これは、本当に胸が痛む箇所です。パリサイ人との対話の後、イエス様はこう言われました。
ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。
見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。わたしはあなたがたに言います。
「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません。(ルカの福音書13:34-35)
イスラエルの歴史において、その指導者たちは主の言葉と、それを伝えた預言者たちを拒絶しました。だからこそ、イエス様は裁きの日が迫っていることを警告されたのです。
エルサレムの神殿は再び滅ぼされ(西暦70年に実際に起こりました)、ユダヤ人たちは各地に逃れなければならず、その結果、20世紀までイスラエルという国家は存在しませんでした。
そして、イスラエルの民がイエス様をキリストとして受け入れる時が来るまで、イエス様は再臨されません。
とはいえ、この箇所は私たちにとってどのような意義を持つでしょうか。この箇所を通して、私たちは神様が何を望み、何をされず、また何ができないのかを知ることができます。
神様の望みとは何でしょうか。神様は私たちとの親しい関係を望まれます。そして、その愛によって、私たちが平和、喜び、そして満足を見いだすことを願っておられます。
では、神様は何をされないのでしょうか。神様は私たちに神様を受け入れるよう強制されることはありません。
イエス様はユダヤ人の指導者たちにこう言われました。「わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」
もし私たちがユダヤ人の指導者たちのように神様を拒絶するなら、神様は私たちの決断を受け入れられます。
では、神様には何ができないのでしょうか。もし私たちが神様から離れるなら、神様は私たちに喜びや平和や満足を与えることができません。
それは、神様が与えたくないのではなく、与えることができないのです。
なぜなら、私たちは神様との関係のために創造されたからです。だからこそ、神様から離れると、私たちの心には常に空虚さが残ります。
私たちはその空虚を、お金や所有物、仕事や人間関係で満たそうとするかもしれません。けれども、それらでは決して満たされません。結果として、私たちの人生はむなしさに包まれてしまいます。
神様抜きの人生とはそのようなものです。なぜなら、本当の愛、本当の平和、本当の喜びは神様から来るものだからです。神様から離れるということは、愛と平和と喜びから離れてしまうことなのです。
あなたが「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」と言うことができるようになるまで、あなたは真の愛と平和と喜びを得ることはできません。
あなたはどうでしょうか。イエス様を救い主として受け入れていますか?
もしかすると、神様から離れたまま、平和と喜びと愛を求めているのではないでしょうか?
そのような人生は最終的にむなしさに終わります。イエス様こそが唯一、本当の満足をもたらしてくださるのです。
今日、イエス様を受け入れてみませんか?
イエス様、私はこれまであなたに背を向けて生きてきました。あなたから離れ、自分の力で生きようとしていましたが、私の人生はむなしさに包まれました。
どうか赦してください。あなたが私の罪のために死んでくださり、よみがえられたことを信じます。私はあなたを私の主、そして救い主として受け入れます。
どうか私をあなたへと引き寄せてください。あなたとの親しい関係を望みます。アーメン。
