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ヨハネの福音書 ヨハネ6章

躓かせる者

イエス様の話を聞いたとき、なぜユダヤ人は気分を害したのでしょうか。もしかすると、彼らはイエス様の言葉を誤解していた可能性があります。つまり、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。(ヨハネの福音書6:53-56)

もし、その言葉を文字通りに解釈するなら、誰でも面食らうでしょう。

とはいえ、子供のころから、ユダヤ人たちは獣や鳥を食べる前に、その血を注ぎ出さなくてはならないと教えられていました。つまり、血を食べては絶対にいけないと教えられていたのです。(レビ記17:10-14)

しかし、その時、イエス様は文字通りに話しておられたわけではありません。イエス様はたとえ話をされていたのです。

以前の記事で私はお伝えしましたが、イエス様の肉を食べるということは、イエス様のもとに来るという意味です。イエス様の血を飲むということは、イエス様を信じるという意味です。

そして、あなたがイエス様のもとに来て信じるなら、あなたは決して霊的に飢えることも渇くこともありません。(ヨハネ6:35)

とにかく、ユダヤ人たちはイエス様の言葉を文字通りに解釈したために機嫌を悪くしたのかもしれません。

とはいえ、もしかすると、彼らはイエス様の言葉を正しく理解していたものの、その言葉を受け入れることができなかったのかもしれません。つまり、永遠の命に至る唯一の道はイエス様しかないということです。

今でも、人々はその言葉を聞いて、「これはひどい言葉だ。そんなことを誰が聞いていられるだろうか」と言います。(60)

クリスチャンたちが、神様への道はキリストだけだと言うと、多くの人々がむっとします。だから時には、クリスチャンのリーダーたちでさえ、その真理を教えることをためらいます。

「まあ、多分イエス様は、自分がただ一つの道だと意味されたわけではないだろう。他にも方法があるのかもしれない。」

しかし、イエス様が「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言われたとき、それは本気でそうおっしゃったのです。

もしイエス様のもとに行かず、信じないなら、誰も永遠の命を受けることはできません。イエス様を拒絶する人には、裁きしかありません。

イエス様はユダヤ人たちにこう言われました。

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。(63)

つまり、「律法を守るあなた自身の努力を通して、あなたは天国に行こうとしています。ところが、その努力はむなしいものです。なぜなら、あなたの努力は足りないからです。

実は、あなたの良い行動は、神様の目には汚れた着物のように見えます。御霊だけがあなたたちに永遠の命を与えることができるのです。

けれども、あなたたちが私のもとに来て信じて初めて、御霊はその命を与えてくださいます。」

そして、イエス様はこう言われました。「わたしの言葉は霊的なものです。もし、あなたたちがその言葉を信じて初めて、命を与えられるのです。」(63)

しかし、多くの現代の人々のように、多くのユダヤ人たちはイエス様の言葉を拒絶し、立ち去ったのです。

ですから、イエス様が弟子たちに問いかけられたように、私たちにも問いかけておられます。

まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。(67)

ペテロのように答えましょう。

主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。

私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。(68-69)

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ヨハネの福音書 ヨハネ6章

本当のパンのために働く?

聖書の中では、これは本当に印象的な箇所の一つですが、少し難しい箇所でもあります。

イエス様が5000人にパンと魚を与えられた後、その群衆はイエス様を王にしようと思いました。そのため、イエス様はすぐにその場を立ち去られました。

彼らがイエス様を見つけると、イエス様は彼らを訓戒されました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。

なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。

この人の子を父すなわち神が認証されたからです。(ヨハネの福音書6:26-27)

要するに、「あなたたちは私を捜していましたが、あなたたちの動機は間違っています。あなたの霊的な必要を求めず、ただ物理的な必要を求めています。

私はあなたたちにパンを与えましたが、一時的なものを優先してはいけません。永遠の命に至るもののために働きなさい。」

そして、ユダヤ人たちはこう答えました。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」(28)

おそらく、彼らはこんな答えを予想していたでしょう。「聖書を覚えていなさい。十戒やほかの律法に従いなさい。」

なぜなら、彼らは律法学者たちやパリサイ人たちからそんなことをよく聞いていたからです。

しかし、イエス様は意外な答えを与えられました。

あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。(29)

つまり、「永遠の命を得るために私を信じなくてはなりません。ほかの方法はありません。律法によってあなたは永遠の命を得ることはできません。私を信じないなら、永遠の命を得られません」ということです。

ユダヤ人たちは、それを聞いて、少し違和感を覚えたかもしれません。だから、彼らは天からのしるしを求めました。

例えば、モーセはイスラエル人に天からのパンを与えてくれました。そのしるしによって、イスラエル人はモーセが神様のしもべだと分かりました。

けれども、イエス様は彼らの間違った考え方を訂正されました。モーセではなく、神様がイスラエル人にパンを与えてくださいました。

さらに、そのパンはただの象徴でした。つまり、神様は彼らに「まことのパン」を与えたいと思っておられました。その「まことのパン」は世の民に一時的な命を与えるのではなく、永遠の命を与えます。

そして、イエス様の次の言葉は彼らを驚かせました。

わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(ヨハネ6:35)

ところで、35節は6章の鍵です。イエス様は物理的なパンについて話しておられませんでした。(つまり、イエス様は聖餐式のパンについて話していたのではありません。)

だから、あなたがイエス様のもとに来てイエス様を信じたとしても、あなたはまだ毎日ご飯を食べなければなりません。イエス様は霊的なことについて話しておられるのです。

イエス様の肉を食べるということは、イエス様のもとに来るという意味です。イエス様の血を飲むということは、イエス様を信じるという意味です。35節を読めば、そのことが明らかになると思います。

もし、イエス様のもとに来てイエス様を信じるなら、神様との関係を持ち、あなたの霊的な飢えと渇きはなくなります。

6章を読むと、そのテーマを何度も見ることができます。

イエス様はユダヤ人の問題を指摘されました。

「私がまことのパンなのに、あなたたちは私をまだ信じていません。私の奇跡を見、私の教えを聞いたにもかかわらず、あなたたちは私をまだ信じていません。」(36)

けれども、イエス様は続けてこう言われました。

父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。(37)

また、

事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。(40)

また、

父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。(45)

また、

信じる者は永遠のいのちを持ちます。(47)

また、

わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら(つまり、私に来るなら)、永遠に生きます。

またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。(十字架で、イエス様は自分の体をささげたので、私たちは永遠の命を得ることができます。)(51)

また、

これは天から下って来たパンです。。。このパンを食べる者(つまり、私に来る者)は永遠に生きます。(58)

そして、イエス様はこう言われました。

人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ(私に来て、私を信じなければ)、あなたがたのうちに、いのちはありません。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者(私に来て、私を信じる者)は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。(53-54)

また、

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者(私に来て、私を信じる者)は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。(56)

最後に、イエス様はこう言われました。「物理的な食べ物は、結局虚しいものです。なぜなら、そんな食べ物は永遠の命を与えることができません。しかし、私の言葉を信じるなら、永遠の命を受けます。」(63)

私たちはこの箇所から何を学ぶことができるでしょうか。本当の満足を求めるなら、神様との関係が必要です。

けれども、そうするために、イエス様のもとに来て、イエス様とその十字架の働きを信じなければなりません。

あなたも、今日そうしませんか。

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イエス様を疑う?

この箇所を読むとき、いくつかのことが私の心を打ちます。

1つ目は、イエス様がご自身の人生のバランスを保たれたということです。周りの人々のニーズに応えるためにご自身のニーズを犠牲にされたこともありましたが、イエス様は天の父と共に過ごす時間を最優先されました。

もしイエス様がその時間を優先されたなら、私たちもそうすべきではないでしょうか。

いずれにせよ、イエス様が山におられる間、弟子たちが海で苦しんでいるのをご覧になりました。それでもイエス様は3時から6時ごろまで待ってから彼らのところに向かわれました。

同じように、私たちが苦しんでいても、イエス様は時に待っておられることがあります。それは、イエス様が私たちを見放したということではありません。イエス様は私たちを見守っておられるのです。

ただし、イエス様はその試練を許されます。なぜなら、イエス様はご自身が見えなくても、私たちがどれほど信頼しているかを知りたいからです。

弟子たちがイエス様のところから去ったとき、イエス様は「後で私は向こうで会います」と言われました。しかし、弟子たちが海で苦しんだとき、イエス様の言葉を覚え、信じていたのでしょうか。

そしてイエス様は湖の上を歩いて、彼らを通り過ぎようとされました。弟子たちがイエス様を見たとき、彼らは恐れて、イエス様を幽霊だと思いました。けれども、イエス様は彼らに言われました。「心配しないで。私だよ。」

ペテロはイエス様のところに行こうと思い、湖の上を歩き始めました。ところが、風と波を見たとき、ペテロはパニックになり沈み始めて、「主よ!助けて!」と叫びました。

イエス様は愛と恵みを持ってペテロを救われましたが、「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と言われました。

とはいえ、この話の最後を読むとき、薄い信仰を持っていたのはペテロだけではなかったことが分かります。イエス様が舟に乗り込まれると、風がすぐにやみました。弟子たちはそれを見て非常に驚きました。なぜでしょうか。

というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。(マルコ6:52)

その言葉は、私の心を何よりも強く打ちました。彼らはパンの奇跡の本当の意味を理解していませんでした。何がわからなかったのでしょうか。

1.イエス様が彼らを本当に愛しておられ、彼らのニーズに応えてくださること。

2.イエス様が彼らのニーズに応える力を持っておられること。

ペテロが海の上を歩いたとき、最初は全く問題ありませんでした。しかし、彼がイエス様から目を離し、周りの波や風を見たとき、困惑してしまいました。

どれほど私たちも同じことをしているでしょうか。私たちは自分の境遇に集中しすぎて、イエス様から目を離してしまい、イエス様の愛と力を忘れてしまうことがあります。その結果、私たちは疑って沈み始めるのです。

実際、私もそうしてしまうことがあります。だから、一緒に祈りませんか。

主よ。あなたは私のために多くのことをしてくださいました。私はあなたの善さを見ました。あなたの愛を感じました。あなたの力を経験しました。それなのになぜか、私はまだ疑っています。

どうか、私の信仰を強めてください。私の固い心を柔らかくしてください。私がパンの奇跡の意味を理解できるように助けてください。あなたの愛と力を深く理解できるようにしてください。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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私たちがあまり持っていなくても

私はこの話を一億回読んだかのように感じています。(もちろん、少し大げさですが。)

それでも、今回は新しいことに気づきました。

イエス様の弟子たちは、宣教の旅から戻ったばかりで、きっと疲れ果てていたことでしょう。そんな中、マルコの福音書には、こう記されています。

そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。(マルコ6:31)

とはいえ、おそらくもう一つの理由として、イエス様が弟子たちと一緒に寂しい所へ行きたがったのではないでしょうか。

イエスはこのこと(つまり、バプテスマのヨハネが殺されること)を聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。(マタイ14:13)

おそらく、イエス様はその出来事を聞かれた後、自分の安全を考えて寂しい場所に行かれたのだと思います。なぜなら、ヘロデ王がイエス様のことを耳にすると、イエス様を探し始めたからです。(ルカ9:9)

しかし、なぜイエス様は弟子たちだけと一緒に行きたがられたのでしょうか。

多くの場合、この点について深く考えることはありませんが、イエス様は100%神であると同時に、100%人間でもありました。

イエス様とヨハネがどれほど親しかったのかは分かりません。ただ、彼らが従兄弟であったことは確かです。もしかすると、子供の頃、一緒に遊んでいたこともあったかもしれません。

さらに、イエス様のミニストリーが始まった際、ヨハネがイエス様にバプテスマを授けられました。また、ヨハネが牢に入れられ、ひどく気落ちしていた時には、イエス様は彼を励まされました。

だからこそ、イエス様が「まあね。大丈夫。ヨハネは天国にいるからね。」とあっさり言われることはなかったのではないでしょうか。

むしろ、イエス様はヨハネの死を嘆きたかったのだと思います。さらにもう一つ覚えておいてください。イエス様の弟子たちの中には、もともとヨハネの弟子であった者が二人いたのです。(ヨハネ1:37)

おそらく、彼らもヨハネの死を嘆きたかったのではないでしょうか。

残念なことに、彼らにはそんな時間がありませんでした。大勢の人々がイエス様と弟子たちについて行き、イエス様とその弟子たちの疲れや悲しみを知らず、イエス様に自分たちの必要を満たすよう求めました。

もし私がイエス様だったなら、それを見て怒ったかもしれません。「出て行きなさい。私の友人の死を悼んでいることが分からないのか?」

せめて私はこう言ったかもしれません。「ごめんなさい。あなたと時間を過ごしたいけれど、今日は難しいです。明日来ていただけますか?」

しかし、イエス様は彼らを歓迎されました。(ルカ9:11)

それだけではなく、イエス様は一日中彼らと共におられました。

やがて日が暮れ始めた頃、弟子たちはイエス様のもとに来てこう言いました。「先生、もう遅いので、食事をするために、皆を帰らせた方が良いのではないでしょうか。」

これは、その群衆を帰らせる絶好の言い訳でした。けれども、イエス様はそうされませんでした。むしろ、イエス様は弟子たちにこう言われました。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物をあげなさい。」(マタイ14:16)

弟子たちは答えました。「でも、この人たちは多すぎます。私たちには到底無理です。」

そこでイエス様は尋ねられました。「あなたがたは何を持っていますか。」

弟子たちは言いました。「少ししかありません。」

イエス様は仰いました。「それを私に持ってきなさい。」

そして、イエス様はそのパンと魚を取り、祝福して、驚くべき奇跡を行われました。弟子たちだけでなく、その群衆も満腹するほど食べることができました。

それだけではなく、食べ物は多く余りました。

私は「新しいことに気づいた」と言いましたが、それは何でしょうか。

時々、私たちは疲れ果てたり傷ついているため、「自分には人々に与えるものが何もない」と考えることがあります。

けれども、神様が私たちにそのように行動するよう求められるなら、神様は相手の必要を満たすために私たちに必要なものを与えるだけではなく、私たち自身の必要も満たしてくださいます。そしてその満たしは限界ぎりぎりではなく、豊かに溢れるほどに与えられるのです。

ここでのキーフレーズは、「神様があなたに求められるとき」です。

神様は私たちにすべての人々の必要を満たすことを要求されるわけではありません。もし私たちがそれをしようとすれば、燃え尽きてしまうでしょう。

そのため、私たちはこう問いかけるべきです。「自分にはほとんど与えるものがないように思えるけれど、神様は私にその人たちに対して情け深い心を与えてくださっているだろうか?神様は私にその人たちに仕えるよう求めておられるだろうか?

それとも、ただ『これは私の義務だ。私はその人に触れなければならない』と感じているだけなのだろうか?」

もし、神様が情け深い心を与えておられず、あなたの心に語りかけておられないなら、あなたはその人を別の誰かに任せた方が良いかもしれません。

しかし、神様が「行きなさい」と語られるなら、神様はあなたの持っているものを取り、祝福し、相手の必要を満たすだけでなく、あなたの必要も豊かに満たしてくださるでしょう。