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ヨエル書

決断の谷、裁きの谷

さばきの谷には、群集また群集。主の日がさばきの谷に近づくからだ。(ヨエル書3:14)

この日本語の翻訳と英語の翻訳には少し違いがあります。日本語では「裁きの谷」と訳されていますが、英語では「決断の谷」と訳されています。

おそらく、英語の翻訳のほうが文字通りの表現ですが、日本語の翻訳を読むと、ヨエルの意図がよりよく理解できると思います。

なぜなら、主の日が来ると、主に従うかどうか決断する時間はもう残されていないからです。

この箇所では、人々はすでに決断しています。つまり、国々は神様に反抗し、神様とその民に戦いを挑むためにその谷に来ました。彼らは神様と戦うために来たと思っていますが、実際には神様の裁きの場に来ているのです。

そして、神様はこう言われます。

わたしが、そこで、回りのすべての国々をさばくために、さばきの座に着くからだ。(12)

だから、「決断」というのは人々の決断ではなく、神様の決断です。つまり、神様はこの反抗的な人々を裁かれるのです。 その日、彼らはイエス様に背を向け、イエス様を踏みつけたため、永遠の罰を受けることになります。へブル人への手紙の著者が言ったように、

私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」、また、「主がその民をさばかれる」と言われる方を知っています。生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。(へブル10:30-31)

それは恐ろしいことですが、真理です。

しかし、もしあなたが神様に向かい、イエス様をあなたの主として認めるならば、神様はあなたの罪を赦してくださいます。神様はこう言われました。

わたしは彼らの血の復讐をし、罰しないではおかない。主はシオンに住む。(ヨエル3:21)

だから、私たちは裁きの谷に来る前に決断しなければなりません。それは、イエス様を主として認めるか、それとも神様に背を向け続けるかということです。

神様に向かうならば、神様はあなたに赦しと祝福を注がれるのです。けれども、そうしなければ、裁きが訪れるのです。

あなたはどのように決断しますか。

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ヨエル書

聖霊が来ると

旧約聖書の時代と新約聖書の時代の一つの大きな違いは、御霊の働きです。

旧約聖書の時代においては、時々御霊が特別な働きのために人を満たされました。多くの場合、それは一時的なものでした。その働きが終わると、御霊はすぐにその人から去ってしまわれたのです。

二つの例は、サムソン(士師記14:1;16:20)とサウル王(第一サムエル11:6;16:14)です。

ダビデはバテ・シェバと罪を犯したとき、こう祈りました。

あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。(詩編51:11)

でも、このヨエルの箇所で、神様は約束されました。ある日、御霊は少数の人々に注がれるのではなく、神様のすべての民に注がれるということです。

つまり、神様は男性にも、女性にも、若者にも、年を取った人にも、御霊を注がれます。それは、終わりの日のしるしです。

使徒の働き2章によれば、御霊が来て、この予言を成就しました。

その日に、エルサレムで御霊はすべての信者たちを満たされました。周りの人々が驚いたので、ペテロはこのヨエルの箇所を引用して、何が起こったかを説明しました。

「終わりの日」は、その日から始まりました。私たちも、この終わりの日に生きています。ですから、この終わりの日は2000年以上続いています。

では、どうして神様は私たちに御霊を注がれるのでしょうか。それは、神様の働きをするためです。

その働きとは何でしょうか。裁きの日まで、福音を述べ伝えることです。

何度も何度も、旧約聖書の預言者たちは主の日について警告しました。

実際には、たくさんの「主の日」があります。

神様がある国を裁く時、それが「主の日」です。しかし最終的には、主の大いなる恐るべき日が来ます。(ヨエル書2:31)

その日に、すべての人々は神様の王座の前に来て、裁かれます。けれども、主が呼ばれた者だけが救われます。(32)

だから、御霊の働きは本当に大切です。

イエス様が言われたのは、私たちに力を与えるために御霊を送られたということです。何のための力でしょうか。

それは、イエス様の証人になる力です。つまり、イエス様の福音をこの世に述べ伝える力です。(使徒の働き1:8)

神様は、私たちが自分の霊的な賜物について自慢するために御霊を送ったわけではありません。周りの人々があなたにない賜物を持っていないからといって、彼らを見下すために御霊を送ったわけでもありません。

むしろ、裁きの日が来るまで、死にかけている世界に福音を述べ伝えるために御霊を送られました。なぜなら、その日が来たら、もう悔い改める時間がないからです。すべての人々は裁かれます。

神様は、あなたがこの世に影響を与えるために御霊を注がれました。あなたは周りの人々に影響を与えていますか。

それとも、自分自身や、神様から何をもらえるかに焦点を当てているでしょうか。

私たちが神様の御霊に満たされ、周りの人々に触れることができるように。彼らが裁きの日の前に神様を知ることができるように。

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ヨエル書

本当の悔い改め

時々、人々が「ごめんなさい」と言っても、それが心からの言葉ではないことが分かる場合があります。彼らが本当に謝りたくないために、その謝罪の言葉を彼らの口から引き出さなければならないことがあります。

時には、人は自分が悪いことをしたからといって悲しむのではありません。むしろ、他の人々がその人の悪い行いを知ることに苦しむのです。

この箇所では、神様はそのような問題について語っておられます。2章の最初で、神様は「このいなごの問題はたまたま起こったことではありません。あなたの罪の結果としてこの災害が訪れたのです」と言われました。

そして、神様は続けてこう言われました。

しかし、今、ーー主の御告げーー

心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとを持って、わたしに立ち返れ。あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。

あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。(ヨエル書2:13-14)

「あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂きなさい。」

旧約聖書の時代、人々は自分の謙遜さや悲しみを表すために、自分の着物を引き裂きました。

しかし、神様はこう言われました。「そのような上辺だけの悔い改めを望んでいません。私が欲しいのはあなたの心です。私はあなたが心から悔い改めることを望んでいます。」

ダビデはこう書きました。

たとい私がささげても、まことにあなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。

神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(詩篇51:16-17)

神様はイスラエル人に言われました。「もし、あなたがたが悔い改めるならば、私はあなたがたを癒します。いなごによって受けた被害を回復させます。」

今、わたしは穀物と新しいぶどう酒と油とをあなたがたに送る。あなたがたは、それで満足する。わたしは、二度とあなたがたを、諸国の民の聞いて、そしりとしない。(ヨエル書2:19)

神様は私たちに同じことを語られます。悔い改めるのに決して遅すぎることはありません。私たちが神様に向かうならば、憐み深い神様は、すぐに私たちの罪による傷を癒してくださいます。

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悪を見るとどう反応するでしょうか

どうして、この世に悪があるのでしょうか。どうして、たくさんの悲劇があるのでしょうか。昔から、人々はこのような質問をしてきました。ヨエル書を見ると、その質問が浮かんできます。いなごの群れがユダに来て、すべての収穫を食べ尽くしてしまいました。

いつヨエルがこの予言を書いたか分かりませんが、多くの学者の意見によれば、ヨアシュが赤ちゃんの時や、若い子どもの時(つまり、すでに王になった時に)ヨエルはこれを書いたかもしれません。

ヨアシュが王になる前にユダには三つの不敬虔な支配者がいました。つまり、ヨラム王、アハズヤ王、アタルヤ女王でした。この三人はユダの民を偶像礼拝に導いたのです。

そして、この悲劇が起こりました。その時、ヨエルはユダの民に神様の言葉を伝えました。ヨエルのメッセージは何だったのでしょうか。

「神様に向かいなさい。霊的な眠りから目を覚まして、悔い改めなさい。」

ヨエルはこう言いました。

酔っぱらいよ。目を覚まして、泣け。すべてぶどう酒を飲む者よ。泣きわめけ。甘いぶどう酒があなたがたの口から断たれたからだ。(ヨエル書1:5)

そして、ヨエルは祭司たちに戒めました。「悔い改めはあなたたちから始まらなければなりません。あなたたちは皆を主に導いてください。」

彼はこう言いました。

祭司たちよ。荒布をまとっていたみ悲しめ。祭壇に仕える者たちよ。泣きわめけ。神に仕える者たちよ。宮に行き、荒布をまとって夜を過ごせ。。。

断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。長老たちとこの国に住むすべての者を、あなたがたの神、主の宮に集め、主に向かって叫べ。(13-14)

なぜヨエルはそのように言ったのでしょうか。

主の日は近い。全能者からの破壊のように、その日が来る。(15)

どうして、この世に悪があるのでしょうか。どうして、地震や津波、台風などがあるのでしょうか。一つの理由は、人々が霊的な眠りから目を覚ますためです。これはノンクリスチャンだけでなく、クリスチャンにとっても重要なことです。

もし、この世に悪がなかったら、すべての人々は楽に生き、彼らの罪のための将来の裁きについて全く考えないでしょう。多くの人々は全く神様について考えないでしょう。

しかし、その裁きは地震よりも、台風よりも、津波よりも、はるかに酷いものです。裁きが来ると、その結果は永遠に続きます。その裁きから逃れることはできません。

これがヨエルのメッセージでした。「目を覚ましなさい。この悲劇は大変だと思いますか。神様からの裁きと比べると、この悲劇は些細なことです。悔い改めなさい。神様にもう一度向かってください。そうしなければ、もっと酷いことが起こります。」

イエス様は同じようなことを癒やされた人に言われました。

「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪いことがあなたの身に起こるから。」(ヨハネ5:14)

つまり、「あなたはずっと苦しんでいました。けれども、悔い改めなければ、もっと大変な苦しみが訪れるでしょう。足が不自由であることよりも、地獄に行くことのほうがはるかに大変です。しかし、悔い改めるならば、足だけでなく、あなたの魂と霊が癒されます。」

あなたは悲劇を見るとどのように反応しますか。悲劇を目の当たりにしたら、神様の前に跪きましょう。ヨアシュの時代に、神様は祭司たちを呼ばれました。

同様に、神様の祭司として、私たちも召されています。ですから、悔い改めましょう。そして、周りの人々のために祈りましょう。彼らを闇の中から神様の驚くべき光の中に招いてください。

神様の光の中で眠らないでください。目を覚まし、周りの人々も起こしましょう。裁きが訪れる前に神様に向かいましょう。