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ヨハネの福音書 ヨハネ8章

あなたは誰の子でしょうか。

この箇所では、ユダヤ人たちとイエス様は痛烈な会話をしました。その会話では、一番大切な質問は、「あなたが誰の子でしょうか」ということでした。

イエス様がこの世に生きている間、ユダヤ人たちはイエス様の父親を疑ったでしょう。

多分、彼らは「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。」と言ったとき、「でも、イエスは不品行によって生まれた人だ」と内心、思っていたでしょう。

なぜなら、マリヤとヨセフが結婚する前に、マリヤが妊娠したからです。もちろん、周りの人々は聖霊の力によってマリヤが妊娠したことを信じませんでした。だから、イエス様の実のお父さんに関して、いろんな噂がありました。

しかし、元の質問に戻りましょう。あなたは誰の子でしょうか。

イエス様は、本当の神の子の特質について教えました。つまり、彼らはアブラハムのようにふるまうことです。(ヨハネの福音書8:39)

アブラハムはどのようにふるまったでしょうか。

1.アブラハムは、神様を完全に信じました。(創世記15:6)

2.アブラハムは信仰のゆえに行動しました。だから、彼は自分の地元を去り、神様が約束した土地に行きました。

それに加え、神様が「イサクをいけにえとしてささげなさい」と命じられたとき、アブラハムはその命令に従おうと思いました。(もちろん、アブラハムがイサクを殺す前に、神様はアブラハムを止められました。)

3.アブラハムは神様の言葉を受け入れました。神様が話されたとき、アブラハムは聞きました。神様の子は真理の子です。

つまり、彼らは真理を愛して持ち続ける者です。たとえ真理が自分にとって痛くても、彼らは自分の耳を閉じません。むしろ、彼らはその真理を聞き従うことで成長します。(8:44-47)

4.神様の子の最後の特質は、イエス様を愛しているので、イエス様に従うことです。(42)

イエス様は私たちの罪のために十字架で死んでくださいました。だから、私たちがイエス様を愛することは当然のことです。

しかし、この話では、ユダヤ人たちはその特質を持っていませんでした。だから、彼らの本当の父親が誰であるかがわかります。

あなたはどうですか。あなたは誰の子でしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ8章

人々を開放する真理

時々、人々は「キリスト教のルール」を見て、束縛されるように感じます。だから、彼らはこう思います。「私がそのルールに従うなら、私は人生を楽しめない。」

しかし、イエス様の言葉は私たちを束縛するためのものではなく、私たちを解放するためです。だから、イエス様はユダヤ人たちにこう言われました。

もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネの福音書8:31-32)

それを聞いて、多くの現代の人たちはそのユダヤ人たちのように反応します。

私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、「あなたがたは自由になる」と言われるのですか。(33)

現代では、多くの人々はこう言います。「私は日本人です。(または、アメリカ人などです)。私は奴隷じゃない。私は好きなように生きられます。「あなたが自由になる」って、どういう意味でしょうか。」

けれども、イエス様は私たちにこう言われます。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるのではありません。

しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。(34-36)

多くの人々は、自分の良心から解放されて、罪を好きなだけ犯せば、それは本当の自由だと思います。

ところが、事実は、最初は彼らが罪を犯すことを選んでも、最終的に彼らは罪の奴隷になることです。彼らはもうその罪を犯したくなくても、自分自身を止められません。ポルノの中毒とか、ギャンブル中毒とか、アルコール中毒とか、いろんな例があります。

それだけではなく、多くの人々は苦々しい思いの奴隷です。

または、彼らは自分の悪い習慣の奴隷のゆえに、自分の結婚や人間関係を壊しますが、その習慣を捨てられません。

しかし、私たちがイエス様に従うと、イエス様は私たちを解放してくださいます。

私たちは自分の人生を滅ぼすものに鎖で縛られていましたが、イエス様はその鎖を壊して、より優れた道を示してくださいます。それだけではなく、その道を歩む力を与えてくださいます。

イエス様は「しなさい」だけを言われません。むしろ、イエス様はこう言われます。「私の手を取ってください。一歩一歩、一緒に進みましょう。」

そして、私たちは少しずつ変わりつつあり、気がつけば、私たちは完全に解放されていました。

あなたはどうですか。もうあきらめてこう言っているでしょうか。「もう無理です。私はこの罪をやめられない。その罪が私の人間関係や私の人生を壊しているのに、やめられない。」

イエス様はあなたを解放できます。ただし、あなたはイエス様の助けを求めなくてはいけません。

「イエス様、あなたが私を愛して、私の最善を望んでおられることを信じます。だから、私はあなたの道を行きたいです。助けてください。」

そうすれば、あなたの人間関係やあなたの人生は癒されます。そして、あなたは本当の自由を知ります。

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ヨハネの福音書 ヨハネ8章

光と命を与える方

この世では、多くの人々が道に迷っています。つまり、彼らは良い人生や良い結婚、良い仕事、そして何にも増して喜びと平和を求めていますが、なぜかそれらを見つけられません。

アダムとエバがエデンから追い出されて以来、人々はそのように生きてきました。

そして、イエス様は来て、こう宣言されました。

わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。(ヨハネ8:12)

要するに、「良い人生を求めているでしょうか。喜びと平和に満ちている人生を求めているでしょうか。どうやってそんな人生を得ることか分からないので、あなたは暗中模索しているでしょうか。

私のところに来なさい。私はあなたに光を与えます。あなたはもう暗闇に躓きません。むしろあなたは、本当の命を見つけます。」

けれども、パリサイ人たちや律法学者のように、多くの人々はイエス様の資格を疑います。イエス様はどなたでしょうか。どうしてイエス様がそんなことを言う権利を持っているのでしょうか。

もしイエス様がただの人間なら、そんな権利を持っていないでしょう。なぜなら、人間の知識には限界があるからです。

しかし、イエス様は人間であるばかりではありません。イエス様は神です。

だから、イエス様はユダヤ人たちにこう言われました。

あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。(ヨハネ8:56)

ユダヤ人たちは、それを聞いて驚きました。そして、彼らはこう答えました。

あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。(57)

そして、イエス様はこう言われました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。(58)

イエス様が意味したものは何ですか。イエス様はユダヤ人に出エジプト記3章を示されました。神様がご自身をモーセに現した時、モーセは神様の名前を尋ねました。神様はこう答えられました。

わたしは、「わたしはある」という者である。。。あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。「わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた」と。(出エジプト記3:14)

つまり、神様は永遠の方であることです。過去でも、今でも、未来でも、神様は変わりません。そして、神様以外に、ほかの神がおられません。

新改訳では、イエス様が何をしたか見えませんけど、原文では(また英語の翻訳では)私たちがはっきり見えるのは、イエス様が神様の名前を自分自身に当てはめたことです。イエス様は「私は永遠の神です」と言われました。

ユダヤ人たちはそれを聞いて、イエス様の言葉がよくわかりました。だから、彼らは石を取ってイエス様に投げつけようとしました。なぜなら、彼らはイエス様の主張を信じなかったから。そして、ただの人間が「私は神だ」と言うなら、それは死に値する罪でした。

あなたはどうですか。イエス様が誰だと思うでしょうか。イエス様はただの人間だったでしょうか。預言者だったでしょうか。もしかすると、素晴らしい先生だったでしょうか。

もしそうなら、あなたはイエス様の言葉をあっさりと拒絶することができます。

けれども、イエス様が本当に神様なら、あなたはイエス様の言葉を重視しなくてはなりません。なぜなら、もしあなたの人生に光を見つけたいなら、イエス様だけを通して、あなたはその光を見つけることができるからです。

さらに、イエス様を拒絶するなら、あなたは死だけを知ります。あなたの体も死ぬし、あなたは永遠に神様から離れます。その暗闇で、あなたには苦しみと悲しみだけが残ります。

イエス様はこう言われました。

もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。(ヨハネ8:24)

あなたはイエス様が神であることを信じているでしょうか。それだけではなく、あなたはイエス様に従っているでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ8章

わたしはあなたを罪に定めない。行きなさい。

私はこの話が大好きです。

イエス様は宮で教えておられます。多くの人々がイエス様を取り囲み、その教えに耳を傾けています。けれども、突然、パリサイ人たちと律法学者たちがイエス様のもとにやって来ました。

彼らは一人の女性を連れてきて、イエス様の足元に彼女を押し付けます。おそらく彼女は泣きながら、その目には恐怖が溢れていたことでしょう。

すると、一人のパリサイ人がこう言いました。

先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。(ヨハネの福音書8:4-5)

しかし、イエス様が彼らの目を見たとき、その心を見抜かれました。彼らは、その女性の罪に驚き、どうすればよいかわからなくて困っていたわけではありませんでした。

むしろ、彼らはイエス様に何か言わせて、罠に陥れようと考えていたのです。

例えば、イエス様が「彼女に石を投げなさい」と言えば、彼らはその言葉をローマ人たちに伝えていたでしょう。なぜなら、ローマ帝国の律法では、死刑を執行できるのはローマ政府だけだったからです。

また、イエス様が「罪人の友達」として知られていたにもかかわらず、そのような言葉を発したなら、罪人たちはイエス様を遠ざけたかもしれません。

一方で、イエス様が「その女性を逃せ」と言えば、パリサイ人たちは「イエス様はモーセの律法に反対している」と非難できたでしょう。その結果、人々はイエス様の言葉を信じなくなった可能性があります。

いずれにせよ、イエス様は彼らに直接答えず、指で地面に何かを書き始められました。つまり、イエス様は彼らを無視されたのです。

当然、彼らは腹を立て、イエス様に向かって叫びました。「おい、私たちを無視するな。答えろ。この女性は重大な罪を犯したのだ。どうすればいいか答えろ。」

ついに、イエス様は立ち上がり、彼らにこうおっしゃいました。「それなら、彼女に石を投げなさい。」

おそらく、これを聞いて彼らは微笑み始めたかもしれません。しかし、イエス様は続けてこう言われました。

あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。(7)

そして、イエス様はもう一度地面に書き始めました。何を書いたのでしょうか。

私はわかりませんが、時々「書く」という言葉には、「人の罪を書き留める」というニュアンスがあります。だから、もしかしたらイエス様は彼らの名前と罪を書き留められたかもしれません。

もし、誰かが皆の前であなたの名前と隠した罪を書き留めたら、あなたはどうしますか。おそらく、パリサイ人たちや律法学者たちのように、あなたは逃げるでしょう。

結局、その女性だけがイエス様の前に残りました。そしてイエス様は彼女にこう訊ねられました。

婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。(10)

彼女が目を上げると、誰もいませんでした。彼女は驚いて、こう答えました。

{主よ。}だれもいません。(11)

おそらく、イエス様は微笑まれました。そして、イエス様はこう言われました。

わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。(11b)

時々、私たちは鏡をのぞくと、こう思います。「どうして神様は私のことを愛しているだろうか。どうして私を受け入れるだろうか。」

なぜなら、私たちは自分の罪を目にし、私たちの人生はめちゃくちゃだからです。

けれども、イエス様は私たちにこう言われます。「わたしはあなたを罪に定めない。」

それだけではなく、イエス様はこう言われます。

「あなたの後悔に浸るな。いつも振り返るのをやめなさい。あなたはもう赦されたから。

そして、あなたの人生を壊した罪を捨てなさい。行きなさい。私はあなたの人生のすべてを新しくします。私の死によって、あなたには新しい人生があります。その新しい人生を送りなさい。」

あなたの後悔で思い詰めているでしょうか。あなたに対する神様の愛と赦しを疑うでしょうか。この言葉を覚えていてください。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。」

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5:17)