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ヨハネの福音書 ヨハネ9章

もう学ぶ必要がないを思うと

この箇所では、強烈な皮肉があります。

生まれつき盲目の人はイエス様をキリストとして認識したため、イエス様を拝みました。

一方で、ずっと見える目を持つ人たちは、イエス様を見ても、イエス様がキリストであることを認めませんでした。

さらに、彼らはイエス様の奇跡を目にしましたし、イエス様と論じようとするたびにいつも負けました。それでも彼らはイエス様を信じませんでした。

どうして彼らは真理を見ることができなかったのでしょうか。それは、彼らが自分はすでに真理を知っていると思っていたからです。

彼らは律法と預言者の書をよく知っており、若い頃からその知識を誇っていました。そのため、イエス様が来て彼らの誤った考え方を暴露したとき、彼らはその考えを手放すことができませんでした。自分が間違っていると認めることができなかったのです。

イエス様はこう言われました。

わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。(ヨハネの福音書9:39)

イエス様が意味されたことは何だったのでしょうか。イエス様に会うと、人々は分かれ目に立つことになります。もし彼らがへりくだり、イエス様を受け入れるなら、彼らの霊的な目が開かれ、救いを得るでしょう。

しかし、もし彼らが自分のプライドを手放さず、すでに真理を知っていると思うなら、イエス様に関する真理を見ることはできません。それは、彼らがその真理に目をつぶってしまうからです。

パリサイ人たちがしたのはまさにそれでした。彼らはイエス様にこう尋ねました。

私たちも盲目なのですか。(40)

現代でも、多くの人々はこう尋ねます。「私が盲目だって?私にはいい学歴がある。私には、いろんな経験がある。私はもうこの世のことを知っている。」

けれども、イエス様はこう答えられます。

もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。(41)

要するに、イエス様は彼らにこう言われていたのです。

「はい、あなたは盲目です。もし、あなたが謙遜で、助けを求め、自分の目が見えないと認めるなら、神様はあなたの罪を赦してくださるでしょう。

けれども、もしあなたがすでに真理を知っていると思い、あなたのプライドのために私の真理を拒絶するなら、あなたの罪は残るのです。」

あなたはどうですか。もう学ぶ必要がないと思いますか。それとも、あなたはへりくだり、イエス様の真理を受け入れますか。イエス様自身が真理であることを信じますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ9章

救い

イエス様が生まれつき盲目の人を癒されたとき、ユダヤ人たちは驚きました。

しかし、この話を通して、私たちはもう一つのことを見ることができます。それは、美しい救いの描写です。

この話では、その人は生まれてからずっと目が不自由でした。同じように、私たちも生まれてから霊的に盲目であり、霊的に死んでいました。

そして、イエス様は私たちを見つけてくださいました。この話では、盲目の人はイエス様を求めていませんでした。むしろ、イエス様はその人を見つけ、触れてくださいました。

同じように、私たちが神様を求めていなかったのに、神様は私たちを見つけて、触れてくださいました。

さらに、イエス様はその人にこう言われました。「行って、シロアムの池で洗いなさい。」

そのように、神様は霊的なバプテスマを通して私たちの罪を清めてくださいました。そして、私たちの洗礼式を通じて、私たちは周りの人々に神様が私たちのために何をしてくださったかを宣言します。

その人の目が癒されたのは、本当に劇的な変化でした。そのため、周りの人々は彼のことをほとんど認識できませんでした。彼らはこう言いました。

これはすわって物ごいをしていた人ではないか。(ヨハネの福音書9:8)

ある人は、「これはその人だ」と言いました。けれども、ほかの人は、「そうじゃない。ただその人に似ているだけだ」と言いました。(9)

しかし、その人は言い張りました。「私がその人です。」

時々、私たちがクリスチャンになると、周りの人々がユダヤ人たちのように反応します。私たちが劇的な変化を経験するので、周りの人々は私たちを見て驚きます。「あなたは全然違う人みたいです。どうして。」

その時、私たちには、彼らに神様が私たちのために何をしてくださったかを伝える機会があります。

また、時間が経つにつれて、私たちはイエス様のことをもっと深く理解するようになります。この話では、癒された人にとっていろんな段階がありました。

「彼はイエスという方です。」

さらに、「あの方は預言者です。」

そして、最後に、「あなたは人の子(つまり、メシア、王、救い主)です。」

私たちは自分のあかしを言うかもしれませんし、相手が私たちの変化を否定できないかもしれません。それでも、彼らはキリストだけではなく、私たちをも拒絶する可能性があります。

この話では、癒された人も同じ経験をしました。パリサイ人たちは、その人にイエス様が罪人であることを説得しようとしました。けれども、その人が彼らの主張を否定すると、彼らはその人を拒絶しました。

それでも、その人の信仰は揺らぎませんでした。イエス様がもう一度彼を見つけたとき、その人はひれ伏してイエス様を拝みました。なぜなら、彼は新しい命を受けていたからです。

私たちもその人のように反応しましょう。

神様が私たちのためにしてくださったことに感謝し、大胆に周りの人々に私たちのあかしを伝えましょう。反対されても、勇気を持って恐れに屈することのないように。そして、毎日私たちの救い主を求め、礼拝しましょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ9章

どうして私にそんなことが起こったのだろうか

時々、私たちに悪いことが起こると、私たちは「どうして?神様は私を罰しているのだろうか」と尋ねます。

実際、時々私たちの罪のために、神様は私たちが苦しむことを許されます。とはいえ、多くの場合、神様は積極的に私たちを罰しておられるのではありません。むしろ、私たちは自分の罪の自然の結果を受けるのです。

あなたがクリスチャンであり、神様があなたを赦してくださったかもしれませんが、この世において、罪の結果を避けられるとは限りません。多くの場合、私たちの罪のゆえに悪いことが起こります。

そして、神様がその罪の結果から私たちを守られないなら、私たちは神様を責めることができません。なぜなら、その苦しみによって、私たちは罪の悪さを理解できるようになるからです。

それは、私たちが聖くなる過程の一部です。その火を通して、神様は私たちを清めてくださいます。

とはいえ、私たちが罪を犯さなくても、私たちに悪いことが起こる場合もあります。

今日の箇所では、イエス様とその弟子たちは、生まれつき盲目の人を見ました。そして、弟子たちはイエス様にこう尋ねました。

先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。(ヨハネの福音書9:2)

その時代、多くの人々はこう考えていました。「あなたの体が不自由なら、それはあなたのせいです。神様があなたの罪のために罰しているのです。」

けれども、その人は生まれつき盲目でした。だから、弟子たちは混乱しました。「この人はご両親の罪のために盲目になったのでしょうか。それとも、もしかしたら子宮の中で、この人自身がなにか罪を犯したのでしょうか。」

すると、イエス様はこう答えられました。

この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(3)

イエス様が意味されたものは何だったのでしょうか。時々、私たちの苦しみは私たちの罪のためではありません。むしろ、神様は私たちを通して素晴らしいことをしようと思われるのです。

アメリカでは、ジョニー・エリクソン・タダという人がいます。彼女は十代の時にダイビング事故で四肢麻痺になりました。たくさんの人々が彼女のために祈りましたが、神様は彼女を癒されませんでした。

けれども、彼女を通して神様は多くの人々に触れられました。その事故が起こらなかったなら、ジョニーはそんな影響力を持つことはなかったでしょう。

神様は彼女を罰しておられませんでした。むしろ、彼女を通して神様のわざが現れたのです。

イエス様はこう言われました。

わたしが世にいる間、わたしは世の光です。(5)

イエス様は天国に戻られましたが、神様の栄光を現すために私たちの人生を照らしてくださいます。そして、私たちを通してイエス様は輝き、周りの人々に触れてくださいます。

だから、あなたが苦しんでいるなら、自己憐憫に浸らないでください。むしろ、このように祈りましょう。「神様、私を照らしてください。また私を通して、輝いてください。」

そうすれば、あなたの人生に神様の栄光が輝くでしょう。