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ルカの福音書 ルカ12章

神様との和解

福音書に記されたイエス様の教えは、とても興味深いものです。なぜなら、以前述べたように、イエス様は同じたとえや教えを繰り返されることがあるものの、異なる適用を示されるからです。

山上の垂訓において、イエス様は私たちに、できるだけ早く相手と和解しなければならないと教えられました。そうしなければ、彼らがあなたを裁判官のもとへ連れて行き、あなたは裁かれることになります。そして、裁判官があなたを裁いた後では、もはや手遅れです。(マタイ5:26-27)

この個所では、イエス様は同じたとえを用いられますが、人々との和解について語っているのではありません。むしろ、神様との和解について語られています。

まず、イエス様は群衆を責められました。なぜなら、彼らは空の現象を通じて天気を予測できたにもかかわらず、神様からの明らかなしるしを見極めることができなかったからです。そのしるしとは、イエス様御自身です。

イエス様はすでに来られていたにもかかわらず、彼らはメシアとして認めようとしませんでした。それに加えて、彼らはイエス様の教えに反対し、結果として神様に反抗していたため、裁かれる危険がありました。

だから、イエス様は彼らに警告を与えられたのです。

あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するよう努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行きます。

裁判官は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまいます。

あなたに言います。最後の一レプタを支払うまでは、そこから決して出られないのです。(ルカの福音書12:58-59)

要するに、神様との和解を求めなさい。そうしなければ、あなたは必ず裁かれることになります、ということです。

あなたはどうでしょうか。神様との平和を持っていますか。その答えは一つしかありません。それは、イエス様との関係です。

イエス様は十字架上で、私たちの罪の罰を身代わりとして受けてくださいました。もし、イエス様とその御業を信じるなら、私たちは神様と和解できるのです。

だからこそ、パウロはこう言いましました。

私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(第二コリント5:20-21)

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ルカの福音書 ルカ12章

福音の炎

炎は時に恐ろしいものです。特に森林火災は危険であり、一瞬にして広がり、大規模な被害を引き起こします。それでも、その一方で、炎は森林にとって良い影響をもたらすこともあります。

炎は地面に積もった落ち葉や折れた枝を燃やし、その結果、土壌が日光を受けて活性化し、栄養が供給されます。

また、下生えが焼かれることで、周囲の木々は土壌の栄養をより多く吸収できるようになり、さらに強く成長します。

それに加え、炎は木々に害を及ぼす虫を駆除する働きもあります。

要するに、炎は森林を清め、新たな命をもたらすことができるのです。

そして、イエス様は弟子たちにこう言われました。

わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。(ルカの福音書12:49)

その火とは何でしょうか。聖書学者たちの間にはさまざまな意見がありますが、私はその火が福音であると考えます。

では、イエス様はどのようにしてその火をともされたのでしょうか。

そして、イエス様はこう言われました。

しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。(50)

この話において、「バプテスマ」という言葉は、イエス様の死を指しています。別の場面で、イエス様はヤコブとヨハネにこの「バプテスマ」について語られました。(マルコ10:38)

イエス様が十字架で死なれ、よみがえられた後、福音の火がともされました。そして森林火災のように、その火は広がり、人々の魂を清め、永遠の命をもたらしました。彼らの罪は赦され、神様との関係は回復されたのです。

とはいえ、火は時に痛みの原因ともなります。だから、イエス様は弟子たちにもう一度警告を与えられました。

あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。

今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。(51-53)

魂を清める炎に触れることは痛みを伴います。そのため、多くの人はその痛みを経験したくないと考えます。

福音を聞いたとき、彼らの良心はその火によって軽いやけどを負い、ためらいを覚えます。その火による清めを望まないがゆえに、彼らはその火から逃げてしまうのです。

または、その火をもたらす人と争い、時には自分の家族とさえ対立することもあります。

この個所では、イエス様はこのことについて語られています。

けれども、私たちが福音のために家族や友人から拒絶され、苦しむとき、イエス様が十字架の上でさらに大きな苦しみを経験されたことを思い起こしてください。

だから、へブル人への手紙の著者はこう記しています。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(へブル12:3)

だからこそ、福音の炎を携えましょう。そうすれば、その火が周りの人々に触れ、彼らを清め、新しい命をもたらします。

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ルカの福音書 ルカ12章

イエス様の再臨に向けて準備できている?

イエス様は、偽善や貪欲、この世のものを慕うことに関して警告された後、もう一つの重要なことについて弟子たちに訓戒を与えられました。それは、イエス様の再臨に備えて、彼らがしっかりと準備をしておく必要があるということです。

そして、イエス様はこう言われました。

腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。

主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。

まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。(ルカの福音書12:35-37)

つまり、イエス様の再臨が訪れても、私たちは驚くべきではありません。私たちは常にイエス様を待ち望んでいるはずです。そのため、イエス様が来られたとき、私たちはすぐにその声に応えるべきです。

とはいえ、私は準備ができていないことが多いと認めなければなりません。なぜなら、ときにこの世のものに心を奪われてしまうことがあるからです。

だからこそ、イエス様は私たちに警告を与えられるのです。

ところが、もし、そのしもべが、「主人の帰りはまだだ」と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。

そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに会わせるに違いありません。(45-46)

私たちは「イエス様はいつでも戻られるかもしれない」とよく言いますが、その言葉を本当に信じているでしょうか。

私たちは「イエス様は今日戻られない」と明言することはないかもしれません。けれども、私たちがどれほどイエス様が決して再臨されないかのように生きているでしょうか。

だから、私たちは兄弟姉妹を傷つけたり、悪口を言ったりするのでしょうか。または、この世のものに心を奪われ、のめりこんでしまうのでしょうか。そのように生きるなら、私たちは裁かれるのです。

そして、イエス様はこう言われました。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。

しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。

すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(47-48)

要するに、あなたが知識を持てば持つほど、その責任も大きくなります。

とはいえ、「私は知らなかった」と言ったとしても、それは言い訳にはなりません。あなたは知るべきだったのです。神様の御心を積極的に求めるべきでした。そうしなければ、あなたは罰せられるのです。

これは非常に厳しい警告ですが、イエス様は希望に満ちた言葉も語られました。

では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な賢い管理人とは、いったいだれでしょう。

主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。(42-44)

もし私たちが忠実に神様に仕えるなら、イエス様の再臨の際に報いを受けることができます。

あなたはどうでしょうか。神様はあなたにさまざまな責任を委ねられましたが、その務めを誠実に果たしているでしょうか。あなたは忠実に仕えているでしょうか。

イエス様の再臨に向けて準備できているでしょうか。

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人生の意義

この人生の意義とは何でしょうか。

多くの人々はその答えを知らず、迷い続けています。彼らは、お金や財産の中に人生の意義を見いだせると信じ、それらを追い求めます。

だからこそ、この話の中で、その男性はイエス様に家族の遺産を公平に分けるよう願ったのです。

けれども、イエス様は彼にこう言われました。

いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではない。(ルカの福音書12:15)

そして、イエス様は周囲の人々にこう言われました。

だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。

いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。(22-23)

どうしてイエス様はこのことを言われたのでしょうか。二つの理由があります。

一つ目は、食べ物や服、お金で買えるものよりも、私たちの命がはるかに大切だからです。これらのものは一時的なものであり、瞬く間に存在し、瞬く間に消えてしまいます。

この世のものを手に入れることで、一時的に心や体が満たされるかもしれません。しかし、最終的にはもっと多くを求めるようになり、決して満足することはありません。むしろ、ますます飢え渇くようになります。

二つ目は、神様が私たちを深く愛しておられるからです。神様は私たちの必要をすべてご存知であり、もし私たちが神様を最優先に求めるなら、神様はその必要を満たしてくださいます。

それならば、私たちは他のものを優先するべきではないでしょうか。

では、私たちは何を最優先にするべきでしょうか。それは、神様の国です。

神様の国とは何でしょうか。それは「人々」です。イエス様は彼らのために命を捧げられました。神様は彼らとの関係を強く望んでおられます。だから、私たちは彼らを優先するべきです。

もし誰かが助けを必要としているなら、可能な限りその必要を満たすように努めましょう。お金を愛するのではなく、人々を愛し、惜しみなく与えましょう。なぜなら、神様は惜しみなく私たちに多くのものを与えてくださったからです。

私たちがこのように与えるなら、「自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げるのです。」(ルカ12:33)

とはいえ、彼らの物質的な必要を満たすだけではなく、彼らの霊的な必要にも目を向け、イエス様の愛によって彼らに触れるべきです。

神様は私たちに素晴らしい国を与えてくださいました。私たちの罪を赦すために、神様はイエス様を送ってくださいました。そして、神様は私たちを養子として迎えてくださいました。

だから、一時的なものに心を奪われたり、時間を浪費したりしないようにしましょう。むしろ、永遠に価値のあるものを追い求めましょう。

私たちを愛してくださる神様を求め、その愛をもって周りの人々に触れましょう。そうすれば、彼らも神様を知るようになるでしょう。

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愚かな金持ちのたとえ話:私たちの時間が来るとき

私たちの命は非常にもろいものです。一瞬で、それが奪われることもあります。交通事故や地震などの災害が起これば、私たちは突然亡くなるかもしれません。

その日、私たちが神様の御前に立ったとき、神様は私たちに何と言われるでしょうか。

今日の箇所では、一人の男性がイエス様に、家族の遺産を分けるよう求めました。どうやら、彼の兄が遺産を公平に分けていなかったようです。

ところが、おそらくイエス様の目には、さらに大きな問題があったのでしょう。つまり、その男性はお金に心を奪われすぎていたのです。

彼の父親は裕福であり、彼は長い間、その遺産を受け取ることを夢見ていたのかもしれません。けれども、父親が亡くなったとき、彼は期待していたほどの遺産を受け取ることができず、その夢は崩れ去りました。

そこで、彼はイエス様に助けを求めました。

しかし、イエス様はその願いをきっぱりと断られました。

いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。(ルカの福音書12:14)

簡単に言えば、「絶対にだめだ」ということです。

そして、イエス様は彼に警告を与えられました。

それ以前、イエス様は弟子たちに偽善について警告されましたが、その男性の願いを聞いた後、イエス様は彼と弟子たちに対して貪欲について警告されました。

どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。(15)

イエス様は、その男性と弟子たちに何を伝えたかったのでしょうか。

それは、私たちの人生において、この世のものが最も大切なものではないということです。快適な生活や豪華なライフスタイルは、本質的にはそれほど重要ではありません。

そして、イエス様はたとえ話をされました。その話の中に、一人の金持ちが登場します。彼は多くの財産を持ち、贅沢な暮らしをしていました。

そして、ある年、彼の畑は豊作となりました。彼はどのようにしようかと考えました。

彼は貧しい人々に食べ物を分け与えることもできましたし、財産を使って多くの人を助けることもできました。けれども、彼はそうせず、自分自身のことだけを考えました。そして、彼はこう言いました。

こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。

「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」(18-19)

多くの人々はそのような夢を抱いています。彼らは早く引退し、自分のためだけに生きたいと願っています。

「安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」

ところが、神様はその人にこう言われました。

愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。(20)

そして、イエス様はこのたとえ話を次のように締めくくられました。

自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。(21)

では、私の元の質問に戻りましょう。もし私たちがこの世を去り、神様の御前に立つとき、神様は私たちに何と言われるでしょうか。

神様はこう言われるでしょうか。 「愚か者よ。あなたは人生の中で無駄なものを追い求め、自分の人生を無意味なものにしてしまった。」

それとも、神様はこう言われるでしょうか。

「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかなものに忠実だったから、私はあなたに多くのものを任せよう。主人の喜びを共に喜んでくれ。」(マタイ25:23 )

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隠れクリスチャン

私が子供の頃、「Undercover Christian」(隠れクリスチャン)というスキットを聞いたことがあります。そのスキットでは、あるクリスチャンがレポーターにインタビューされたとき、こう言いました。

「私の信仰は個人的なものですので、周りの人々には話しません。」

しかし、イエス様は「隠れクリスチャン」に対して、別の呼び方をされます。それは「偽善者」または「役者」です。

(実は、「偽善者」という言葉の元の意味は「役者」ということでした。)

その人はクリスチャンの世界で歩むとき、クリスチャンのように話し、ふるまいます。けれども、教会を出ると、まるでイエス様を知らないかのようにふるまいます。

そして、この箇所で、イエス様は「最終的にあなたの秘密は明らかになる」と警告されました。

私は、実際にそのようなクリスチャンの話を聞いたことがあります。彼はイエス様を自分の主として受け入れましたが、両親の反応を恐れていました。そのため、仏壇で祈り続け、線香をあげ続けました。そして彼はこう言いました。

「私は両親に愛を示したいから。」

ところが、結局その秘密は明らかになりました。その時、彼の父親は激怒しました。

「お前はクリスチャンなのに、仏教の儀式をし続けていたのか?お前は一体どんなクリスチャンなのか?」

彼は「両親に対する愛を示したい」と言っていましたが、最終的には自分の証を損なってしまいました。

イエス様はこう言われました。

だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。

しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。(ルカの福音書12:8-9)

では、私たちは、人の前で「イエス様を知らない」と言ったことがあるなら、救いを失ってしまったのでしょうか。

必ずしもそうとは限りません。ペテロも弱さの中で、「イエス様を知らない」と三度言いました。

私自身も、中学生のとき、そして高校生のときに、自分の信仰を友達から隠していました。友達に「あなたはクリスチャンですか」と聞かれても、私はその質問に対して曖昧に答えていました。

しかし、もし私たちが一貫して人の前で「イエス様を知らない」と言い続けるなら、自分がクリスチャンであることを公にすることはできません。

もしあなたがクリスチャンであるなら、そのことを明確に伝えなければなりません。

洗礼式には一つの重要な目的があります。それは、「私はクリスチャンである」ということを宣言することです。あなたは世界に向かって、自分の主を公に表します。

もしあなたが洗礼を受けることを拒むなら、あなたは本当にクリスチャンであると言えるでしょうか。

私たちは隠れクリスチャンにならないようにしましょう。私たちのために死んでくださり、よみがえられたイエス様を大胆に宣言しましょう。

私たちの信仰を拒む人もいるでしょう。けれども、私たちが見つけた喜びを見出す人もいるでしょう。

あなたはどうしますか。

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ルカの福音書 ルカ12章

恐れなさい。恐れるな。

この箇所でのイエス様の言葉は、私の心に深く響きます。

「恐れてはいけません。」

そして、「恐れなさい。」

イエス様はこう言われました。

そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。

恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(ルカの福音書12:4-5)

要するに、「人ではなく、神様を恐れなさい。」ということです。

人々はあなたの身体を殺すことができるかもしれません。しかし、神様はあなたを地獄に投げ込む権威を持っておられます。一瞬のうちに身体は死ぬかもしれませんが、霊的な死は永遠に続くのです。

では、私たちは恐れながら生きるべきなのでしょうか。

神様はじっと私たちを見つめ、私たちの失敗を待っておられるのでしょうか。そして、私たちが罪を犯したとき、神様は私たちを稲妻で打たれるのでしょうか。神様は人々を地獄に投げ込むことを喜んでおられるのでしょうか。

決してそうではありません。

イエス様はこのことも語られました。

五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。

それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(6-7)

私たちが神様の御性質を考えるとき、二つのことを覚えていなければなりません。それは、神様の聖さと神様の愛です。その二つの概念のバランスを保つことが重要です。

多くの人々は神様の愛に焦点を当てる一方で、神様の聖さを忘れがちです。

けれども、聖書において、人々が神様の栄光を目の当たりにすると、まず神様の聖さに気づきます。そして、神様の聖さを見たとき、自分の汚れを認識するのです。

その結果として生じるものは何でしょうか。

それは、恐れです。

なぜなら、彼らは神様の裁きを受けるに値することを理解し、自分が死ぬべき存在であると悟るからです。

ところが、その後、彼らは神様の愛を知ります。聖書には何度も、神様の最初の言葉として「恐れるな」と記されています。

この箇所においても、イエス様は私たちに同じことを教えられました。

まず、イエス様は「神様を恐れなければならない」と言われました。なぜなら、神様は聖なる方だからです。神様の聖さゆえに、罪は必ず裁かれなければなりません。

もしこの世に生きている間に、あなたが神様のもとに行かず、罪の赦しを得なければ、その罪は地獄で裁かれることになります。

しかし、それは神様の望みではありません。神様は私たちを深く愛しておられ、私たちの最善を願っておられます。

神様の目には、私たちは取るに足りない存在ではありません。それどころか、神様は私たちの名前を知り、私たちの人生の細部に至るまでご存知なのです。

神様は、あなたの罪を背負うためにイエス様をこの世に送られました。それほどまでに、あなたを愛しておられます。もしあなただけが罪を犯していたとしても、神様はイエス様を送られたことでしょう。

私たちがこのことを実感するとき、私たちの最初の恐れは、神様への圧倒的な愛へと変えられます。

私たちはもはや神様を恐れる必要はなく、また、その他の何かを恐れる必要もありません。もし私たちが神様に信頼するなら、この世で何が起ころうとも、私たちには天国における確かな希望があるのです。

だからこそ、ヨハネの言葉を心に留めましょう。

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。

神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。

それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。

恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(第一ヨハネ4:16-19)

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ルカの福音書 ルカ12章

偽善

時々、イエス様は一つのたとえを用いて、さまざまな教訓を示されました。この箇所では、その一例を見て取ることができます。

以前、イエス様が弟子たちを宣教の旅へ遣わされたとき、こう言われました。

おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。(マタイ10:26)

つまり、イエス様は弟子たちに多くのことを教えられましたが、他の人々はまだその教えを聞いていなかったのです。けれども、弟子たちが福音を伝えるとき、彼らはイエス様のすべての教えを人々に伝えなければなりませんでした。

また、イエス様が彼らにささやかれたことを、彼らは屋上で大胆に宣べ伝えなければなりませんでした。(マタイ10:27)

この箇所では、イエス様はほぼ同じたとえを用いながらも、全く異なる教訓を示されました。イエス様は弟子たちにこう言われました。

パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。(ルカの福音書12:1)

そして、イエス様はこう言われました。

「あなたは心の中で様々なものを隠しているかもしれません。けれども、結局それらは明らかになります。あなたが暗闇で語ったことは、光の中で聞かれます。また、あなたがささやいた秘密は屋根の上から宣べ伝えられるのです。」

要するに、あなたは良いクリスチャンのふりをすることができるかもしれません。しかし、もしあなたが偽善者であり、行動が言葉と矛盾しているなら、あなたの偽善は最終的に明るみに出ます。

この世では隠せるかもしれませんが、天国では隠すことはできません。

だからこそ、私たちは偽善者にならないように気をつけなければなりません。私たちは神様と人々の前で正直な人生を歩みましょう。

そうしなければ、私たちに関する真実は、いつか必ず明らかになるのです。

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マタイの福音書 マタイ6章 ルカの福音書 ルカ12章

山上の説教:心配

私はこの箇所の意味を頭では理解していますが、この真理を本当に実感できているかはわかりません。

今はあまり心配していません。けれども、5年前、私は仕事や家計についてよく悩んでいました。

そのとき、この箇所を読んでこう思いました。「これは理にかなっている。神様は鳥を養い、花を美しく保っておられる。だから、神様はきっと私のことも世話してくださるだろう。」

それでも、私は心配し続けました。「どうやって、お金を節約できるだろうか。もっといい仕事が見つかるだろうか。」

振り返ってみると、神様の忠実さと良さを見て取ることができます。だからこそ、私はこれから心配する必要はないはずです。

とはいえ、将来トラブルが起こったとき、私はどう反応するでしょうか。

時々、私がある程度コントロールできる問題に直面します。でも、まったくコントロールできない問題に直面することもあります。

そのとき、私の心はこう言います。「もう、自分にできることはやったでしょう?もう心配せずに、そのことを神様の手に委ねよう。」

それでも、心の別の部分では、なおも心配し続けます。

私は、イエス様の言葉を想像できます。

「信仰の薄いブルース。この世の人々は、こういったものを求めている。しかし、あなたの天の父があなたを愛しておられることを知らないのか。あなたのことを養ってくださることを知らないのか。

だから、この世のことから目を離し、天の父に焦点を当てなさい。天の父にあなたの悩みを委ねなさい。そうすれば、すべてよりも神の御国を第一に求めるならば、天の父は必ずあなたを養ってくださる。」

天のお父さん。あなたは私を愛してくださると約束されました。それを信じています。でも、私の信仰を強めてください。

私は信仰が薄いため、よく心配してしまいます。しかし、あなたはこれまで私にあなたの忠実さを示してくださいました。私には、あなたを疑う理由が何もありません。それなのに、どうして疑ってしまうことがあるのでしょうか。

私が自分の心配を手放せるように助けてください。あなたの光によって、私の問題が力のない影のようになるように。

私があなたに焦点を当てられるように助けてください。あなたを信頼できるように助けてください。アーメン。