カテゴリー
ルカの福音書 ルカ3章

私はあなたの御心に従っていると思ったのに

時々、私たちは自分の悪い決断によって苦しむことがあります。

たとえば、私が勤めていた会社が倒産しそうなのに、私はそこに留まり続けました。「なんとかなる」と思っていましたが、結局その会社は倒産し、私は失業しました。それは本当に愚かな決断でした。

しかし、時には私たちが神様の御心に従い続けているにもかかわらず、試練に直面することもあります。そして私たちは神様にこう訊きます。「どうしてですか?あなたの御心に従っていると思っていました。」

バプテスマのヨハネもそのように感じたかもしれません。

18節によれば、ヨハネは「多くのことを教えて、民衆に福音を知らせた」とあります。

また、彼は自分の弟子たちをイエス様のもとに向かわせて、「イエス様こそ、あなたが従うべき方です」と言いました。

さらに、ヨハネは予言者としての役割を忠実に果たし、人々の罪を指摘しました。その結果として、彼は苦しみました。

具体的には、ヘロデ・アンティパス王が兄弟の妻を自分の妻としたことをヨハネが非難したため、ヘロデはヨハネを牢に閉じ込めました。

この話の続きをいつかブログで書こうと思っていますが、ここで一つの質問を投げかけてみたいと思います。「どうして神様はこのようなことを許されたのでしょうか?」

ヨハネは牢に閉じ込められるような罪を犯したのでしょうか。そんなことはありません。

神様はヨハネを救うことができたでしょうか。はい、できました。

では、どうして神様はヨハネを救われなかったのでしょうか。それは私にはわかりません。

最終的に、私たちは神様を信頼しなくてはなりません。

私たちが神様に従っても、神様は気楽な人生を約束されません。私たちの人生がすべてうまくいくことを約束されるわけではありません。

イエス様は完璧な人だったのに、打たれて、十字架につけられました。イエス様は気楽な人生を送られることはありませんでした。もしイエス様がそんな人生を送られたなら、私たちが気楽な人生を期待する理由があるでしょうか。

ペテロはこう書きました。

罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。

けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。

あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。(第一ペテロ2:20-21)

私たちは何のために召されたのでしょうか。それは、イエス様のために苦しみを受けることです。

イエス様の足跡はどこに導くのでしょうか。それは苦しみに導きます。

誤解しないでください。私たちが苦しみを探すべきだというわけではありません。しかし、試練が訪れても驚いてはいけません。

もし試練が訪れるなら、ヘブル人への手紙の著者の言葉を心に留めておきましょう。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(ヘブル12:3)

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ4章 マルコの福音書 マルコ1章 ルカの福音書 ルカ4章

天の父に従う?

この箇所は本当に有名な聖書の話です。それは、イエス様が砂漠で誘惑される話です。

サタンからの誘惑に対するイエス様の反応は、私の心に深く響きます。イエス様が本当に天の父を信頼されたからです。

洗礼を受けられた後、イエス様は聖霊に満たされ、また聖霊に導かれて砂漠に行かれ、そこで40日間過ごされました。

だからこそ、サタンが来た時のイエス様の反応は特にふさわしいものだったと思います。サタンは三度イエス様を誘惑しましたが、イエス様が答えられた時、すべて申命記から引用されました。

なぜそれがふさわしかったのでしょうか。それは、イスラエル人が砂漠で40年間過ごした後に、モーセが申命記を書いたからです。そして、イエス様が誘惑された時、その言葉に従われたのです。

では、モーセは何を言ったのでしょうか。

あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。

それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。(申命記8:2-3)

天の父がイスラエル人を試すために彼らを砂漠に導かれたように、天の父はイエス様を試すために、彼を砂漠に導かれました。イスラエル人と同じように、イエス様も苦しみ、飢えを経験されました。

けれども、イスラエル人と違って、イエス様は文句を言わず、天の父がふさわしい時にイエス様の必要を備えてくださることを信じ続けられました。

サタンは言いました。「自分の力を使えばいいじゃないか?あなたの天の父はあなたの必要に備えていないじゃないか。もう40日間が経った。だから、この石をパンに変えたらどうだ?」

しかし、イエス様はサタンの薦めを拒絶されました。むしろ、イエス様は天の父がイエス様の必要に備えてくださることを信じ続けられました。

次に、サタンは聖書を引用してイエス様にこう言いました。「神殿の頂から身を投げてみなさい。天使たちはきっとあなたを救うでしょう。」

(サタンも聖書をよく知っています。だからこそ、私たちは聖書の箇所の前後をしっかりと読まなければなりません。)

けれども、イエス様は再びモーセの言葉を引用されました。

あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。(申命記6:16)

マサでは何が起こったのでしょうか。イスラエル人はもう一度神様を信頼しなかったため、文句を言いました。水を見つけることができなかったので、彼らは叫びました。「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」(出エジプト記17:7)

時々、私たちも同じ質問をします。私たちが苦しんでいる時、神様に「あなたは私と共におられるのですか、それともおられないのですか」と訊きます。

同じように、サタンはイエス様が天の父を疑うように誘惑しました。

「あなたの天の父は本当にあなたと共におられるでしょうか。天の父に仕えたいなら、そのことを確認した方がいいですよ。だから、神殿の頂から飛び降りてみなさい。もし天の父が本当にあなたと共におられるなら、あなたを救ってくださいます。」

けれども、イエス様は拒絶されました。それは、たとえイエス様に天の父が見えなかったとしても、天の父がイエス様と共におられることを信じておられたからです。

最後に、サタンはこう言いました。

もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。(マタイ4:9)

しかし、イエス様は再び拒絶されました。それは、イエス様が天の父に従うことを決心されていたからです。そこで、イエス様はこう答えられました。

引き下がれ、サタン。「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」と書いてある。(マタイ4:10/申命記6:13;10:20)

あなたは誰に従っているのでしょうか。天の父に従っているのでしょうか。天の父があなたと共におられることを信じていますか。天の父があなたの必要を備えてくださることを信じていますか。天の父を家族よりも、友達よりも、仕事よりも大切にしていますか。

あなたは誰に従っているのでしょうか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ3章 マルコの福音書 マルコ1章 ヨハネの福音書 ヨハネ1章 ルカの福音書 ルカ3章

天の父に愛され、御霊に満たされた人

バプテスマのヨハネが人々にバプテスマを授けていた時、イエス様もヨハネのもとを訪れ、バプテスマを受けることを求められました。彼らはいとこでしたが、ヨハネはイエス様について何を知っていたのでしょうか。

ヨハネの両親はイエス様について何を教えたのでしょうか。そして、神様はヨハネにイエス様についてどのようなことを示されたのでしょうか。

ヨハネは一人暮らしができる年齢になると、砂漠で生活を始めた可能性があります。そのため、イエス様を見た時に、イエス様を認識することができたのでしょうか。

もしかすると、ヨハネがイエス様を見た瞬間、イエス様が特別な存在であることを理解したのかもしれません。ヨハネはイエス様が悔い改めを必要としていないことに気づきました。それゆえ、彼はこう言ったのです。

私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。(マタイ3:14)

けれども、イエス様はこのように答えられました。

今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。(マタイ3:15)

どうしてイエス様はバプテスマを受ける必要があったのでしょうか。おそらく二つの理由が考えられます。

一つ目は、ヨハネがユダヤ人たちの心を誰のために整えるのかを明確に知るためです。その後、ヨハネはこのことについて証をしました。

見よ、世の罪を取り除く神の小羊。私が「私のあとから来る人がある。

その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ」と言ったのは、この方のことです。

私もこの方を{メシヤとしては}知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」

またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。私もこの方を知りませんでした。

しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。「御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。」

私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」(ヨハネ1:29-34)

ヨハネの言葉によれば、ヨハネはイエス様が特別な存在であることを理解しましたが、イエス様がメシアであることはまだ知りませんでした。

二つ目の理由は、バプテスマを通してイエス様が次のように示されたことです。「私は、この罪人たちの兄弟です。」

イエス様がこの世に来られた時、こうは言われませんでした。「私は偉大な神です。あなたは惨めな罪人です。」

むしろ、イエス様はこう言われました。「あなたは罪人だけど、私はあなたの兄弟です。」(ヘブル人への手紙2:11-12)

もちろん、イエス様は決して罪を犯されませんでした。それでも、十字架の上でイエス様は私たちの罪を背負い、その罪のために死なれました。

イエス様は生まれた時、私たちと人間として共感されました。そして、バプテスマを受けられた時、私たちと罪人として共感してくださいました。

さらに、イエス様がバプテスマを受けられた時、もう一つの出来事が起こりました。

イエス様がバプテスマを受けられた時、聖霊がイエス様の上に下り、イエス様を力で満たされました。それだけではなく、天の父がイエス様に対する愛を宣言されたのです。

もし、私たちが影響力のあるクリスチャンになりたいなら、その二つのことが必要です。神の一人子であるイエス様にそれらが必要だったなら、私たちにもそれらが必要です。

つまり、私たちは、天の父が私たちを愛しておられることを知らなくてはなりません。その愛を知らなければ、私たちは神様を恐れてしまい、決して神様に近づこうとはしません。いつも神様からの叱責を恐れ、神様と親しい関係を築くことができません。

また、天の父の愛を知らないと、私たちの人間関係も難しくなります。周りの人々が私たちの愛に、私たちが期待するように反応しなければ、彼らを愛し続けることも、許すことも難しくなります。

もしあなたが神様のように周りの人々を愛することができないなら、それは神様の愛を十分に理解していないからかもしれません。実は、私自身も神様の愛を十分に理解していないので、神様のように人々を愛することができない時があります。

しかし、イエス様は神様の愛で満たされていたので、周りの人々の失敗や欠点を見る中でも、彼らを愛し続けられました。

天の父はイエス様に対する愛を宣言されました。そして、聖霊はイエス様を力で満たしてくださいました。イエス様はその力を受けられるまで、ミニストリーを始められませんでした。

それゆえ、私たちが神様のために効果的なしもべになりたいなら、聖霊で満たされる必要があります。バプテスマのヨハネによれば、それはイエス様の働きの一つです。イエス様は私たちを聖霊によってバプテスマを授けてくださいます。

あなたはどうでしょうか。神様の愛を知っているでしょうか。聖霊に満たされていますでしょうか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ3章 マルコの福音書 マルコ1章 ヨハネの福音書 ヨハネ1章 ルカの福音書 ルカ3章

真理を語っている?

この話では、私たちは18年間ほど時を飛ばします。イエス様は30歳になり、自分のミニストリーを始められました。けれども、彼が始める前に、イエス様のいとこバプテスマのヨハネは、すでに自分のミニストリーを始めていました。

使徒ヨハネは、バプテスマのヨハネが誰であるかを説明します。

神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。

彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。(ヨハネ1:6-8)

祭司たちや、パリサイ人、サドカイ人(パリサイ人とサドカイ人はユダヤ人の宗派です)がヨハネに「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、彼はこう答えました。

私はキリスト(つまり、メシア、または、救い主)ではありません。。。私は、預言者イザヤが言ったように「主の道をまっすぐにせよ」と荒野で叫んでいる者の声です。(ヨハネ1:20,23)

彼の人生の目的は、人々の心をイエス様をメシアとして受け入れるために整えることでした。

私たちはイエス様の弟子として、神様から同じ使命を与えられています。私たちは周りの人々の心をイエス様のために整えるべきです。私たち自身には彼らを救う力はありません。ただ、神様の言葉という種を彼らの心にまくことができるだけです。

私たちのメッセージもヨハネのメッセージとほぼ同じです。

主な違いは、ヨハネの時代には神様からの救いがイエス様を通してまだ到来していなかったという点です。しかし、イエス様がすぐに来られるので、彼らは自分の心を準備しなくてはなりませんでした。(ルカ3:6)

一方で、私たちのメッセージは、イエス様を通して神様の救いがすでに到来したということです。

また、ヨハネの言葉を見ると、一つのことが私の心に深く響きます。ヨハネは率直に話しました。

パリサイ人とサドカイ人が来たとき、彼はこう言いました。

まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。

「われわれの父はアブラハムだ」と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。

斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。

その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。(マタイ3:7-12)

どうしてヨハネはそんなに厳しく話したのでしょうか。それは、彼らが偽善者だったからです。彼らは神の律法を守ろうと努力しました。つまり、外面的には正しいことを行いましたが、心は堕落していました。

彼らはこう思っていました。「私はユダヤ人だから、神様に受け入れられているだろう。それに、神の律法を知らない多くのユダヤ人と違って、私はよく知っている。」

しかし、彼らの心がプライドに満ちていたため、神様のあわれみを知ることができませんでした。

一方で、ヨハネは他の人々に対してもっと優しく話しました。イスラエル人に嫌われていた人々(取税人やローマの兵士)にも優しく接しながら、「悔い改めなさい」と語りました。裁きの日が来るので、罪深い人生を続けてはいけなかったのです。

私たちも真理を伝えなければなりません。そのメッセージは厳しく感じられるかもしれませんが、伝えることが重要です。

もちろん、イエス様の愛についても語るべきです。そして、イエス様が彼らの罪のために死なれたこと、またその死によって赦され、その心が癒されることを伝えるべきです。

けれども、彼らがプライドや罪、頑固さを持ち続けるなら、私たちは裁きの日について警告すべきです。そうしないと、神様は私たちに責任を負わせるでしょう。(エゼキエル書3:16-21;使徒の働き20:26-27)

カテゴリー
ルカの福音書 ルカ2章

誤解された

私たちは誰でも、周囲の人々に自分のことを理解してほしいと思うものです。そして、彼らが私たちのことを理解してくれないと、私たちは傷ついてしまいます。

イエス様も、その気持ちをよく分かっておられました。イエス様は何度も弟子たちに誤解され、教えた人々や癒やした人々にも誤解されました。そして、この箇所では、イエス様が自分の両親に誤解される場面が描かれています。

この話では、イエス様が他の人々と初めて交流する場面を目にすることができます。

イエス様が12歳の時、彼とその両親は過越の祭りのためにエルサレムを訪れました。祭りが終わると、イエス様の両親は他の人々と一緒に帰路につきましたが、彼らの知らない間にイエス様はエルサレムに残り、神殿で教師たちと話していました。

一日が経った後、イエス様の両親はようやくイエス様がいないことに気付きました。(彼らはイエス様が旅の一行の中にいるものとばかり思い込んでいました。)

そこで、両親はエルサレムに戻り、3日後にようやくイエス様を見つけました。

当然ながら、マリヤは非常に怒り、イエス様を叱りました。

まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。(ルカの福音書2:48)

ところが、イエス様はマリヤの反応を完全には理解されませんでした。そして、彼はこう答えられました。

どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。(49)

要するに、イエス様は「お母さんは私のことをよく理解していると思っていました。私がどこにいるべきか、知っていたはずです」と言っているようです。

けれども、50節では、ルカはこう記しています。

しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。

他の人以上に、イエス様の両親は彼を理解できるはずでした。けれども、彼らはまったく理解できませんでした。

イエス様は、この状況に対してどのように反応されたのでしょうか。

それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。(51)

イエス様は、自分が正しいと主張することはありませんでした。両親が彼を理解していなかったにもかかわらず、イエス様は彼らを叱ることはなく、むしろ仲直りをしようとされました。そして、息子として彼は両親に仕えました。

そのことを少し考えてみてください。イエス様は神であり、ヨセフとマリヤを造られた方でした。それでも、イエス様は謙虚な態度を取り、両親の権威を認めて従われました。

私たちも時々、周囲の人々に自分のことを理解してもらえないことがあります。そのようなとき、怒りや苦々しい思いを抱くのは簡単です。なぜなら、相手が自分たちのことを理解して当然だと考えてしまうからです。

それでも、イエス様のように謙虚な態度を取りましょう。そして、できる限り彼らと仲直りを目指しましょう。パウロは次のように言っています。

あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ12:18)

あなたはこう感じているかもしれません。「でも、まだ傷ついています。どうして彼らは私のことを理解できないのでしょうか。」

それは、彼らが神ではないからです。彼らはすべてのことを知っているわけではありませんし、あなたの心の奥深くを見ることもできません。だから、そうした期待は手放した方が良いでしょう。

しかし、イエス様はあなたのことをよく理解されています。なぜなら、イエス様は神であり、人間としてこの世に来られたからです。

イエス様は私たちの生活を理解し、私たちの気持ちを深く知っておられます。どんな経験をしていても、イエス様はあなたのことを理解されています。

イエス様の両親が彼のことを理解できなかったとしても、天の父はイエス様を完全に理解され、イエス様を慰められました。同じように、イエス様があなたのことを理解していることを心に留めておきましょう。

だからこそ、誤解されていると感じたときや、心が傷ついたとき、イエス様にあなたの苦しみを打ち明けましょう。イエス様はあなたを理解されているからです。

カテゴリー
ルカの福音書 ルカ2章

王のために整える心

毎年クリスマスに、私たちは次の歌を歌います。

Joy to the world.
(この世に喜びがありますように。)

The Lord is come.
(主が来られたからです。)

Let earth receive her king.
(この世の人々よ、全地の王イエスをお迎えしよう。)

Let every heart prepare him room.
(すべての心をイエス様のために整えよう。)

この箇所では、王のために心を整える人を見ることができます。彼女は女預言者アンナという人でした。

アンナは若い頃に悲劇を経験しました。彼女は約7年間結婚生活を送りましたが、夫が亡くなり、再婚することはありませんでした。

おそらく子供もいなかったのでしょう。そのため、夫を亡くした後すぐに神殿に身を寄せ、断食と祈りをもって神様に仕える生活を続けたようです。

アンナは本当に素晴らしい人物でした。多くの人々なら、彼女のような状況で苦々しい思いを抱き続けたかもしれません。

彼らは神様を責めてこう言ったかもしれません。「神様、どうしてですか。どうして、私の夫を奪ったのですか。どうして、結婚生活の間に私は子供を授からなかったのですか。」

(特に、その文化では子供を持てないことが恥とされていたことを思い出してください。)

しかし、アンナはその悲劇を経ても神様から離れることなく、むしろ神様に近づきました。そのため、彼女の心は王を迎える準備ができていました。

実際、その日イエス様を王として認識した人は多くありませんでしたが、アンナはその一人でした。彼女は大いに喜び、その良い知らせを周囲の人々に伝えました。

あなたはどうでしょうか。あなたの心を王のために整えていますか。毎日、神様を追い求めているでしょうか。

もちろん、あなたが一日中祈り、断食し、礼拝する必要はありませんが、イエス様をもっと知るために毎日時間を取っていますか。

それとも、忙しすぎるあまり、この世の心配や苦しみによって、神様から離れてしまっているでしょうか。

イエス様の時代にも、そのような人々がたくさんいました。彼らはメシアを探し求めていると口にしながらも、結局そのメシアを拒絶し、殺してしまいました。

同じように、もし私たちが毎日神様を追い求めなければ、神様が来ても私たちは神様を認識することができず、神様が何をされているのか理解できません。

だからこそ、毎日、神様のために私たちの心を整えましょう。そして、神様と時間を過ごし、神様に近づきましょう。

そうすれば、私たちはイエス様が与えてくださる喜びを見つけることができるでしょう。

カテゴリー
ルカの福音書 ルカ2章

人々が倒れるために定められるしるし

この箇所は本当に私の心に響きます。なぜなら、現代でもその言葉の真実を目の当たりにできるからです。

シメオンは敬虔な人であったため、神様は彼に、イスラエルだけではなくこの世を救うメシアを見ることを約束されました。そして、彼がイエス様を見たとき、彼はこう語りました。

主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。

御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。(ルカのの福音書28:29-32)

ヨセフとマリヤはそれを聞いて驚きましたが、シメオンは彼らに警告を与えました。

ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。

剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。(34-35)

シメオンの言葉は成就しました。確かに、多くの人々がイエス様を救い主として受け入れましたが、それ以上に多くの人々がイエス様を拒絶しました。イエス様の名を喜ぶ人々がいる一方で、その名を呪う人々もいました。

そして、ユダヤ人の指導者たちがイエス様を拒絶したため、イエス様が十字架で死なれるのをマリヤが目の前で見たとき、彼女の心は刺し貫かれるような痛みを感じました。

もちろん、シメオンの言葉はその時代に成就しましたが、現代でもその言葉は成就し続けています。

今でも、多くの人々がイエス様の名をたたえ、イエス様を礼拝していますが、多くの人々がイエス様を拒絶し、その名を呪います。彼らはその行為によって、自分の心の状態を明らかにしています。

多くの人々は見た目には善良に見えますが、自分たちの罪のために死なれた方を拒絶します。イエス様を拒絶するということは、神様とその道を拒絶することにほかなりません。むしろ、彼らは自分の道を生き続けることを主張します。

そのような態度は、イエス様の心を刺し貫くだけでなく、イエス様を愛する人々の心も刺し貫きます。特に、私たちが愛する人々がイエス様を拒絶するとき、私たちの心も深く傷つけられます。

また、クリスマスの時期に、人々がイエス様を拒絶しているのを見ると、とても胸が痛みます。私たちはイエス様の誕生を喜び祝いますが、同時に多くの人々がイエス様を拒絶している現実があるからです。

イエス様はこう言われました。

わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。(マタイ10:34)

あなたはこう問いかけるかもしれません。「でも、イエス様がお生まれになった時、天使たちは『地の上に、平和がありますように』と歌いましたよ?」

確かに、キリストは神様との平和をもたらすために来られました。しかし、イエス様は人々を分ける方でもあります。

イエス様の名によって、人々の間に分かれが生じます。家族も分かれることがありますし、友人同士も分かれることがあります。なぜなら、イエス様を拒む人々がいるからです。

私が伝えたいのは、イエス様に従い、福音を延べ伝えたいと思うなら、すべての人々を喜ばせることはできないということです。

イエス様のために、あなたのことを好きではない人々もいるかもしれません。彼らがイエス様を憎むなら、あなたをも憎むことがあるでしょう。

イエス様はこう言われました。

もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。

しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。(ヨハネ15:18-19)

だから、すべての人に好かれようと望まないでください。むしろ、イエス様を愛し、その福音を延べ伝えましょう。

イエス様のために倒れる人もいれば、イエス様のために立ち上がる人もいます。もし、あなたが愛する人々が立ち上がるなら、その喜びは、これまでの苦しみと比べものにならないでしょう。

カテゴリー
ルカの福音書 ルカ2章

喜びを広める

羊飼いたちは救い主の誕生を聞くと、すぐにベツレヘムへ走りました。そして、イエス様を見つけたとき、彼らは大喜びしました。帰り道では、「神をあがめ、賛美しました。」(20)

しかし、その言葉だけでは、彼らが感じた喜びを十分に表せていないように思います。彼らの喜びは溢れんばかりのものでした。

その喜びを誰かに伝えずにはいられなかった彼らは、できるだけ多くの人々にその良い知らせを伝えました。

その話を聞いた人々は、羊飼いの言葉に驚きました。けれども、その後彼らはどうしたでしょうか。羊飼いの話を信じて、イエス様を捜し求めようとした人もいたかもしれませんが、ルカはそのことについて何も書いていません。

それでも、羊飼いたちにとって、相手の反応は問題ではありませんでした。彼らの喜びはあふれすぎて、何かを言わずにはいられない状態だったのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの喜びが溢れすぎて、周囲の人々に福音を伝えずにはいられないほどでしょうか。

私たちは人々の反応をコントロールすることはできません。また、彼らの反応は私たちの責任ではありません。

とはいえ、もし私たちが本当にイエス様を愛していて、イエス様の喜びが私たちの心に溢れているなら、その良い知らせを周囲の人々に伝えずにはいられないでしょう。

そうすれば、彼らも私たちが知っているその喜びを見つけることができるようになるでしょう。

あなたはその喜びを広めていますか。

カテゴリー
ルカの福音書 ルカ2章

喜びが訪れたとき

私は最初のクリスマスの夜について考えると、少し圧倒される思いがします。なぜなら、その夜に喜びがこの世に訪れたからです。

天使が羊飼いたちに現れたとき、彼はこう言いました。

恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカの福音書2:10-11)

この箇所を読むと、あるクリスマスの歌の歌詞が心に浮かびます。

Long lay the world in sin and error pining

この世の人々は長い間、罪と咎に悩み、死の陰を歩んでいました。

‘til he appeared and the soul felt its worth.

しかし、イエス様が現れたことで、私たちは自分の価値を知ることができるようになりました。

アダムとエバがエデンで罪を犯して以来、この世の人々は死の陰を歩んでいました。

私たちは自分の罪のために永遠の死に値する者となりました。そして、「この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」(エペソ2:12)

特に、イエス様の時代には、神様がイスラエル人を捨てたのではないかと思う人もいました。なぜなら、神様はアブラハムやヤコブ、ほかの先祖たちに現れましたが、その後、約400年間、神様はずっと沈黙されていたからです。

しかし、突然、神様は語りかけてくださいました。「私はここにいる。あなたを忘れなかった。」

イマヌエルがついに来ました。(「イマヌエル」という名前には、「神は私たちと共におられる」という意味があります。)

イエス様のお生まれによって、神様はこう語られました。「私はあなたを愛し、あなたと共に歩みます。私はあなたの暗闇の中で光となります。私はあなたに希望を与え、救いをもたらします。」

けれども、神様がその良い知らせを伝えるために天使を送ったとき、祭司たちには送りませんでした。律法学者や最も宗教的とされる人々にも天使を送りませんでした。

神様は天使を普通の人々、つまり羊飼いたちに送りました。その時代、人々は羊飼いを見下していました。それでも、どうして神様は彼らに先に知らせを伝えたのでしょうか。

それは、この知らせがすべての人々のためのものだったからです。イエス様は、偉大な人々のためにも、身分の低い人々のためにも来られたのです。

さらに、イエス様が来られたとき、神様と人間の間にあった壁は崩れました。神様との平和が可能になったのです。

しかし、それは最初のクリスマスの日に起こったのではありませんでした。イエス様が十字架で死なれたとき、神様と私たちの間にあった幕が永遠に裂けたのです。

どうか、あなたがその平和を知り、そして羊飼いが感じた喜びがあなたの心を満たしますように。

Joy to the World! The Lord is come!
この世に喜びがありますように。主が来られたからです。

カテゴリー
ルカの福音書 ルカ2章

すべてを治めておられる神

ルカは、イエス様の出産について記したとき、その背景についても教えています。それは、皇帝アウグストの時代のことでした。彼はローマ帝国の支配者でした。

アウグストは、マルクス・アントニウスとクレオパトラの軍隊を打ち破り、ローマ帝国初の皇帝となりました。そして、彼は自らの権力を行使してローマに平和をもたらしました。このとき、パクス・ロマーナ(ローマの平和)が始まりました。

けれども、彼が知らなかったのは、自分に優る王がすぐに生まれようとしていたことです。彼はローマ帝国を治めていると思っていましたが、より強いお方が彼を通して計画を進めていたことには気づいていませんでした。

皇帝アウグストは全世界の住民が登録されるよう命じました。おそらく、それは税金のためだったのでしょう。彼の命令によって、すべての人々が出身地に戻り、登録する必要がありました。

ヨセフとマリヤは、どのように感じたのでしょうか。多くの人は、彼らがその勅令を聞いた時、マリヤの妊娠が10ヶ月ほどであったと考えます。それはその通りかもしれませんが、真実はわかりません。

いずれにせよ、ヨセフは「神様、どうして今この勅令が出たのでしょうか。今行けば、マリヤにとって本当に大変です」と考えたかもしれません。

しかし、神様には良い理由がありました。おそらく、一つの理由は、ナザレでヨセフとマリヤについて多くの噂が広まり、本当に大変だったからでしょう。彼らは結婚していないのに、マリヤが妊娠していたためです。

もう一つの理由がありました。その登録のために、予言者ミカが何百年前に予言した通り、イエス様はベツレヘムで生まれました。(ミカ書5:2)

皇帝アウグストは、自分がすべてを支配していると思っていましたが、実際には神様が治めておられました。皇帝アウグストのパクス・ロマーナ(ローマの平和)は約200年続きましたが、最終的にアウグストが築いたものは滅びました。

一方で、イエス様を通して、神様は永遠の王国を始められました。その王国を打ち倒すことができる者はだれもいません。そして、いつの日か、この世に本当の平和が訪れ、その平和は永遠に続きます。

あなたはどうでしょうか。すべてをコントロールしていると思いますか。つまり、自分の人生を完全に掌握していると思いますか。

どうか、自分より偉大な方がいることを忘れないでください。もし自分の知恵と努力だけで人生を築くなら、最終的にはその築いたものが崩れ去るかもしれません。

また、神様が本当にこの世を治めていることに疑問を持ったことはありますか。あなたは、なぜ神様がトラブルをあなたの人生に許されるのか、問いかけることがありますか。

神様を信頼し続けてください。なぜなら、神様はご自身の計画を実現されているからです。私たちにはその計画が見えないこともあるかもしれませんが、いつかその計画が理解できる日が来るでしょう。

その日には、天使たちとともに、私たちも声を上げて神様を賛美することでしょう。

いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。(ルカの福音書2:14)

カテゴリー
ルカの福音書 ルカ1章

救い

ゼカリヤは約9ヶ月間話せない間、どんな気持ちだったでしょうか。おそらく、少しは自分の不信を後悔したことでしょう。

一方で、話せないという印(しるし)は、神様が子供を授ける約束を確実なものとして示してくださいました。そのため、ゼカリヤは自己憐憫に浸ることなく、むしろ喜びを持って毎日を過ごしていたのではないでしょうか。

そして、息子が生まれた際、ゼカリヤの口は開かれ、喜びに満ちた言葉が彼の口からあふれました。彼はこう歌ったのです。

ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。

古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。(ルカの福音書1:68-70)

彼の歌を通して、私たちは救いの深い意味を知ることができます。

1.その救いは、暗闇と死の陰に座る者たちを照らします。(79)

多くの人々は、罪の暗闇の中で生きています。そのため、死の影が彼らの上に覆いかぶさっています。パウロはこう言いました。

「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)

でも、暗闇の陰に座る人に、救いはイエス様を信じる人に赦しを約束します。(77)

2.その救いは私たちの良い行いによるものではありません。むしろ、その救いは神様のあわれみによります。

私たちは永遠の死に値します。それでも、神様は私たちを愛して、イエス様をこの世に送られました。そして、イエス様は私たちの罪のために死んでくださいました。だから今、イエス様を通して、私たちの罪は赦されます。

3.その救いは私たちをサタンの国から救い出します。(71、74)

サタンは私たちを憎み、罪の鎖で縛りました。しかし、神様は私たちを解放してくださいました。

4.その救いは私たちに新しい命を与えます。

私たちはもうサタンの国のために働かず、神様に仕えます。私たちはもう罪に仕えません。その罪深い生活は、恐れ、恥、悲しみ、そして破滅に至りました。

しかし、今では神様が私たちに正義の外套をまとわせてくださいます。そして、日々、私たちはますます「イエス様と同じかたちに姿を変えられて行きます。」(第二コリント3:18)

5.その救いは私たちに平和を与えてくださいます。どんな試練に直面しても、神様の平和を経験します。それは「人のすべての考えにまさる神の平安」です(ピリピ4:7)。なぜなら、私たちには神様との平和があるからです。

どのようにしてその平和を知ることができるでしょうか。こう祈ってください。

イエス様、私は自分が罪人であることを認めます。何度もあなたを傷つけ、また周りの人々を傷つけてしまいました。どうか私を赦してください。

私のために十字架で死んでくださり、私の罰を引き受けてくださったことを感謝します。私に新しいスタートを与えてください。

あなたに従いたいです。そして、ますますあなたのようになりたいです。私を変えてください。そして、あなたの平和を私に与えてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

カテゴリー
ルカの福音書 ルカ1章

祝福された

マリヤがエリサベツの妊娠の知らせを聞くと、すぐに彼女を訪ねました。その反応は非常に理解できます。おそらく、マリヤは自分の経験が夢や幻覚ではないことを確認したかったのでしょう。

しかし、エリサベツがマリヤを見かけた瞬間、マリヤの心に残っていた疑いはすべて消えたのではないでしょうか。その瞬間、エリサベツの胎内の子どもが跳ね動き、エリサベツは聖霊に満たされて声高らかに叫びました。

あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。

ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。

主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。(ルカの福音書1:42-45)

どうしてエリサベツは、マリヤが妊娠しており、その子がメシアになることを知っていたのでしょうか。それには一つの方法しかありませんでした。神様が彼女にそのことを示されたのです。

エリサベツの言葉を聞いたことで、マリヤの疑いはすべて消え、彼女は歌い始めました。

わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。

ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。

その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。(46-50)

マリヤの言葉を読むと、私は神様が私たちをどのように祝福してくださったかについて、深く考え始めます。

マリヤのように、私たちも神様の祝福に値しない者です。私たちはただの神様の卑しいしもべにすぎません。私たちは立派な行いによってではなく、神様の素晴らしい御業によって祝福されるのです。

神様は私たちのために何をしてくださったのでしょうか。

1. 神様は私たちに哀れみを与えてくださいました。 これは、私たちだけでなく、私たちの前に生きていた信者たちにも、そして私たちの後に生きる信者たちにも与えられています。

私たちは、自分の罪のゆえに罰に値する者ですが、神様は哀れみを与えてくださいます。なぜでしょうか。

それは、十字架において、神様がご自身の怒りを私たちの代わりにイエス様に注いだからです。イエス様が私たちの罰を受けてくださったことで、私たちは神様の哀れみを受けることができるのです。

2. 神様は私たちの利益のために働いてくださいました。 (51節)たとえば、イスラエル人がエジプト人の奴隷であったとき、神様はパロを王座から引き降ろし、モーセとイスラエル人を高く引き上げてくださいました。

さらに、神様はイスラエルよりも強い国々や支配者たちを打ち倒し、イスラエル人を約束の地に導かれました。

そして、イスラエル人が何度も神様に背を向けたにもかかわらず、神様はご自身の約束を忘れずに今まで彼らを守り続けてこられました。

それは本当に驚くべきことです。いくつもの国が滅び、いくつもの民族が消えていった中で、ユダヤ人を滅ぼそうとする試みが繰り返されましたが、イスラエル人は今でも残っています。

神様がイスラエル人の利益のために働かれたように、私たちの利益のためにも働いてくださっています。そのために神様はイエス様を送られたのです。そして今でも、神様は私たちの利益のために働いておられます。

私たちの問題が私たちよりも大きいとき、神様は私たちに勝利を与えてくださいます。

私たちに必要があるとき、神様はそのニーズに備えてくださいます。

サタンが私たちを滅ぼそうとするとき、神様は私たちを守ってくださいます。

だから、マリヤのように、私たちも主をほめたたえましょう。神様が私たち一人一人に大きなことをしてくださったからです。私たちは本当に祝福されています。

カテゴリー
ルカの福音書 ルカ1章

心のすべてを神様に捧げる?

神様がイエス様を送られたとき、どうしてマリヤを選ばれたのでしょうか。おそらく、彼女の心が完全に神様のものであったからでしょう。彼女は自分の心のすべてを神様に捧げ、神様に従っていました。

この箇所では、マリヤの心を見ることができます。

ザカリヤに現れてから6か月後、ガブリエルはマリヤに現れました。彼はこう言いました。

おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。(ルカの福音書1:28)

マリヤはその言葉を聞いて、本当に戸惑いました。そこで、ガブリエルはさらに続けました。

こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。

その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。

彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。(30-33)

マリヤは確かにその言葉を理解しました。イスラエルの女性たちの誰もが、自分の子がメシアとなることを望んでいました。とはいえ、彼女には非常に論理的な質問がありました。

どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。(34)

つまり、彼女はまだ結婚しておらず、男性と関係を持ったことがありませんでした。

そこで、ガブリエルは答えました。

聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。(35)

たくさんの人はそれを聞いて、「まさか。クリスチャンはそれを本当に信じているのか」と言うかもしれません。

けれども、現代では、そのようなことが起こる場合があります。時々、カップルが子どもを授かれないとき、配偶者間の人工授精によって、その女性が妊娠することができます。私たちは、お医者さんができることを神様ができないとは言えるでしょうか。

しかし、その時代にはそのような技術はありませんでした。そのため、ガブリエルはマリヤにとってその言葉が受け入れにくいことを知っていました。そこで、彼はこう言いました。

「あなたの親戚エリサベツのところに行きなさい。皆が彼女は子どもを持てないと言っていましたが、今、彼女は妊娠しています。神様にとって不可能なことは一つもありません。」

マリヤはそれを聞き、答えました。

ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。(38)

マリヤはもう質問することはありませんでした。むしろ、その言葉を信じて、神様にすべてを捧げました。

けれども、少し考えてみてください。彼女がすべてを失う可能性は非常に高かったのです。彼女が妊娠したとき、評判は汚されてしまうでしょう。家族や周りの人々はどのように考えるでしょうか。

また、婚約者のヨセフはどう思うでしょうか。彼女が妊娠したら、彼は結婚を取りやめるかもしれません。さらに、イスラエルの律法によれば、彼には彼女を殺す権利がありました。

誰が、神様の聖霊によって彼女が妊娠したことを信じるでしょうか。

それでも、マリヤはこう言いました。「これがあなたの御心であるなら、その御心に従います。たとえすべてを失っても、私は従います。」

彼女は神様から他の約束を与えられることはありませんでした。神様は彼女の結婚を守ることを約束されませんでした。また、彼女の評判を守ることも約束されませんでした。

それでも、彼女は神様が良い方であることを信じ、神様の計画も良いものであると信じていました。

これこそ、神様に属する心です。マリヤは自分の心を神様に捧げたことで、神様は彼女を通して素晴らしいことを行うことができたのです。

では、あなたはどうでしょうか。あなたの心は神様に属しているでしょうか。神様に従うために、すべてを捧げることができるでしょうか。

カテゴリー
ルカの福音書 ルカ1章

失望

ルカの福音書の冒頭では、ルカがなぜこの福音書を書いたのかを説明しています。

ルカは医者であり、教会の初期にクリスチャンになった学者でした。彼はテオピロという人のためにこの福音を書きました。

ルカによれば、クリスチャンになったとき、彼はイエス様の話を綿密に調査しました。そして、テオピロや他の興味のある人々にその話を伝えたいと思ったのです。

この言葉を読んで、私はキリスト教の話についてさらに確信を持てるようになりました。なぜなら、ルカは学者であり、イエス様が天国へ行かれてすぐ後に福音書を書いたからです。ルカがそれをしてくれたおかげで、私はイエス様の話を信じることができます。

ルカは最初にザカリヤという祭司について書きます。この話の言外の意味を読み取るなら、ザカリヤが神様を本当に愛していた一方で、同時に失望していた人物だったことがわかります。

例えば、彼の妻エリサベツは不妊でした。現代においてもこれは本当に悔しいことでしょう。けれども、当時は特に恥ずかしいことでした。エリサベツにとっては、さらに恥ずかしいことであったに違いありません。

どれほど彼らが子供のために祈り続けたのでしょうか。おそらく、エリサベツの生理が遅れたことで希望が湧いた瞬間もあったかもしれません。しかし結局、生理が再び始まってしまい、彼らはそのたびに落胆してしまったでしょう。

どれほどそのパターンが繰り返されたのでしょうか。

私たちは、神様が祈りに答えてくださらないとき、どのように反応するでしょうか。希望が打ち砕かれるとき、私たちはどう対処するでしょうか。

その心に苦々しさを抱いてしまう人もいるかもしれません。

「どうして、あなたは私の祈りに答えてくださらないのですか?私にはこれが絶対必要です。聞いてくださらないのですか?私の状況をご存じないのですか?私の気持ちがわからないのですか?」

失望して、諦めてしまう人もいます。

「神様はこの祈りに答えてくださらないだろうな。」

そうして、彼らは失望をずっと抱え続けてしまうのです。

けれども、希望がなさそうに見えても、なお希望を持ち続ける人もいます。アブラハムはそのような人でした。(ローマ4:16−21)

ゼカリヤはどう感じていたのでしょうか。おそらく、彼はもう諦めていたのではないでしょうか。

「私たちはもう年を取ってしまった。私たちには、もう遅すぎる。まだ赤ちゃんができていないなら、もう希望はないだろう。」

しかし、ある日、彼は主の神殿に入って香をたく役目を任されました。それはくじ引きによって決まり、多くの祭司の中から選ばれる可能性は低かったものの、彼が選ばれたのです。

その香りの煙は、神様に届く祈りの象徴でした。ですから、ゼカリヤが香をたくとき、彼自身が祈りを捧げると同時に、神殿の外にいる人々も祈っていました。

ゼカリヤは何のために祈っていたのでしょうか。間違いなく、彼はイスラエルのために祈ったでしょう。

また、彼はおそらくメシアが来るように祈ったのではないでしょうか。なぜなら、神様は400年ほど何もおっしゃっておらず、預言者も現れず、祭司たちにも何も語りかけていなかったからです。

では、ゼカリヤは自分自身のために祈っていたのでしょうか。 そうだったかもしれません。けれども、祈らなかった可能性もあります。

彼は長い間失望し、「神様は本当に私を愛しているのだろうか」と考えていたのかもしれません。「もちろん、神様はイスラエルを愛しているけれど、私個人のことを愛しているのだろうか。」

いずれにせよ、彼が祈っている最中に、突然天使が現れました。おそらく、彼の最初の反応は恐れだったでしょう。「私は何か悪いことをしてしまったのだろうか。アロンの息子たちのように殺されてしまうのだろうか」(レビ記10章)と思ったかもしれません。

しかし、天使はこう言いました。

「恐れないでください。あなたに良い知らせがあります。あなたはずっと息子が与えられるよう祈っていたでしょう。神様はその祈りを聞かれました。来年、息子が生まれます。その子は、あなたが長い間待ち望んでいたメシアのために道を備える役割を果たします。」

ゼカリヤの反応は何だったでしょうか。それは疑いでした。長い間祈りが答えられず、希望を失っていたからです。彼はこう言いました。

私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。(ルカの福音書1:18)

要するに、「私はずっと祈ってきました。何も起きませんでした。何度も、私の希望はむなしいものとなってしまいました。だから、私の希望を湧かせないでください。もうがっかりしたくありません。」

どれほど私たちはそのように反応してしまうでしょうか。失望のあまり、私たちは希望を失ってしまうことがあります。

幸いなことに、神様はゼカリヤに対する約束を取り消されませんでした。それでも、その天使はゼカリヤを叱責しました。「しるしを求めているのですか。それでは、あなたの息子が生まれるまで、あなたは話せなくなります。」

その言葉を聞いて、ゼカリヤは衝撃を受けましたが、すぐに信じるようになりました。同じく、彼の妻もすぐに信じるようになりました。そして彼女が妊娠したとき、こう言いました。

主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。(1:25)

この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちがそう思わなくても、神様は私たちの祈りを聞いておられます。それは天使ガブリエルの最初の言葉の一つでした。

「あなたの祈りはむなしくありませんでした。その祈りは天井に跳ね返ることなく、神様に届いていました。神様はあなたの声を聞かれました。」

さらに、神様は私たちには見えない物語を織り上げています。その物語は私たちよりも遥かに大きなものです。(ゼカリヤにとっては、メシアが来られるということ以上に大きな物語はありませんでした。)

けれども、その神様が織られている物語の一部として、時には神様が私たちの祈りに答えてくださらないように見えることがあります。

それでも、希望を捨てないでください。神様はあなたの祈りを聞いておられます。神様はあなたの願いを叶えるかもしれませんし、叶えないかもしれません。しかし、神様は確かにあなたの人生に働いておられます。

そして、すべてはあなたの益となるために働いておられます。なぜなら、神様はあなたを愛しておられるからです。

もし、あなたが神様を信じ続けるなら、いつか神様が織り上げられた素晴らしい物語を見ることになるでしょう。

だから、どんな苦しみを経験しても、その物語の中にとどまってください。そうすれば、ゼカリヤとエリサベツのように、祝福されるでしょう。

カテゴリー
マタイ1章 マタイの福音書 ルカの福音書 ルカ3章

罪深い人と同じような形を取られた方

私たちがイエス様の系図を見るとき、二つの注意点があります。

一つ目は、マタイの福音書にある系図が不完全であるということです。つまり、いくつかの王たち(ヨアシュ、アマツヤ、エホヤキムなど)が省略されています。

英語の訳では「誰々は誰々の父である」と翻訳されていますが、この「父」という言葉は「先祖」という意味も含みます。

そのため、例えば「ヨラムにウジヤが生まれた」と書かれていても、実際の意味は「ヨラムはウジヤの先祖である」となります。

二つ目は、多くの学者が、マタイの福音書に記された系図がヨセフの系図であり、ルカの福音書に記された系図がマリヤの系図だと考えている点です。これは、ルカの福音書に「イエス様は人々からヨセフの子だと思われていた」と記されているためです。

そのため、言い換えると、「イエス様は人々からヨセフの子だと思われていたが、実際には彼はヘリの子孫であった」ということになります。

(「父」という言葉が「先祖」を意味するように、「子」という言葉も「子孫」を意味する場合があります。)

実際、この系図の違いについてはさまざまな学説がありますが、それが非常に複雑であるため、ここでそれ以上深掘りすることはしません。😊

さて、この系図を見たときに、私の心に強く響いたことがありました。それは、イエス様がこの世に来られたとき、天から降りてきて「私は神だ!」と宣言するのではなく、私たち罪びとと同じ姿を取られたということです。イエス様は人間となったのです。

イエス様の先祖を見てみましょう。

アダムは完全な世界に造られたのに、罪をこの世に招き入れました。

テラ(アブラハムの父)は偶像を礼拝していました。おそらく彼の先祖たちも同じように偶像を礼拝していたでしょう。

ヤコブは詐欺師でした。

ユダは、義理の娘タマルに騙され、彼女が売春婦だと思ったため、彼女と寝ました。その結果、タマルは双子を産み、そのうちの一人がイエス様の先祖となりました。(創世記38章)

ラハブは、イスラエル人から見れば外国人であり、売春婦でもありました。

ルツもまた外国人であり、モアブ人でした。通常、ユダヤ人はモアブ人を見下していました。(申命記23:3-4)

ダビデは、ほかの人の妻バテ・シェバと関係を持ち、彼女の夫を殺しました。けれども、ダビデとバテ・シェバの間にはソロモン(マタイ1:6)とナタン(ただし預言者ナタンではありません。ルカ3:31)が生まれました。

また、多くのユダの王たちは神様に背を向けました。(例えば、アハズとマナセ)。

イエス様はそのような系図から来られました。 なぜでしょうか。なぜ、別の系図に属されなかったのでしょうか。なぜ、直接天から来られなかったのでしょうか。

ところが、イエス様はそうはされませんでした。むしろ、人間となられて、「私はあなたのようになります」と示されたのです。

また、別の方法でも、イエス様は私たちのようになられました。

彼は特別にハンサムな方ではありませんでした。(イザヤ書53:2)

彼は貧しい家庭にお生まれになり、その父ヨセフが亡くなった後、イエス様は懸命に働いて家族のニーズを支えられました。

イエス様は時々疲れ、時にはお腹がすくこともありました。

彼はさまざまな試練を経験されました。拒絶され、誤解され、虐待され、裏切られ、そして深い苦しみを味わわれました。

それはなぜでしょうか。

そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。

それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。(へブル4:17)

つまり、イエス様は私たちを理解するために人間となられました。イエス様が私たちのことを深く理解されているからこそ、彼は私たちの大祭司として慈悲深いのです。それゆえ、へブル人への手紙の著者は次のように言っています。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:16)

今日、あなたはどのように感じていますか。自分の罪によって落ち込んでいるでしょうか。家族を支えるために、いつも疲れ切っていますか。苦しみの中にいるでしょうか。拒絶されたと感じていますか。傷ついているでしょうか。裏切られた経験がありますか。

その感情をイエス様の前に捧げましょう。イエス様はあなたのことを深く理解されています。そして、イエス様は必ずあなたを助けてくださいます。