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ルカの福音書 ルカ11章

私たちの行動は私たちの言葉に反対するとき

律法学者たちとパリサイ人たちは、旧約聖書の預言者たちを称賛していました。彼らは預言者たちのために墓を建て、こう言いました。

「この預言者たちは本当に偉大だった。もし私たちが先祖だったなら、決して彼らを迫害しなかっただろう。」

ところが、もう一人の預言者が現れました。いや、ただの預言者ではなく、神様が約束された、長く待ち望まれていたメシアがついに来たのです。

それでも、パリサイ人たちと律法学者たちはイエス様を拒絶しました。それだけではなく、彼らはイエス様とその弟子たちを殺そうとさえしました。

その行動は彼らの心を示していました。もし彼らが本当に預言者たちを信じ、尊敬していたなら、イエス様をも信じ、尊敬したはずです。しかし、彼らはイエス様に激しく反対しました。

そして、彼らがイエス様に反対したとき、知識の鍵を奪い去りました。彼らは自分たちが神の国に受け入れられると思っていましたが、イエス様は彼らが拒絶されると語られました。

さらに深刻なのは、彼らがイエス様を拒絶したことで、他のユダヤ人たちも天国に入ることができなかったことです。なぜなら、ユダヤ人たちはパリサイ人たちと律法学者たちが真理を知っていると考え、彼らの模範に従ったからです。

あなたはどうでしょうか。あなたは神様に従うと主張していますか。あなたの行動は、あなたの言葉を証明していますか。

それとも、あなたの行動は、あなたがキリストを軽んじていることを証明しているでしょうか。いや、むしろ、あなたの行動はあなたがキリストを拒絶していることを証明しているでしょうか。

正しいことを言うだけでは足りません。あなたの行動は、言葉と一致しなければなりません。

あなたの心には、何が入っていますか。

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ルカの福音書 ルカ11章

律法主義という問題

イエス様はパリサイ人たちを批判された後、律法学者たちにも言及されました。

イエス様はこう言われました。

おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。(ルカの福音書11:46)

この箇所では、私たちは律法主義がなぜそんなに悪いのかを学びます。

第一の理由は、律法主義が人々に耐えられないほどの重荷を負わせ、その重荷を取り除く希望が全くないことです。つまり、律法学者たちは神様の律法に多くの余計な規則を加えたのです。

例えば、律法では安息日に仕事をすることが禁じられていましたが、律法学者たちは「仕事」の定義を極めて細かく設定していました。

例えば、安息日に女性はアクセサリーを付けてはいけませんでした。なぜなら、もし彼女たちがアクセサリーを外そうとすると、それを手に持たなければならず、それが「重荷」とみなされるため、安息日の律法を破ることになってしまいます。

また、安息日に歩く距離にも制限がありました。もし 2.5キロメートル 以上歩いてしまうと、安息日の律法に違反することになってしまいます。

このような余計な規則は何百もありました。そして、これらの規則を破ると、律法学者たちから責められることになりました。

律法学者の規則は今では存在しませんが、今日のクリスチャンたちはどれほど他のクリスチャンに余計な規則を押し付けているでしょうか。聖書には記されていないにもかかわらず、それを守るべきだと考えるのです。

例えば、「酔ってはならない」という戒めではなく、「一切お酒を飲んではならない」と言います。

または、「映画を見てはならない。」

または、「踊ってはならない。」

こうした規則は、もう一つの問題につながります。それは、人を裁く態度です。

つまり、「あなたはその規則を守らないから、良いクリスチャンではない。」という考え方です。

さらに、「私は規則を守っている」と思うことで、プライドを感じます。

しかし、たとえ規則を守ったとしても、パリサイ人のように公義と神への愛と憐れみを忘れてしまいます。彼らは自分を正しい人間だと思いますが、神様の目にはパリサイ人や律法学者たちと変わりません。

けれども、律法主義の最も恐ろしい問題は、律法が正しいことと悪いことを教える一方で、正しいことを行う力を与えないことです。むしろ、人が失敗すると、律法は彼らを裁くばかりです。そのため、人々は何度も失敗し、やがて絶望してしまうのです。

イエス様の時代、多くの人々がそのように感じていました。彼らは律法学者の規則を守ろうとしましたが、できませんでした。

そして、彼らが律法学者に「どうすればよいでしょうか」と尋ねると、「もっと努力しなさい」と言われました。

つまり、律法学者たちは彼らを決して助けようとはしなかったのです。

たとえあなたが余計な規則を捨て、モーセの律法だけを守ろうとしても、その律法にはあなたを救う力はありません。最終的に、あなたはパウロのようにこう叫ぶでしょう。

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7:24)

しかし、イエス様の時代の人々とは異なり、パウロは希望を持っていました。

私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。(ローマ7:25)

律法主義はあなたを救うことができません。律法はあなたを救うことができません。

でもイエス様は、十字架の働きを通して、あなたを救うことができます。イエス様は十字架で私の罰を受けたから。だから、パウロはこう言いました。

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(8:1)

だから、律法主義を捨てましょう。プライドと絶望も捨てましょう。むしろ、イエス様とその十字架に向かいましょう。

そうすれば、私たちは赦され、神様を喜ばせる力を受けるのです。

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ルカの福音書 ルカ11章

心にあるもの

この箇所では、イエス様はパリサイ人を厳しく批判されます。なぜなら、彼らの心は汚れていたからです。

パリサイ人の外見はとても清く見えました。彼らは律法を細かく守っていました。しかし、実際には彼らは偽善者でした。

例えば、彼らの心は貪欲に満ちていました。彼らは十一献金をささげましたが、貧しい人を見ても助けずに通り過ぎました。彼らは、人よりもお金を愛していたからです。

また、彼らは神様の愛と知恵を持たずに、周囲の人々をすぐに裁いていました。そのため、イエス様が安息日に人々を癒された時、彼らはイエス様だけでなく、癒された人々さえも批判しました。(ヨハネ 9章)

彼らは預言者ミカの言葉を完全に忘れていました。

私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。

全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。

私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。

主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。

それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ書6:6-8)

だから、イエス様は彼らを批判されました。

さらに、イエス様は彼らのプライドも指摘されました。彼らがリーダーになろうとした理由は、人々に仕えることではなく、尊敬されるためだったのです。

そのため、イエス様はこう言われました。

おまえたちは人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。(ルカの福音書11:44)

どうしてイエス様はそう言われたのでしょうか。神様の律法によれば、墓は不潔なものとされていました。その墓に触れると、儀式的に不潔になってしまいます。

つまり、イエス様が意味されたことは、「あなたたちは汚れており、あなたと関わる人も汚れてしまう。それに、彼らはあなたを聖いと思っているため、あなたに触れたとき、自分が汚れたことにまったく気づかない。」ということです。

厳しい言葉ですね。

しかし、真理は時に厳しいものです。そして、パリサイ人はその真理を理解しなければなりませんでした。

彼らは周囲の人々を欺いたかもしれませんが、神様を欺くことはできませんでした。悔い改めなければ、彼らは裁かれるでしょう。残念なことに、多くのパリサイ人たちは決して悔い改めませんでした。

あなたはどうでしょうか。外見は清くても、心は汚れていませんか。

宗教的な行いだけでは不十分です。ただ教会に行くだけでは十分ではありません。十一献金をささげることも十分ではありません。

もし心の中にプライドや貪欲があるなら、その行動は意味を成しません。もし愛がなければ、あなたの良い行動は無意味なのです。

あなたには、神様への愛が必要です。そして、周りの人々への愛も必要です。

神様はあなたの心を見抜かれます。神様は、ご自身の御心に適う者を探されています。

あなたの心には何が入っていますか。

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ルカの福音書 ルカ11章

祝福を得るため

私たち皆、神様の祝福を知りたいと願っています。でも、その祝福をどのようにして得ることができるでしょうか。

イエス様が群衆に語られた時、ある女性がこう叫びました。

あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。(ルカの福音書11:27)

しかし、イエス様はこう答えられました。

いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。(28)

クリスチャンたちにとっても、「従順」という言葉は、あまり人気のある言葉ではありません。多くのクリスチャンは従順よりも、神様の恵みについて語ることを好みます。

もちろん、神様の恵みがなければ、だれも神様の祝福を受けることはできません。なぜなら、私たちは神様の祝福に値しないからです。

とはいえ、神様の祝福を受ける鍵は、信仰による従順な心です。

私たちは「神様を信じる。神様のみ言葉を信じる」と言うかもしれません。

けれども、従順な心を持たなければ、その言葉は意味をなしません。

もし私たちが本当に神様に信頼するなら、また、本当にそのみ言葉を信じるなら、私たちは神様の言葉に従うでしょう。

だから、一番大切な質問は、「あなたは本当に神様を信頼していますか。」ということです。あなたは、その言葉に従うなら、祝福されると信じていますか。

例えば、結婚する日まで、婚前交渉を控えるなら、あなたの結婚はより祝福されると信じていますか。

あなたが献金をささげるなら、あなたの経済が悪化することなく、祝福されると信じていますか。

あなたが主に従うように、自分の夫に従うなら、または、キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたが自分の妻を愛するなら、あなたの結婚が祝福されると信じていますか。

もしくは、あなたはその言葉が理想的すぎると考えていますか。

もし、本当の祝福を見つけたいなら、神様に信頼することを学ぶ必要があります。 あなたは神様の道が最善であると信じる必要があります。

そして、その言葉に従うことが求められます。

それは簡単でしょうか。いいえ、そうではありません。

しかし、心に留めてきましょう。神様の恵みによって、私たちは神様を信じ始めました。同じように、神様の恵みによって、私たちは神様の言葉に従う力を持つことができます。

私たちが神様に頼みさえすれば、神様は私たちにその力を与えてくださいます。 イエス様はこう言われました。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(ルカ11:9-10)

あなたはどうでしょうか。神様に信頼し、従っていますか。

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マタイの福音書 マタイ12章 ルカの福音書 ルカ11章

私たちは御霊を歓迎しないと

パリサイ人たちは、「イエス様が悪魔の力によって悪霊を追い出している」と言いました。

そのため、イエス様は彼らの不信を責められました。そこで、彼らはイエス様にしるしを求めました。

しかし、たとえイエス様がしるしを示されたとしても、彼らはそれでも信じなかったでしょう。だからこそ、イエス様は彼らの要求を拒まれました。

では、なぜ私は「彼らはしるしを見ても信じなかっただろう」と思うのでしょうか。それは、イエス様がすでにヨナのしるしを彼らに示されたからです。

つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいた後、その魚から出たように、イエス様も三日三晩、地の中にいた後、お墓から出られました。ところが、イエス様がよみがえられた時、パリサイ人たちはそれでもイエス様を信じませんでした。

そのため、イエス様はもう一度彼らの固い心を責められました。具体的には、イエス様は「ニネベの人々と南の女王(つまり、シェバの女王)が彼らを裁く」と言われました。

なぜなら、彼らはヨナやソロモン王のメッセージを聞いた時、悔い改めたからです。

一方で、イエス様がソロモンやヨナよりも優れた方であるにもかかわらず、パリサイ人たちは信じようとしませんでした。

そのため、イエス様は彼らに例えを示されました。その例えを通して、イエス様は「彼らがイエス様を信じないこと、また、聖霊を拒絶することの結果」について教えられました。

イエス様はこの世に来られた時、地獄の力を克服されました。例えば、その時、イエス様は多くの悪霊を人々から追い出されました。けれども、イエス様はイスラエルの民とパリサイ人たちに警告されました。

「私は悪霊を追い出し、地獄の力を克服し、私の賜物、つまり御霊を与える。ところが、もしあなたたちが御霊を拒絶するなら、地獄の力が戻り、あなたの状態は以前よりも悪くなる。」

なぜでしょうか。それは、あなたが神様の力を味わい、あなたを救うことのできる方に触れられたにもかかわらず、その方を拒絶したからです。

そして、イエス様は山上の垂訓の例えをもう一度語られました。それは、「体のあかりは、あなたの目である」ということです。もちろん、これは物理的な真理ですが、同時に霊的な真理でもあります。

イエス様は私たちに問いかけられます。「あなたは何を見ていますか。神様が語られるとき、その真理を見えますか。私を見るとき、私が誰であるか分かりますか。」

もし私たちが正しく見ることができるなら、私たちの人生は光に満ちるでしょう。しかし、正しく見えなければ、私たちの人生は暗闇に満ちてしまいます。そのため、イエス様は私たちに警告されます。

だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。(ルカ11:35)

あなたはどうでしょうか。イエス様をあなたの主と救い主として受け入れていますか。御霊をあなたの人生に歓迎していますか。

もしあなたが心を神様に対して固くしてしまうなら、サタンの破壊的な働きを受けやすくなります。

しかし、もしあなたが心を御霊に開くなら、命を見いだすのです。

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マタイの福音書 マタイ12章 マルコの福音書 マルコ3章 ルカの福音書 ルカ11章

自分の心を固くする危険性

この箇所では、イエス様は再びパリサイ人たちに出くわします。

その時、目が見えず、口がきけない人がイエス様のもとに連れて来られました。この場合、その原因は悪霊でした。そこで、イエス様がその悪霊を追い出された後、その人は目が見えるようになり、話せるようになりました。

周りの人々は驚きましたが、パリサイ人たちは、この奇跡がベルゼブル(つまり、サタン)の力によって行われたものだと言いました。

ここで注目すべきなのは、パリサイ人たちはイエス様の奇跡を否定しなかったことです。彼らはただ、イエス様の力がどこから来たのかを疑ったのです。

現代の人々だけが、イエス様が奇跡を行われたかどうかを疑います。なぜなら、2000年前に起こったことは疑いやすいものだからです。けれども、目の前で起こった出来事は否定しにくいものです。

それこそがパリサイ人たちの問題でした。彼らはイエス様のことが嫌いでしたが、イエス様の奇跡を否定することはできませんでした。

このパリサイ人たちの態度は、重要なポイントを示しています。

以前にも述べましたが、どんな証拠を見ても、意図的に信じない人がいるものです。彼らは「信じられない」のではなく、「信じたくない」のです。そのため、彼らは心を固くし、神様の存在を否定するために、できる限り神様の御業を歪めようとします。

その結果、パリサイ人たちは「イエス様は汚れた霊に取り憑かれている」「サタンの力によって悪霊を追い出している」と言いました。

しかし、イエス様は彼らに二つのことを言われました。

1.もしサタンが自分自身と戦うなら、その国は立ち行かなくなります。

2.イエス様が悪霊を追い出されたことは、イエス様がサタンの味方ではないことの証明です。イエス様はサタンの国を攻撃され、その悪霊は逃げ去りました。そして、イエス様はサタンを縛り、人々を自由にされました。

そして、イエス様はパリサイ人たちに警告されます。

だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。

しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。(マタイ12:31-32)

マルコはイエス様の言葉を解釈しました。

このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである。(マルコ3:30)

つまり、パリサイ人たちは自分の心をあまりにも固くしたため、神様が何をされていたのかが分からなくなりました。さらに、彼らは神様の御業をサタンのものだと言いました。

これが、心を固くすることの危険性です。それを続ければ、最終的に聖霊の声が聞こえなくなり、神様の御業を見ても、それを認識できなくなります。そして、もしそうなってしまったら、救いの希望はなくなってしまいます。

そのため、イエス様はこの態度を「赦されない罪」と呼ばれました。彼らの心があまりにも固くなりすぎたため、彼らには救いの希望がなくなったのです。

モーセの時代、パロも同じ罪を犯しました。そのため、彼は滅びました。

では、人はいつその境界線に至るのでしょうか。それは神様だけがご存知です。ある人々の心は、救われるには固すぎるように見えるかもしれませんが、彼らが最終的に救われる可能性もあります。使徒パウロは、そのような例の一つです。

時々、クリスチャンは「私は赦されない罪を犯してしまったのではないか」と心配します。

けれども、もしそのように心配しているなら、たぶんその罪を犯していません。自分の罪を認識し、神様に対して柔らかい心を持って悔い改めるなら、心配する必要はありません。

本当に注意すべきなのは、自分の心を固くしてしまっている人たちです。

では、どのように柔らかい心を保つことができるでしょうか。それは、謙遜な態度を持ち、罪を犯したならすぐに悔い改めることです。そして、毎日、イエス様のように天の父の心を求め、従うことです。

あなたはどうでしょうか。どのような心を持っていますか。

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マタイの福音書 マタイ7章 ルカの福音書 ルカ11章

山上の説教:惜しげなく良いものを与える天の父

アメリカでは、ある牧師や伝道師がこう教えています。「もし、あなたが何かを欲しがっているなら、あなたがイエス様のみ名によって願うと、神様はその祈りをかなえなくてはならなくなるのです。」

彼らにとって、神様はまるでアラジンの魔人のような存在です。しかし、神様は魔人ではありません。神様には私たちの願いをかなえる必要などありません。

ここで注意すべき言葉の一つは「良いもの」です。つまり、神様は求める者たちに「良いもの」を与えてくださいます。(マタイ7:11)

けれども、時には、私たちが神様に何かを祈っても、その願いが良くないことを神様はご存じです。

例えば、私たちはパンを願っていると思っていても、実際には石を求めているかもしれません。

また、私たちは魚を願っていると思っていても、実際には蛇を求めているかもしれません。

その場合、神様は石を与えてくださるでしょうか?蛇を与えてくださるでしょうか?きっとそのようなものは与えられません。なぜなら、神様は良いお父さんだからです。

そのため、私たちは大胆に神様に祈ることができます。もし私たちが良いものを祈るなら、神様は最も良いタイミングでその祈りをかなえてくださいます。しかし、もし私たちが悪いものを求めるなら、神様はその祈りを断られます。

このようにして、イエス様はこう教えられました。

わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(ルカ11:9-10)

多くの場合、神様から与えられない理由は、私たちが求めないのです。

時々、私たちはこう考えます。「これは自分勝手な祈りではないだろうか。他のものを祈るべきではないか。もっと大切なことを祈るべきではないか。」

このような時に覚えておくべきことが二つあります。

1.私たちの想像以上に、神様は気前の良い方です。神様は私たちを愛しておられ、良いものを私たちに与えてくださいます。

ルカの福音書では、イエス様が少しユーモラスな話をされます。ある人が寝ようとしていたところ、隣人がしつこくその人をたたき起こして「パンをちょうだい」と頼み続けました。最終的に、その人は「しつこいなあ」と思いながらも隣人にパンを与えました。

イエス様は神様がそのようにイライラされると言っているのではありません。むしろ、イエス様はこう言われます。

「その人が疲れて隣人のしつこさにイライラしていても、相手にパンを与えるなら、なおさら、あなたを愛しておられる天の父が喜んであなたの祈りに答えないことがあるでしょうか。」

2.神様は私たちがご自分をもっとよく知ることを望んでおられます。また、私たちが神様をより信頼することを望んでおられます。そして、私たちが神様の良さを体験し、知ることを望んでおられます。

祈りは、この神様を知るプロセスの重要な部分です。私たちは祈れば祈るほど、神様の御心をより深く理解できるようになります。何が「良いもの」であり、何が「悪いもの」であるかを区別できるようになります。

そして、かなえられた祈りと断られた祈りを通して、私たちは神様の判断と知恵を信頼する方法を学びます。

けれども、私たちが求めなければ、そのような学びや成長は決して得ることができません。

だからこそ、求めなさい。捜しなさい。たたきなさい。そうするなら、あなたが期待する以上に多くのドアが開かれるでしょう。そして、神様のことをもっと知り、その御心を理解することで、神様とのより親しい関係が築かれるでしょう。

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マタイの福音書 マタイ6章 ルカの福音書 ルカ11章

山上の説教:私たちはどこに照準を合わせるのか?

前回の記事で私が述べたのは、私たちがいつも「この罪を避けなきゃ、この罪を避けなきゃ」と考えると、多くの場合、かえってその罪に落ちてしまうということです。それよりも、もっと良い方法は、神様に焦点を当てて従うことです。

ただし、この態度は誘惑に対する場合だけでなく、すべてのことに対して持つべきだと思います。この箇所では、イエス様が私たちが何に照準を合わせるべきかについて語られます。

自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。

自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。(マタイ6:19-21)

そして、イエス様はこう言われました。

だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。

あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(24)

私たちは自分自身にこう問いかけるべきです。「私は何に照準を合わせているだろうか。」

多くの人々は、一時的なものに照準を合わせます。例えば、お金や持ち物などを得ることに焦点を当てています。

しかし、イエス様はこう言われます。「そんなものは結局なくなります。あなたは永遠のものに照準を合わせるべきです。」

では、永遠のものとは何でしょうか。

永遠のものは二つしかありません。神様との関係と、ほかのイエス様を信じる人々との関係です。

私たちは天国に、この地からほかのものを持っていくことはできません。だからこそ、この世に生きている間に、その二つのものに焦点を当てるべきです。

私たちは神様との関係をより深めるために努力するべきです。また、イエス様を知らない人々に福音を伝えるべきです。そして、クリスチャンの兄弟姉妹との関係を強めるために働くべきです。

そうするなら、私たちは天国に宝を蓄えることができます。神様との関係と、私たちが愛する人々との関係よりも、もっと素晴らしい宝があるでしょうか。

しかし、多くの人々、たとえクリスチャンであっても、お金を儲けることやこの世のものを獲得することに焦点を当てています。けれども、イエス様は「あなたはそれができない」と警告されます。

神様はあなたの心の半分だけを望まれるのではありません。もし神様があなたの心の半分しか持たないなら、あなたの奉仕は受け入れられません。私たちはお金に仕えることもできるかもしれませんし、神様に仕えることもできます。両方に仕えることはできません。

そこで、イエス様は私たちに問いかけられます。「あなたはどんな目を持っていますか?物の本当の価値が見えていますか?何が本当に大切かわかっていますか?

もしそうなら、あなたの全身も明るいでしょう。あなたは生きがいのある人生を送り、神様が意図された人生を知るでしょう。それは、神様との関係と人間関係を中心とした人生です。」

けれども、もしそれが見えないなら、あなたは暗闇に満ちた人生を送ります。あなたはいつも不満を感じますが、その理由を決して理解することはありません。お金や他のものを追い求めても、最終的にあなたの心は空っぽのままです。

そのため、イエス様はこう言われます。

もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。(マタイ6:23)

また、イエス様は私たちに警告されます。

だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。(ルカ11;35)

どうでしょうか。あなたは何に照準を合わせていますか。

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山上の説教:日常の霊的な戦い

毎日、私たちは霊的な戦いに直面しています。そのため、イエス様は私たちにこのように祈るべきだと教えられました。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(マタイ6:13)

私たちは邪な世界に生きています。この世界はサタンの住まいであり、彼は私たちに対して悪意を持っています。どうしても私たちを倒したいと思っているのです。

つまり、サタンは私たちの心の中で働き、私たちを誘惑して、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢に負けさせようとします。(第一ヨハネ2:16)

だから、私たちは神様の導きを祈るべきです。具体的には、罪に焦点を当てるのではなく、神様に焦点を当てるように祈るべきです。

私たちには誰しも誘惑に負けやすい弱点があります。その弱点を正しく認識し、できる限りその誘惑から逃げるべきです。しかし、してはいけないことに過剰に注目しすぎると、その誘惑がますます強くなってしまうこともあります。

一方で、もし私たちが神様に焦点を当てるなら、自然と誘惑から離れることができます。ただ罪を避けるだけでは十分ではなく、神様に従うことが必要なのです。

さらに、サタンは私たちを誘惑するだけでなく、私たちを滅ぼしたがっています。サタンは人々を通して私たちを攻撃することもあります。

また、サタンは私たちに嘘をつくことがあります。「あなたはもうダメだ。神様があなたを愛するはずがない。あなたは失敗しすぎたから、神様はもうあなたを赦さない。」

だからこそ、イエス様は私たちに「悪からお救いください」と祈るよう教えられます。(もう一つの翻訳では「悪者から、つまり悪魔からお救いください」となっています。)

私たちは、私たちを憎むサタンと戦っています。だから、ペテロもこう言いました。

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。(第一ペテロ5:8)

神様がサタンの私たちに対する影響を制限してくださるように祈りましょう。

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山上の説教:私たちのニーズのために祈る

私にとって驚くべきことは、この宇宙を支配される神様が、私を愛してくださることです。また、私が些細なことについて祈る時でさえ、神様は私の祈りをしっかりと聞いてくださいます。

イエス様もそのことを教えてくださいました。彼はこう言われました。

だから、こう祈りなさい。。。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。(マタイ6:9,11)

イエス様がこの説教の後半で「心配」について話される時、神様が私たちのニーズをどれほど気にかけてくださるかを教えられます。

つまり、イエス様によれば、神様は私たちが食料や衣類、寝る場所を持っているかどうかを気にかけておられるのです。

もちろん、こういったものを手に入れるためにはお金が必要であり、さらにお金を得るには仕事が必要です。

私たちは、そういったことをよく心配します。

しかし、神様は「そんなことについて心配するな」と言われます。このような心配が私たちの心を支配してはいけません。むしろ神様は、天の父が私たちを愛しておられ、私たちのニーズに備えてくださることを信じるように望まれているのです。

だからこそ、私たちはそのニーズについて祈った後は、神様の手に委ねるべきです。

とはいえ、私たちはどれほど祈ることなく心配してしまうでしょうか。私自身も、そうする時があります。

私たちはこう自問すべきです。「私の天のお父さんが本当に私を愛しておられると信じているだろうか。私の天のお父さんが本当に私のニーズに備えてくださると信じているだろうか。」

もし、そのことを本当に信じるならば、私たちの心配はすぐになくなるでしょう。

あなたはどうでしょうか。あなたはただ心配しているでしょうか。それとも、祈っているでしょうか。

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山上の説教:神の御国。神の御心。

私は、英語のブログでこの箇所について書いたのは4年前でした。その記事を読み返すと、本当に懐かしい気持ちになり、振り返ってみると、神様の良さを見ることができます。

その当時、私は強いフラストレーションを感じていました。家計は悪くはありませんでしたが、理想的な状態ではありませんでした。

また、より良い仕事の機会がありましたが、その面接の日が平日だったため、休暇を取る必要がありました。けれども、なぜか私が勤めていた派遣会社はその休暇のリクエストを断りました。そのため、私は「どうすればいいのだろう」と悩みました。

最終的に、神様の恵みによってその面接に行くことができました。派遣されていた中学校の教頭先生が助けてくださり、派遣会社を説得して私が面接に行けるようにしてくださいました。

その面接に合格し、今ではより良い学校で働いています。

では、この話とこの箇所がどのように関係しているのでしょうか。この箇所で私たちはこう祈ります。

御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6:10)

正直に言うと、その朝、私は本当にストレスを感じていました。派遣会社が不公平だと思ったからです。(その以前、英語のブログ記事で、不公平な世界について書いたことがあったのに。)

以前も言った通り、私は自分の状況をコントロールすることはできませんでした。ただ、私の態度をコントロールすることだけはできました。とはいえ、それは非常に難しいことでした。

最終的に私はこう祈りました。「主よ、あなたの御心が天で行われるように地でも行われますように。天ではあなたの御心が完全に行われています。この地上でも、とりわけこの状況の中で、あなたの御心が完全に行われますように。

もし私がこの仕事を得ることがあなたの御心なら、それは素晴らしいことです。もしそうでないなら、私がそのことを受け入れられるように助けてください。」

さらに私は「御国が来ますように」という祈りも捧げました。

私にとってその仕事を得ることは非常に重要でした。しかし、それ以上に神様の御国は断然重要でした。

その時私が考えていたのは、「この仕事を得れば、もちろん給料が上がるけれど、一番大切なことは、時間が増えて、神の御国のためにもっと何かできるようになることです。」ということでした。

その日、私はこの箇所を読みましたが、6章の終わりまで読み続けました。なぜなら、この箇所でイエス様は「自分の命のことを心配したりしてはいけません」と言われたからです。

その日、私は本当にその言葉が必要でした。そして、この箇所の終わりでイエス様はこう言われました。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)

今、振り返ると、イエス様はその約束を確かに守ってくださいました。

それにもかかわらず、私は今でも時々物事を心配してしまうことがあります。

それでも、神様の恵みによって、私は次のように祈ります。「私の人生において、またこの地上で、あなたの御国が来ますように。あなたの御心が行われますように。」

4年前、私はこう祈りました。

主よ。あなたは私のストレスをすべてご存じです。私の心配もすべてご存じです。でも、あなたはこの全地の主です。

あなたは私の雇い主の主です。そして、もっと大切なのは、あなたが私自身の主であるということです。

どうかあなたの御心が行われますように。私の仕事の状況で、あなたの御心が行われますように。私の将来においても、あなたの御心が行われますように。

私が何よりもあなたの御国に焦点を当てられるよう助けてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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山上の説教:私たちの誉れにふさわしい方

多くの人々は、この祈りを「主の祈り」と呼びます。しかし、実は「弟子の祈り」と呼ぶ方が適切だと思います。なぜなら、この祈りを祈るのはイエス様ご自身ではなく、イエス様の弟子たちだからです。

とにかく、イエス様は、こう言われました。

だから、こう祈りなさい。。。御名があがめられますように。(マタイ6:9)

この箇所では、新改訳聖書の翻訳者は「あがめる」という言葉を使いました。このギリシャ語には確かにその意味があります。

とはいえ、この言葉にはもう一つのニュアンスがあります。それは「聖い」という概念を含んでいます。

そのため、マタイ23:17では「聖いものにする」と翻訳され、ローマ15:16では「聖なるものとされた」と訳されています。さらに、第一テモテ4:5では「聖められる」と訳されています。

つまり、「御名があがめられますように」という祈りの意味は「御名が聖なるものと見なされますように」または「御名が聖なるものとしてあがめられますように」ということです。

もう一つ重要な点があります。聖書時代の文化では、人の名前がその人の性格や本質を表していました。

したがって、「御名が聖なるものとしてあがめられますように」と祈るとき、その意味は「神様ご自身が聖なる方としてあがめられますように」ということになります。

では、私たちが「神様は聖なる方だ」と言うとき、それはどういう意味でしょうか。

基本的には、神様が完全であり、欠点が全くない方だという意味です。神様は全く聖い存在であり、何一つ欠けるところがありません。

その一方で、私たち人間は不完全であり、私たちの性格は全く聖いものではありません。

だから、私たちは神様の完全さと聖さを見ると、神様に畏敬の念を抱くことはふさわしいことです。また、神様の完全さと聖さを見るとき、神様をあがめるのは当然のことです。

けれども、神様をあがめるだけでは十分ではありません。神様を見るとき、私たちは天のお父さんのようになりたいという思いが湧くべきです。つまり、私たちは天のお父さんを喜ばせたいと願い、自分の霊的な不潔と欠点を嘆くのです。

もし、「御名が聖なるものとして、あがめられますように」と祈るなら、罪深い生活を送る余地はありません。「まあ、神様が私を赦してくれるので、罪を犯してもいい」と言うことは全くできません。

もしあなたが本当に神様の子供であるなら、「御名が聖なるものとして、あがめられますように」と祈るとき、その祈りの意味は「神様、私はあなたに畏敬の念を抱きます。あなたを愛しているので、あなたのようになりたいです。どうか私を助けてください」ということです。

そのように祈るなら、神様はその祈りにきっと答えてくださいます。神様はご自身の子供が神様を模倣することを見ると、本当に喜ばれるのです。

そして、もし私たちが罪の泥に落ちるなら、神様は私たちを助けてくださり、イエス様の血によって私たちを清め、導き続けてくださいます。

また、神様は私たちに、神様のように聖い人生を送る力を与え、どのようにそのような生活を送るかを教えてくださいます。

あなたはどうでしょうか。神様に畏敬の念を抱いているでしょうか。そして、天のお父さんのようになりたいと願っているでしょうか。

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山上の説教:私たちのお父さん

一つの記事で主の祈りについて話そうかなあと思ったけれど、結局少しずつ話した方が良いと思いました。

この箇所では、イエス様は神様をどのように呼ぶべきか教えてくださいます。

マタイの福音書では、イエス様は「天にいます私たちの父よ」と祈ります。

ルカの福音書では、イエス様はもっと簡単な表現で「父よ」と祈ります。

実際、日本では、主の祈り以外で「天にいます私たちの父よ」や「父よ」と祈る人はほとんどいないように感じます。

むしろ、私の教会では「天のお父様」と祈る人が多いです。

その理由は正確には分かりません。私の個人的な意見ですが、クリスチャンがこのような呼び方を使うと、少し神様との距離を感じさせるように思います。

もし、「天のお父さん」や「お父さん」と祈れば、イエス様が意図された意味により近づくのではないでしょうか。

なぜなら、イエス様は私たちが神様に親しみを持ち、近づくべきだと教えることを望まれたのだと思います。

もちろん「主よ」と祈ることも良いことです。神様はまさに私たちの主であり、その呼び方はふさわしいものです。ペテロもそのように祈りました。(使徒4:24)

けれども、依然と言ったように、その呼び方は、神様と私たちの間に距離があることを暗示します。もちろん、王様としもべには関係がありますが、親しい関係ではありません。そのしもべは、いつでも王様と話すことができるわけではありません。

しかし、王様の子供は、いつでもそのお父さんと話すことができます。その子は、王に仕えるしもべにはないアクセスを持っています。それに、その子は、父の愛を確信しています。

私たちの天のお父さんは、大いなる王です。神様は、この世界、この宇宙を支配されています。それでも、神様はいつでもあなたのために時間を割いてくださいます。なぜなら、神様はあなたの王だけではなく、あなたのお父さんでもあるからです。

残念なことに、多くの人々は「天のお父さん」と祈っても、その言葉の意味を深く理解していません。なぜなら、彼らの実のお父さんが不完全だったからです。

そのお父さんは、彼らの話を聞いてくれず、愛してくれず、養ってくれなかったかもしれません。また、中にはお父さんから虐待を受けた人もいます。

だから彼らは、その否定的なイメージを天のお父さんに投影してしまいます。

しかし、神様はそのようなお父さんではありません。たとえあなたの実のお父さんが欠点を抱えていたとしても、神様にはそのような欠点はありません。

神様は、あなたを愛してくださいます。神様は、あなたの祈りを聞いてくださいます。神様は、あなたのニーズに備えてくださいます。そして、神様は、決してあなたを捨てられることはありません。

あなたが「天のお父様」と祈るとき、どんなイメージを持っていますか。

もし否定的なイメージを持っているなら、神様があなたの実のお父さんとは異なる存在であることを心に留めてください。そして、次のように祈ることをおすすめします。

神様が、あなたの実のお父さんによって受けた傷を癒してくださるように。あなたが実のお父さんを赦せるように。そして、神様があなたの「天のお父さん」へのゆがんだイメージを正してくださるように祈りましょう。

神様は完全なお父さんです。あなたが天のお父さんを本当に知ることができますように。