カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ2章

神殿に対するイエス様の熱心

この箇所では、イエス様が神殿に行かれた時、そこで牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちが営業していた様子が記されています。

神殿には「異邦人の庭」という場所がありました。ユダヤ人ではない人々がそこに来て、神様を礼拝することができました。

ところが、イエス様が異邦人の庭に入られた時、その場所は非常に騒がしい状況でした。羊や牛、鳩が鳴き声をあげている上、これらの動物を売る者たちや両替人、さらにそのお客たちが話していたためです。

そのため、異邦人にとっては神様を礼拝することがほぼ不可能な状況でした。

さらに、神様を礼拝するために来た人々は不当に扱われていました。

宮の納入金を払うため、多くの人々は両替を必要としていましたが、その為替レートは非常に高く設定されていました。

それだけでなく、いけにえとして自分の動物を連れてきた人々が、ふさわしい動物であるにもかかわらず、検査を担当する者たちに「その動物は不適切だ」と言われてしまいました。

その結果、彼らは神殿で売られている動物を非常に高い価格で購入せざるを得ませんでした。

このような不正が行われていたため、イエス様は大いに怒られました。この状況を見て、イエス様はどう行動されたのでしょうか。

[イエスは]細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。

「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネの福音書2:15-16)

ユダヤ人のリーダーたちは、この出来事を目にして、イエス様に問いかけました。

あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。(18)

イエス様はこう答えられました。

この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。(19)

ユダヤ人たちは、イエス様がヘロデによって建てられた神殿について話していると思いました。その時点で、すでに46年が経過していましたが、この神殿が完成したのは西暦63年でした。

しかし、イエス様が話していたのは、その神殿ではありませんでした。ヨハネによれば、イエス様はご自身の体について語っていたのです。

つまり、ユダヤ人のリーダーたちがイエス様を十字架につけて殺しても、三日目にイエス様はよみがえられるということです。

ところで、イエス様が幽霊としてよみがえったと考える人もいます。(例えば、エホバの証人はそのように信じています。)けれども、この箇所によれば、イエス様は明確にこう言われました。「私の体はよみがえります。」

イエス様がご自身の体を神殿と呼ばれたように、パウロは私たちの体を「聖霊の神殿」と呼びます。(第一コリント6:19)

さらに、イエス様はエルサレムの神殿に対して情熱を持っておられたように、私たち一人ひとりに対しても情熱を持っておられます。

イエス様はエルサレムの神殿を神様を礼拝するための場所として清めたいと望まれました。同じように、イエス様は私たちの体を神様のために聖別したいと望んでおられます。

けれども、私たちはしばしばその神殿を、罪やその他のものによって汚してしまいます。

数年前、私はコンピュータのトラブルに直面しました。ファイル自体は無事でしたが、Windowsに問題が発生していました。再インストールを試み続けましたが、最終的には成功しませんでした。

そこで、ファイルをバックアップした後、ハードディスクをフォーマットしました。(つまり、そのハードディスクに保存されていたソフトウェアやファイルをすべて消去しました。)

その後、再び再インストールを行うことができましたが、それは非常に大変な作業でした。

このハードディスクには、多くの役立つファイルが保存されていました。また、悪くないソフトウェアもたくさんありました。しかし、破損したファイルのせいで、コンピュータが正常に動作しなくなっていたのです。

あなた自身はどうでしょうか。私のコンピュータのように、あなたの心に悪いものが存在していませんか。どのような罪が潜んでいるでしょうか。羊や牛の騒がしさが異邦人の礼拝を妨げたように、あなたの罪が周りの人々に神様を見えにくくしているでしょうか。

また、悪いものではなくても、神様を礼拝する妨げとなるものが存在していませんか。例えば、趣味自体は悪くないものですが、その趣味のせいで聖書を読む時間や祈る時間が減ってしまってはいませんか。

イエス様は清い神殿を望まれます。ですから、イエス様はあなたの心を清めたいと願っておられます。

あなたの心には何があるのでしょうか。

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ2章

聖書を理解する方法

私が英語のブログでこの記事を書いた時、そのタイトルは「ぶどう酒?ぶどうジュース?」でした。

けれども、振り返ると、たぶん「聖書を理解する方法」の方が適切だったと思います。

私は十代の時、「ぶどう酒?ぶどうジュース?」という本をざっと読んだことがあります。

その著者の意見をほとんど覚えていませんが、彼の主張は、このヨハネの箇所で、イエス様がぶどう酒を作った時、実はぶどうジュースを作ったのだというものでした。彼はギリシャ語の意味やユダヤ人の文化について説明した可能性があります。

当時、私はその意見を信じていましたが、ある日、別の牧師がその箇所の文脈を詳しく教えてくれました。その文脈とは何でしょうか。

10節では、宴会の世話役がイエス様が作ったぶどう酒を味わった後、こう言いました。

だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。(ヨハネの福音書2:10)

その言葉を少し考えてみてください。もし「ぶどう酒」の代わりに「ぶどうジュース」を入れ替えたら、彼の言葉は理にかなうでしょうか。

「だれでも初めに良いぶどうジュースを出し、人々が十分だころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどうジュースをよくも今まで取っておきました。」

これでは全く意味をなしません。もしそれがただのぶどうジュースなら、アルコール分は全く含まれていません。けれども、アルコール分がないのに、どうして皆がたくさん飲んだ後に待って、悪いジュースを出すのでしょうか。それは全く理にかなっていません。

ですから、私はその著者の議論が間違っていると思います。

では、酔っ払うことが良いのでしょうか。もちろん、そうではありません。聖書によれば、それは絶対に許されません。

とはいえ、聖書は飲酒自体を禁止してはいません。聖書が禁止しているのは、アルコールによって支配されることです。(エペソ5:18)

ちなみに、私は全く飲みません。アルコールの味が好きではないですし、自分の限界も分からないので、それを知りたいとも思いません。

しかし、私の要点は、聖書をどのように解釈するかに慎重でなければならないということです。

おそらく、その著者がイエス様がぶどうジュースを作られたと主張する理由は、著者が飲酒に強く反対しているからです。そのため、彼はギリシャ語をよく研究していたとしても、その箇所の文脈を無視してしまったのです。

ですから、私たちが聖書を読む時や教会でメッセージを聞く時、この四つのポイントを心に留めておきましょう。

1.聖書の箇所の文脈をよく考えるべきです。

多くの人々はそれを無視するため、彼らの解釈が混乱してしまいます。モルモン教やエホバの証人にはこのような問題が見られます。

2.聖書を読み、その教えを信じるべきです。

もし、聖書の教えがあなたの考え方と矛盾するなら、聖書を変えようとするのではなく、あなた自身の考え方を変えるべきです。

3.聖書の著者が生きた文化を学ぶべきです。

例えば、イエス様が母であるマリヤに話しかけた時、「女の方」と呼びました。現代の私たちの文化では冷たく感じられる表現ですが、彼らの文化では非常に丁寧な呼び方でした。

4.しもべたちに対するマリヤの言葉に従うべきです。すなわち、「イエス様が言われることを、何でも行いなさい。」(ヨハネ2:5)

聖書を読むだけでは不十分です。聖書の教えを聞くだけでも不十分です。その教えに従うことが必要です。なぜなら、それこそが神様の御言葉だからです。

これらのポイントを守ることで、聖書の理解が深まり、あなたの人生はさらに充実したものになるでしょう。