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ヨハネの福音書 ヨハネ11章 ルカの福音書 ルカ19章

本当の聖さ

前回の記事では、王を拒絶する人々についてのたとえ話を読みました。今日の記事では、イエス様が指された人々について見ていきます。

イエス様がエルサレムに近づいておられ、多くの人々が過ぎ越しの祭りを祝うためにすでに集まっていました。そして、彼らは互いに訊き合いました。

どう思うか。あの方(つまり、イエス様)は祭りに来られないのだろうか。」(ヨハネ11:56)

なぜ彼らはそのように訊いたのでしょうか。

祭司長たち、パリサイ人たちはイエスを捕えるために、イエスがどこにいるかを知っている者は報告するように、という命令を出していた。(ヨハネ11:57)

実は、それは本当に皮肉なことでした。なぜでしょうか。

過ぎ越しの祭りを祝う前に、ユダヤ人たちは自分自身を清める必要がありました。つまり、儀式的に清められる必要があったのです。(ヨハネ11:55)

しかし、祭司たちやパリサイ人たちは儀式的には清められていたものの、心の中ではイエス様を殺そうと考えていました。

私たちはこの話から何を学ぶべきでしょうか。それは、聖さが単なる儀式的なものではないということです。聖さとは、教会に行くことや聖書を読むこと、献金をささげることだけではありません。

本当の聖さは、イエス様を王として受け入れることから始まります。

「イエス様、私は自分自身を清めることができません。儀式や自分の努力では清められません。イエス様、助けてください。私を清めてください。私の罪を赦してください。」

ヨハネは次のように書いています。

御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:7)

私たちが神様に受け入れられることを願うのであれば、それ以外の方法はありません。私たちはキリストの十字架のもとへ行き、イエス様の救いの御業を信じる必要があります。

そうすることで、私たちは神様の目に清められるのです。

あなたはどうでしょうか。本当に清められているでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ11章 ヨハネ12章

真理を認識できる?

私は以前にも言いましたが、パリサイ人たちと祭司たちの大きな問題は、彼らがイエス様の言葉を聞き、イエス様の御業を目の当たりにしていながら、それでもなおイエス様を信じなかったことです。

だからこそ、この箇所で彼らは危機に直面しました。

イエス様はラザロをよみがえらせました。そして、彼らはその奇跡を否定できませんでした。皆が、ラザロが4日間死んでいたのに、イエス様が彼をよみがえらせたことを知っていました。そのため、多くの人々がイエス様を信じるようになりました。

けれども、パリサイ人たちと祭司たちの反応はどうだったでしょうか。

「私たちはイエス様の御業をよく知っています。私たちはその奇跡を否定できません。それでも私たちはまだ信じません。」

イエス様がメシアである証拠は十分にありました。それにもかかわらず、彼らはどうしてもイエス様を信じようとはしませんでした。

一方で、彼らはユダヤ人たちの反応に思い悩みました。つまり、ユダヤ人たちがイエス様を王にしようとすれば、ローマ帝国がイスラエルの土地と国民を奪い取ることになる、という懸念です。

ヨハネは、大祭司カヤパの言葉の皮肉さを認識しました。カヤパは次のように言いました。

あなたがたは全然何もわかっていない。

ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。(ヨハネの福音書11:49-50)

カヤパが意味したのは、ローマが彼らの国を奪い取るよりも、イエス様が死ぬ方が方便だということです。

しかし、ヨハネは次のように解説しました。

ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。(51-52)

自分の口から発せられる真理さえ認識できないほど、彼らのプライドと野心は彼らの目を曇らせていました。

あなたはどうでしょうか。真理を聞いたとき、その真理を認識できるでしょうか。

イエス様は、「私は真理だ」と言われました。

真理を理解するためには、あなたはたった一つのことを認めなければなりません。つまり、イエス様が生ける神の御子キリストであることです。

それを認めない限り、あなたは決して真理を理解することはできません。

あなたはどうでしょうか。真理を認識できるでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ11章

死んだ者に命を与えてくださる方

いつか、この11章を終えることになるでしょう。とはいえ、今日はまだ終えません。😊

この箇所は、真理に満ちた大切な部分だからです。

イエス様がマルタに、「あなたの兄弟はよみがえります。」と言われたとき、マルタはこう答えました。

私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。(ヨハネの福音書11:24)

けれども、イエス様はこう答えられました。

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。

このことを信じますか。(25-26)

つまり、「よみがえりは単なる未来の出来事ではありません。私はよみがえりであり、死んだ者に命を与える者です。もし私を信じるなら、あなたは決して死ぬことがありません」ということです。

そして、イエス様はラザロをよみがえらせることで、ご自身の言葉を証明されました。

イエス様はラザロをよみがえらせたように、イエス様を信じるすべての人をよみがえらせます。

パウロは次のように語りました。

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。

それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり[ます]。(第一テサロニケ4:16)

そして、パウロはこう言いました。

聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。

終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。(第一コリント15:51-53)

ラザロの場合、彼はよみがえらされましたが、再び死を迎えました。しかし、イエス様が私たちを復活させるとき、朽ちることのない体を与えてくださいます。

あなたはどうでしょうか。死後、自分がどうなるか知っていますか。永遠の命を持っているという確信がありますか。

イエス様はよみがえりであり、命です。イエス様を信じるなら、あなたは決して死ぬことはありません。この世を去ると、新しい命が始まります。

だからこそ、イエス様はマルタに問いかけたように、あなたにも問いかけます。 「このことを信じますか。」

あなたがマルタのように答えますように。

はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。(27)

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ヨハネの福音書 ヨハネ11章

私たちの苦しみをイエス様に打ち明ける?

私たちの多くは、苦しみの中にあるとき、その苦しみに向き合わず、ただ埋めてしまいます。苦しみを無視しようとします。

もしかしたら、仕事や食べ物、楽しみで気を紛らわせようとするかもしれません。けれども、その苦しみは私たちの魂を蝕み、やがて広がり、私たちを飲み込んでしまいます。

では、どうすればよいのでしょうか。

マリアとマルタもこの苦しみを経験しました。彼女たちの兄は亡くなりました。そして、もしイエス様がもっと早く来ていれば、ラザロは死ななかったことを知っていました。ところが、イエス様はすぐには来られませんでした。

そのため、彼女たちはラザロの死に苦しみ、もしかすると、イエス様に裏切られたと感じたかもしれません。

だから、イエス様がようやく来られたとき、彼女たちはほぼ同じ言葉を口にしました。

主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。(ヨハネの福音書11:32)

私は前にも言いましたが、もしかしたら、マルタはその言葉を口にしたとき、イエス様を責めるのではなく、「私はあなたをまだ信じています」という意味を込めていたのかもしれません。

けれでも、マリヤの場合はどうでしょうか。おそらく、彼女は苦しみに満ちた声でその言葉を発したのでしょう。だから、ヨハネはイエス様の反応を描写するとき、次のように書きました。

そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ[ました]。(33)

どうしてイエス様はそのように反応されたのでしょうか。おそらく、イエス様はマリヤに深く同情されたのでしょう。しかし、もしかすると、マリヤの不信仰を見て、心を痛められたのかもしれません。

38節では、ほかの人々が「なぜイエス様はもっと早く来られなかったのか」と問いかけたとき、イエス様は同じ反応を示されました。

だから、イエス様はラザロの墓に向かったとき、マルタにこう言われました。

その石を取りのけなさい。(39a)

私はマルタの答えをよく理解できます。

主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。(39b)

けれでも、イエス様はこのように答えられました。

もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。(40)

最初、マルタはイエス様の言葉に従うことに気が進みませんでした。すでに手遅れだったからです。ラザロはすでに亡くなっていました。

しかし、最終的に彼女がイエス様の言葉に従ったことで、イエス様はラザロを復活させられました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

あなたは、どんな苦しみを心の中に埋めてしまったでしょうか。

その苦しみのせいで、どんな苦々しい思いを抱いているでしょうか。たとえば、ほかの人々に対する苦々しい思い、あるいは神様に対する苦々しい思いです。

イエス様はあなたにこう語られます。

「その石を取り除きなさい。あなたの苦しみと苦々しい思いを私に打ち明けなさい。それらはあなたの心の中で腐っているからだ。だからこそ、その苦しみを打ち明けなさい。もし私を信じるなら、あなたは神様の栄光を見ることになる。」

あなたはどう応じるでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ11章

光の中を歩んでいる?

イエス様がラザロとその家族に会うためにユダヤへ行こうとされたとき、弟子たちはその決断に反対しました。

先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。(ヨハネの福音書11:8)

けれども、イエス様の答えは本当に印象的でした。

昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。

しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。(9-10)

イエス様が意味されたものは何だったのでしょうか。

天の父の御心に従う限り、必ず守られるでしょう。天の父の導きを信頼する限り、つまずくことはありません。イエス様はそう教えられました。

その反面、神様の御心に従わない人や、天の父の導きを信頼しない人は、迷いの中で苦しむことになります。

だからこそ、私たちはイエス様のように生きるべきなのです。

前回の記事で私は、イエス様が何よりも私たちの信頼を望んでおられると書きました。そして、私たちがイエス様を信じて従う決断をするとき、物事をありのままに見るようになります。

たとえ私たちの状況が厳しいときでも、イエス様の愛を感じることができます。また、私たちの試練が一時的なものであることを理解するようになります。

しかし、世の光から離れると、試練と受けた傷のために、私たちは絶望の暗闇の中でつまずいてしまいます。

あなたはどうでしょうか。あなたには、はっきりと見えていますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ11章

私たちが信じるために

これはイエス様の最も有名な奇跡の一つです。私は何度もこの話を読んだことがありますが、今回は特にこの言葉が私の心に深く響きました。

あなたがたが信じるために。。。(ヨハネの福音書11:15)

この箇所では、私たちは何度もこのテーマを目にします。そして、その言葉を通して、私たちはイエス様の動機を知ることができます。時には、人々はイエス様の行動を理解できませんでしたが、イエス様の動機は、彼らの信仰を成長させることでした。

だから、イエス様はマルタの信仰に挑戦されたのです。

もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。(40)

そして、イエス様がラザロの墓で祈られたとき、次のように祈られました。

わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。

しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。(42)

そして、ラザロの復活の後、ヨハネは私たちに次のように語りました。

そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。(45)

イエス様が私たちに学んでほしいことの一つは、私たちがイエス様を信頼することです。私たちのあらゆる経験、苦しみや試練の中にあってもイエス様を信頼すること。それこそがイエス様の意図されていることです。

時には、私たちは神様にこう問いかけます。「神様、あなたを愛しています。でも、なぜ私はこの試練に直面しているのでしょうか。あなたは本当に私を愛してくださっているのでしょうか。」

この話では、マリヤがそのように問いかけました。彼女はイエス様のことを心から愛していました。

また、別の話では、彼女はとても高価な香油をイエス様の足に塗り、彼女の髪の毛でその足をぬぐいました。

マリヤはイエス様を愛していました。そして、イエス様がマリヤたちを愛しておられることを知っていたので、ラザロが病気になったとき、彼女はイエス様を呼びました。イエス様は必ず来てくださると確信していました。

実際、イエス様はその家族を心から愛しておられました。(5)

だから、イエス様は彼らの家に行かず、二日間待っておられたのです。(6)

ちょっと待ってください。イエス様は彼らを愛しておられたから、行かなかったのでしょうか。

それはどういう意味でしょうか。

どうしてイエス様は二日間も待っておられたのでしょうか。それは、イエス様が彼らに、イエス様を信頼することを学ぶよう望んでおられたからです。

イエス様が二日間も来られなかったことで、ラザロは死にました。けれども、イエス様がラザロを復活させたとき、彼らの信仰のレベルは大きく成長しました。

時には、私たちは「どうして神様は何も言わないのだろうか。どうして私の祈りに応えてくださらないのだろうか」と疑問に思います。

マリヤとマルタも、きっとそう考えたでしょう。「どうしてイエス様は来てくださらないのだろうか。」

もちろん、彼女たちはイエス様を信頼していました。しかし、イエス様は彼女たちがさらに深く信頼するよう望んでおられました。

マルタの言葉を少し見てみましょう。

主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。 (21)

それは苦々しい気持ちを込めた言葉だったのでしょうか。私はそう思いましたが、今はわかりません。もしかしたら、それは信仰の言葉だったのかもしれません。

「イエス様、あなたがもっと早く来ていたら、私の兄を癒すことができたことをよく知っています。でも、私はあなたをまだ信じています。今でも、神様はイエス様と共におられ、イエス様の願いを聞いてくださることを知っています。」(21-22)

マルタは、イエス様がラザロを復活させることを信じたでしょうか。おそらく、そうは信じなかったでしょう。(39節を読んでください。)

もしかしたら、彼女はこう言いたかったのかもしれません。

「あなたは私の願いを叶えてくださらなかったけれど、私はあなたをまだ信じています。だからこれからも、困ったときにはあなたのもとへ行きます。」

それでもなお、イエス様はもう一度マルタの信仰に挑戦されました。

「今の問題をもうあきらめたでしょうか。そうしてはなりません。あなたのお兄さんは復活します。私は命の主です。

私は誰にでも命を与えることができます。私を信じる者は、たとえ死んでも生きるのです。そして、私を信じる者は決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(23-26)

マルタは「はい」と答えましたが、おそらく、イエス様の本当の意味を理解していなかったでしょう。それでも、彼女は言いました。「あなたを信じます。あなたが神の子だと信じます。」(27)

この信仰とは何でしょうか。それは子供のような純粋な信仰です。

私たちも、イエス様の言葉が理解できないことがあります。神様の決断や行動が分からないこともあります。

しかし、混乱していても、失望していても、「私はまだあなたを信じます」と言えるでしょうか。

マルタは、ラザロの墓の前で、その疑問に向き合わなければなりませんでした。「この厳しい状況の中でも、私はイエス様の言葉に従うほどに、イエス様を信じることができるでしょうか。」

けれども、彼女がイエス様の言葉に従ったとき、神様の栄光を目の当たりにしました。

私たちも同じです。マルタに問いかけたように、イエス様は私たちにもこう問いかけます。

もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。(40)

あなたはどのように反応しますか。