私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。
神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。こうして、愛が私たちにあって全うされました。
ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。
恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。(ヨハネの手紙第一4:16~19)
日曜日に、私は黙示録4章によるメッセージをしました。ヨハネの上のことばを読んだとき、その黙示録の箇所を連想しました。
イスラエル人たちとイザヤは、神の栄光を見たら死んでしまうと思いました。(出エジプト記19:16;20:18〜21;イザヤ6:5)
でも、御座の前に立って神の栄光を見たとき、ヨハネは震えたかもしれませんが、「私は滅んでしまう」とは叫びませんでした。
イスラエル人たちとイザヤと同じように、ヨハネも罪深い人間でした。では、なぜヨハネは神様からの罰を恐れなかったのでしょうか。
それは、ヨハネが自分に対する神の愛を知り、信じていたからです。神の愛は、ヨハネにあって全うされていたからです。
あなたはどうですか。ヨハネと同じように、「自分に対する神の愛を知り、信じている」と言えるでしょうか。
