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ヨハネの手紙第一のデボーション

恐れがない

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。

神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。こうして、愛が私たちにあって全うされました。

ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。

恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。(ヨハネの手紙第一4:16~19)

日曜日に、私は黙示録4章によるメッセージをしました。ヨハネの上のことばを読んだとき、その黙示録の箇所を連想しました。

イスラエル人たちとイザヤは、神の栄光を見たら死んでしまうと思いました。(出エジプト記19:16;20:18〜21;イザヤ6:5)

でも、御座の前に立って神の栄光を見たとき、ヨハネは震えたかもしれませんが、「私は滅んでしまう」とは叫びませんでした。

イスラエル人たちとイザヤと同じように、ヨハネも罪深い人間でした。では、なぜヨハネは神様からの罰を恐れなかったのでしょうか。

それは、ヨハネが自分に対する神の愛を知り、信じていたからです。神の愛は、ヨハネにあって全うされていたからです。

あなたはどうですか。ヨハネと同じように、「自分に対する神の愛を知り、信じている」と言えるでしょうか。

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自分の心が私たちを責めるとき:神の子供としての私たちの希望

子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。

そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。

たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。(ヨハネの手紙第一3:18ー20)

「神は…すべてをご存じだ。」

ヨハネのことばを読んで、ヨハネの福音書21章にある、イエス様へのペテロのことばを連想しました。

「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」(ヨハネ21:17)

イエス様は、確かにペテロの心を知っておられました。実際、ペテロ以上に、イエス様はペテロの心を知っておられました。ペテロが将来、イエス様のために死ぬほどイエス様を愛していることを、知っておられました。(ヨハネ21:18〜19)

イエス様は、ペテロの弱さをよく知っておられました。

イエス様は、ペテロの過去の罪と失敗をよく知っておられました。

イエス様は、ペテロの将来の罪も知っておられました。

でも、ペテロがイエス様を愛し、イエス様のようになりたいと願っていることを、知っておられました。

神の子どもたちは、その態度によって特徴づけられています。彼らは、愛する主のようになりたいのです。

ヨハネは、その真理をこのように表現します。

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。

しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。

キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。(ヨハネの手紙第一3:2ー3)

もちろん、今は、私たちは完全にイエス様のようになっているわけではありません。でも、神の子どもとして、私たちはそれを望みます。私たちは、完全になる日を待ちきれません。

だから、その間、イエス様のようになるための一歩を踏み出します。小さい子どものように、私はよちよち歩きかもしれないけれど、一歩一歩、歩き続けます。

イエス様が歩まれたように、私は歩き始めます。(第一ヨハネ2:6)

イエス様が愛されたように、私は愛し始めます。(第一ヨハネ3:16〜18)

そして、私たちが転んで、自分の心が私たちを責める時、私たちの天のお父さんは、私たちを引き上げ、励ましてくださいます。

「大丈夫です。あなたが私を愛していることを、よく知っているよ。歩き続けなさい。」

私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。

事実、私たちは神の子どもです。(第一ヨハネ3:1)

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人を愛しているのか?それとも、つまずいているのか?

光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。

自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。(ヨハネの手紙第一2:9ー10)

たぶん、私たちの多くは、上のことばをよく読み流します。なぜなら、私たちは「私は大丈夫だ。私は誰も憎んでいない」と思うからです。

それはそうかもしれないけれど、私たちがよく裁く人がいるでしょうか。

私たちが許していない人がいるでしょうか。

今日、私は4人の人たちのことを考えていました。私は彼らを憎んでいるわけではないけれど、彼らを思い出すたびに、私はよくつまずいてしまいます。

私は、「私は彼らを本当に愛していないのだろう」と思いました。

だから、彼らに対する私の態度を直せるように祈っています。そのために、私は本当に神様の助けが必要です。

あなたはどうですか。神様は、あなたに誰かについて語りかけておられるでしょうか。

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光の中を歩む

もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(ヨハネの手紙第一1:7)

今朝、上のことばを読んだとき、「光の中を歩む」とは、どういう意味だろうかと思いました。

今まで私が考えていたのは、「罪を犯す瞬間、私たちは光から離れ、闇に入り、悔い改めるまでその闇にとどまる」ということです。

私たちが救いを失うとは思わなかったけれど、ある意味、私たちが闇に入ってしまうと思いました。

でも、ヨハネのことばを反芻してみると、その考え方が間違っていると思いました。

ヨハネは、光の中を歩む人が決して罪を犯すことはないとは言いません。

むしろ、ヨハネは、私たちが光の中を歩んでいるなら、私たちが罪を犯すとき、イエス様の血がその罪から私たちをきよめてくださると言います。

だから、光の中を歩むとは、私たちの人生の良い面も悪い面もすべてをイエス様にさらけ出すことです。

そして、イエス様の光が私たちの心の中の罪を現すと、私たちはすぐに悔い改めます。

私たちはその罪を隠そうとしません。私たちは言い訳をしません。私たちは悔い改めます。そうすれば、神様は真実で正しい方ですから、その罪を赦してくださいます。

それが、光の中を歩むことです。

その反面、神の光から隠れると、私たちは神との関係を持つことができません。アダムとエバと同じように、私たちが自分の罪と咎を隠そうとしたり、自分の罪のために言い訳をしたり、自分の罪を正当化しようとするなら、神様との関係を持つことができません。

それが、闇の中を歩むことです。

だから、私たちが光の中を歩んでいるかどうかを考えるとき、自問自答しなければならないのは、どれだけ誘惑に負けるかということではありません。

自問自答しなければならないのは、「私のすべてをイエス様にさらけ出しているだろうか。私は隠そうとしているところがまだあるだろうか」ということです。

天のお父さん、私は光の中に踏み入れ、その光の中を歩むことを選びます。私の恥ずべき罪も隠しません。

あなたの光を私に照らしてください。私が変わらなければならないところを教えてください。

私は、単にあなたの光の中に立ち、あなたの恵みを受けたいのではありません。私は、光の中で歩みたいのです。

だから、私の次のステップを教えてください。そして、一歩一歩前進し続けることで、私がよりあなたのようになれますように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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誰を信じるでしょうか

神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。(ヨハネの手紙第一5:3ー4)

この世はいろいろなものを私たちに投げつけます。パウロによれば、苦難、苦悩、迫害、飢え、裸、危険、剣などがこの世から私たちに投げつけられるのです(ローマ8:35)。

それでも、パウロはこう言います。「これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です」(ローマ8:37)。

ヨハネもほぼ同じことを語ります。この世とその攻撃に直面するとき、私たちが勝利するのは何によってでしょうか。それは、私たちの信仰です。

つまり、神様が良い方であることを信じる信仰です。神様が私たちを愛しておられることを信じる信仰です。神様が何が最善かをご存知であることを信じる信仰です。そして、神様が私たちの最善を望んでおられることを信じる信仰です。

この世は不信によって特徴づけられています。基本的に、この世は神様を嘘つきと呼びます。そして、さまざまな試練を私たちに投げつけることで、私たちがこの世の不信に陥るのは容易なことです。その不信に押し潰されるのも、また容易なことです。

さらに、その不信によって押し潰されたとき、神様の命令は重荷となり、神様のために生きることも重荷となってしまいます。

しかし、信仰を持つなら、どんな状況の中にあっても、私たちは勝利と喜びを得るのです。

私たちは誰の証しを信じるでしょうか。この世の証しでしょうか。それとも神様の証しでしょうか。

この世の証しは死に至ります。

神様の証しはいのちに至ります。

その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。

御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(11ー12節)

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あなたの愛を本当に知っている?

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。。。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(ヨハネの手紙第一4:16,19)

天のお父さん、私はあなたの愛を知っています。あなたが私を愛してくださっていることを信じます。あなたがまず私を愛してくださったから、私はあなたを愛しているのです。

それでも。

私にとっては、あなたが私を愛してくださったように周囲の人々を愛することは難しいです。

私は、自分に対するあなたの愛を本当に知り、信じているのでしょうか。

もしそうなら、私はあなたのように周囲の人々を愛することができるはずです。あなたのように、彼らを受け入れることができるはずです。あなたのように、彼らを許すことができるはずです。愛をもって、彼らを扱うことができるはずです。

天のお父さん、私はあなたの愛を知り、信じています。けれども、私が気づかされたのは、その愛をもっと深く信じるようにならなければならないということです。なぜなら、私の愛は本当に不完全だからです。

どうか、私があなたの愛を真に知り、信じるように助けてください。

あなたが私に愛を示してくださったすべての瞬間を思い出すことができるように助けてください。

私が失敗したとき、あなたが受け入れてくださったすべての出来事を思い出すことができるように助けてください。

また、あなたが私を赦してくださったすべてのことを忘れないように助けてください。

それらの経験を思い返すとき、あなたがどれほど私を愛してくださっているかを悟ることができるように助けてください。

あなたの愛が私の人生の土台となりますように。私があなたの愛に深く根差すことができますように。

あなたのように、私が人々を愛する者となれますように。あなたの愛が私のうちに全うされることを願います。私があなたのような者へと変えられていきますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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希望があるから

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。

やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。

キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。(ヨハネの手紙第一3:2-3)

天のお父さん、私は希望を持っています。なぜなら、あなたは私をご自分の子供と呼んでくださっているからです。

また、イエス様がこの世にもう一度来られるとき、私はイエス様に似た者になるという希望を持っています。その日、私はイエス様をありのままに見るからです。

そういうわけで、私は今、イエス様のようになろうと努めています。イエス様のように歩みたいです。イエス様と同じように、人々を愛したいです。

でも、私が失敗し、罪を犯すときでも、私はなお希望を持っています。なぜなら、あなたは決して私を諦めないからです。

むしろ、もし私が自分の罪を告白するなら、あなたは真実で正しい方で、その罪を赦し、私をすべての不義からきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

サタンが私を責めても、私の心が私を責めても、あなたは私の心よりも大きな方であり、すべてをご存じです。つまり、私があなたを本当に愛していることをご存じなのです。(ヨハネ20:15−21)

どうか、毎日、私があなたの愛と恵みと希望の中で歩むことができますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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キリストの恵みと知識において成長する

今日、ヨハネの手紙第一2:12〜14に思いを巡らしていました。特に、クリスチャンの成長の段階について考えていました。

幼いクリスチャンたちは、神様やその御言葉をあまり知らないかもしれませんが、神様についての一つの真理を理解し始めています。

「私のパパは私を愛し、受け入れている。私が失敗しても、私のパパはまだ私を愛し、赦してくれる。」

その確信があるので、彼らはためらうことなく神様に近づくことができます。恐れることなく、彼らのパパのもとに走ることができます。

成熟したクリスチャンたちも同じ関係を持っていますが、彼らの神様との体験はさらに深いものです。彼らは単にパパを見るのではなく、永遠から生きておられる方を見ます。すべてを造られた万能の創造主を見ます。

すべての道が完全である聖なる方を見ます。ご自分の性格、つまり愛、恵み、あわれみが決して変わらない方を見ます。

彼らは不実で、何度も失敗してきましたが、それでも神様のいつくしみと忠実さを経験してきました。だから振り返ると、彼らは神様に畏敬の念を抱き、自然と礼拝の心が湧き上がってきます。

そして、青年のクリスチャンたちがいます。彼らはミルクだけを飲むのではなく、聖書の固形物を食べています。その御言葉は彼らのうちにとどまっています。

彼らは御言葉を振るうのが上手になりました。その御言葉と経験によって、彼らは善と悪を見分ける感覚を訓練されています。そういうわけで、彼らは罪やサタンに打ち勝ち始めます。

天のお父様、あなたの教会にいる幼いクリスチャンたちのために祈ります。

彼らがあなたを本当に知るように祈ります。彼らが、あなたに愛され、受け入れられ、赦されることを本当にわかってくるように。その確信をもって、彼らが小さい子供のように、あなたのもとに走り、近づくように。

また、あなたの教会にいる成熟したクリスチャンたちのために祈ります。

あなたとの関係、またあなたとの体験を振り返ると、彼らがあなたに畏敬の念を抱くように。また、彼らがその体験を若いクリスチャンたちに伝えるように。

最後に、あなたの教会にいる若者たちのために祈ります。

あなたの御言葉が彼らのうちにとどまるように。彼らが善と悪を見分ける感覚を訓練されるように。誘惑や試練や霊的な戦いに直面するとき、彼らが御霊の剣、つまりあなたのことばを上手に振るうように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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神を偽り者としている?

神を信じない者は,神を偽り者としています。(ヨハネの手紙第一5:10)

その言葉は私の心を打ちました。

神を信じないと、私たちは神を偽り者と呼んでいます。

エデンで、サタンは神を偽り者と呼び、アダムとエバに神様を偽り者と呼ぶことを教えました。(創世記3:3-6)

神の言葉が時代遅れか間違っていると主張すると、私たちは神を偽り者と呼んでいます。

たぶん、多くの人にとって、最も受け入れがたい神の教えは、イエス様だけによって、私たちが神様との関係や永遠の命を得ることができるということです。(ヨハネ14:6)

特に、私たちは神様を知らない愛している人たちを考える時、その真理を信じたくないのです。

私たちは「ほかの道があるはずだ」と考えます。

でもそのようなことを言うと、私たちは神を偽り者と呼んでいます。

ヨハネによれば、水や血や御霊によって、神様は自分の神子が救いの道であると証しをしています。

イエス様がバプテスマを受けた時、神はイエス様のこととその使命に関して証しをしました。(ヨハネ1:29-34)

十字架で、イエス様の血はアベルの血よりもすぐれたことを語りました。(ヘブル12:24)

アベルの血は復讐を叫んでいました。(創世記4:10-11)

イエス様の血は「父よ、彼らをお赦しください」と叫びました。(ルカ23:34、ヨハネ19:34-35)

天の父はその願いを聞き、神殿の幕を裂いて、神様への道を開いてくださいました。(マタイ27:50-51)

そして、五旬節の日、御霊はイエス様の働きに関して証しをし、今なお証しをしています。(使徒の働き2:16-21、ヨハネ15:26、16:7-10、ローマ8:14-17)

だから、その証しを拒絶し、「ほかの道があるはずだ」と言うと、私たちは神様を偽り者と呼んでいます。

私たちは神様とその言葉を疑うことがありますか。

神のみ言葉を曲げないように。特に救いに関する神の言葉を曲げないように。

むしろ、その証しをしっかり握りましょう。そして、私たちの愛している人たちがイエス様を知り、救われるために、その証しを伝えましょう。

その救いを見て、私たちの喜びは本当に満ちあふれます。(第一ヨハネ1:1-4)

その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。

御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(ヨハネの手紙第一5:10-11)

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闇の中を歩むか、光の中を歩むか

ヨハネの手紙第一3:4~10節は、とても難しい箇所です。その言葉によって、多くのクリスチャンが自分の救いを疑います。なぜなら、その言葉は、罪を犯す人がクリスチャンではないと教えているように見えるからです。

しかし、ヨハネはそのように教えているわけではありません。ヨハネによれば、すべてのクリスチャンは罪を犯します。(ヨハネの手紙第一1:8~10、2:1)

では、ヨハネの言葉はどういう意味なのでしょうか。その答えは、1:6~7にあると思います。

神の真の子供は、闇の中を歩まず、光の中を歩みます。なぜ、彼らはそうするのでしょうか。

それは、彼らが神様を愛し、神様が良い方であると信じ、天の父のようになろうと努めるからです。

闇の中を歩む人は、そのように考えません。むしろ、彼らには神様に対する根深い不信感があります。彼らは、神の良い性格と良い戒めを疑います。

彼らの心の中では、こう言っています。「あなたがそのような神なら、あなたが本当にそのように考えているなら、私はあなたとは関わりたくありません。」

それは、サタンの態度でした。

サタンはエデンで、その態度を人間に伝えました。

現代でも、多くの人々がそのように考えています。

そのような人々は、イエス様とその御父を見たこともなく、知ってもいません。

真のクリスチャンは、そのように考えません。真のクリスチャンは、そのような態度で神様と歩むことはできません。

真のクリスチャンは罪に落ちるかもしれませんが、神様の光がその罪を現すと、そのクリスチャンはすぐに悔い改めます。彼らは言い訳をしません。彼らはその罪を正当化しようとしません。また、彼らは神様の良い性格や戒めを疑いません。

だから、疑問は、私たちが罪を犯すかどうかということではありません。疑問は、私たちが光の中を歩んでいるか、闇の中を歩んでいるかということです。

もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩み、罪を告白し、悔い改めるなら、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(1:7)

そして、たとえ自分の心が責めたとしても、神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じです。神様は私たちの愛と、神様を喜ばせようとする心をご存じで、私たちを受け入れてくださいます。

だから、ヨハネと一緒に喜びましょう。

私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。(1節)

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神様と歩む

ヨハネの手紙第一1―2章を読んで、私は神様と歩むとはどういう意味かを考えていました。

たくさんの人々は、神様と歩むと主張します。ヨハネの言葉を借りれば、彼らは神様を知り、神と交わりがあると主張します。

でも、神様を知り、神と交わりがあるとはどういう意味でしょうか。

ヨハネがはっきりと言っているのは、私たちが闇を歩んでいるなら、神と交わりがあると主張することはできないということです。

残念なことですが、たくさんの自称クリスチャンたちはそのような生活を送っています。彼らはみことばを読むと、好きな箇所は受け入れるけれど、好きではない箇所はあっさりと捨ててしまいます。

でも、神様と歩む人は、神様の戒めと道のすべてが良いと信じます。だから、彼らはそれらを抱きます。彼らは神のみことばのすべてを尊重します。彼らの心は神様に属し、彼らはイエスが歩まれたように歩もうと思います。(ヨハネの手紙第一1:5~6、2:3~6)

とはいえ、光の中を歩むとは、私たちが罪のない人生を送ることを意味しません。

しかし、神の光が私たちの罪を明らかにするとき、私たちは言い訳をせずに、その罪を告白し、悔い改めます。

その時、サタンが私たちを責めようとするかもしれません。でも、イエス様は私たちの隣に立って擁護してくださいます。そして、イエス様の血によって、私たちはすべての罪から清められ、神様の怒りはなだめられます。(1:7、2:1~2)

どうして私たちは赦されているのでしょうか。私たちが真実だからですか?違います。神様が真実だからです。(1:9)

どうして私たちは受け入れられているのでしょうか。私たちの義のためですか?違います。イエス様が義なる方だからです。(2:1)

そして、イエス様はご自身の義の衣を私たちに着せてくださいます。

だから、闇の中を歩まないようにしましょう。

また、神の怒りと裁きを恐れて、光に入ることを恐れないようにしましょう。

むしろ、光に入りましょう。いや、光に向かって走りましょう。神様を抱きましょう。神の道を抱きましょう。そして、神様に愛されている子供として、毎日神様の恵みによって歩みましょう。