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ルカの福音書 ルカ14章

代価を計算する?

大勢の群衆がイエス様についていったとき、イエス様は彼らの心を探り、その動機を見抜こうとされたのではないでしょうか。

彼らはイエス様の奇跡を見るためについていったのでしょうか。それとも、イエス様の素晴らしい教えを聞くためについていったのでしょうか。または、彼らは本当にイエス様がメシアであることを信じたからこそ、ついていったのでしょうか。

おそらく、そのような理由でイエス様は彼らに挑戦されたのです。

わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。(ルカの福音書14:26-27)

要するに、「あなたは本当に私の弟子になりたいと思っていますか。その代価は高いです。家族を失うことになるかもしれませんし、自分の命さえ失うかもしれません。」ということです。

イエス様は弟子たちに楽な人生を約束されることは決してありませんでした。むしろ、その逆を約束されたのです。

十字架を負うことは決して楽なことではありませんでした。そして、人々が十字架を地面に置いた後、その十字架で苦しみ、ひどい死を経験しました。

けれども、十字架を負うことを拒み、つまりイエス様のために試練を受けることを拒むなら、イエス様は「弟子になることはできない」と言われました。

それは受け入れやすい言葉でしょうか。決してそうではありません。

それでもイエス様は私たちに挑戦されます。「私についていきたいと思うなら、まず費用を計算しなさい。」

イエス様はその決断を塔を築くことに例えられました。ある人が前もって費用を計算せずに塔を建て始め、完成できなかったなら、周囲の人々にあざ笑われるでしょう。

同じように、もしあなたがイエス様についていき始めても、試練のせいで諦めてしまったら、あなたは恥をかくことになります。

とはいえ、もう一つ費用を計算しなければなりません。それは、イエス様についていかない場合の代価です。

また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。

もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。(31-32)

あなたには神様との平和があるでしょうか。それとも、神様と戦っているのでしょうか。

あなたは神様と戦っていないと思うかもしれません。しかし、もしイエス様をあなたの主として拒絶しているなら、実際には神様に反抗しているのです。

少し考えてみてください。聖書によれば、神様は私たちと和解をもたらすためにイエス様をこの世に送りました。それでは、なぜ私たちには神様との和解が必要なのでしょうか。それは、私たちが神様と戦っているからです。

だからこそ、イエス様は私たちに警告されました。「あなたが神様と戦っているなら、その代価を計算しなさい。たとえば、ある王がほかの王と戦おうとするなら、まず勝利できる可能性を考えます。もし勝利できないと思えば、平和を求めるでしょう。」

私たちもそのようにすべきです。実際には、神様はすでに私たちに手を差し伸べておられます。

けれども、神様との平和を望むなら、神様の条件を受け入れる必要があります。それは、イエス様の十字架の御業を信じ、イエス様を主として受け入れることです。

そうすることで、私たちは本当の命を知ることができます。しかし、もしイエス様を拒絶したまま亡くなるなら、神様との戦いがどれほど深刻なものであったかを知ることになります。

ですから、まだ時間がある間に神様との平和を求めましょう。

神様は私たちにこの世の塩となるよう呼びかけておられます。神様の光と愛を通じて、この世に影響を与えるよう求めておられるのです。役立たない塩にならないようにしましょう。

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ルカの福音書 ルカ14章

言い訳

イエス様はパリサイ人たちに、神の国に入ることができると仮定しないように警告された後、いつものように例え話を語られました。

その話では、ある人が大勢の人々を宴会に招きました。

その時代、時計を持っている人はいませんでしたので、招待された人々は宴会の日付を知っていましたが、何時に始まるかまでは分かりませんでした。そこで主人は、彼らの家にしもべを送り、「宴会の準備が整いました。どうぞお越しください」と伝えました。

ところが、その日に多くの人々が招待を断りました。彼らはさまざまな言い訳をしましたが、どれも許されない言い訳でした。

ある人はこう言いました。「畑を買ったので、どうしても見に行かなければなりません。申し訳ありませんが、お断りいたします。」(彼はその畑をまだ見ずに購入したのでしょうか。)

別の人はこう言いました。「五頭の牛を買ったので、それを試しに行くところです。申し訳ありませんが、お断りいたします。」(つまり、新しい「おもちゃ」を買ったので、宴会に行けないのです。)

さらにもう一人はこう言いました。「結婚したので、伺うことができません。」

もちろん、彼が最近結婚したのは良いことでしたが、それは宴会に行かない理由にはなりませんでした。おそらく、その奥さんと一緒に出席することもできたはずです。

しかし、聖霊様が人々の心の扉を叩かれるとき、どれほどの人々が言い訳をするのでしょうか。

「私は忙しすぎる。他に予定があります。」

または、彼らはこの世の物事やお金、財産に夢中になり、「私はそれを楽しみたいのです。後でイエス様を慕うかもしれません。」と言うかもしれません。

さらに、彼らの家族が障害となる場合もあります。「クリスチャンになると、夫が何を言うだろう。両親はどう思うだろう。家族との関係が複雑になってしまうかもしれない。」

けれども、神様はそのような言い訳を受け入れられません。

そして、そこには危険が伴います。神様は何度も招き続けてくださるかもしれませんが、今あなたが受け取った招待が、あなたにとって最後のものかもしれません。

明日交通事故に遭い、命を落とすことだってあり得ます。誰も自分がいつ亡くなるのかを知ることはできません。ですから、言い訳をしないでください。神様の招待を受け入れましょう。

だからこそ、パウロはこう記しました。

確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(第一コリント6:2)

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ルカの福音書 ルカ14章

イエス様を拒絶すると

この直前の箇所では、義人の復活の際に、神様が気前の良い人々に報いを与えることをイエス様が教えられました。

それを聞いた食卓の客の一人はこう言いました。

神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう。(ルカの福音書14:15)

ユダヤ人たちは、メシアが来て自分たちの国を確立する際、大宴会を開くと信じていました。そのため、その人がその言葉を口にした後、おそらく食卓の皆は「アーメン」と言ったことでしょう。彼らは、メシアの宴会にきっと招かれると思っていたからです。

皮肉なことに、その時、彼らはメシアであるイエス様と共に食事をしていました。それにもかかわらず、彼らはイエス様をメシアとして認識せず、さらに拒絶しました。最終的には、彼らはイエス様を十字架につけてしまったのです。

だからこそ、神の国が来る時、彼らはその中に入ることができません。一方で、彼らが見下した人々、つまり貧しい者、身体の不自由な者、盲人、足の不自由な者たちが天国に入ります。

さらに、パリサイ人たちが救いに値しないと判断した罪人や異邦人も神の国に入ります。ところが、パリサイ人たち自身は拒絶されるのです。

多くの人々は天国に行きたいと願いますが、パリサイ人たちのようにイエス様を拒絶します。彼らは自分なりの道徳的なルールを作り、それに従おうとしますが、そのルールに従わない人々を批判します。

けれども、パリサイ人たちと同様に、彼らが天国の門に到達しても、その中に入ることはできません。そして、彼らが軽蔑した人々は天国に歓迎されるのです。

あなたはどうでしょうか。イエス様を拒絶しながら、天国に入れると思いますか。

イエス様こそ天国への唯一の門です。イエス様とその十字架の御業を信じる者だけが天国に入ることができます。ですから、自分の誇りを捨て、イエス様のもとに来てください。

イエス様はこう言われました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)


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人に与えるとき

イエス様はその部屋にいる人々をご覧になったとき、どのような人々を見られたのでしょうか。

そのパリサイ人はさまざまな人を招待しましたが、おそらくイエス様以外の招待客は裕福な人々だったのではないでしょうか。少なくとも、彼らは仕事が順調で社会的に成功しているように見えたかもしれません。

そこで、イエス様は彼らにこう言われました。

昼食や夕食のふるまいをするなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。でないと、今度は彼らがあなたを招いて、お返しすることになるからです。祝宴を催す場合には、

むしろ、貧しい者、からだの不自由な者、足のなえた者、盲人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。(ルカの福音書14:12-14)

このパリサイ人は施しをしていたことでしょう。しかし、おそらく貧しい人を食事に誘うことは決してなかったのではないでしょうか。もしかすると、そのような考えさえ彼の心に浮かばなかったのかもしれません。

その理由は何でしょうか。彼は友人や社会的に地位の高い人々に感心されたいと思っていたからでしょう。苦しんでいる人々を助けるよりも、友人と楽しむことや自分の評判を築くことに興味があったのかもしれません。

多くのクリスチャンは十一献金を捧げますが、残りの収入は自分自身のために使っていることが多いです。私たちは十一献金を捧げたことで、神様への義務を果たしたと感じるかもしれません。

けれども、神様は私たちに気前の良い人になることを求めておられます。それは教会だけでなく、私たちの日常生活においても同様です。そして、私たちが誰かのニーズを満たすとき、神様は私たちに祝福を与えてくださいます。

もう一つ考えるべきことがあります。それは、私たちが与えるときに、恩返しを期待するかどうかということです。恩返しを期待せず、神様が私たちに与えてくださったものを惜しみなく周囲に分け与えられるでしょうか。

イエス様はそのような与える姿勢を神様が祝福されることを教えられました。

私自身、与えることが難しいと感じることがあります。しかし、もしイエス様のようになりたいのであれば、私たちはイエス様のように与えることを学ぶべきです。恩返しを期待せず、犠牲的に与え、苦しんでいる人々を助けるべきです。

あなたはそのように周囲の人々に与えることができるでしょうか。

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謙遜

この箇所では、私たちは興味深い文化的な状況を目の当たりにします。

イエス様がパリサイ人の家で食事をされる中で気付かれたのは、招かれた人々が一番良い席を求めて座ろうとしていることでした。

その文化では、一番偉い人は主人の右側に座りました。そして、その席が埋まっている場合、人々は主人の左側に座ろうとしました。それでも座れなければ、できるだけ主人の近くの席に座ろうとしました。

けれども、イエス様はこう言われました。

「一番良い席を求めてはいけません。もし主人が『この人に席を譲りなさい』と言うなら、あなたは恥ずかしい思いをすることになります。むしろ、末席に座りなさい。そうすれば、主人が『どうぞもっと上席にお進みください』と言い、周囲の人々から尊敬を受けるかもしれません。」

日本ではこのような状況に直面することはあまりないかもしれません。しかし、教会では、多くの人々がより高い立場を求めることがあります。たとえば、牧師やワーシップリーダーのように、尊敬される立場になりたいと思う人もいるでしょう。

ですが、そのような立場を求めるのではなく、むしろ謙遜な態度を取り、小さな仕事でも忠実に仕えましょう。たとえば、礼拝のために椅子をセットしたり、人々を迎えて入口で挨拶したりすることです。

忠実に仕える中で、心が準備できたときには、神様のタイミングでイエス様があなたにもっと大きな仕事を与えられるかもしれません。

けれども、もしあなたが周囲の人々を批判し、「私の方があの人よりもその仕事が上手にできるのに」と言ってばかりいるなら、結局のところ恥ずかしい思いをすることになります。

イエス様がこの世におられた時、謙遜な態度を取られました。イエス様はユダヤ人の王として高い地位につこうとはされませんでした。

神様でありながら最上のものを求められることはなく、むしろしもべの姿勢を取り、十字架にまで行き、私たちの罪のために死んでくださいました。

だからこそ、パウロはこう記しました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピりピ2:9-11)

だからイエス様のようになりましょう。謙遜な態度を取って、できるだけ周りの人々に仕えましょう。そして、神様のタイミングであなたは高くしてくださいます。

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議論を通して、人を救う?

イエス様は優れた教師であるだけでなく、優れた論者でもありました。この個所では、イエス様は再びパリサイ人たちと、安息日に人を癒すことが合法的かどうか議論されています。

パリサイ人たちの反応は少し興味深いものです。イエス様が彼らに対して、安息日に癒すことが正しいか、そうでないかを問われたとき、彼らは黙ってしまいました。そこで、イエス様は水腫を患っている人を癒されました。

その後、イエス様はパリサイ人たちにこう問いかけられました。

自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。(ルカの福音書14:5)

彼らの答えは?

彼らは答えることができなかった。(6)

もしかすると、彼らはこのことわざを思い浮かべたのかもしれません

「あなたが黙っていて、周囲の人々に馬鹿者だと思われる方が、あなたの言葉によって、周囲の人々が馬鹿者だと明確に理解するよりも良い。」

けれども、ここで再び重要な真理が明らかになります。

パリサイ人たちは何度もイエス様と議論を試みました。そして最終的に、彼らはイエス様の議論に対して何も答えることができませんでした。イエス様はその議論に勝利されました。

では、パリサイ人たちはイエス様の教えを信じるようになったでしょうか。安息日に人を癒すのが正しいことだと認めたでしょうか。

残念ながら、そうではありません。むしろ、彼らはイエス様を殺そうと企むようになりました。

つまり、単なる議論によって人々をイエス様に信じるよう導くことはできません。あなたが議論を通じて、イエス様を信じるべき理由や聖書を信じるべき理由、そしてキリスト教が正しい理由を説明することは可能です。

あなたはその議論に勝つことがあるかもしれません。相手がパリサイ人たちのように黙るかもしれません。それでも、どれだけ議論をし、証拠を示しても、イエス様を拒絶する人は必ずいます。

かつてラジオ番組で、あるクリスチャンが哲学者と議論を交わしました。その哲学者はこう言いました。

「クリスチャンたちは聖書の真実性を証明しようとするとき、いつも聖書を引用します。それは循環論法ですよ。証明したいことを最初から仮定してはいけません。」

そのクリスチャンはこう反論しました。

「あなたはなぜ聖書が一冊の本だと思うのですか。実際には聖書は66冊で構成されています。さらに、著者は40人以上に及び、1000年以上をかけて書かれました。

ですから、一人の著者の言葉を使って別の著者の言葉を検証することは循環論法ではありません。全く異なる出所を利用しているのです。」

哲学者は「違う、違う、違う」と言い続けました。

そして、クリスチャンはこう尋ねました。「なぜ違うと言うのですか。私の議論に答えることができますか。それとも単に信じないだけですか。」

哲学者は「私はそれを信じない」と断言しました。

その哲学者は答えることができませんでした。彼はパリサイ人たちのように沈黙しました。とはいえ、おそらく彼は他のクリスチャンたちと話すときでも、同じ議論を繰り返していたことでしょう。

では、私たちはノン・クリスチャンと議論を交わすべきではないのでしょうか。彼らの疑問に答えない方が良いのでしょうか。そうではありません。

ペテロはこう記しました。

むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。(第一ペテロ3:15)

答えを心から求めている人もいるでしょう。そして、もしあなたがその答えを与えるなら、彼らはクリスチャンになるかもしれません。しかし、単なる議論によっては、誰も神の国に入ることはできません。

人々の心を開くことができるのは聖霊様だけです。ですから、人々と話すとき、彼らの質問に答えるだけでなく、彼らのために祈りましょう。

そうすることで、聖霊様が彼らの心を変え、彼らは救われるかもしれません。