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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

救いの水

仮庵の祭りの最後の日に、多分、イエス様は祭司たちがシロアムの池からの水を祭壇に注いだ事を見たでしょう。周りの人々もそれを見て、こう歌いました。

あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。(イザヤ12:3)

でも多分、そのすぐ後、彼らはほかの声を聞いたでしょう。イエス様はこう叫びました。

だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネ7:37-38)

それはさすがイエス様でした。ユダヤ人たちはずっとその祭りをお祝いして、祭司たちはずっと水を祭壇に注いだけど、イエス様は彼らにその儀式の本当の意味を説明しました。

その前、人々がその儀式を見た時、彼らはエジプトからの救いを思い出しました。また、彼らは、その先祖が砂漠を渡ったとき、神様が岩から水を二回備えてくださったことを思い出しました。

だから、その儀式を通して、彼らは救いの喜びを思い出しました。その救いは、自分の努力によるものではなく、神様の備えによるものでした。

でも、彼らは一つのことを見逃していました。その岩を通して、神様は彼らにイエス様のことを描写しました。

パウロはこう書いた。

(イスラエル人の)みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。(第一コリント10-3-4)

だから、イエス様はユダヤ人たちにこう語られました。

「あなたたちは砂漠を歩いていたイスラエル人のように渇いているでしょうか。霊的な砂漠の中にいるのでしょうか。神様を慕いながらも、どうしても神様を見つけることができないのでしょうか。

それなら、私のもとに来なさい。私を信じなさい。(ヨハネ6:35を覚えているでしょう)。そうすれば、あなたの心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになるのです。」

では、イエス様が意味されたものは何だったのでしょうか。ヨハネがその意味を説明してくれます。

これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。

イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。(39)

つまり、私たちがイエス様のもとに来て信じるなら、御霊である神は私たちとともに住み、私たちのうちにおられるのです。(ヨハネ14:17)

そのため、私たちの霊的な渇きは満たされます。また、私たちの人生から御霊が流れ出し、周りの人々に触れるのです。だからこそ、毎日私たちが救いの泉から水を汲むことで、私たち自身が祝福されると同時に、周りの人々も祝福されます。

クリスチャンたちは、そのように生きるべきです。毎日、私たちは御霊から力を受けて、次第にキリストと同じかたちに姿を変えられていきます。(第二コリント3:18)

また、私たちは周りの人々に神様の救いを延べ伝えます。そして、その中で喜びを知るのです。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

聖書を正しく解約する?

前回の記事で、私たちはイエス様がユダヤ人たちに、外見によって裁くことをしないように警告されたことを見ました。

一つ目の理由は、多くのユダヤ人たちが、イエス様があまり教育を受けていないと思い、イエス様の教えを拒絶したことです。

けれども、ユダヤ人たちにはもう一つの問題がありました。それは彼らの聖書の解釈が間違っていたことです。彼らは、安息日に人々を癒すことが罪であると思っていました。なぜなら、彼らは癒すことを仕事だと考えたからです。

しかし、彼らが注意深く聖書を読んでいたなら、安息日に善を行うことが常に正しいと気づいたでしょう。(マタイ12:12)

時には、クリスチャンたちも同じような過ちを犯します。彼らは聖書を読んでいますが、その解釈が間違っていることがあります。なぜそうなるのでしょうか。

時には、その箇所の前後を見逃してしまうことがあります。また、聖書全体のメッセージを理解していない場合もあるかもしれません。

例えば、ヨハネ6章で、イエス様はこう言われました。

人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。(ヨハネ6:53)

その前後を読まないと、それはかなりグロテスクな言葉に聞こえます。けれども、その前後を読むと、私たちはイエス様の意味が分かります。イエス様はたとえを使っておられました。

つまり、もし私たちがイエス様のもとに来て、イエス様を信じるなら、私たちは永遠の命を得るということです。(その箇所についてもっと知りたいなら、ここをクリックしてください。)

私が大学生の時、友達が別の箇所を誤って解釈したことがありました。マタイ26章では、(マルタの妹)マリヤがイエス様の頭にとても高価な香油を注ぎ、イエス様の足に塗りました。すると、弟子たちはマリヤを批判し、こう言いました。

何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。(マタイ26:8-9)

でも、イエス様はこう言われました。

貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。(マタイ26:11)

私の友達がその言葉を読んだとき、こう言いました。「イエス様は本当に偉そうな態度を取っていたね。彼は自分が貧しい者よりも偉いと思っていたから。」

しかし、友達は二つのことを見逃していました。

一つ目は、ヨハネの福音書によれば、最初にマリヤを批判したのはユダであるということです。実際には、ユダは貧しい者を愛していませんでした。むしろ、彼は貧しい者のための寄付されたお金をしばしば盗んでいました。(ヨハネ12:6)

二つ目は、イエス様が申命記から引用されていたということです。

貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。

「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」(申命記15:11)

だから、イエス様の要点は、貧しい者が重要ではないというわけではありませんでした。イエス様が言われたのはこういうことです。

「貧しい者はいつもあなたたちと一緒にいるのだから、これまで通り助け続けるべきです。とはいえ、私に対する愛を示す機会はすぐになくなります。マリヤはその機会を活用しました。だから、彼女を批判してはいけません。」

そのため、イエス様は偉そうな態度を取られたのではありません。イエス様はマリヤを偽善者による批判から守られたのです。

しかし、聖書の前後を読まなければ、私たちはイエス様の言葉を誤解してしまうかもしれません。

そのため、聖書を読むときは注意を払いましょう。聖書の箇所を読むときは、その前後をしっかりと読みましょう。また、自分が好きな箇所だけを読むのではなく、聖書全体を読むことが大切です。

そうすれば、正確に聖書を解釈することができるようになります。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

人々を正しく裁く?

この箇所では、イエス様は人々を裁くことについて話されています。イエス様はユダヤ人たちにこう言われました。

うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。(ヨハネの福音書7:24)

どうしてイエス様は彼らにそう言われたのでしょうか。二つの理由がありました。

今日、まず一つ目の理由を見ていきたいと思います。

一つ目の理由は、ユダヤ人たちがイエス様についてこう言ったことです。

この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。(7:15)

要するに、「彼はただの大工です。彼はれっきとした学者ではありません。どうして私たちは彼の言葉に耳を傾けるべきでしょうか。」ということです。

そのため、彼らはイエス様の権威を拒絶し、イエス様の言葉を受け入れることをしませんでした。

私たちも、相手の外見や教育や背景によって、牧師や聖書を教える人を裁いてしまうことは簡単にできます。

その人が特別に賢く見えず、ごく普通の人であり、正式な聖書の教育を受けたことがないかもしれません。それでも、私たちが心を開いてよく聞けば、神様はそのような人々を通しても私たちに語ってくださることができます。

それだけではありません。私はただ牧師について話しているのではありません。もし御霊がその人の中に宿っているのであれば、神様は小さい子供を通してさえ語ってくださることができます。

けれども、私たちはしばしば相手の見かけで裁いてしまい、その結果、神様の言葉を聞き逃してしまうことがあります。

反対に、カリスマ性があり、話すのが上手な人もいます。しかし、もし私たちがその人の教えに従うなら、間違った道へ導かれてしまうこともあります。

ですから、外見だけで(良い場合も悪い場合も)人々を裁かないようにしましょう。むしろ、彼らが語る内容に注意深く耳を傾け、その人生に御霊の働きがあるかどうかを見極めましょう。

時には、神様が用いられる人々を見て、私たちは驚かされることがあります。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

私たちは誰に仕えているでしょうか

この箇所を読んだとき、この言葉は私の心を打ちました。なぜなら、私は神様のみ言葉を教えているからです。

わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。

自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。(ヨハネの福音書7:16-18)

この箇所を読むと、私は自分自身にこう問いかけます。「私の教えはどこから来るのだろうか。私自身から来るのだろうか。それとも、神様から来るのだろうか。

私が日曜日にメッセージを伝えるとき、それは私の栄光のためだろうか。私は教会の人々を感動させたいと思っているのだろうか。それとも、人々が神様に栄光を帰すよう願っているのだろうか。」

私たちクリスチャンは真理を伝える者であるべきです。そして、私たちには偽りがあってはなりません。牧師や聖書を教える者だけでなく、すべてのクリスチャンが真理を伝える者であるべきです。

しかし、真理を語る者になりたいなら、私たちは誰に仕えるのか決める必要があります。また、誰の栄光を求めるのか決める必要があります。

私たちは自分自身の栄光を求めているのでしょうか。それとも、神様の栄光を求めているのでしょうか。私たちは本当に神様に仕えているのでしょうか。それとも、口先で神様の名前を讃えているだけで、実際には自分自身に仕えているのでしょうか。

もし私たちが自分自身の栄光を求めているなら、または周囲の人々からの誉れを求めているなら、神様の福音を薄めてしまう誘惑に直面することになります。そして、もしかすると福音をまったく伝えない選択をしてしまうかもしれません。

あるいは、私たちはパリサイ人のようになってしまうかもしれません。表面上は神様に仕えているふりをしながら、実際には人々からの栄光を求めているのです。

あなたは誰に仕えていますか。あなたは誰の栄光を求めていますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

イエス様は誰でしょうか

以前、イエス様は弟子たちに「私が誰だと思うか」と問いかけられました。(マタイ16:13)

この箇所では、ほかのユダヤ人たちがエルサレムで同じ質問に直面しました。

いろいろな意見がありました。

「イエス様は良い人だ。」

「イエス様は預言者だ。」

「違う。イエス様は群衆を惑わしている。彼は悪霊につかれている。」

「いや、メシアじゃないでしょうか。」

どうしてユダヤ人たちはそんなに混乱していたのでしょうか。

一つの理由は、彼らが「メシア」、つまり「キリスト」がどんな方であるかを誤解していたからです。

彼らはキリストが奇跡的に現れると思っていました。けれども、彼らはイエス様の家族を知っていると思い込んでいました。(ただし、その話の全てを理解していたわけではありません)。

それに、イエス様は律法学者のように特別な教育を受けていませんでした。

もう一つの理由は、イエス様が律法学者の伝統を何度も破ったことです。例えば、安息日にイエス様は人々を癒しました。

イエス様は安息日に良いことをするのは合法であると教えましたが、彼らは自分たちの伝統を手放すことができませんでした。彼らは自分たちが律法をよく知っていると思い込んでいたため、その大工の意見を受け入れることができなかったのです。

三つ目の理由は、ユダヤ人のリーダーたちが律法をよく知っていると思っていたものの、実際には多くのことを見逃していたからです。そのため、ニコデモがイエス様を擁護しようとした際、彼らはこう答えました。

あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。(ヨハネの福音書7:52)

けれども、イザヤ書9章には、キリストがガリラヤで現れることが書かれています。

とはいえ、イエス様は最も大切な理由を伝えられます。

だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。(17)

つまり、あなたが心から神様を求めるなら、神様を見つけることができます。そして、イエス様を見るなら、イエス様がキリストであることを理解します。けれども、心から神様を求めなければ、その真理を理解することはできません。

パリサイ人たちは宗教的な熱心を持っていましたが、同時にプライドを持ち、偽善者でした。彼らは神様を求めているように見えましたが、実際には人間の喝采を求めていました。そのため、彼らはイエス様を見ても、イエス様を認めませんでした。

その一方、神様を求める人々は真理を見ることができました。なぜなら、彼らは神様の前にへりくだったからです。

あなたはどうでしょうか。あなたはまだイエス様が誰なのか疑問に思っていますか。自分のプライドを捨ててください。神様に関するあなた自身の意見を捨ててください。

お金よりも、自分の幸せよりも、すべてよりも、神様を求めてください。そうすれば、あなたの混乱がなくなり、神様はご自身をあなたに現わしてくださいます。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章 ルカの福音書 ルカ9章

裁きの時間。憐れみの時間。

前回の記事でも書きましたが、私たちが真理を伝えると、私たちを憎む人もいます。

とはいえ、真理を伝えると同時に、私たちの態度と言葉遣いに注意しなくてはなりません。

この箇所では、その理由をはっきり見ることができます。

仮庵祭りのため、イエス様の兄弟たちは先にエルサレムへ向かいましたが、イエス様はしばらくとどまられました。どのくらい待たれたのかは分かりませんが、結局イエス様もエルサレムへ向かわれました。

この時から、イエス様のミニストリーのほとんどはユダヤとエルサレムで行われました。そして、十字架で死なれるまで、あと6っか月ほどの時間しか残されていませんでした。

けれでも、エルサレムへ向かう前に、イエス様は再びサマリヤを通ることを選ばれました。イエス様は以前に一度サマリヤを訪れ、そのとき多くのサマリヤ人がイエス様を受け入れ、信じました。(ヨハネ4章)

ところが、今回は、サマリヤ人たちはイエス様を拒絶しました。その理由は、イエス様がエルサレムへ向かっていたからです。

サマリヤ人とユダヤ人の間にはまだ深い敵意が残っていました。サマリヤ人たちはユダヤ人の祭りで歓迎されることがなかったため、イエス様がその祭りへ向かうと知ると、彼らはイエス様を拒絶したのです。

イエス様の弟子たちは、このサマリヤ人たちの反応を見て激怒しました。サマリヤ人たちはイエス様から何も受けるに値しないのにもかかわらず、イエス様は彼らを訪ねようとされました。それにもかかわらず、サマリヤ人たちはイエス様を拒絶したのです。

他の町に住むサマリヤ人たちがイエス様を受け入れたことで、弟子たちは彼らに対して寛容な態度を取るようになりました。

けれども、この町の人々がイエス様を拒絶したとき、ヤコブとヨハネはイエス様にこう申し出ました。

主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。(ルカの福音書9:54)

おそらく、彼らはエリヤの話を思い浮かべていたのでしょう。エリヤが軽蔑されたとき、天から火を呼び下し、その人々を滅ぼしたという出来事です。(列王記第二1章)

しかし、イエス様は彼らを叱責されました。

なぜでしょうか。おそらく、裁きの時はまだ来ていなかったからです。イエス様は人々を救うために来られました。(ヨハネ3:17)

私たちは、イエス様の心を持つべきです。もちろん、イエス様を拒絶する人々に対して、いつか裁きの日が来ます。

とはいえ、その日はまだ来ていません。その日が来るまで、私たちは彼らの救いのために祈り、働く必要があります。そして、愛をもってイエス様が与えてくださった真理を伝えなければなりません。そのとき、神様の恵みによって人々は救われるのです。

周囲の人々の罪がどれほど酷くても、彼らが滅びることを私たちは喜ぶべきではありません。

イエス様もそのようなことを喜ばれません。彼らが永遠の命を得るために、イエス様は十字架で命を捧げられたのです。

罪人に対して、私たちはイエス様の心を持っているでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

真理を言うとき

昨日もこの個所について書きましたが、また別のことが私の心を打ちました。

時に、私たちが人々に神様の真理を伝えると、相手にむっとされることがあります。その人が真理を信じず、私たちを憎むことさえあるかもしれません。

イエス様も、そうした不信と憎しみを経験されました。イエス様の兄弟たちでさえ、イエス様を信じず、からかったのです。

そのため、イエス様は彼らにこう言われました。

世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。(ヨハネの福音書7:7)

現代のアメリカでは、クリスチャンたちが同性愛は罪であると言うと、多くの人々は「あなたの心は狭い。あなたは偏屈だ」と言います。

イエス様はこの箇所で、そのことについて警告されました。私たちは世の中で、その行いが悪いことを証しするなら、憎まれ、迫害されることがあります。

以前私が言ったように、真理を伝えるには正しい方法と悪い方法があります。私たちは相手を憎まず、愛をもって真理を伝えるべきです。

私の娘が4歳の時、私はよくこう言いました。「危ないよ。駐車場や道に飛び出してはいけない。車に轢かれるよ。」

どうして私はそう言ったのでしょうか。それは娘を愛しているからです。

人々を彼らの罪のゆえに警告するとき、私たちもそんな態度を取るべきです。その罪が本当に酷いものでも、私たちは彼らを軽蔑せず、憎むべきではありません。

むしろ、彼らが悔い改めて救われることを願うべきです。そして、彼らが神様の恵みと憐れみを知ることを願うべきです。

しかし、愛をもって真理を伝えても、私たちが憎まれる場合もあります。イエス様は完全な神の子でした。それでも、人々はイエス様を信じず、憎み、イエス様を十字架で殺しました。

私たちは違う反応を期待するべきでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

天の父のスケジュールに従う?

イエス様が5000人にパンを与えられた奇跡の後、さらに多くの弟子たちがイエス様を拒絶した後、イエス様はユダヤとエルサレムをしばらく避けられました。

けれども、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていました。そのため、多くのユダヤ人たちがエルサレムに向かって行きました。その時、イエス様の兄弟たちはイエス様にこう言いました。

「あなたは、ずっとエルサレムを避けていたでしょう?本当に有名になりたいなら、エルサレムに行くべきです。そこで奇跡を行う方がいいでしょう。家に隠れていては、有名になることはありませんよ。」

しかし、その言葉には大変皮肉な意図が込められていました。ヨハネはこう記しています。

兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。(ヨハネの福音書7:5)

イエス様は兄弟たちにこう言われました。

わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。。。

あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。(6-8)

要するに、「私はあなたのスケジュールに従いません。実は、私は自分のスケジュールに従いません。私の天の父のスケジュールに従います。」ということです。

だから、自分の兄弟たちは祭りに行きましたが、イエス様は天の父のタイミングを待っておられました。

多くの人々は、自分のスケジュールに従います。時々、彼らは無理やり相手の日程に従わせられてしまいます。

けれども、私たちクリスチャンはイエス様の模範に従うべきです。私たちは天の父の声を聞き、天の父が決めたスケジュールに従うべきです。

正直に言えば、私はしばしば自分のスケジュールに従うことで、神様の働きを見逃してしまうでしょう。

私には、しなくてはならないことがいろいろありますが、神様は私のところにいろいろな人々を導きます。それでも、私はしばしば立ち止まらず、話しもせずに、軽く挨拶だけして通り過ぎてしまいます。

もしかしたら、相手が私に気づかなければ、私は挨拶すらしないかもしれません。けれども、歩きながら、「しまった。あの人と話した方がよかったのに。機会を見逃したのではないか」と思うのです。

あなたはどうでしょうか。誰のスケジュールに従っていますか。あなたのスケジュールを脇に置いて、天の父のスケジュールに従いますか。それとも、自分のスケジュールに集中しすぎて、神様の働きを見逃しますか。