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私たちの弱さを知り、それでも受け入れてくださる神

イエス様が弟子たちに、「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません」と言われたとき、彼らは当然戸惑いました。イエス様は彼らの師であり、彼らはイエス様がそばにおられない人生を想像することができませんでした。

そこで、いつものようにペテロは、皆が考えていたことを口にしました。

主よ。なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちを捨てます。(ヨハネ13:36-37)

イエス様の答えを聞いて、ペテロとほかの弟子たちは衝撃を受けました。

わたしのためにいのちを捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。(ヨハネ13:38)

そして、イエス様はペテロにこう言われました。

シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。

しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。

ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ22:31-32)

それでも、ペテロは再び言いました。

主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。(ルカ22:33)

ところが、イエス様は再び繰り返されました。

ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたし知らないと言います。」(ルカ22:34)

もしかすると、ほかの弟子たちはそれを聞いて、「まさかペテロが裏切り者なのだろうか。さっきイエス様は、私たちの中に裏切り者がいると言われたが、それはペテロのことなのだろうか」と思ったかもしれません。

ペテロ自身も、そう疑問に思ったかもしれません。

そこで、イエス様は続けて言われました。

あなたがたはみな、つまずきます。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる」と書いてあるからです。

しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」(マルコ14:27-28)

それでも、ペテロはなおも主張し続けました

たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。(マタイ26:33)

そこで、イエス様はさらに具体的に、そしてより力強く宣言されました。

まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。(マルコ14:30)

それでも、ペテロはイエス様の言葉を信じませんでした。そして、ペテロとほかの弟子たちは、「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と言い張りました。(マルコ 14:31)

しかし、最終的には、イエス様が預言された通りに、彼らは皆つまずきました。イエス様が捕らえられたとき、彼らは逃げ去り、ペテロは三度イエス様を知らないと言いました。

この話のポイントは何でしょうか。私たちが自分自身を理解しているよりも、イエス様は私たちのことを深く知っておられます。私たちが気づかなくても、イエス様は私たちの弱さをよく知っておられます。それでも、イエス様は私たちを受け入れられます。

それこそが、この話の最も驚くべき点です。イエス様は決してペテロを責められませんでした。むしろ、イエス様はペテロを励まされました。

「わたしはあなたのために祈っているよ。あなたはつまずくけれど、あなたはきっと立ち上がる。だから、立ち上がったら、ほかの弟子たちを励ましなさい。」

このように、イエス様は私たちの弱さをよく知っておられます。しかし、イエス様は私たちを責めるのではなく、大祭司として、毎日私たちのために祈ってくださいます。

私たちが転んだとき、イエス様は私たちを引き上げてくださいます。そして、私たちを引き上げると、「他のつまずいた人を憐れんで、励ましなさい」と言われます。

だから、私たちが失敗しても、弱くても、この言葉を心に留めておきましょう。

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

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ヨハネの福音書 ヨハネ13章

全ての人が認めるように

ユダが部屋から出た後、イエス様は残りの弟子たちに向いて、十字架の前の最後のメッセージを始めました。この傲慢なよく喧嘩するグループに、イエス様はこう言いました。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が見とめるようになります。(ヨハネの福音書13:34ー35)

覚えていてください。この前、この弟子たちは彼らの間に誰が一番偉いか議論していました。彼らのプライドのゆえ、誰もほかの弟子たちの足を洗う気は全然ありませんでした。

だから、イエス様はこの大切の教訓が彼らの心にぐっと来るように望みました。つまり、彼らがお互いに愛し合うことです。

ちょっと気づいてください。イエス様は、「すべての人々を愛しなさい」と言いませんでした。もちろん、イエス様はそのことも望んだけど、そう言いませんでした。

むしろ、イエス様は「お互いに愛し合いなさい」と言いました。

どうしてでしょうか。

その互いの間に愛によって、全ての人はその十一人がイエス様の弟子たちであることを認めるから。

今なお、多くの教会は、そのお互いの愛が欠乏しています。私たちは弟子たちのようにプライドを持って、よく喧嘩します。

だから、ノン・クリスチャンたちが教会に入ると、彼らは「イエス様に従う者はこういうものだろうか。イエス様はこんな人を育てるだろうか。それなら、私はイエス様とその教会に興味ない」と思います。

何年か前、私はある教会に行ったけど、賛美の時間、なぜかワーシップ・リーダーは部屋の後ろに座ったままで、渋い顔をしていました。

だから、ほかの人がビギナーなのに、頑張ってギターを弾き、歌わなくてはなりませんでした。だからその日、礼拝の雰囲気はとても悪いものでした。

後で私が分かったのは、礼拝の前にそのワーシップ・リーダーがほかのリーダーと喧嘩していたということです。

でも、一番悪いのは、その日に新しい人が来ていたということです。彼女はその悪い雰囲気に気づいたので、その教会に決して戻りませんでした。

もし、私たちが互いに愛し合えないなら、どうやって私たちは教会の外の人を愛することができるでしょうか。

もし、私たちがこの世の人々のようにふるまえば、どうやって、彼らは私たちの中にイエス様を見ることができるでしょうか。

あなたはどうですか。あなたは周りのクリスチャンたちの態度を変えることができないけど、神様の助けによって自分自身の態度を変えることができます。

周囲のクリスチャンに対するあなたの態度はどうですか。

あなたは彼らを見下すでしょか。彼らを批判するでしょうか。彼らの欠点についていつも文句を言うでしょうか。もしくは、あなたがイエス様に愛されたように、彼らを愛しているでしょうか。

今度の日曜日、あなたは教会に行くとき、イエス様の言葉を覚えていてください。その言葉に思いを巡らしてください。そして、あなたが周りのクリスチャンを愛せるように、神様の助けのために祈ってください。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が見とめるようになります。(34ー35)

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裏切り

福音書を統合すると、一つの疑問が浮かびます。それは、ユダが最初の聖餐式に参加していたかどうか、ということです。

ルカは、ユダが参加したことを暗示しているようですが、他の著者の記述を見ると、ユダは参加しなかったように思われます。

私の考えでは、ユダは恐らく聖餐式に参加していたのではないでしょうか。おそらく、他の著者は最後の晩餐の出来事を年代順には記録していなかったのだと思います。

いずれにせよ、この箇所では、イエス様が裏切り者であるユダをどのように扱われたのかが描かれています。この話には、興味深い点がいくつかあります。

ヨハネは(「イエス様が愛しておられた弟子」はヨハネのことだと考えられます)、イエス様の隣に座っていたようです。けれども、ユダもイエス様の隣に座っていた可能性があります。

私がそう考えるのは、弟子たちがユダに対するイエス様の言葉をすべて聞いていたわけではないからです。もし彼らが、イエス様がユダを裏切り者としてはっきり指摘されるのを聞いていたなら、きっとユダを責めていたことでしょう。

多くの最後の晩餐の絵画とは異なり、この場面では誰も椅子に座っていなかったと考えられます。彼らは低いカウチに座り、横になって左肘で体を支えていました。そのため、彼らの頭は隣の人の胸の近くにあるような状態でした。

したがって、おそらくイエス様の右側にはヨハネが座り、左側にはユダが座っていたのでしょう。

以前述べたように、イエス様の隣に座ることは大変光栄なことと考えられていました。そのため、イエス様はユダを左側に座らせることで、ユダに特別な光栄を与えられたのです。

それでも、イエス様はユダの心をよくご存じでした。

そして、イエス様はこう言われました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。(ヨハネ13:21)

弟子たちはそれを聞いて、衝撃を受けました。そして、一人一人がイエス様に尋ねました。「まさか私ではないでしょうか。」

ユダ自身もイエス様に同じように尋ねました。

もしかすると、ユダはイエス様を完全に欺いたと思っていたのかもしれません。しかし、イエス様は答えられました。「はい。あなたですよ。」

ユダのショックを想像してください。彼の秘密は明るみに出ました。もしかすると、彼はイエス様が皆の前で彼を暴露し、その結果、自分が殺されるのではないかと恐れたかもしれません。

おそらくその頃、ペテロはヨハネに尋ねたでしょう。「イエス様が誰について話しているのか、聞いてみてくれ。」(ヨハネ13:24)

イエス様はヨハネに答えられました。

わたしがパン切れを浸して与える者が、そのひとです。(ヨハネ13:26)

実は、その時代において、パン切れを浸して与えることは、もう一つの光栄を示す方法でした。

そのため、イエス様がパンを浸してユダに与えたとき、おそらくヨハネ以外の弟子たちは「すごいな。私たちが思っていたより、ユダは偉いのかもしれない。」と思ったでしょう。

ユダ自身も驚いたことでしょう。一瞬、彼はイエス様の言葉の意味を誤解したかもしれません。

けれども、イエス様は彼に言われました。

あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。(ヨハネ13:27)

ユダはそれを聞いて、イエス様が彼の心をよく知っておられたことを悟りました。そして、彼はその家を出て、イエス様を裏切るためにイエス様の敵のもとへ向かいました。

この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

第一に、私たちを裏切る人もいるということです。彼らは意図的に私たちを傷つけることがあります。そのようなとき、私たちが苦々しい思いを抱き、彼らを軽蔑するのは簡単です。

しかし、イエス様がユダを神によって造られた人間として尊重されたように、私たちも裏切り者を神によって造られた人間として尊重すべきです。

それでも、私たちは彼らの性格をよく理解している必要があります。彼らの本質について、私たちは自分自身を欺いてはいけません。そして、可能な限り、私たちは自分を守るべきです。

イエス様の生涯を見ると、イエス様もそのような姿勢を取られました。人々がイエス様を殺そうとしたとき、イエス様はすぐに身を避けられました。

ユダの場合だけは、イエス様は逃げませんでした。なぜなら、ついにイエス様の時が来たからです。イエス様がこの世に来られた目的は、私たちの罪のために死ぬことでした。

とはいえ、神様は一般的に、私たちが虐待を甘んじて受けることを求めているわけではありません。そのため、できる限り、その人から距離を取りましょう。

もし、どうしてもその人を避けられないのであれば、あなたの盾を常に持っていてください。つまり、彼らがいるときには、警戒しなければなりません。

もし相手の性格をよく理解し、彼らの言動によって自分の心の備えができていれば、自己防衛することができます。

それでも、私たちは相手を許すべきです。そしてさらに、彼らを神によって造られた人間として尊重すべきです。

ペテロはこう記しました。

悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。(第一ペテロ3:9)

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ヨハネの福音書 ヨハネ13章

私たちの足が洗われること

この話から、私はもう一つの重要なポイントをお伝えしたいと思います。

イエス様がペテロの足を洗おうとされたとき、ペテロはこう言いました。

決して私の足を洗わないでください。(ヨハネの福音書13:8a)

イエス様がこのように答えられました。

わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。(8b)

そして、いつものように、ペテロは言い過ぎてしまいました。

主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。(9)

けれども、イエス様はこう答えられました。

水浴した者は、足以外は、洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたががたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。(10)

イエス様の言葉の意味は何だったのでしょうか。

「ペテロ、あなたは私を信じたので、すでにきよめられています。しかし、日々の歩みの中で、あなたの『足』は罪によって汚れます。だから、私はそれを清める必要があるのです。」

イエス様は、私たちにも同じことを語られます。

私たちがイエス様の前に来て、イエス様とその十字架の働きを信じると、イエス様は私たちの過去のすべての罪をきよめてくださいます。

それでも、日々の生活の中で私たちの心は罪によって汚れます。私たちの罪が神様や周りの人々を傷つけ、私たち自身も苦しみます。けれども、それによって救いが失われるわけではありません。私たちは今も神の子供です。

とは言え、毎日イエス様の前に来て、「私を赦してください。私の心を清めてください。」と祈らなければなりません。それは過去の罪のためではなく、今日の罪のためなのです。

ヨハネはこう書きました。

もし私たちが、自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

正直に言うと、私の足を洗っていただくために、私はもっとイエス様の前に行かなければなりません。

毎日罪を犯しても、私は深く反省せず、告白もしません。そのため、その罪が私と神様の間に壁を作ってしまいます。

だからこそ、私たちは日々イエス様の前に来て、罪を告白しましょう。イエス様の赦しを願いましょう。そうすれば、イエス様は真実な方なので、私たちをきよめてくださいます。

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私たちの模範

聖書では、神様はイエス様とその十字架の働きについて、さまざまな生々しい描写を与えてくださいました。

まず、神様はアダムとエバに、「やがて、ある者が蛇の頭を踏み砕く。しかし、その時、その者のかかとも傷つけられる」と約束されました。(創世記3章)

また、神様がアブラハムに、イサクを全焼のいけにえとしてささげるよう命じられた場面があります。(もちろん、アブラハムがイサクを殺す前に、神様は彼を止められました)(創世記22章)

さらに、神様の律法において、多くのいけにえや捧げものがイエス様を指し示していました。

それだけでなく、預言者イザヤはイエス様について詳しく預言しています(特にイザヤ53章)。ダビデの詩篇もまた、イエス様を指し示しています(例えば詩篇22篇)。

けれども、イエス様が十字架で死ぬ前に、もう二つの重要な描写を与えてくださいました。一つ目は、もちろん聖餐式です。(別の記事でそのことについて触れます。)

そして二つ目は、この箇所にあります。それは、とても美しい描写だと思います。

イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を抜き、手ぬぐいを取っ手にまとわれた。(ヨハネの福音書13:4)

それは何の描写なのでしょうか。パウロはこう語りました。

キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。(ピリピ2:5-7)

イエス様は神でありながら、ご自身を空しくされました。もちろん、イエス様は依然として神でしたが、栄光の衣を脱ぎ、人間となられました。

それだけでなく、王として来られたのではなく、しもべのかたちを取られました。

パウロは続けてこう言いました。

人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。【ピリピ2:8)

イエス様がご自身を低くされ、弟子たちの足を洗われたように、イエス様はさらにご自身を低くされ、十字架で死なれました。その結果、今、私たちの罪はイエス様の血によって洗われています。

だから、ペテロがイエス様の奉仕を遠慮しようとしたとき、イエス様はこう語られました。

わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。(ヨハネ13:8)

要するに、「ペテロ、あなたは私のたとえを妨げています。私があなたの足を洗うように、私はあなたの心を洗わなくてはなりません。もし私があなたの罪を清めなければ、あなたは私と関係がなくなってしまいます。」ということです。

イエス様は彼らの足を洗われた後、上着をまとい、再び席に戻って、彼らの主として振る舞われました。

そのようにして、パウロはこう語りました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエス様の名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。(ピリピ2:9-11)

イエス様が弟子たちに問いかけられたように、今も私たちに同じ質問を投げかけられます。

わたしがあなたがたに何をしたのかわかりすか。(ヨハネ13:12)

あなたは理解しているでしょうか。

あなたの罪が許されるために、イエス様が何を捨て、何をささげられたのかを分かっていますか。

もしそれを理解しているなら、イエス様はあなたにこう語られます。

あなたがたは私を「先生」とか「主」とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。その通りなのですから。

主である、師でああるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。

わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたにも範を示したのです。。。

これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。(ヨハネ13:13-15、17)

イエス様は私たちの模範です。イエス様はしもべとして歩まれました。そして、イエス様は私たちをご自身のように生きるように招いておられます。

あなたは、しもべとして歩んでいるでしょうか。

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本当のリーダーシップ

私は以前にも述べましたが、四つの福音書を統合するのは時として難しいものです。

多くの場合、著者たちは出来事を年代順に伝えておらず、時には話の途中で脱線することもあります。最後の晩餐について読むと、私はそのように感じます。

弟子たちが食事をしているとき、彼らは誰が一番偉いかについて議論を始めました。なぜその話題になったのかは分かりませんが、もしかすると、過ぎ越しの祭りを祝うために二階の大広間に入った際、一人一人の席を巡って言い争いが起こったのかもしれません。

なぜなら、その文化では、イエス様の右に座る者が最も偉い弟子とされ、左に座る者が次に偉い弟子とされたからです。そして、イエス様から離れた席に座るほど、その弟子の地位は低く見なされました。

そのため、彼らは誰がイエス様の隣に座るべきかを巡って争っていたのかもしれません。

例えば、ペテロはこう言ったかもしれません。「俺はお前たちのリーダーだ。イエス様の右に座るのは当然だろう。」

するとヨハネは、「でも、イエス様は俺のことを一番好きだよ。」と言ったかもしれません。

また、ユダは「でも、俺は財務を担当している。だから、一番偉いはずだ。」と言ったかもしれません。

イエス様がこの言い争いをどれほどの時間見ていたのかは分かりませんが、ようやく弟子たちは不満げに席につきました。そして、そのときイエス様は驚くべき行動をとられました。

このような状況では、食事の前に誰かが他の人々の足を洗うことが習慣でした。当時、人々はサンダルを履き、未舗装の道を歩いていたため、すぐに足が汚れてしまいました。

通常、しもべが足を洗いましたが、しもべがいない場合は最も若い者がその役目を担うことになっていました。したがって、本来であればヨハネが行うべきだったかもしれません。

けれども、彼は何とかイエス様の隣の席を確保した(ヨハネ13:23)ため、しもべの役を引き受けるのを避けたかったのかもしれません。そして、その大喧嘩の末、他の弟子たちも足を洗う気にはなれませんでした。

イエス様は弟子たちを叱責する権利がありました。しかし、イエス様は責めるのではなく、愛を示されました。

イエス様は席から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰に巻かれました。そして、弟子たちの足を洗い、拭かれました。

それを見て、弟子たちは恥ずかしい思いに駆られたでしょう。特に、イエス様がその仕事をしているのは、彼らがそれを避けたせいでした。彼らの中で、誰もその仕事を引き受けたくなかったのです。

イエス様はその務めを終えると席に戻り、彼らに問いかけられました。

わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。あなたがたはわたしを「先生」とか「主」とか呼んでいます。

そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。

主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。(ヨハネ13:12-14)

イエス様は続けてこう言われました。

異邦人の王たちは人々を支配し、また人々に対し権威を持つ者は守護者と呼ばれています。しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。

あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。

食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょうか。食卓に着く人ではありませんか。しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています。(ルカ22:25-27)

そして、イエス様は結論を述べられました。

わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。

まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。

これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。(ヨハネ13:15-17)

イエス様は、彼らに何を教えようとされたのでしょうか。

イエス様は、彼らを大きな責任を担う者として選ばれました。やがて、イエス様は彼らに王権を委ねられます。彼らはイスラエルの十二部族を治め、イエス様の国でその食卓に着き、共に食べたり飲んだりするのです。

とはいえ、イエス様が以前言われたように、リーダーシップとはただ人々に命令を下すことではありません。本当のリーダーは人々に仕える者です。そのため、イエス様は弟子たちの足を洗われました。そして、イエス様は私たちの罪のために死なれました。

だからこそ、私たちリーダーも同じことを実践すべきです。

リーダーシップの祝福は、私たちの権利にあるのではありません。それは、人々に命令することではなく、むしろイエス様のように人々に仕えることにあります。それこそが、本当のリーダーシップなのです。

あなたは、リーダーシップをどのように定義するでしょうか。それは、人々があなたに仕えることでしょうか。それとも、あなたが人々に仕えることでしょうか。