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ルカの福音書 ルカ15章

放蕩息子:恵みの贅沢さ

多分、これはイエス様が話された中でも最も有名なたとえ話でしょう。

とはいえ、パリサイ人たちはその話を聞いて、本当にあきれたかもしれません。なぜなら、パリサイ人にとって、この話の主人公は非常に嫌な人物だったからです。

ある若い息子は父親に背を向け、「父さんが死ねばいいのに」と思っていました。(なぜなら、父親が亡くなれば遺産をもらえるからです。)

そして、息子はその遺産を受け取り、ぜいたくな暮らしを始めました。彼は欲張りで、わがままな性格であり、道徳的にも歪んだ人物でした。

彼はすぐに遺産を浪費してしまい、その直後に大飢饉が起こりました。

さらに彼の所持金が尽きると、友人たちも彼を見捨てて去っていきました。彼は貧しくなり、みじめな状況に陥りました。

助けてくれる人は誰もいなかったため、彼は本当に情けない仕事をするしかありませんでした。ユダヤ人にとって豚は汚れた動物でしたが、彼はその豚の世話をする仕事をせざるを得なかったのです。彼は飢えすぎて豚の餌を食べたいと思うほどでした。

これが罪の欺きです。罪は一時的に喜びを与えることがありますが、最終的には死へと導きます。

ついに彼は自分の罪に気づきました。彼はこう言いました。

「父のしもべとしての生活は、今の私の状況よりもはるかに良い。きっと父は私を息子としては受け入れてくれないだろう。私はあまりに悪すぎる。それでも、もしかすると、父は私をしもべとして雇ってくれるかもしれない。」

こうして彼は家に向かって歩き始めました。

歩いている間、彼は父親に言う言葉を何度も練習していました。

お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。

もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。(ルカの福音書15:18-19)

多分、パリサイ人たちは息子の思いを聞いたら、二つの反応を示したことでしょう。

「もし彼が土下座して、お父さんの許しを懇願するなら、お父さんは彼を許すかもしれない。しかし、それでもお父さんが許さない可能性もある。」

または、こう思ったかもしれません。「まさか、あの息子が許されるなんてあり得ない。彼はあまりにもひどいことをした。お父さんは絶対に許さないだろう。」

そのため、彼らがイエス様の次の言葉を聞いたとき、きっと驚き、あきれてしまったことでしょう。

ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。(20)

その時代、威厳のあるユダヤ人の父親がすたこらと走ることは絶対にありませんでした。だからこそ、パリサイ人たちはこの話を聞いて、お父さんがそのような息子のために走ったことが信じられなかったでしょう。

けれども、そのお父さんはそうされたのです。彼は息子を抱きしめ、口づけしました。

その息子は汚れており、ひどい臭いがして、服もボロボロだったことでしょう。それでも、お父さんは全く気にされませんでした。

そして、息子が自分の練習したセリフを言い始めると、お父さんは途中でそれを遮り、しもべを呼んでこう言いました。

急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。

食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。(22-24)

それこそが、神様の恵みと愛のぜいたくさです。

パリサイ人たちはそのような神様を思い描くことができませんでした。そのため、彼らは罪人を見ると軽蔑しました。

神様は罪人がご自身に立ち返ることを望んでおられるとイエス様は教えられました。そして、その罪人が戻ってきたとき、神様はその人を侮ることなく、むしろ抱きしめ、祝福されます。

あなたが神様を思い描くとき、どのようなイメージを持っていますか。厳格な父親でしょうか。それとも、常に責め続ける神様でしょうか。私たちの罪を絶えず覚えている神様でしょうか。

イエス様はそのような神様を教えられませんでした。ですから、周囲の人々を見るとき、パリサイ人の性格を真似るのではなく、天の父なる神様の性格を模範にしましょう。

そして、もしあなたが「神様は私のことを愛し、受け入れてくださるだろうか」と疑問に思うなら、神様が確実にあなたを愛し、受け入れてくださることを心に留めましょう。

神様の愛と恵みは非常に豊かです。そして、悔い改めさえすれば、神様はその愛と恵みを惜しみなくあなたに注いでくださいます。

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ルカの福音書 ルカ15章

見失った羊と無くした銀貨のたとえ話:失われた人を捜して救う

この箇所では、イエス様とパリサイ人たちの間の大きな違いが明らかになります。 それは、パリサイ人たちが失われた人々を裁いたのに対して、イエス様はその人々を探し、救おうとされたことです。

残念ながら、今もなお、多くのいわゆるクリスチャンの態度は神様の御心とは全く異なります。

一方で、イエス様はいつも失われた人々を探し求め、救おうとされました。

イエス様はパリサイ人たちと時間を過ごした直後、「罪びとたち」と時間を過ごされました。実際、イエス様は普段から罪人たちとともに時間を過ごされていました。

ところが、パリサイ人たちはそれを見たとき、イエス様を非難しました。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」(2)

パリサイ人たちは「罪びとたち」に触れると自分が汚れると考え、彼らを避けました。

パリサイ人たちは決して罪人たちを食事に招待することはなく、罪人の家を訪れることは想像すらできませんでした。仕事をする上でも、罪人と関わりを持たないように努めていました。

そのため、イエス様が罪人たちを歓迎されたとき、パリサイ人たちは衝撃を受けました。

そこで、イエス様は三つのたとえ話を語られました。今日は、そのうち二つのたとえ話についてお話しします。

一つ目は迷子の羊のたとえ話です。羊飼いはその羊を愛していたため、必死に探しました。そして、羊を見つけたとき、羊飼いは友人や近所の人々を呼び集めてこう言いました。

いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。(ルカの福音書15:6)

そして、イエス様はパリサイ人たちにこう語られました。

あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。(7)

パリサイ人たちについて少し考えてみてください。もし彼らが羊飼いだったとしたら、彼らは羊を責めたでしょう。「なんて愚かな羊なんだ。あいつが死んでも自業自得だ。」

けれども、イエス様はそのようには決して考えられませんでした。むしろ、命を捨てるほどまでに羊を愛し、羊を救おうと思われました。

パリサイ人たちの考え方はそれとは全く異なっていました。

とはいえ、彼らも本来イエス様のような態度を持つべきだったはずです。

おそらく、彼らは預言者たちの書を何度も読んでいたでしょう。そして、もしそれを正しく記憶し、理解していたなら、神様がそのように考えるお方であることを知るべきだったのです。実際、それこそがホセア書の中心的なメッセージです。

続けて、イエス様は銀貨を一枚なくした女性についての話をされました。それはおそらく結婚した女性の頭飾りだったのでしょう。頭飾りは10枚の銀貨で作られたアクセサリーで、現代の結婚指輪に似たものです。

もしあなたが結婚指輪をなくしたとしたら、どう感じるでしょう。その女性もきっと同じ気持ちだったに違いありません。

だからこそ、彼女は懸命に家を掃き、銀貨を見つけるまで細かく探しました。

それと同じように、神様は全地を見渡し、失われた人々を念入りに探し、救おうと思われます。

そして、イエス様はこう言われました。「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ15:10)

これが神様の態度です。あなたはどうでしょうか。「罪びと」を見たとき、その人を裁くでしょうか。それとも、神様の愛をもって接し、その人々の救いのために働くでしょうか。

パリサイ人のように人々を裁くのではなく、むしろ、私たちを救ってくださったイエス様のようになりましょう。