが物理的な隙へと繋がりました。

ミカが預言した通り、アッシリアがユダを打ち砕きました。そしてアッシリアはエルサレムを包囲しました。その時、やっとユダの民が悔い改め、神様が彼らを救い出してくださったのです。しかし、それはまた別の話です。

罪がユダにこっそり入り込み、その人々を汚したように、私たちも気をつけなければ、この世の罪が私たちの心にこっそり入り込み、私たちを汚してしまいます。

どれだけのクリスチャンが罪に陥るのを見たことがあるでしょうか。多くのクリスチャンが姦淫を犯したり、お金に執着するようになったりします。

この世を見ると、時々罪が魅力的に見えることがあります。私たちはその罪が良いものだと思い、欲してしまいます。

しかし、イスラエル人とユダ人のように、その罪は私たちを荒廃へと導きます。それは私たちの家族を荒廃させ、信仰を荒廃させ、人生をも荒廃させます。

ですから、罪に対して注意を払いましょう。そして、神様の目に聖い者となり、神様を喜ばせる者となりましょう。