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ヨハネの福音書 ヨハネ17章

私たちに対するイエス様の望み

クリスチャンたちは本当に、イエス様が私たちに対して抱かれる望みを理解しているでしょうか。

以前の記事では、イエス様が私たちとの親しい関係を望まれていることを見ました。永遠の命とは、イエス様に近づき、イエス様を知り、イエス様に知られることです。

けれども、イエス様はそれだけではなく、他にも望まれることがあります。イエス様は、私たちが兄弟姉妹と共に一つとなることを望んでおられます。

イエス様はこのように祈られました。

わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。

父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。

またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。

わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。(ヨハネの福音書17:20-23)

イエス様は、私たちがイエス様と天の父のような関係を持つことを望まれます。イエス様と天の父が一つであるように、私たちも一つとなるべきです。

とはいえ、それはどういう意味なのでしょうか。

一つの意味は、目的の一致です。私たちが同じ目的を持ち、共に働くことです。その目的とは、福音を伝えることにほかなりません。

もう一つの意味は、互いに相手を自分より優れた者と考えることです。私たちは自分のことだけでなく、他の人のことも顧みます。(ピリピ2:3-4)

しかし、多くの場合、私たちはそのように生きていません。

そのため、ノンクリスチャンが私たちの教会に足を踏み入れると、そこには争いがあり、苦々しい心が見られることがあります。彼らはそのようなものを教会の外でも目にすることができるため、落胆し、すぐに教会を離れてしまいます。

それでも、当の教会の人々は自分のことで精いっぱいで、何が起こったのか気づいていないかもしれません。

イエス様は、それをご覧になると、深く悲しまれるのです。

周りの人々に対するあなたの行動や態度によって、どれほどイエス様を悲しませているでしょうか。あなたの苦々しい思いや、恨み、陰口を持つ心によって、イエス様はどれほど嘆かれるでしょうか。

その結果、イエス様だけでなく、私たち自身も苦しむことになります。

さらに、ノンクリスチャンは暗闇の中でつまずき続けます。なぜなら、彼らは教会の中に光がないと感じるからです。

あなたはどうでしょうか。あなたと他の教会のメンバーは、本当に一つとなっているでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ17章

聖別された。聖別されている途中。

「聖別」。

日本ではこの言葉がどれほど一般的に使われているかはわかりませんが、英語の “Sanctification” は「Christianese」、つまり「教会の中だけで使われる言葉」と見なされることがあります。

聖書の中で「聖別」という言葉を目にすることもあれば、教会の説教で耳にすることもあるでしょう。では、その言葉はどのような意味を持つのでしょうか。

基本的に、二つの意味があります。

一つ目は、神様の目的のために、他のものから選り別けられることです。

二つ目は、清められることです。

イエス様が弟子たちのために祈られたとき、その二つの意味を見ることができます。

わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。

真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。

あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。

わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。(ヨハネの福音書17:16-19)

まずは、19節を見てみましょう。イエス様が言われたのは、弟子たちが(また私たちが)聖別されるために、イエス様がご自身を聖別されたということです。

要するに、天の父の目的のためにイエス様がご自身を選り別けてこの世に来られ、十字架で死なれたということです。その働きによって、イエス様は私たちを聖別されました。つまり、イエス様は私たちの罪を清め、私たちを天の父のものとされました。

だから、私たちはこの世にいるにもかかわらず、もはやこの世のものではありません。私たちの考え方や生き方は、この世の民の考え方や生き方とはまったく異なります。だからこそ、彼らは私たちのことを理解できず、憎む人もいます。

それでも、私たちが聖別される過程は、今もなお続いています。

神様の言葉と働きを通して、私たちは罪とは何かを理解し、次第にその罪を憎むようになります。

そして、罪を犯したとき、神様の言葉が私たちの心を打ち、悲しみと悔い改めへと導かれます。そのようにして、神様は私たちを絶えず清め続けてくださいます。

また、神様の言葉を通して、私たちは神様の御心を知るようになります。神様は私たちに、どのように生きるべきかを教え、またどのように神様の国の目的を果たすかを示してくださいます。

その言葉を聞き、従うと、私たちは日々、さらに神様の目的のために聖別され、主に用いられる者となります。

だから、ある意味では、私たちはすでに聖別されました。なぜなら、十字架で流されたイエス様の血によって、私たちの罪は清められたからです。

しかし、別の意味では、私たちは今もなお聖別の途上にあります。

イエス様が私たちの聖別のために祈っておられるので、私たちもまたそう祈りましょう。

イエス様、毎日私をさらに聖別してください。 私がよりあなたの姿に似るように。 私が罪を憎み、天の父の御業に参加できるように。

私が失敗したときには、どうか私を赦し、引き上げてください。 日々、私を清め、あなたのものとしてくださいますように。

あなたのみ名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネの福音書 ヨハネ17章

私たちが敵対的な世にいるのに。。。

この箇所では、イエス様が私たちへの深い愛をもって、私たちのために祈られる姿を見ることができます。

この真理を心に留めておきましょう。イエス様は私たちのために祈ってくださいます。

私たちはしばしば周りの人々のために祈ります。しかし、私たちの大祭司であるイエス様は、私たちのために祈ってくださいます。特に、イエス様は天の父が私たちを守ってくださるように祈られます。

もちろん、この箇所でイエス様は弟子たちのために祈られました。

けれども、イエス様が私たちのためにも祈っておられると信じます。なぜなら、イエス様が弟子たちを敵対する世へ遣わされたように、私たちもまた敵対する世へ遣わされているからです。そして、弟子たちが霊的な戦いに直面したように、私たちも霊的な戦いに直面しています。

だから、イエス様はこのように祈られました。(今もなお、イエス様は私たちのためにこのように祈っておられることでしょう。)

聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。。。

わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。

わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。(ヨハネの福音書17:11,14-15)

福音のゆえに、あなたを憎む人もいるかもしれません。

迫害の時が訪れることもあります。

それでも、イエス様が私たちのために祈ってくださるので、天の父はサタンの攻撃に限界を定めてくださいます。そして、神様の力に頼るなら、私たちは耐えられない試練を経験することはありません。

だからこそ、どんなにつらい試練に直面しても、揺るがず堅く立ちましょう。神様は常に私たちとともにおられるのです。

そして、あなたは必ずその試練を乗り越え、勝利を得ることを忘れないでください。なぜなら、イエス様はあなたのために祈っておられるのです。

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ヨハネの福音書 ヨハネ17章

永遠のいのちとは

「永遠のいのち」と聞くと、多くの人々は天国での永遠の幸せを思い浮かべます。もちろん、それは間違いではありません。けれども、不思議なことに、多くの人々は神様抜きの存在を想像してしまいます。

彼らは神様が天国におられることを理解しているかもしれません。とはいえ、天国では私たちは神様を真に知り、また神様に知られる存在であることについては、あまり考えようとしません。だから、この世にいる間も、まるで神様が存在しないかのように生きています。

これはノンクリスチャンだけの話ではありません。クリスチャンでさえ、そのように生きることがあります。

彼らは日曜日に教会へ行き、讃美歌を歌い、メッセージを聞きます。もしかしたら、平日でも時折聖書を読み、祈るかもしれません。けれども、それ以外の時間、彼らはまるで神様がおられないかのように日常を過ごしてしまいます。

仕事や家族、趣味は良いものですが、私たちはそれらに没頭しすぎて、神様との関係に十分な時間を投資しないことがあります。しかし、私たちの命、特に永遠の命は、神様との関係そのものなのです。

イエス様はこのように祈られました。

永遠のいのちとは、唯一の誠の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。(ヨハネの福音書17:3)

もちろん、私たちは永遠に生きます。とはいえ、イエス様は「永遠のいのち」とは単に永遠に生きることではないと語られました。

確かに、天国では私たちは幸せになるでしょう。とはいえ、イエス様は「永遠のいのち」とは単に幸せな人生を送ることではないとも語られました。

むしろ、「永遠のいのち」とは、神様を知ることです。また、イエス様を知ることです。

「永遠のいのち」とは、単に天の父とイエス様について知識を得ることではありません。

「永遠のいのち」とは、天の父とイエス様を親しく知ることです。

イエス様はこのように祈られました。

彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。。。わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。。。

父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。世界の基が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光を。。。

わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。(21,23,24,26)

だから、私たちの人生の目的は神様を知ることです。

私たちの人生の目的は、神様に近づき、親しく知り、また神様に親しく知られることです。

つまり、永遠の命はただの未来の話ではありません。永遠の命は、今この瞬間から始まるのです。イエス様によれば、今もなおイエス様は天の父を現し、これからも現し続けてくださいます。

だから、私たちが天国に行くと、新しいことを始めるわけではありません。むしろ、天国は私たちがこの世で始めたことの続きなのです。

もしあなたが天国に着いたとき、まだ神様とただの知り合い程度の関係しかないなら、それはとても残念なことではありませんか。もし天国に着いたとき、あなたが神様をほとんど知らないなら、それは何とも惜しいことではありませんか。

この世で神様と親しい関係を築くなら、天国に着いたとき、どれほどの喜びを感じるでしょうか。

もしこの世で、毎日神様と話し、神様の声を聞き、人生の中で神様の働きを見て、さらに神様があなたを通して周りの人々に触れられることを目の当たりにするなら、やがて神様の御顔を仰ぐとき、どれほどの幸せに満たされるでしょうか。

私はそのような喜びを心から知りたいのです。毎日そのように生きているわけではないかもしれませんが、それでもそのように生きていきたいと願っています。

あなたはどうなのですか。