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ヨハネの福音書 ヨハネ3章

誰に従うべきか

弟子造り。弟子造りについて考えれば考えるほど、その重要性が深く理解できます。しかし、弟子造りの目的とは一体何でしょうか。

多くの人々が弟子造りについて考えるとき、間違った目的を持つことがあります。彼らは弟子の一生の先生でありたいと思い、弟子からの尊敬を求めます。そして、自分の弟子を持つことを自慢し、「私に従う人たちを見てご覧。」と言います。

けれども、私たちの目的は、自分の弟子を造ることではありません。私たちの目的は、キリストの弟子を造ることです。

バプテスマのヨハネは、その点をよく理解していました。以前にも述べたように、ヨハネは自分の弟子たちをイエス様に向かわせ、「イエス様こそ従うべき方だ。彼のもとに行きなさい。」と伝えました(ヨハネ1:35-36)。

この箇所では、私たちはヨハネの態度を再び目にします。イエス様はご自身のミニストリーを始められ、弟子たちはイエス様の権威によって人々にバプテスマを授けました。

その結果、ヨハネのもとに来る人は減り、イエス様のもとに行く人が増えていきました。それを目の当たりにしたヨハネの弟子たちは少し不安になり、ヨハネにこう言いました。

先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。(ヨハネの福音書3:26)

ヨハネの弟子たちは、ヨハネがどのように反応するか予想していたでしょうか。彼らはヨハネが怒ると思ったのでしょうか。それとも、ヨハネが感情を害すると考えたのでしょうか。

けれども、ヨハネはこう答えました。

人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である』と私が言ったことの証人です。

花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。

あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。(27-30)

つまり、「私の人生の目的はキリストの道を整えることです。だから、私は人々をイエス様に向かわせなければなりません。そのために、私はこれまでずっと努力してきました。

結婚式では、一番重要な人物は花婿の友人ではなく、花婿です。結婚式の準備が整い、式が始まり、花婿が入場すると、その友人は心から喜びます。

これこそが私の感情です。私の役割を果たし、使命を達成しました。だからこそ、イエス様が私よりも偉い立場を取られるのはふさわしいことです。そして、私が彼の背後に退くべき時が来ました。」

これが弟子造りです。弟子造りとは、相手の一生の先生になることではありません。私たちは常に彼らを導き続けるべきではありません。

弟子造りとは、人々をイエス様へ導くことです。彼らがイエス様を知り、信じるように、私たちは彼らの心を整えます。私たちの経験、知識、そして知恵を伝えます。けれども、その後、私たちは彼らにこう告げるべきです。

「あなたが私のもとを去る時が来ました。私はできる限りのことをあなたに教えました。これからは、あなた自身でイエス様に従いなさい。」

そして、私たちは彼らの人生の背景に戻るべきです。

どんな弟子造りの関係でも、キリストが盛んになり、私たちは衰えるべき時が必ず訪れます。

使徒ヨハネはこう述べています。

地から出る者は地に属し、地のことばを話す。(3:31)

つまり、私たちは人間だからこそ、私たちの経験と知識には限界があるのです。

しかし、イエス様は天から来られ、御霊に満たされていたため、そのような限界は存在しませんでした。それにイエス様は「すべてのものの上におられます」(ヨハネ3:31)と記されています。

さらに、命を与えるのは私たちではなく、イエス様です。

だから、人々をイエス様へ導きましょう。彼らにイエス様の弟子としての歩み方を教えましょう。そして、イエス様が彼らを導いてくださる姿を見て、喜びましょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ3章

光に入る?

昨日の記事で、私は「人々が神様を拒絶した場合、将来裁かれるのではなく、すでに裁かれている」とお伝えしました。この箇所では、私たちは神様の宣告を見ることになります。

そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。(ヨハネの福音書3:19)

キリストによって、光がこの世に来ました。イエス様は神様がどのようなお方であるかを教え、神様の私たちへの計画を明らかにされました。

けれども、世の人々は悪を愛していました。彼らは自分たちの行動が悪く、恥ずかしいものであると知っていたにもかかわらず、その悪を愛し続けたのです。

また、彼らは光を受け入れず、暗闇に留まりました。要するに、彼らはイエス様を拒絶したために裁かれることとなりました。

では、あなたはどうでしょうか。キリストの光の中に入りますか。自分の悪く、恥ずかしい行動を捨て、イエス様と共に光の中を歩みますか。イエス様が教えられた真理に従いますか。

そうすれば、あなたはもう神様を恐れる必要はありません。むしろ、神様の前に大胆に立つことができるのです。

ヨハネはこう言っています。

しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。(21節)

私は神様とそのような関係を持ちたいと願っています。恥じることのない関係。罪悪感に囚われない関係。そして、神様の愛と恵みを受けて、大胆に神様と共に歩む関係です。

神様の光の中に入ることを恐れる人もいます。その理由は、彼らが自分の罪が明らかにされることを恐れているからです。また、彼らが愛しているものを失うことへの恐れがあるからです。

そのため、彼らは教会を避け、聖書を遠ざけます。一部の人は聖書を読むものの、自分の罪を指摘する箇所を避けます。

それでも、神様はあなたを愛しておられます。そして、神様はあなたの最善を望んでおられます。たとえ、神様に従うことで、あなたが愛しているものを失うと感じることがあったとしても、神様はあなたにそれ以上の素晴らしいものを与えてくださいます。

ですから、最も重要な質問はこれです。神様を信頼しますか。神様があなたの最善を望んでおられることを信じますか。もしそれを信じないなら、あなたは決して光の中に入ることはできません。

しかし、神様はイエス様を通してあなたに対する愛を示してくださっています。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(3:16)

神様はあなたのためにそのようにしてくださいました。ですから、あなたの人生のすべてにおいて、神様を信頼することができませんか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ3章

福音のもう一つの側面

多分あなたはもうご存じかもしれませんが、「福音」という言葉は「良い知らせ」という意味です。

しかし、私たちが「悪い知らせ」を知らなければ、その「良い知らせ」を本当に理解することはできません。その悪い知らせとは何でしょうか。

[イエス様を]信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネ3:18b)

最初の人間アダムの時代から、すべての人々は神様のみ前で裁きを受けることとなりました。なぜでしょうか。それは、私たちが皆、神様を信頼せずに神様に背を向け、自分の道を選んだからです。

では、なぜそれがそれほど重大な問題なのでしょうか。

使徒パウロがその答えを教えています。

罪から来る報酬は死です。(ローマ6:23)

私たちは「死刑囚となるかもしれない」という状態ではありません。実際には、私たちはすでに死刑囚なのです。なぜなら、私たちは皆罪を犯し、すでに裁きを受けたからです。

そのため、17節にはこう書かれています。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではな[い]。

なぜヨハネは、「イエス様はこの世に私たちを裁くために来られたのではない」と言うことができたのでしょうか。それは、イエス様がこの世に来られる以前に、私たちはすでに裁かれていたからです。

これが福音のもう一つの側面です。とはいえ、多くのクリスチャンはこの側面についてあまり語りたがりません。

もしあなたがイエス様を信じないのなら、将来神様に裁かれるというわけではありません。あなたはすでに裁かれているのです。

私たちはこのことをどのくらい深く考えているでしょうか。今、あなたの家族や友人、そして同僚がイエス様を知らないのであれば、彼らはすでに裁かれています。もし、あなたがイエス様を信じないのであれば、あなたもまた神様に裁かれているのです。

これは本当に恐ろしい事実です。けれども、幸いにも、素晴らしい良い知らせがあります。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(3:16-17)

私たちが神様に背を向けたにもかかわらず、神様は私たちを変わらず愛しておられました。だからこそ、神様はイエス様をこの世に送り、イエス様は十字架の上で私たちの罪の罰を引き受けてくださいました。

そのため、今、神様はあなたに問いかけておられます。「私を信じ始めますか。私の子イエスと、その十字架での働きを信じますか。」

あなた自身と、あなたが愛している人々は死刑囚であるかもしれません。そして、解放される方法はただ一つしかありません。赦される道もただ一つです。それはイエス様を信じることです。

ヨハネはこう記しています。

御子を信じる者はさばかれない。(18a)

イエス様とその十字架での働きを信じるなら、神様はあなたを赦してくださいます。その赦しは私たちの良い行動によるものではありません。むしろ、それはイエス様の十字架での働きによるのです。

神様はそれを見て、私たちにこう語られます。「私の子イエスがあなたの罪の罰を支払いました。だから、私はあなたを裁きません。」

実際のところ、神様がこれを語られる時、それは将来のことだけを指しているのではありません。今この瞬間においても、神様の前であなたは裁かれていないのです。

使徒パウロはこう述べています。

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

しかし、もしあなたがイエス様を拒絶するなら、あなたはすでに死刑囚なのです。そして、裁きの日が次第に迫っているため、ヨハネはあなたにこう語っています。

[イエス様を]信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネ3:18b)

あなたはどうしますか。

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どのように新しく生まれることができるのか

ヨハネ3章の前半では、イエス様はニコデモに、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われました(3節)。

つまり、私たちがこの世に生まれるように、私たちは神様の国に生まれなくてはなりません。どんなに良い行動をしても、それによって天国に入ることはできません。

人がこの世に生まれるのは、主に母の働きによるものです。人が神様の国に生まれるのは、御霊の働きによるものです。

ニコデモは旧約聖書をよく知っていたにもかかわらず、この概念を理解することができませんでした。彼は天国に入るために、懸命に神様の律法に従おうとしていました。けれども、イエス様は「その考え方は間違っている」と言われました。

そのため、ニコデモは質問しました。

どうして、そのようなことがありうるのでしょう。(9)

つまり、「私はよく分かりません。ずっと律法に従おうと努力してきました。しかし、あなたは天国に入るために私自身の働きによるのではなく、御霊の働きによると言われているのですか。」

今でも、多くの人々は同じ質問を抱えています。彼らは、神様を喜ばせるために良い行動をしなければならないとずっと教えられてきました。そのため、救いがただであるという話を聞いても、彼らは信じられません。それが簡単すぎると感じてしまうのです。

いずれにせよ、イエス様はニコデモを少し叱責されました。

あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。(ヨハネの福音書3:10)

もしニコデモが預言者たちの言葉を正しく理解していたならば、イエス様の言葉も理解できたはずです。(特に、ニコデモは預言者エレミヤやエゼキエルの言葉を知っていたに違いありません。昨日の記事をご覧ください。)

けれども、ニコデモがそれを理解できなかったため、イエス様はさらに古い聖書の話を取り上げて語り始められました。ユダヤ人にとって非常によく知られた話です。

イスラエル人がエジプトから救い出された後、砂漠を旅していました。ところが、その途中で彼らはモーセと神様に対して不平を言い始めました。その反抗的な態度の結果として、神様は多くの蛇を送り、人々の多くが噛まれて死んでしまいました。

イスラエル人が悔い改めた時、神様はモーセにこう命じられました。

あなたは燃える蛇(つまり、青銅の蛇)を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。(申命記21:9)

彼らは救われるために、多くの良い行動をする必要はありませんでした。ただ、神様の約束を信じるべきだったのです。神様の約束を信じた人々は救われましたが、神様に対する不信を持ち続けた人々は亡くなりました。

イエス様はニコデモにこう言われました。

「同じように、永遠の命を得るためには、働かなくてもよいのです。モーセが荒野で蛇を掲げたように、私も十字架で掲げられなければなりません。私はあなたの罪のために死ぬのです。そして、あなたが私を仰ぎ見て信じるなら、あなたは救われます。」

ギリシャ語では引用符が存在しないため、イエス様の言葉がどこで終わり、ヨハネの言葉がどこから始まるのかが明確ではありません。おそらく、15節でイエス様の言葉が終わり、16節からヨハネがその話の意味を解釈しているのでしょう。

いずれにせよ、この箇所は聖書の中で最も有名な箇所の一つです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(3:16)

どうすれば、私たちは新しく生まれることができるのでしょうか。それは、イエス様を信じることによって実現します。つまり、イエス様が十字架であなたの罪の罰を引き受けてくださったことを信じる必要があるのです。

罪とは、「神様、私はあなたを信頼しません。」という態度そのものです。ですから、罪の解決方法は良い行動を積むことではありません。罪の解決方法は、神様に対する不信の態度を捨てることです。

そして、その最初の一歩は、「神様、私はあなたの救いの計画を信じます。あなたの国に入るために、私の働きに頼るのではなく、イエス様の十字架での働きに頼ります。」と告白することです。

このような祈りをしたことがありますか。

天のお父様、私は自分が罪を犯したことを認めます。つまり、私はずっとあなたを信頼せず、あなたの道を歩まず、自分勝手な道を選んできました。どうか私を赦してください。

イエス様、あなたが私の罪のために死んでくださったことを感謝します。私の主となってください。これから私は、私の人生のすべてにおいてあなたを信頼し、あなたの道を歩みたいと願います。

御霊様、どうか毎日私を導いてください。特に、私が毎日イエス様のようになることができるように導いてください。私の心を変えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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新しく生まれる?

ヨハネの福音書3章は、聖書の中でも特に有名な箇所の一つです。この章でイエス様は「新しく生まれること」について語られます。しかし、それはどういう意味なのでしょうか。

この話では、ニコデモというパリサイ人がイエス様を訪ねます。

イエス様がいくつもの奇跡を行い始めていたため、ニコデモはほかのパリサイ人とは異なり、イエス様を尊敬していました。彼はイエス様が行った奇跡を通して、イエス様が神様のもとから来られた方であることを認めました。

では、なぜニコデモはイエス様を訪ねたのでしょうか。それについて明確な答えはありません。

確かに彼は、まだ大胆にイエス様の弟子になる決意ができていなかったでしょう。実際、彼は夜にこっそりイエス様を訪ねました。それでも彼は、イエス様と直接話し、相談することを選びました。

ニコデモは丁寧にイエス様に挨拶しましたが、イエス様は挨拶を返すことなく、率直に核心をつく言葉を話されました。

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。(ヨハネの福音書3:3)

ニコデモはそれを聞いて、驚きました。彼はパリサイ人であり、神様の律法を尊重し、それに従おうと懸命に努力していました。おそらく彼は、天国に行くためにはその律法を完全に守らなくてはならないと考えていたのでしょう。

けれども、イエス様はこう言われました。「その考え方は間違っています。神様の国に入るためには、あなたは新しく生まれなければなりません。」

ニコデモにはイエス様の言葉の意味が全く理解できませんでした。そのため、彼は質問しました。

人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。(4)

福音書、特にヨハネの福音書では、このような問題をしばしば目にします。つまり、イエス様が霊的な真理を教えようとしているのに対して、人々が物理的な考え方にとらわれてしまうということです。

私たちも、どれほど物理的な考え方を持っているために、神様の真理を理解できないことがあるでしょうか。

いずれにせよ、イエス様の次の言葉によって、ニコデモはさらに混乱してしまいました。

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。(5)

「水によって生まれる」という言葉にはさまざまな解釈がありますが、おそらくイエス様はエゼキエル書37:25-27を参照されていたのではないかと考えられます。

その箇所では、神様が「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかける」と語られています。

この言葉の意味は「あなたがたを罪から清める」ということです。おそらく、これが「水によって生まれる」という言葉の真意でしょう。

さらにその箇所では、神様が続けて「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける」と語っておられます。これこそ「新しく生まれる」という意味です。

神様は私たちに新しい心と霊を与えてくださいます。そしてその新しい心と霊を持つことによって、私たちは自然に神様を喜ばせたいと願うようになるのです。

ニコデモはパリサイ人であり、きっとエゼキエル書のこの箇所をよく知っていたことでしょう。そのため、イエス様はこの言葉をおっしゃったのかもしれません。

あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。(7)

この世に入るためには、私たちはまず生まれなくてはなりません。私たちの働きによって、この世に入ることはできません。ただ、生まれることがその条件です。

同じように、神様の国に入るためには、その国に生まれなくてはなりません。あなた自身の働きによって、神様の国に入ることはできません。ただ、その国に生まれる必要があります。言い換えると、御霊によって生まれることが必要なのです。

そのため、エゼキエル書で神様はユダヤ人にこう語られました。

わたしの霊をあなたがたのうちに授け[ます]。(エゼキエル書36:27)

物理的な出産は母の働きによるものです。霊的な出産は御霊の働きによるものです。

そして、イエス様は御霊を風にたとえられます。風の影響は私たちに見えますが、風そのものを見ることはできません。

同じように、私たちには御霊を見ることはできませんが、御霊は人間の心の中で働き、その人を内側から変えてくださいます。

そして、最終的には私たちは御霊の働きの結果を見ることができます。御霊によって私たちは全く違う人へと変えられます。つまり、私たちは新しく生まれ変わるのです。

ニコデモはこの真理を知っているはずでした。預言者エレミヤはこの真理について教えています(エレミヤ書31:31-34)。そしてもちろん、エゼキエルも同じ真理を教えていました。

しかし、ニコデモは自分の働きによって神様の国に入ることができると考えていたようです。

あなたはどうでしょうか。自分の働きによって天国に入ろうとしていませんか。それとも、あなたはすでに新しく生まれ変わっているのでしょうか。