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真の愛。偽りの愛。

この話では、私たちはイエス様に対する二人の人物の愛を見ることができます。けれども、彼らの愛は全く異なるものでした。

マリアの愛は心から生まれたものでした。一方で、ユダの「愛」は自分勝手で利己的なものでした。

イエス様はベタニアという町に行かれました。その時、イエス様はシモンという人の家を訪れました。弟子たち、ラザロ、そしてその姉妹マリアとマルタも来て、一緒に食事をしました。

食事の後、マリアは非常に高価な香油を持ってきて、イエス様の頭に注ぎ、さらにその足にも塗りました。そして、自分の髪でその足を拭いました。

ユダはそれを見て、こう言いました。

どうして、子の香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。(ヨハネ12:5)

他の弟子たちも同意し、同じようなことを言ったようです。

けれども、ヨハネはユダの動機を説明しています。

彼がこの言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。(12:6)

だから、イエス様はこのように答えられました。

彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。私のために、良いことをしてくれたのです。

貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。

彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。

まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。(マルコ14:6-9)

この言葉に対するユダの反応は何だったのでしょうか。彼はイエス様を引き渡すために、祭司長たちのところへ行き、彼らから銀貨30枚を受け取りました。

私たちはユダの動機を完全には知りません。けれども、それが単にイエス様の叱責に対する反発ではないと思います。おそらく、もっと深い理由があったのでしょう。

もしかしたら、彼の愛は、相手から何を得られるかに基づく利己的なものだったのかもしれません。だから、自分の利益のためにお金を盗める限り、彼は貧しい者にお金を渡すことに満足していたのでしょう。

また、イエス様が王になりそうだと期待する限り、ユダはイエス様に従うことを選んでいたのかもしれません。

しかし、何度もイエス様は、王になることではなく、自分の死について語られました。もしかしたら、ユダはその話にうんざりし、「もし死にたいと思うなら、死ねばいい」と考えた可能性もあります。

だからこそ、彼はイエス様を裏切ったのではないでしょうか。

一方で、マリアは心からイエス様を愛しました。ユダとは異なり、マリアはイエス様から何かを得ようとはせず、純粋な心でイエス様に貴いものをささげたいと願いました。

私はヨハネの生々しい描写がとても好きです。

家は香油の香りでいっぱいになった。(ヨハネ12:3)

イエス様に対する私たちの愛は、そのようであるべきです。この世は、イエス様に対する私たちの愛の香りで満たされるべきです。私たちの愛が明らかになれば、周りの人々はその愛を見過ごすことはないでしょう。

ユダがマリアを責めたように、私たちを責める人もいるかもしれません。けれども、イエス様にとって、私たちの愛は香油のようなものです。

あなたはどうでしょうか。あなたの愛は自分勝手なものでしょうか。イエス様から何を得られるかだけを考えているでしょうか。

あるいはあなたの愛は、イエス様にとっても、この世界にとっても、素晴らしい香りを放つものでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ12章

イエス様を見るとき、イエス様の声を聞くとき

多くの人々は「神様を信じる」と言いますが、イエス様を信じていません。

しかし、もしあなたが本当に神様を信じるなら、イエス様を拒絶することはできません。この箇所で、イエス様はこう語られました。

わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。

わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。(ヨハネの福音書12:44-46)

つまり、イエス様を信じることは、神様を信じることです。イエス様を見ることは、神様を見ることです。

そして、イエス様はこう語られました。

わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。

わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。(49-50)

だから、イエス様の言葉を聞くことは、神様の言葉を聞くことです。なぜなら、イエス様は神様の言葉を正しく伝えられるからです。

したがって、もしあなたがイエス様の言葉を拒絶するなら、それは実際には神様の言葉を拒絶することになります。さらに、もしイエス様を拒絶するなら、それは神様ご自身を拒絶することなのです。

そこで、イエス様はこう語られました。

わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。(48)

私たちがイエス様の言葉を聞くと、その言葉によって私たちは裁かれます。

もしイエス様を信じるなら、あなたは光と命を見つけるでしょう。 しかし、イエス様を拒絶するなら、あなたが見つけるのは暗闇と裁きです。

あなたはどう選ぶでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ12章

誰からの栄誉を求めるか

聖書の中で、これは最も切ない言葉の一つです。

しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じたものが多くいた。

ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである。(ヨハネの福音書12:42-43)

この箇所では、私たちは隠れた信者たちの存在を見ます。彼らはイエス様の奇跡を目の当たりにし、その教えを聞いて信じるようになりました。

それでも、彼らは誰にもそのことを打ち明けませんでした。なぜなら、会堂から追放されることを恐れていたからです。その文化において、会堂からの追放はユダヤ社会全体からの孤立を意味していました。

彼らの決断が示したのは、神様を喜ばせることよりも、周囲の人々の歓心を買うことを優先したということです。

もしサタンがあなたがクリスチャンになることを阻止できないなら、あなたが自分の信仰を周囲の人々に伝えることを妨げようとします。

どのようにしてそれを行うのでしょうか。サタンはあなたに問いかけます。 「もし周囲の人々に伝えたら、彼らはどう反応するだろうか。」

時には、その反応は明確です。あなたの友人や家族があなたを拒絶するかもしれません。議員たちもこの板挟みに直面していました。もしイエス様を信じると公言すれば、彼らは会堂から追放されることになるでしょう。

けれども、多くの場合、私たちは相手がどのように反応するか分かりません。それでも、悪い反応を恐れてしまいます。

私が中学生や高校生だった頃、私も同じように感じていました。高校2年生になるまで、私は自分がクリスチャンであることを友人に伝えませんでした。なぜなら、彼らの反応を恐れていたからです。

しかし、神様は私たちがそのように生きることを望んではおられません。神様は、私たちが周囲の人々に触れ、影響を与えることを望んでおられます。けれども、もし私たちが恐れに支配されるなら、それを実践することはできません。

私たちの信仰のゆえに、私たちを拒絶する人がいます。すべての人が私たちを愛するわけではありません。イエス様は完全な方であったのに、彼を憎む人がいました。

どうして私たちは違う反応を期待するべきでしょうか。

だからこそ、相手が私たちを拒絶することを心配しないでください。私たちの信仰を大胆に伝え、その結果を神様に委ねましょう。

イエス様の言葉を忘れずに心に留めましょう。

ですから、誰でも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。

しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を知らないと言います。(マタイ10:32-33)

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遅すぎる前に

時には、人々はイエス様に従うことを先延ばしにします。なぜなら、「あとでできる」と思ってしまうからです。しかし、それには危険が伴います。

この箇所では、イエス様が十字架を前にして、覚悟を決め、叫ばれました。

父よ。御名の栄光を現してください。(ヨハネの福音書12:28a)

そして、天の父は、すべての人の前で答えられました。

わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。(28b)

イエス様の周りにいた人々は、その声を聞きましたが、正しく聞き取ることができなかったようです。

ある人々は、「雷が鳴ったのだ」と言いました。

また、別の人々は、「天使があの方に話しかけた」と言いました。

なぜ彼らは天の父の言葉を理解できなかったのでしょうか。

ヨハネはこのことを解説します。

それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。

「主よ。私たちが聞いたころを、誰が信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」

イザヤはまた次のように言っているので、彼らは信じることができなかったのである。

「主よ。彼らの目を見えないようにされた。また、彼らの心を頑なにされた。彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないように。そして、わたしが彼らを癒すこともないように。」

イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。(38-41)

私は以前の記事でこの箇所について説明しましたが、基本的に彼らが天の父の声を理解できなかった理由は、すでにイエス様に対して頑なな心を持っていたからです。

ある人々にとって、イエス様が以前大工の仕事をしていたという事実は、彼らの持つメシア像と一致しませんでした。

また、別の人々がイエス様を拒絶した理由は、イエス様が彼らを宗教的な偽善者として明らかにされたことでした。

さらに、イエス様の教えが彼らの伝統や宗教的な規則と対立していたため、それを理由にイエス様を拒む人々もいました。

そのため、イエス様が奇跡によってご自身のメシアとしての資格と、その言葉の真実性を証明されても、彼らは「悪魔の力によってその奇跡を行った」と言い張りました。

この箇所では、彼らはこう言いました。 「まさか、それが神様の声だとは思えない。ただの私の想像だろう。きっと雷の音に違いない。」

けれども、彼らが自分の目と耳を閉ざせば閉ざすほど、心はますます頑なになり、霊的にも盲目になっていきました。

そこで、イエス様はもう一度彼らに警告されました。

もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。

闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。(35-36)

要するに、「あなたの時間は限られています。すぐに心を開かなければ、永遠に盲目になってしまいます。まだ可能なうちに、私と私がもたらす光を信じなさい。」ということです。

イエス様は、あなたにも同じことを語っておられます。人々がイエス様のもとへ引き寄せられ、救われるために、イエス様は地上から上げられ、十字架にかけられました。

けれども、もしあなたが目と耳を閉ざし続けるなら、たとえ真理が目の前にあっても、それを認識することはできません。そして、そのときには、救いの機会は失われてしまいます。

だからこそ、パウロはこう語りました。

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)

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イエス様に仕えるために

イエス様がエルサレムに目立つ形で入城されたこと、また神殿から業者や両替人を追い出されたことによって、エルサレム中でイエス様は話題となりました。そのため、初めてエルサレムを訪れた人々がイエス様に会いたいと願うのは、自然なことでした。

この話では、ユダヤ教に改宗しようとしていたギリシャ人たちが、イエス様に会いたいと願いました。おそらく、ピリポがギリシャ語の名前だったため、彼らは最初にピリポのもとを訪ねたのでしょう。

そこで、ピリポはアンデレとともに、彼らをイエス様のもとへ連れて行きました。(アンデレは、人々をイエス様に紹介することが多かった人物です。)

イエス様は彼らに会ったとき、次のように語られました。

人の子が栄光を受けるときが来ました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。(ヨハネの福音書12:23-24)

イエス様はご自身の死と復活について語られていました。イエス様がこの世におられる限り、その働きはイスラエルに限定されていました。けれども、イエス様が死んで復活された後、聖霊を通してその働きは世界中に広がり、すべての国と民族に及びました。

そして、イエス様はさらに続けて語られました。

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む人は、それを保って永遠のいのちに至ります。

わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについてきなさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。

わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。(25-26)

イエス様は、ごく当たり前のことを語ると同時に、非常に逆説的なことも言われました。

では、その当たり前のこととは何でしょうか。イエス様に仕えたいと思うなら、イエス様についていかなければなりません。また、イエス様に仕えたいと思うなら、イエス様がおられる場所にいなければなりません。

もしあなたが常にイエス様から離れているなら、イエス様に仕えることは困難です。だから、イエス様に仕えたいと思うなら、イエス様の近くにいて、イエス様が望まれることを見極めなければなりません。

けれども、イエス様と共に歩みたいと願うなら、ときには愛する者や、執着しているものを手放さなければならないこともあります。だからこそ、イエス様は逆説的なことを言われました。

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至る。」

もちろん、私たちはすべてを憎むべきだというわけではありません。しかし、ときにはイエス様に従うために、私たちは愛する者や、この世のものを手放さなければならないことがあります。

たとえば、イエス様が「あなたの国を離れ、別の場所へ行きなさい」と言われるなら、私たちはその御声に従わなければなりません。

また、イエス様が「あなたの現在の収入は高いかもしれないが、その仕事を捨て、私に仕えなさい」と言われるなら、イエス様の国のために、私たちはその道を選ばなければなりません。

ときには、イエス様についていくことで、私たちの人生は大きく変わります。ときには犠牲を払うこともあるでしょう。けれども、もし私たちがイエス様のもとにいなければ、真に仕えることはできません。

忘れないでください。その犠牲と変化は痛みを伴うかもしれません。しかし、最終的には、その犠牲には大きな価値があります。

私は日本に引っ越したとき、そのことを学びました。もともとハワイを離れる予定はまったくありませんでした。けれども、実際に日本へ来ると、私は以前よりも幸せになりました。イエス様についていき、日本に来たことで、私は新たな命を見出しました。

イエス様についていくなら、あなたも命を見つけることでしょう。

あなたはどうでしょうか。イエス様がおられる場所に、あなたもいるでしょうか。

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私たちに平和を与えるもの

この箇所で、イエス様はついにエルサレムに到着されました。そして、四つの福音書を読むと、ユダヤ人たちの興奮がよく伝わってきます。彼らは叫び声をあげていました。

「ホサナ、ダビデの子に。」

「祝福あれ、主のみ名によって来られる方に。」

「ホサナ、いと高き所に。」(マタイ21:9)

また、

「祝福あれ、われらの父ダビデの、来るべき国に」(マルコ11:9)

そして、

「天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」(ルカ19:38)

そして最後に、

「ホサナ。祝福あれ、主のみ名によって来られる方に。イスラエルの王に。」(ヨハネ12:13)

大騒ぎのため、多くの人々が「一体これは何の騒ぎだ?この人は誰だ」と尋ねました。そして、ほかの人々が「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と答えました。(マタイ21:10-11)

ヨハネによれば、その大騒ぎの理由の一つは、多くの人々がまだラザロの復活について語り続けていたことでした。(ヨハネ12:17-18)

最初に、パリサイ人たちはイエス様にこう言いました。

先生、あなたの弟子たちを叱ってください。(ルカ19:39)

イエス様がその願いを拒まれると、彼らは不満を漏らしました。

見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。(ヨハネ12:19)

それでも、イエス様がエルサレムに近づき、その都市をご覧になった時、喧噪の中で、イエス様は涙を流しながらこう言われました。

もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたらーー。しかし今、それはおまえの目から隠されている。

やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。

彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。

それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。(ルカ19:42-44)

西暦70年、聖書に書かれている出来事が実際に起こりました。ローマの将軍タイタスは、エルサレムとその神殿を破壊しました。

なぜ神様はそれを許されたのでしょうか。それは、ユダヤ人たちが神の訪れの時を認識しなかったからです。彼らは神様の平和を逃しました。心の平安を失い、さらに神様との平和をも失いました。

同じように、神様は私たち一人ひとりに訪れます。ローマ人への手紙1章によれば、神様のことを聞いたことがない人であっても、すべての人が神様の存在を知っています。

彼らが星空を見たり自然の美しさを見たりするとき、聖霊様が彼らの心にこう語るかもしれません。「これは偶然ではありません。これはデザインされたものです。あなたが作った偶像はこれを作ることができません。真の創造者を求めなさい。」

また、教会でイエス様について聞くことがあるかもしれません。あるいは、友達がイエス様について教えてくれることがあるでしょう。

その時、彼らは分岐点に立たされます。彼らはどう選択するでしょうか。神様の言葉を聞いて従うでしょうか。それとも、その言葉を拒絶するでしょうか。

神様に従うなら、彼らは神様との平和と永遠の命を知ることができます。しかし、その言葉を拒絶すれば、裁かれます。

あなたはどうでしょうか。神様は今、あなたを呼んでおられます。今日は救いの日です。今、イエス様を受け入れませんか。

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主がお入り用なのです。

私たちはついに、イエス様の人生の最後の週にたどり着きました。

この箇所では、一つのフレーズが私の心を深く打ちました。イエス様は弟子たちに次のように言われました。

向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、連れて来なさい。

もし「どうして、ぼくのか」とだれかが尋ねたら、「主がお入り用なのです。」と言いなさい。(ルカ19:30-31)

弟子たちがイエス様の言葉に従うと、その持ち主たちは彼らに問いかけました。

どうして、子ろばをほどくのか。(33)

弟子たちはイエス様の指示に従い答えました。その結果、持ち主たちはその子ろばを貸してくれました。

それを読んで、私は心の中で問いかけました。「主が私に、『私はこれが必要だ』と言う時、私はどう反応するだろうか。」

例えば、イエス様が「その人を助けるために、私はあなたのお金が必要です。その人は経済的に苦しんでいるから」と言ったら、私はすぐに「はい、どうぞ」と答えるでしょうか。

または、私がどこかに向かっている途中で誰かにばったり会った際に、イエス様が「私はあなたの時間が必要です。その人と話しなさい」と言ったら、私はどうするでしょうか。

または、イエス様が「あなたが西宮を去る時が来ました。私に仕えるために別の場所へ行きなさい」と言ったら、私は「はい、行きます」と答えるでしょうか。

それとも、私が自分の持っているものにしがみついてしまうのでしょうか。

実際には、自分自身で確信を持てません。過去を振り返ると、何度もイエス様が「こうしなさい。私はあなたからこれが必要だ」と言われたにもかかわらず、私は拒んでしまったことがあります。

「忙しい。」

または、

「私はそのお金が必要だ。別の物を買いたいから。」

弟子たちはそのろばをイエス様の元に連れて行き、イエス様をそのろばに座らせて、王としてあがめました。

私たちも同じようにするべきです。イエス様が私たちに「これが必要だ」と言われた時、私たちはその物をイエス様にささげ、イエス様を私たちの王としてあがめるべきです。

私はそうできるでしょうか。

あなたはどうでしょうか。

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真理を認識できる?

私は以前にも言いましたが、パリサイ人たちと祭司たちの大きな問題は、彼らがイエス様の言葉を聞き、イエス様の御業を目の当たりにしていながら、それでもなおイエス様を信じなかったことです。

だからこそ、この箇所で彼らは危機に直面しました。

イエス様はラザロをよみがえらせました。そして、彼らはその奇跡を否定できませんでした。皆が、ラザロが4日間死んでいたのに、イエス様が彼をよみがえらせたことを知っていました。そのため、多くの人々がイエス様を信じるようになりました。

けれども、パリサイ人たちと祭司たちの反応はどうだったでしょうか。

「私たちはイエス様の御業をよく知っています。私たちはその奇跡を否定できません。それでも私たちはまだ信じません。」

イエス様がメシアである証拠は十分にありました。それにもかかわらず、彼らはどうしてもイエス様を信じようとはしませんでした。

一方で、彼らはユダヤ人たちの反応に思い悩みました。つまり、ユダヤ人たちがイエス様を王にしようとすれば、ローマ帝国がイスラエルの土地と国民を奪い取ることになる、という懸念です。

ヨハネは、大祭司カヤパの言葉の皮肉さを認識しました。カヤパは次のように言いました。

あなたがたは全然何もわかっていない。

ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。(ヨハネの福音書11:49-50)

カヤパが意味したのは、ローマが彼らの国を奪い取るよりも、イエス様が死ぬ方が方便だということです。

しかし、ヨハネは次のように解説しました。

ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。(51-52)

自分の口から発せられる真理さえ認識できないほど、彼らのプライドと野心は彼らの目を曇らせていました。

あなたはどうでしょうか。真理を聞いたとき、その真理を認識できるでしょうか。

イエス様は、「私は真理だ」と言われました。

真理を理解するためには、あなたはたった一つのことを認めなければなりません。つまり、イエス様が生ける神の御子キリストであることです。

それを認めない限り、あなたは決して真理を理解することはできません。

あなたはどうでしょうか。真理を認識できるでしょうか。