この箇所では、私たちは初めてイエス様が人を癒やす奇跡を見ることになります。(ただし、その前にイエス様が他の人を癒やされた可能性もあります。ヨハネ2:23)
けれども、この話で私の心を打ったのは、王室の役人のイエス様への反応です。彼の息子は死にかけていました。
おそらく、彼は息子をあらゆる医者に連れて行ったものの、誰も息子を助けることができませんでした。そのため、イエス様が彼の最後の希望でした。
その役人がイエス様に助けを求めたとき、イエス様はこう言われました。
あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。(ヨハネの福音書4:48)
それは、少し不思議な答えでした。しかし、その意味はおそらくこうだったのではないでしょうか。
「あなたは私のことを本当に信じているからここに来たのですか。それとも、まだ信じていないけれど、私があなたの息子を癒やしたら信じるのですか。」
これは今も、私たちにとって本当に重要な問いです。私たちが自分の必要について祈るとき、イエス様を信じているから祈るのでしょうか。それとも、イエス様が私たちの祈りに応えてくださったとき初めて信じるのでしょうか。
その王室の役人がイエス様の言葉を聞いたとき、何を思ったのでしょうか。彼はどの程度本当に信じていたのでしょうか。
いずれにせよ、彼は必死に叫びました。
主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。(49)
それを聞いて、イエス様は彼の信仰を試されました。
帰って行きなさい。あなたの息子は治っています。(50a)
少し想像してみてください。おそらく、その役人はイエス様が自分と一緒に帰ることを望んでいたでしょう。ところが、イエス様はこう言われました。
「帰って行きなさい。私は行かなくていい。あなたの息子は確かに回復します。私の言葉を信じなさい。」
その役人がどれほどイエス様の言葉を深く考えていたのか、私には分かりません。その言葉を聞いた瞬間にすぐ帰ったのかもしれません。
または、彼はしばらくイエス様の目を見つめて、「本当にイエス様を信じられるだろうか」と考えたのかもしれません。けれども、最終的に、
その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。(50b)
そして、彼が下って行く途中、そのしもべが彼に出会い、「あなたの息子は治りましたよ」と伝えました。
私たちはどうでしょうか。イエス様が言われた言葉を信じることができるでしょうか。
多くの場合、私たちが祈るとき、イエス様が私たちに何か伝えようとされていますが、その言葉を信じないことがあります。むしろ、疑いの心が生じ、「イエス様は本当に助けてくださるだろうか」と問いかけてしまいます。
例えば、私たちが新しい仕事のために祈り、求職活動をしているとします。その仕事を選べば日曜日に働かなければならない状況になる場合、イエス様は「別の仕事のために待ちなさい」と言われるかもしれません。
私たちはこのように考えるかもしれません。「イエス様を信頼できるだろうか。この機会を逃してしまったら、イエス様は別の機会を備えてくださるのだろうか。」
または、私たちが精神的な癒しを求めて祈ることがあります。そのとき、イエス様は「この人を許しなさい。苦々しい心を手放しなさい。そうすれば、あなたは癒されるでしょう」と語られるかもしれません。
けれども、私たちはイエス様に問いかけます。「どうして許さなければならないのでしょうか。私は本当に傷ついたのに。」
私たちはイエス様の言葉にどのように応答するでしょうか。その言葉を信じ、従うのでしょうか。
この問いに答えることができるまで、人生に癒し、平和、喜びを見つけることは難しいでしょう。
「私はイエス様を本当に信じることができるでしょうか。イエス様が言われたことを信じることができるでしょうか。」
あなたはどうでしょうか。イエス様が言われた言葉を信じることができるでしょうか。
