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ヨハネの福音書 ヨハネ20章

イエス様を見たことがないのに

「百聞は一見にしかず。」

私たちはこのことわざを口にしますが、時として、何を見ても信じない人がいるものです。

パリサイ人たちと祭司長たちは、イエス様の奇跡を実際に目の当たりにしました。それでもなお、イエス様がメシアであることを信じませんでした。

たとえば、ラザロが復活したとき、彼らはラザロを殺そうとさえしました。なぜなら、人々がその奇跡を目撃し、イエス様を信じるようになったからです。

彼らの問題は何だったのでしょうか。それは、彼らが信じたくなかったということです。もし何かを信じたくないなら、人はいつでも信じられない理由を作り出すものです。

しかし、トマスは本当にイエス様の復活を信じたかったのです。それでも、なぜか自分自身を納得させることができませんでした。だから、彼はほかの弟子たちにこう言いました。

私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れて見なければ、決して信じません。(ヨハネの福音書20:25)

だから、イエス様が鍵がかけられた部屋に奇跡的に入って、トマスのぽかんと顔を見た時、多分イエス様は微笑みながら、こう言いました。

あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。(27)

トマスの反応は?

私の主。私の神よ。(28)

イエス様は答えました。

あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。(29)

つまり、「あなたは見たから信じているのです。けれども、真の祝福は、見ずに信じることで見いだされるのです」ということです。

アブラハムもその祝福を知りました。アブラハムは神様が彼をどこに導いているかよくわからなかったけど、アブラハムは自分の地元を去って、神様に従いました。なぜなら、アブラハムは神様の約束を信じたからです。

ノアもその祝福を知りました。神様が洪水が発生すると言ったから、ノアは大きい箱舟を作りました。

ダビデもその祝福を知りました。神様がダビデが王になると約束したから、サウロ王が何回もダビデを殺そうとしても、ダビデは仕返しを求めませんでした。そして、神様のタイミングで、ダビデは王になりました。

マリアもその祝福を知りました。彼女は天使のメッセージを信じて、イエス様の母になりました。

聖書の時代から現代まで、たくさんの人々は神様を信じて、祝福されました。

でも、それは盲信ではありません。

イエス様が生まれる何百年前に、いろんな預言者はたくさんのことをイエス様に関して預言しました。

また、イエス様に出会った人は自分の経験を書きました。ヨハネはこう書きました。

イエス様は弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。(30-31)

それに、私たちは教会の偉人たちの歩みを見ることができます。たとえば、アウグスティヌス、マルティン・ルター、ジャン・カルヴァンは、神の御国のために偉大な働きを成し遂げました。

今なお、教会には多くのクリスチャンがいます。神様は彼らの人生の中で働き、福音によって彼らを変えてくださいました。

また、私たち自身もイエス様に出会い、神様の御業をこの目で見ることができます。

しかし、私たちは一つの選択をしなければなりません。

「主よ。私はあなたを見たことがありません。それでも、私はあなたを信じます。」

そして、イエス様を信じて従うとき、イエス様はますますご自身を私たちに現してくださいました。そして、私たちも祝福を知るのです。

ペテロはこう言いました。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども、愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。

あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。(第一ペテロ1:8-9)

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ヨハネの福音書 ヨハネ20章 ルカの福音書 ルカ24章

満たされて、遣わされた

イエス様が復活された日曜日、11人の弟子たちの間では混乱や不信が広がっていたようです。

彼らが集まったとき、マリアやほかの女性たち、エマオへ行ってきた弟子たち、そしてペテロが「主を見た」と強く主張しました。それでも、ほかの弟子たちはその話を信じませんでした。

すると、イエス様が突然彼らの前に現れました。当然、弟子たちは驚き、最初は幽霊を見たのだと思いました。

けれども、イエス様は「平安があなたがたにあるように」と言われました。

この言葉を聞いて、「弟子たちが怖がっていたので、イエス様は彼らを慰めようとされたのだ」と思うかもしれません。

しかし、実は当時の文化において、この言葉は「こんにちは」のようなごく普通の挨拶でした。

もしかすると、イエス様は最初、カジュアルな態度で通常の挨拶としてこの言葉をかけられたのかもしれません。けれども、弟子たちが恐れていたため、イエス様はより真剣な口調で「安心しなさい。わたしだよ」と言い、彼らを励まされました。

そして、イエス様はご自身の手と足を示し、魚を食べられました。おそらく、弟子たちはイエス様の傷跡に触れたことで確信を得たのでしょう。その後、彼らは納得し、喜びに満たされました。

さらに、イエス様は彼らに、預言者たちがイエス様の死と復活について語っていたことを教えられました。また、イエス様ご自身が以前言われたことを彼らに思い出させました。

その後、イエス様は彼らにこう言われました。

父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。(ヨハネ20:21)

また、

あなたがたは、これらのことの証人となります。見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。

あなたがたは、いと高きところから力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。ルカ24:48-49)

そして、イエス様は彼らに息を吹きかけ、こう言われました。

聖霊を受けなさい。あなたがたが誰かの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。(ヨハネ20:22-23)

それを読むと、私は別の聖書の場面を思い出します。エデンで神様がアダムに息を吹きかけ、アダムは物質的な命を受けました。

一方、この箇所では、弟子たちは霊的な命を受けたのです。

聖霊様は、救いのしるしとして彼らに入りました。そして、イエス様が以前約束されたように、聖霊様は彼らにさまざまなことを教え、彼らがどこへ行っても、聖霊様は共におられました。

さらに、聖霊様は、彼らがイエス様から受けた使命を果たすために力を与えてくださいました。だからその後、彼らはあらゆる場所へ福音を広げていきました。

同じように、私たちがイエス様を救い主、そして主として受け入れる時、イエス様は私たちに息を吹きかけ、霊的な命を与えてくださいます。

聖霊様も、私たちの内に入り、私たちを導いてくださいます。さらに、聖霊様は私たちに力を与えてくださるので、イエス様から与えられた使命を果たすことができます。

だから、私たちは決して独りぼっちではありません。私たちは自分の力や努力によって神様を喜ばせたり、神様の目的を果たしたりするわけではありません。

むしろ、神様ご自身が私たちに住んでおられる聖霊様を通して、私たちを満たし、命と敬虔をもたらすすべてのものを与えてくださいます。(第二ペテロ1:3)

私たちの主な務めは、福音を広げることです。私たちは、悔い改めてイエス様を受け入れる人に、「あなたの罪は赦された」と宣言することができます。しかし、神様の救いを受け入れない人には、私たちは将来の裁きについて警告します。

神様は御国の鍵を私たちに与えてくださいました。私たちが福音を伝えることで、御国の門が開かれ、周りの人々はそこへ入る機会を得るのです。

だから、聖霊に満たされて進みましょう。死にかけている世に、御国の門を開きましょう。

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いつも私たちと共におられる方

イエス様の復活について、二つの注意事項をお伝えしたいと思います。

一つ目は、マルコ16:9-20を省略することです。なぜなら、多くの聖書学者によれば、マルコはこの部分を書いていなかったと考えられているからです。

では、なぜマルコは具体的にイエス様の復活について語らなかったのでしょうか。私は三つの説を聞いたことがあります。

1つ目は、マルコが福音書を完成させる前に亡くなったという説です。

2つ目は、元々の結末が何らかの理由で失われたという説です。

3つ目は、使徒の時代には、教会で牧師がマルコの福音書を朗読した後に、イエス様の復活を目撃した人々が自分の証を語っていた可能性があるという説です。

いずれにせよ、マルコが亡くなった後、現在の結末が加えられたと考えられています。

二つ目の注意事項は、福音書間でイエス様の復活の記録を統合するのが非常に難しいということです。できる限り、復活の出来事の順番を整理しようと思いますが、これはあくまで私の考えです。

とはいえ、どの福音書を読んでも、基本的な事実は一致しています。

女性たちがイエス様の墓に着いたとき、その墓はすでに空っぽでした。そして、天使たちが現れ、イエス様の復活を彼女たちに知らせました。

その後、イエス様はマリアやほかの女性たちにご自身を現され、彼女たちは弟子たちにイエス様の復活を伝えました。

現代の弁護士によれば、法廷では証人の証言に多少の違いがあったとしても、これらの四つの事実は十分に認められるでしょう。

では、簡単にですが、復活の出来事の順番を説明します。

1.女性たちはイエス様の墓に行ったが、イエス様の遺体はありませんでした。

2.マリアが墓に入り、イエス様の遺体がないと分かると、すぐに弟子たちに知らせるために戻りました。

3.ほかの女性たちはその場に残り、おそらく何が起こったのか疑問に思ったでしょう。そして、二人の天使が現れ、そのうちの一人がイエス様の復活の良い知らせを伝えました。

4.そこで、女性たちは弟子たちに伝えるために急いで戻りました。彼女たちは急いでいたため、誰とも話しませんでした。(マタイ28:5-8;マルコ16:1-8;ルカ24:1-10)

5.その間に、マリアは弟子たちにイエス様の遺体がなくなったことを伝えました。(ヨハネ20:2)そこで、ペテロと(おそらく)ヨハネは墓を調べに行きました。マリアは彼らと共に墓に戻りました。

彼らが家を出た後、ほかの女性たちは家に来て、残っていた弟子たちに天使のメッセージを伝えました。(ルカ24:9-11)

6.ペテロとヨハネは墓に着き、マリアの話を確認しました。ヨハネはイエス様が復活されたと信じたようですが、ペテロはまだ疑っていたようです。おそらく、彼らは戻る途中でそのことを話し合ったでしょう。(ルカ24:12;ヨハネ20:3-9)

7.ペテロとヨハネが墓へ向かう際、走ったため、もしかするとマリアは遅れて着いたかもしれません。そのため、マリアがようやく墓に着いたとき、ペテロとヨハネがまだそこにいたかどうかは分かりません。

そして、イエス様はマリアの前に現れ、彼女を慰められました。その後、彼女はすぐに弟子たちのもとへ戻りました。(ヨハネ20:12-18)

8.マリアが戻っている間に、イエス様はほかの女性たちの前に現れました。彼女たちは道中だったのかもしれません。また、弟子たちが彼女たちの言葉を信じなかったため、多少の失望を感じていたかもしれません。

けれども、イエス様が彼女たちを励まされたので、彼女たちはもう一度弟子たちのもとへ向かいました。

その頃、マリアも戻ってきたため、弟子たちはマリアと女性たちの話を聞きました。(マタイ28:9-10)

その順番が正しいかどうかは分かりませんが、これが私の推測です。

さて、マリアのことを少し考えてみましょう。私がこの場面を想像すると、イエス様の墓の外で、マリアが深い悲しみに沈み、絶望している姿が浮かびます。

もし私の考えが正しければ、彼女はまだほかの女性たちの天使の経験を聞いていません。マリアが知っているのは、ただイエス様の遺体がなくなったという事実だけです。

そして、マリアが墓に入ると、二人の天使がいました。ところが、ほかの女性たちの話をまだ聞いていなかったため、マリアは彼らが天使であることを認識しませんでした。

すると、天使たちは「なぜあなたは泣いているのですか」と尋ねました。

マリアはただこう答えました。「誰かが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」

もしかすると、天使たちがイエス様の復活を伝えようとしたその瞬間、イエス様が現れたのかもしれません。

最初、マリアはイエス様を認識しませんでした。しかし、イエス様が彼女の名前を呼ばれました。

「マリア。」

その瞬間、マリアの悲しみの涙は、一気に大きな喜びへと変わりました。

私たちはどれほどマリアのようでしょうか。苦しみに沈み、神様が遠く感じることがあります。

祈っても、まるでその祈りが天井にぶつかり、神様に届かないかのように感じることもあります。

神様を求めても、見つけられないことがあります。まるで神様が沈黙し、いなくなったかのように思えることもあります。

けれども、実際には神様は私たちとともにおられます。マリアのように、私たちは神様を見ていないだけかもしれません。しかし、神様は確かにそこにおられます。そして、最もふさわしい時に、ご自身を現してくださいます。

だから、諦めないでください。誰もが悲しみの時を経験します。誰もが、神様が遠く感じる時を通ることがあります。けれども、神様はインマヌエルです。すなわち、「神様は私たちとともにおられる」ということです。

そして、イエス様を復活させたのと同じ力で、神様は私たちの悲しみを喜びへと変えてくださいます。