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ヨナ書

憐みを喜ぶ神

ヨナはニネベに神様からのメッセージを伝えた時、どのような態度だったでしょうか。

時折、アメリカでゲイのパレードや集会の際に、クリスチャンが「あなたは地獄に行く」と書かれた看板を持つ光景を見ることがあります。

ヨナもそのような態度を持っていたのでしょうか。彼が「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と伝えた時、心の中で「地獄に行け」と思っていたのかもしれません。

興味深い点として、ある学者はヨナのメッセージに「悔い改めなさい」という言葉が含まれていないことに注目しています。本当にヨナがその言葉を言わなかったのかは分かりませんが、4章を読むとその可能性を考えることができるでしょう。

また、ヨナの父の名前はアミタイで、「真実」を意味します。ヨナは「真実」の子であったかもしれませんが、「憐れみ」の子ではなかったのです。

そのため、ニネベの人々が悔い改めると、ヨナは深く失望しました。彼は「その悔い改めは遅すぎたのではないか。神様はまだ彼らを罰するかもしれない」とさえ思ったかもしれません。

それでヨナはニネベを出て、座り込みながら、神様がソドムとゴモラを滅ぼしたようにニネベを滅ぼすのを待ち望みました。

けれども、時が経つにつれ、ヨナの心には苦々しい思いが増していきました。彼は次第に理解したのです。「神様はニネベの人々に憐れみを与えてくださる。」

神様はユニークな方法でヨナに憐れみについて教えられました。

神様はヨナのために一本のとうごまを備えられました。それは奇跡的に早く成長し、ヨナはその陰で大いに喜びました。

ところが、一匹の虫が現れ、そのとうごまを噛んだため、とうごまはすぐに枯れてしまいました。

その後、非常に暑い天候が続いたことで、ヨナは神様に叫びました。

私は生きているより死んだほうがましだ。(ヨナ書4:8)

神様はヨナに訊かれました。

このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。(9a)

ヨナはこう答えました。

私が死ぬほど怒るのは当然のことです。(9b)

神様はそれを聞いて答えられました。

「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。

まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」(10-11)

つまり、「あなたはそのとうごまを造るために何もしていないにもかかわらず、それをそんなに大切に思っていますね。

一方、ニネベには十二万以上の人々がいて、彼らは私や私の心について何も知らず、彼らの罪のために滅びなければならないと考えていました。

しかし、私はこのニネベの人々を造りました。彼らは私の大切な被造物ですから、私は彼らを深く愛しています。どうしてあなたは私の思いを理解できないのでしょうか。」

ヨナはヨナ書の著者であるため、神様の御心を最終的に理解したのかもしれません。

けれども、私たちはどうでしょうか。

ヨナのように、ある人々が地獄に行くことを喜ぶでしょうか。それとも、神様のように、彼らのために涙を流し、彼らの救いのために尽力するでしょうか。

彼らが悔い改めたとき、私たちは怒るでしょうか。それとも喜ぶでしょうか。

中には、ヨナのように真実だけを喜ぶ人もいます。その結果、彼らは「あなたは地獄に行く」と叫びながら喜びます。

しかし、神様はそのような方ではありません。神様は憐れみを喜ばれるのです。だから、私たちも憐れみを喜ぶ者であるべきです。

あなたはそのようにできるでしょうか。

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ヨナ書

自分への恵みを捨てる

この箇所を読むと、この話がいかに劇的かを改めて感じます。嵐の中で、ヨナは海に投げ込まれ、波にのまれて、どんどん深く沈み、命の危機に瀕していました。しかし、土壇場になり、ヨナは心の底から叫びました。「神様!助けてください!」

その時、大きな魚が現れ、ヨナを飲み込んでしまいました。

こうして、ヨナは「初めての潜水艦」に乗ることになります。その中で、ヨナはこう思いました。

むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。(ヨナ書2:8)

ヨナは何について考えていたでしょうか。自分の民についてだったでしょうか。それとも、ニネベの民について考えていたでしょうか。おそらくその両方だったかもしれません。

けれども、ヨナの心には空しい偶像がありました。もちろん、ヨナはバアルやヤロブアムが立てた金の子牛を拝んでいたわけではありませんが、別の偶像を心の中に建てていました。それは、「私」という偶像です。

そのため、神様が「ニネベに行きなさい」と命じられたとき、ヨナは「私」という神に従ったのです。

その結果、ヨナは神様からの祝福を自ら捨ててしまうことになりました。

神様はヨナを通して素晴らしい働きを成し遂げたかったのです。もしヨナが進んでニネベでの務めを果たしていたなら、神様は彼を豊かに祝福されたことでしょう。

しかし、ヨナはニネベの民にも、神様にも心を頑なにしてしまいました。

ようやくニネベに行ったときも、ヨナはしぶしぶと神様のメッセージを伝えました。そのため、彼は再び神様からの祝福を逃してしまいました。

あなたはどうでしょうか。「私」という偶像に従っているでしょうか。あなた自身とあなたの欲望があなたの人生の中心にあるでしょうか。ヨナの生涯から学び、彼の言葉を心に留めておきましょう。

むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。(8)

「私」という偶像を手放しましょう。神様に私たちの人生の王座を捧げましょう。そうすることで、神様からの祝福を心から受け取ることができるのです。

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私たちの選択

前回の箇所(列王記第二14:25)にヨナの名前が登場したことを受けて、今日はヨナの話について見ていきましょう。

これは非常に有名な聖書の話です。特に興味深いのは、この物語が起こった時期です。この出来事はヤロブアムがイスラエルの王だった頃で、イスラエルの民はほとんど神様を求めていませんでした。

それにもかかわらず、神様はヨナをイスラエルの民のために送りませんでした。むしろ、神様はイスラエルの敵であるニネベに悔い改めのメッセージを伝えるためにヨナを送りました。

おそらくヨナは、イスラエルの民に「神様はあなた方を敵の手から救い出す」と伝えることに喜びを感じていたことでしょう。

たとえ神様がヤロブアムを用いて働かれる理由が彼に理解できなかったとしても、それが良い知らせである以上、ヨナは困ることはありませんでした。

しかし、神様がイスラエルの敵を愛し、彼らに悔い改めの機会を与えようとされたため、ヨナは大いに困惑しました。彼はこう考えたかもしれません。

「なぜ神様はイスラエルの敵に悔い改めのメッセージを伝えたいのだろうか?彼らを滅ぼしたほうが良いのではないか?」

その結果、ヨナはニネベに行くことを拒み、反対の方向へ逃げる道を選びました。

皮肉なことに、神様はヨナが人々に影響を与えることを望まれました。ヨナは確かに影響を与えましたが、それは悪い方法での影響でした。

神様はヨナの注意を引くために嵐を送られました。けれども、その船にはヨナだけでなく、他の乗客も乗っており、皆が困難に直面しました。

ここでお伝えしたいのは、私たちの選択が他の人々に影響を与えるということです。それは良い影響かもしれませんし、悪い影響かもしれません。

神様に従うなら、私たちはこの世のために多くの良いことをすることができます。

しかし、神様に背くなら、否定的な影響を周りの人々に与えてしまうでしょう。私たちの家族や友人、愛する人々に悪い影響を与える可能性があります。

そして、私たちの悪い行動によって、彼らは神様に近づくどころか、神様に背を向けてしまうかもしれません。

幸いなことに、ヨナの罪にもかかわらず、神様はご自身の栄光のためにヨナの行動を用いられました。船乗りたちがヨナを抱え、海に投げ込むと、海はその激しい怒りを静めました。それを見た船乗りたちは神様を恐れ、神様を求め始めたのです。

では、あなたはどうでしょうか。周りの人々にどのような影響を与えていますか。悪い影響でしょうか、それとも良い影響を与えていますか。

毎日、神様に従うことを選びましょう。そうすれば、神様は私たちを通してこの世を変えてくださいます。