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ヨハネの福音書 ヨハネ5章

私たちは人間からの栄誉を求めると

もし、あなたが初めてイエス様の話を聞く時に、驚くことの一つは、宗教的なリーダーたちがイエス様を受け入れなかったことです。むしろ、彼らはイエス様を拒絶し、殺したいと思っていました。どうして彼らはイエス様に反対したのでしょうか。

イエス様によれば、彼らはいつも聖書を調べていました。もちろん、それは良いことです。しかし、彼らの問題は、神様からの栄誉を求めずに、仲間からの栄誉を求めたということです。

そのため、彼らの聖書勉強の動機は神様を求めることではなく、仲間を感動させることでした。

イエス様は、彼らにこう言われました。

わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。

互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。(ヨハネの福音書5:43-44)

私たちは仲間からの栄誉を求め、その栄誉によって誇るようになると、神様が何をなさっているか、また、神様が何を言っているかを認識できなくなります。

私たちの目で見えるし、耳で聞こえるかもしれませんが、神様の言葉と御業を受け入れなくなります。

その宗教的なリーダーたちは、そのような人々でした。

最初、彼らはバプテスマのヨハネの言葉を聞きました。そして彼らはイエス様の教えを聞き、イエス様の奇跡も見ました。

それでも彼らはイエス様を拒絶しました。むしろ、彼らはイエス様が悪霊につかれている人だと言いました。(マルコ3:22;ヨハネ8:48)

だから、彼らは本当の命を逃してしまいました。

本当の命とは神様の目的に同意し、それに参加することです。

私たちは神様が私たちの人生やこの世界で何をなさっているかを見て、その仕事に参加するべきです。私たちが本当に神様を愛しているなら、そのことに集中するはずです。

けれども、そのリーダーたちは自分自身に集中しすぎたため、神様に対する愛を持っていませんでした。だから、イエス様は彼らにこう言われました。

ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません。(42)

あなたは、どうでしょうか。イエス様は、あなたに関して何と言われるでしょうか。「あなたのうちには、神の愛があります。だから、あなたの心から神様を喜ばせたがります」と言えるでしょうか。

神様からの栄誉を求めているでしょうか。それとも、人間からの栄誉を求めているでしょうか。

あなたはミニストリーをするとき、誰からの栄誉を求めているでしょうか。牧師からの栄誉を求めているでしょうか。それとも、教会の人たちからでしょうか。

人間からの栄誉を求めると、その宗教的なリーダーたちの聖書研究のように、あなたのミニストリーは自己中心的なものになります。そして、あなたには、イエス様がなさっていることが見えなくなります。

正直に言うと、説教者として、私はいつもその悪い態度と戦っています。気を付けないと、プライドは私たちのミニストリーを壊してしまうかもしれません。

だから、私たちは毎日、自分自身にこの質問を問うべきです。「私は誰を喜ばせようと思っているのだろうか。」

誰からの栄誉を求めているのでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ5章

私たちを裁く方。私たちに命を与える方。

この箇所では、私たちは、天の父と神の子の関係を垣間見ます。天の父とイエス様が同じ方だと言うカルトもありますが、クリスチャンはそう言いません。

天の父とイエス様(と聖霊様)は一つの神であるけれども、天の父はイエス様ではなく、イエス様は聖霊様ではなく、聖霊様は天の父ではありません。彼らは互いに愛し、話し合い、一緒に協力しています。

そして、イエス様がこの世に住んでおられた時、イエス様は天の父に頼られました。イエス様は天の父が何をなさっているかをご覧になり、その働きに参加されました。(ヨハネの福音書5:19)

それに、イエス様は、いつもご自身を喜ばせようとは思われず、天の父を喜ばせようと思われました。そして、イエス様の言葉と御業は天の父の力と知恵に基づいていました。(30節)

その反面、天の父はイエス様に驚くべき力と権威を授けられました。どうしてでしょうか。すべての人々が天の父を敬うように、イエス様を敬うためです。だから、彼らがイエス様を敬わなければ、天の父も敬われませんでした。(23節)

そういう意味で、イエス様は天の父と対等である。(18)

イエス様はどのような権威と力を持っておられるのでしょうか。

1.イエス様は命を与える力を持っておられます。イエス様は死人に命を与えられます。

イエス様はこう言われました。

父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。(ヨハネの福音書5:21)

イエス様は、何度もその力を使われました。特に、イエス様はラザロを復活させられました。さらに、イエス様はこう言われました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。

それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。。。

このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。(25-26、28-29)

私たちは、もう一つのことを心に留めておかなくてはなりません。イエス様は、クリスチャンたちだけを復活させられるのではありません。イエス様は、すべての人々を復活させられます。

どうしてでしょうか。それは裁きのためです。それが、二つ目のポイントです。

2.イエス様は、すべての人々を裁く権威を持っておられます。

イエス様は、こう言われました。

また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。(22)

イエス様は、人々を裁かれるとき、どのような宣告を宣言されるのでしょうか。

善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。(29)

つまり、イエス様の裁きには、永遠の結果があります。その日、誰が天国に行くか、誰が地獄に行くかが決まります。

どうしてイエス様はその裁く権威を持っておられるのでしょうか。それは、イエス様が人間となられたのに、決して罪を犯されなかったからです。

どのような目安でイエス様は、誰が天国に行くか、誰が地獄に行くかを決められるのでしょうか。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(24)

要するに、私たちは、イエス様の言葉を聞き、信じ、イエス様を送られた天の父を信頼しなくてはなりません。

そうすれば、あなたは永遠の命を受けることができます。そうしなければ、あなたは地獄で永遠に裁かれることになります。

あなたはどうでしょうか。命を与える力やあなたを裁く権威を持っておられるイエス様を信頼しているでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ5章

イエス様はだれでしょうか

イエス様はだれでしょうか。イエス様に出会った人々のすべてが、その質問に答えなくてはなりませんでした。

今でも、人々はイエス様に出会うと、その質問に答えなくてはなりません。

ユダヤ人たちも、イエス様と話したとき、その疑問に直面しました。イエス様はこう言われました。

わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。(ヨハネの福音書5:17)

私たちにとっては、その言葉は別にショッキングではないかもしれませんが、ユダヤ人たちは本当に面くらいました。

なぜなら、その時代、誰も神様を「私の父」と呼ばなかったからです。

「私たちの天の父」と言ったかもしれませんが、「私の父」とは言いませんでした。なぜなら、「神は私の父」というのは、「私は神性を持っている」という意味だったからです。

どうして、ユダヤ人たちはそのように思ったのでしょうか。

少し考えてみてください。子供たちはその父と同じ姿を持ちます。父が人間なら、その子供も人間です。父がサルなら、その子供もサルです。父が猫なら、その子供も猫です。

だから、もしイエス様の父が神なら、イエス様はだれでしょうか。

もちろん、私は神様がイエス様を産んだのだと言うわけではありません。また、私は神様が結婚してその妻がイエス様を生んだと言っているわけでもありません。

イエス様は永遠から天の父と聖霊様と一緒におられました。イエス様と天の父と聖霊様は神性を持っている。それでも、神は一つしかおられません。

神様の御姿をどのように説明すればよいか、誰も知りません。しかし神様は、そのようにご自身を現してくださいました。

それでは、私たちにとっては、その真理はどういう意味があるのでしょうか。

もしイエス様が神なら、私たちはイエス様の言葉を無視することはできません。

イエス様はただの人間ではありません。私たちはイエス様の言葉に反対する権利がありません。むしろ私たちは、その言葉を真理として受け入れ、その言葉に従わなければなりません。

あなたはどうでしょうか。イエス様がだれだと思いますか。

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ルールに目がくらむこと

ルールは良いものです。カオスの状態では、ルールによって秩序が確立されます。そういうわけで、学校の教室でも、家庭でも、社会でも、ルールは大切なものです。

とはいえ、人々がルールの目的を忘れると、ルールは害となることがあります。私たちがルールの精神を思い出さない限り、非常に困難な状況に陥る可能性があります。

さらに、ある人々はルールを守るために、余計なルールを作り出します。例えば、パウロはこう言いました。

また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。(エペソ5:18)

そこだけではなく、聖書のさまざまな箇所で、酔ってはいけないという警告がたくさんあります。どうしてでしょうか。

酔うと、自分自身をコントロールできなくなるからです。それに、神様ではなく、お酒があなたの行動をコントロールするようになります。

けれども、ある人々は余計なルールを作ります。「全くお酒を飲んではいけません。あなたが飲むと酔う可能性があるから。」

そのルール自体は悪いわけではありません。そのため、私はお酒を飲みません。(その上、その味が嫌いなのです。)

ですが、他の人々がその余計なルールを守らないからといって、彼らを批判してはいけません。

パリサイ人たちはそのようなことをしていました。神様はこう命じられました。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。(出エジプト記20:28)

つまり、その日に働いてはいけません。

その律法の精神は何でしたか。

一つ目は、人々が神様に焦点を当てる時間を取ることです。

二つ目は、神様を信頼することです。つまり、毎日働かずに、一週間に一日休んでも、神様があなたの必要を満たしてくださるのを信じるのです。

三つ目は、彼らがリラックスすることです。神様は彼らを愛しておられるので、時々休んでほしいと思われました。

それらがその律法の精神でした。しかし、パリサイ人と律法学者たちは、その律法のためにさまざまな余計なルールを作りました。例えば、どれくらい旅ができるかとか、何キロのものなら運んでもいいというルールを作りました。

医者に対しても、安息日に関するルールがありました。安息日に、誰かが死にかけている場合だけ、医者がその人を助けることができました。その場合でも、その人が次の日まで生き延びられるようにするだけでした。

ところが、そのルールのせいで、彼らはその律法の精神を忘れてしまいました。彼らは人々に神様が望んでいなかった重荷を負わせました。

さらに、誰かが神様が立てていないルールを破った場合、その人を批判しました。

その上、そのルールのせいで、彼らは神様がなさっていることに目を向けられなくなりました。

この箇所では、そのことを見ることができます。

彼らは、安息日に床を取り上げている人を見ました。(彼は安息日に荷物を運ぶルールを破りました。なぜなら、それは「仕事」でした。)

パリサイ人たちは言いました。「お前は働いているよ。なぜ安息日に働いているのか。」

「私をいやしてくれた人は『床を取り上げて歩け』と言ったからです。」

つまり、「もしその人に私をいやす力があれば、私に『床を取り上げなさい』と言う権利もあるでしょう。」

この箇所では、注意事項が二つあります。

一つ目は、その人が病気にかかっていた間に、パリサイ人たちは彼のことに全然気づいていなかったということです。けれども、彼が彼らのルールを破った時に、初めて彼に気づきました。

私たちは、どれくらいそのようにふるまうでしょうか。私たちの周りに霊的な必要がある人がいるのに、彼らが私たちのルールを破る時以外には彼らを無視します。

二つ目は、その奇跡にやっと気づいた時、彼らはルールに集中しすぎたせいで、神様がその人のために何をしてくださったかに感謝することができませんでした。

そのため、彼らはそのルールを破った人が誰かという疑問に集中し、イエス様だと分かった時、イエス様を迫害しました。

これがルールに集中しすぎることの危険性です。私たちの周りの人々のニーズが見えなくなり、神様が何をなさっているかを認識できなくなります。

あなたはどうでしょうか。あなたはルールに目がくらんでいますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ5章

完全さを望む?

時々、私は人々が本当に完全な人生を望んでいるのか疑問に思います。

彼らは結婚関係や他の人間関係について文句を言ったり、仕事や健康について文句を言ったりしますが、結局何も変わりません。まるで文句を言うことが好きで、相手の同情を得るのが好きなように見えます。

けれども、イエス様は私たちがそのように生きることを望んでおられません。イエス様は私たちがみじめさに浸ることを望んでいるのではなく、むしろ癒すことを望んでおられるのです。

この箇所では、その大切な真理を学ぶことができます。

この話には、38年間病気に苦しんでいた人が出てきます。おそらく彼は毎日、乞食をしなければならなかったでしょう。

イエス様は彼の状態を聞いたとき、非常に単純な質問をされました。「よくなりたいか。」

多くの人々は、彼が「はい」と答えるのは当然だと思うかもしれません。しかし、もしかしたら彼は働かずに乞食をする生活を快適に感じていたのかもしれません。

また、周囲の人々に世話される生活を好んでいた可能性もあります。その意味では、彼の人生はある意味で楽だったとも言えるでしょう。

それでも彼は癒しを望みました。その時代にはある迷信がありました。それは、天使がベテスダと呼ばれる池の水を動かした後、最初に池に入った人が癒されるというものです。

彼はできるだけ早く池に入ろうとしましたが、いつも他の人に先を越されてしまいました。

それでも、イエス様は彼の答えを聞かれると、こう言われました。

起きて、床を取り上げて歩きなさい。(ヨハネの福音書5:8)

その乞食は、どのように思ったでしょうか。どうやら、彼はイエス様のことを全く知らなかったようです。

もしイエス様について聞いたことがあったとしても、彼はイエス様を認識していなかったようです。(ヨハネ5:12-13)

彼にとって見知らぬ人物が「起きて、歩きなさい」と言ったのです。

それでも、彼はイエス様の言葉に従い、その場で起き上がり、歩くことができるようになりました。

その後、神殿でイエス様は彼にこう言われました。

見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。(14)

この話から、私たちは何を学べるでしょうか。

私たちの多くは、人生の中で傷つくことを経験します。私たちの人生が壊れ、どうやって完全になるかが分からない時があります。

しかし、イエス様は私たちにこう問いかけておられます。「よくなりたいか。完全になりたいか。」

もし完全になりたいなら、その乞食のように、イエス様の言葉に従わなければなりません。イエス様の言葉を疑ってはいけません。「それは無理だ」と言ってはいけません。ただ、イエス様の言葉に従いなさい。

この乞食の場合、癒しは即座に訪れました。あなたの場合、癒しには時間がかかるかもしれません。

特に、壊れた人間関係や失恋、苦い思いの癒しは時間を要することがあります。そのため、聖霊の助けが必要です。聖霊に頼れば、聖霊はあなたの心の中で確実に働いてくださいます。

また、教会の人々からの助けが必要かもしれません。教会はキリストの体です。そのため、問題があるときには私たちは互いに助け合います。(これが、私たちが教会を必要とする理由の一つです。)

しかし、完全になりたいのであれば、あなた自身が完全さを求め、イエス様を信頼し、イエス様が言われることに従うべきです。

その時、イエス様はその言葉に従う力を与え、あなたを癒してくださいます。

一方で、イエス様を信頼せず、自分の道を行き続けるなら、つまり罪の道を選び続けるなら、イエス様が乞食に警告されたように、あなたの人生はさらに困難になるでしょう。(ヨハネ5:14)

あなたはどのような選択をしますか。