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ヨハネの福音書 ヨハネ14章

捨てられていない

最近まで、私の娘はよく私と妻の部屋に来て、私たちのベッドに登り、私たちの間で寝ていました。

私たちが「どうしてここに来たの?」と尋ねると、彼女は「寂しかった」と答えました。

おそらく、私たちは皆、寂しさを感じたことがあるでしょう。

イエス様が「わたしは去って行く」と言われたとき、弟子たちは同じように感じたに違いありません。けれども、イエス様は彼らにこう言われました。

そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。

世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。

わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。

しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。

その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。。。

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。(ヨハネの福音書14:16-21,23)

イエス様の言葉から、私たちは三位一体を知ることができます。また、その言葉を通して、大切な真理を学ぶことができます。三位一体の神様は、私たちと共におられます。

イエス様が約束されたのは、もう一人の助け主、つまり御霊を送ってくださることです。そして、御霊は私たちを教え、イエス様の言葉を思い起こさせてくださいます。

さらに、イエス様はご自身が私たちのもとに来られると約束されました。イエス様は私たちを捨てて孤児にはなさいません。

最後に、イエス様は、天の父が私たちのもとに来て、共に住まわれると約束されました。

しかし、私たちが心に留めておくべきことがあります。私たちは神様の言葉に従わなければなりません。だから、前回の記事の教訓は非常に大切だと思います。

つまり、私たちは神様の言葉に従うほどに、神様を信じることができるでしょうかという問いかけです。だから、ヨハネの福音書14章の冒頭で、イエス様はこう言われました。

神を信じ、またわたしを信じなさい。(1)

神様を信じなければ、神様との関係を築くことはできません。

また、私たちは本当に神様を愛しているでしょうか。神様を喜ばせたいと願うほどに、神様を愛しているでしょうか。罪を避けたいと願うほどに、神様を愛しているでしょうか。

もし私たちが神様を信じ、愛し、従うなら、神様の臨在を深く知ることができます。だから、良いときも悪いときも、神様からの平安を経験することができるのです。

イエス様は弟子たちにこう言われました。

わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。

あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。(27)

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ヨハネの福音書 ヨハネ14章

私たちが本当にイエス様を愛しているなら

この箇所を読むと、多くの人々は驚くことでしょう。

イエス様はこう言われました。

もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。(ヨハネの福音書14:15)

少し考えてみてください。もし、あなたの恋人や夫、妻が「もし私を愛しているなら、あなたは私の戒めを守るはずです」と言ったら、あなたはどう反応するでしょうか。

多くの人々は「そんなの嫌だ」と答え、その人と絶交するかもしれません。

けれども、私たちのイエス様との関係について、次のことを心に留めておきましょう。

第一に、イエス様は私たちの救い主であるだけでなく、私たちの主でもあるということです。しかし、イエス様は、自分の歪んだ喜びのために私たちの人生を惨めなものにしようとされるのではありません。むしろ、イエス様は私たちを深く愛し、私たちの最善を望んでおられます。

さらに、イエス様は私たちの創造者であり、私たちの人生のデザインを完全にご存じです。そのため、イエス様の言葉に従うなら、私たちの人生は祝福され、うまくいくのです。

だからこそ、イエス様は「私の言葉に従いなさい」と命じるのではなく、こう言われます。「私を信じなさい。あなたが私を愛しているなら、私を信じなさい。私はあなたの最善を知り、それを心から願っているからです。」

残念ながら、私たちの経験では、多くの人々が「こうしなさい」「ああしなさい」と指示するとき、彼らは私たちの最善を求めているのではなく、自分自身の最善を求めています。

そのため、神様が「私を信じなさい。私はあなたの最善を求めている」と言われても、私たちはその言葉を疑ってしまいます。

これは新しい問題ではありません。エデンの時代にも、同じ問題が起こりました。神様はアダムとエバにこう言われました。

「私を信じなさい。私はあなたの最善を求めている。だから、善悪の知識の木の実を食べてはならない。あなたが悪を知れば、深く苦しむことになるから。」

けれども、サタンがエバを欺いたため、彼女は神様の意図を疑いました。

彼女はこう思いました。「神様は私の最善を望んでいないかもしれない。神様は私にこの良いものを与えてくださらないかもしれない。」

そして今もなお、多くの人々が同じように考えています。

もう一つのことを心に留めておきましょう。

私たちが罪を犯すと、神様は傷つかれます。神様は聖なるお方なので、罪をご覧になると深く悲しまれます。

あなたは本当に神様を愛しているでしょうか。神様を悲しませたいと思いますか。それとも、神様を喜ばせたいと願いますか。

少し考えてみてください。もしあなたが妻や夫を愛しているなら、わざとその人を傷つけるでしょうか。「私はこうすれば相手を傷つけると分かっているけど、気にしない」と言うでしょうか。

もちろん、そのような態度は取らないでしょう。むしろ、あなたは相手を喜ばせたいと思うはずです。

それと同じように、私たちは神様を愛するべきです。もし私たちが本当に神様を愛するなら、神様を悲しませるのではなく、神様を喜ばせたいと願うべきです。

イエス様はこの世で生きておられた間、まさにそのような態度を取られました。イエス様は天の父を愛し、信じておられたので、いつも天の父の言葉に従われました。そして十字架に至るまで、天の父の言葉に従われました。

なぜでしょうか。それは、イエス様が天の父は私たちの最善を求められることを信じておられたからです。

あなたはどうですか。あなたはイエス様の言葉に従うほどに、イエス様を信じるでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ14章

驚くべき約束

この箇所で、イエス様は驚くべき約束をされました。もしかすると、その約束を聞いたあなたは、「本当ですか?イエス様は本気なのですか?」と思うかもしれません。

イエス様はこう言われました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。(ヨハネの福音書14:12)

イエス様はさまざまな驚くべきことを行われました。病に苦しむ人々を癒し、死者をよみがえらせ、何千人もの人々に教え、福音を通して希望を与えられました。

では、イエス様を信じる人々もそのようなことをするのでしょうか。さらに大きなわざを行うのでしょうか。

もしかすると、使徒の働きを読んで、イエス様が弟子たちだけについて語られたのだと思うかもしれません。なぜなら、彼らはイエス様が行ったような奇跡を行い、福音をイスラエルだけでなく全世界に広めたからです。

しかし、イエス様は「わたしを信じる者」と言われました。

弟子たちだけではなく、イエス様を信じるすべての人々のことを指していたのです。新約聖書の時代に生きていた人々だけではなく、イエス様を信じる者がさらに大きなわざを行うと約束されました。

では、なぜイエス様はそのようなことを言われたのでしょうか。それは、イエス様が天の父のもとへ帰り、私たちに聖霊を送られたからです。その聖霊が私たちの心の内に住んでおられるため、聖霊の力を通して私たちはこの世を変えることができるのです。

では、私たちはイエス様のように病に苦しむ人々を癒し、死者をよみがえらせることができるのでしょうか。

時々、私はこう考えます。「私たちは不信のゆえに、どれほど神様の働きを制限しているのだろうか。」

私は発展途上国のクリスチャンたちの素晴らしい証を聞いたことがあります。彼らは「現実」を気にせず、イエス様の言葉をそのまま受け入れ、信じました。その結果、神様は驚くべき奇跡を行われました。

正直に言うと、私はしばしば懐疑的な態度を持っています。日本で癒しの話を聞くこともありますが、「本当にその人は癒されたのだろうか。その健康状態はどれくらい続くのだろうか」と思うことがあります。

それでも、私は神様が今もなお働いておられると信じています。この瞬間も、神様は確かに働いておられます。

だからこそ、私たちはイエス様の言葉をもっと信じるべきだと思います。

またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。

あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。(13-14)

もちろん、私たちがスポーツカーを求めて祈ったとしても、イエス様が必ずその祈りに答えるわけではありません。

しかし、私たちが自分自身の栄光を求めるのではなく、神様の栄光を求め、自分の願いではなく神様のみこころを求めるなら、多くの場合、神様は私たちの祈りに応えてくださいます。

さらに、神様は、私たちが願うこと、思うことのすべてをはるかに超えて行ってくださいます。(エペソ3:20)

神様は、私たちを通してこの世に触れたいと望んでおられます。では、神様が私たちを用いてくださると、あなたは信じていますか。

あなたは、自分の不信や懐疑を捨てて、「あなたの御心が行われますように。私を用いてください。」と神様に祈るでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ14章

神様を見ること。神様を知ること。

私たちはどのようにして神様を知ることができるでしょうか。どのようにして神様がどのようなお方かを知ることができるでしょうか。

神様は目に見えない方なので、この疑問には唯一の答えしかありません。それは、神様ご自身が私たちにご自身を現わさなければならない、ということです。

初めに、神様はご自身を幻や夢、天使や預言者を通して現わされました。

そして、イエス様はこの世に来られました。しかし、イエス様は単なる人間ではありませんでした。イエス様ご自身が神であり、私たちの間に生きておられました。だからこそ、イエス様はこう言われました。

あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。(ヨハネの福音書14:7)

ピリポがそれを聞いて、「私たちに父を見せてください」と言ったとき、イエス様はこう答えられました。

ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。

わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、「私たちに父を見せてください」と言うのですか。

わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。

わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。

わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。(9-11)

イエス様の言葉を誤解しないでください。天の父とイエス様は同じお方ではありません。天の父はイエス様ではなく、イエス様は天の父ではありません。

とはいえ、パウロはこう書きました。

御子は、見えない神のかたちであり「ます」。(コロサイ人への手紙1:15)

イエス様を通して、私たちは天の父の「かたち」を見ます。(もう一度繰り返しますが、誤解しないでください。神様は霊なので、物質的なかたちを持っておられません。)

イエス様の言葉を聞けば、私たちは天の父の言葉を聞いているのです。

さまざまな状況におけるイエス様の反応を見れば、私たちは天の父の反応を知ることができます。

だからこそ、天の父を知りたいのなら、イエス様を見てください。

少し考えてみてください。私の娘を見た人々は、よく「ブルース、お嬢さんはあなたに似ていますね」と言います。

そして、彼女が成長すると、彼女の行動や考え方は、私の影響を受けます。彼女を見ることで、あなたは私について多くのことを知ることができます。それは親子の常です。

それでも、彼女は私の不完全な反映にすぎません。それに対して、イエス様は天の父の完全な反映なのです。

では、私の言いたいことは何でしょうか。

神様を知りたいのなら、イエス様を見てください。

神様の考え方を知りたいのなら、イエス様の言葉を読んでください。

さまざまな状況に対する神様の反応を知りたいのなら、イエス様の反応を見てください。

私たちは神様がどのようなお方かを想像する必要はありません。すでに知っているのです。なぜなら、神様はこの世に来られ、人間となられたからです。

だからこそ、神様との関係を求めましょう。そうすれば、必ず神様を見いだすことができます。

ヤコブはこう言いました。

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。(ヤコブ4:8)

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ヨハネの福音書 ヨハネ14章

天の父のもとへの道

多くの人々はこの個所を読むと、心が乱され、怒りを感じることがあります。なぜなら、イエス様の言葉を受け入れることが難しいからです。そのため、彼らはその言葉を拒絶してしまいます。

では、イエス様は何を語られたのでしょうか。

背景を少し説明すると、イエス様は弟子たちに「私はあなたがたのために場所を用意しに行く」と語ったばかりでした。そして、イエス様は彼らにこう言われました。

わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。(ヨハネの福音書14:4)

けれども、トマスはイエス様の言葉を理解できなかったため、ごく自然な質問をしました。

主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。(14:5)

イエス様はこう答えられました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(14:6)

イエス様は「私は父のみもとへの道を教えます」とは言われませんでした。

イエス様は「父のみもとへ行くために、あなたがたが何をすべきかを教える」とも言われませんでした。

イエス様は「私が父のみもとへの道である」と語られました。 「もし天国に行き、天の父に会いたいと思うなら、私を通して行かなければなりません。」

これは驚くべき主張です。

けれども、少し考えてみてください。

もしアメリカ大統領に会いたいと思っても、自分の意思でホワイトハウスのオーバルオフィスに入ることはできません。

招待状が必要であり、さらに、誰かが扉であなたを迎え入れ、大統領のもとへ案内してくれます。

その人がいなければ、あなたは決して大統領に会うことはできません。その人こそが、大統領のもとへ至る道なのです。

このように、イエス様は天の父のみもとへ至る道です。しかし、イエス様は単なる天国の案内人ではありません。イエス様は神の子です。

イエス様が十字架で死に、私たちの罪の代価を払われたことによって、私たちは神様との関係を持つことができます。

イエス様は私たちを天の父のみもとへ導き、大祭司として私たちのためにとりなしをしてくださいます。(ローマ8:34、へブル10:19-22)

けれども、イエス様の十字架の働きがなければ、また、イエス様が私たちとともにおられなければ、私たちは天国に入ることも、天の父に会うこともできません。

イエス様はトマスにもう一つのことを語られました。「私は真理です。」

多くの人々は真理を求めています。

けれども、最近では多くの人々が、真理は存在しないと考えています。特に霊的な真理はないと感じる人が増えています。

しかし、イエス様は「わたしは真理である」と主張されました。

「私の言葉は真理です。真理は相対的なものではありません。私の言葉は完全な真理です。私から離れてしまえば、あなたは真理を見つけることができません。」

さらに、イエス様は「私は命である」と主張されました。

多くの人々は人生の意義を求めています。彼らは意味のある人生を探し、生きがいのある人生を求めています。そして最終的に、死後の命を求めています。

だから、イエス様は言われました。

「私は命です。あなたは人生の意義を求めていますか。私のもとに来なさい。

意味のある人生を探していますか。生きがいのある人生を求めていますか。あなたは、お金や家族、持ち物、力、結婚、子供などによって充実した人生を得ようとするかもしれません。

しかし、それらはあなたに命を与えることはできません。最終的に、あなたの心は空っぽになってしまいます。私を通してのみ、あなたは生きがいのある人生を見つけることができます。

また、もし死後の命を求めているなら、仏やムハンマド、その他の宗教的な指導者を通してその命を得ることはできません。私を通してのみ、あなたの罪は赦され、永遠の命を受けることができます。」

けれども、多くの人々はこの言葉を信じたくありません。なぜなら、彼らは自分の宝物を手放さなければならないかもしれないからです。また、もはや自分の思いのままに生きることができなくなるからです。

だから、人々はイエス様を嘘つきだと言います。あるいは、イエス様が間違っていたと言います。または、イエス様の言葉が正しく引用されなかったのだと主張します。

しかし、本当の命を見つけたいのなら、イエス様を通してのみ、それを得ることができます。

真理は相対的なものではなく、確かなものです。イエス様のうちにこそ、真理を見つけることができます。

また、もし天国に行き、天の父に会いたいのなら、イエス様があなたの隣におられなければなりません。

だから、イザヤの言葉に耳を傾け、それに従いましょう。

主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。

悪しきものは自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。

主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。(イザヤ55:6-7)

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ヨハネの福音書 ヨハネ14章

私たちのために用意されたもの

前回の記事でも触れたように、最後の晩餐で、弟子たちはイエス様の言葉に衝撃を受け、深く悩んでいました。

なぜなら、イエス様は「私が行くところに、あなたは今ついて来ることができない」と言われたからです。

さらに、イエス様は弟子たち全員がつまずき、イエス様を見捨てることになると語られました。そして、最も勇敢な弟子のように見えたペテロでさえ、「イエスを知らない」と三度言うことになる、と言われたのです。

それでも、イエス様は彼らの心をよくご存じでした。そのため、彼らを励まして、こう語られました。

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネの福音書14:1)

要するに、「心を騒がせてはなりません。これは厳しいことかもしれず、あなたたちには到底想像できないかもしれません。しかし、天の父は今もすべてを支配しておられます。天の父を信じなさい。そして、私をも信じなさい。」ということです。

そして、イエス様は彼らに未来のことを少し示し、なぜご自身が行かなくてはならないのかを説明されました。

わたしの父の家には住むところがたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。

わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。(14:2-3)

イエス様は私たちに三つの約束をされました。

1. 私たちのための場所を用意される。 もし私たちがイエス様を救い主として受け入れれば、イエス様は天の父の家に私たちのための場所を用意してくださいます。

その場所がどのようなものかは分かりませんが、きっと素晴らしいものでしょう。イエス様が卑しい場所を作るはずはありません。

クリスチャンの歌手キース・グリーンは、興味深い歌詞を書きました。

あなたは六日間で天地を造られましたが、父の家を二千年以上構築中です。

2. 再びこの世に戻られる。 イエス様が去ると聞いたとき、弟子たちは混乱し、不安になりました。けれども、イエス様は「私は必ず戻る」と約束されました。

まず、イエス様は彼らに聖霊を送ると約束されました。そして、イエス様ご自身もいつか戻られると約束されました。

3. イエス様がいるところに、私たちもいることができる 。イエス様が戻られるとき、私たちもイエス様がいる場所に迎え入れられます。

パウロはこう語りました。

すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。

そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

ですから、これらの言葉をもって、互いに励まし合いなさい。(第一テサロニケ4:16-18)

でも、ちょっと考えてみてください。その会話の数時間後、弟子たちはつまずき、イエス様を見捨てました。それにもかかわらず、イエス様はそんな彼らに、あの素晴らしい約束をされたのです。

なぜ、イエス様は彼らにそんな約束をされたのでしょうか。

それは、イエス様が彼らを決してあきらめることなく、彼らの心と人生に働き続けようと計画されていたからです。

同じように、イエス様は決してあなたのこともあきらめません。どんなに苦しんでも、どんなに失敗しても、イエス様はあなたのために場所を用意しておられます。

だから、絶望しないでください。むしろ、立ち上がって、歩み続けましょう。

Why should I worry?
どうして私は悩む必要があるのでしょうか。
Why should I fret?
どうして私は不安にならなければならないのでしょうか。
‘Cause I’ve got a Mansion Builder.
私には、豪邸を築いてくださる方がおられます。
Who ain’t through with me yet.
その方は、私を決して見放さず、今も働き続けておられます。

–Second Chapter of Acts